「浜岡・反原発運動の歴史」
今日は、浜岡原発に反対した民衆の運動の歴史について話します。
●反原発運動の4期
浜岡原発の建設の話が出たのが1967年で、1号機の稼働が1976年ですから、浜岡原発は40年の歴史があります。その中で反対運動も起きたわけですが、この反対運動の歴史をわたしは4期にわけています。
第1期は1号機建設の動きに対して浜岡原発設置反対共闘会議が設立され、反対運動がおこなわれた時期です。浜岡では1・2号機が建設されていった維持です。
第2期はスリーマイル・チェルノブイリ事故により都市部で反原発運動がさかんになっていった時期です。浜岡では3・4号機が建設されていった時期です。反原発の流れをうけて浜岡原発に反対する住民の会が結成され、その後、各地の市民運動は連携し、浜岡1号機とめようネットワークを結成しました。
第3期は原発の老朽化による事故や原発震災の危険が指摘され、反原発の動きが新たに生まれていった時期です。浜岡では5号機建設にあたり、佐倉で浜岡町原発問題を考える会ができ、浜岡原発を考える静岡ネットワークが結成されました。1号機でのECCS事故や炉心からの水漏れにより、運転差し止め裁判も起こされました。
第4期は福島原発震災前後の反原発運動、再稼働反対運動です。福島原発事故後、日本で原発全てが止まり、原発をなくす可能性が生まれた時期です。県内にもさまざまな団体が生まれました。
●浜岡原発設置反対共闘会議
ヒロシマ、ナガサキ、ビキニという被爆を経ている日本では反核感情につよいものがあります。その感情をすり抜けるように核の平和利用が宣伝され、1954年に原子力予算がつけられ、原子力開発がすすめられました。もともとプルトニウム239を得るための道具が原子炉ですが、ゆっくりと核分裂を起こして発電に使うというのです。
しかし、放射能汚染の危険性がありますから、立地現地でさまざまな反対運動がおきました。中電は1964年に三重県芦浜での建設を決めますが、漁民の激しい抵抗にあいます、その中で、浜岡での原発建設をすすめるわけですが、港がなく、砂浜であり、地震の危険性の高い場所ですから、中電は当初、候補地から外していました。1967年に新聞報道されると浜岡町内でも反対の動きがあらわれ、浜岡原発設置反対共闘会議が結成されました。周辺漁協も反対運動をおこない、この運動を中電は金の力で屈服させていったのです。
土地の買収がすすむなかで浜岡原発佐倉地区対策協議会が設立されましが、この佐対協を通じて中電から金がばらまかれていきます。初期には各戸ごとに金が配分されていました。また、中電と町とで協定書が結ばれますが、それとは別に覚書などが結ばれ、協定書と同等の金が秘密裡に渡されるようになります。1970年代には1号機に続いて2号機が建設されていきました。
●浜岡原発に反対する住民の会と浜岡1号機とめようネットワーク
1975年には反原発全国集会が開催され、後に反原発新聞が発行されましたが、この流れの中で浜岡原発に反対する住民の会が結成されました。3号機建設の動きの中で、佐倉で住民署名、3号機増設反対や核燃料の輸送反対行動をおこないました。3号機の公開ヒアリングでは阻止行動もおこないました。
1979年のスリーマイル島事故によって実際に住民の避難が生じ、その距離が80キロ四方に及んだことから、静岡県在住者は全てが住民であるという認識が生まれました。さらに1986年にはチェルノブイリ事故が起き、地球全体で放射能汚染が問題になり、チェルノブイリの救援運動も起きました。
県内各地に生まれた反原発団体は、1号機の事故により、浜岡1号機とめようネットワークを結成しました。また、浜岡原発で働いていた青年労働者の労災認定の支援の動きも起きました。
3号機、4号機では中電と町とで協定書が結ばれましたが、別に表には出されない覚書や確認書が結ばれ、何十億円もの金が町に協力金として渡されていきました。
●浜岡町原発問題を考える会と浜岡原発を考える静岡ネットワーク
中電は5号機建設の動きを強めます。しかし、阪神大震災が起き、これ以上原発を作って大丈夫かという疑問を多くに人々がもちました。浜岡町佐倉では建設不同意を町に申し入れ、町内には考える会が生まれました。考える会はとめようねっととともに反対運動をおこないました。これに対して、町は強引に5号機設置に賛成する動きをつくりあげていきます。
5号機は増設されることになりましたが、老朽化や原発震災の危険の中で、県内各地の運動体は浜岡原発を考える静岡ネットワークを結成しました。2001年に1号機で水素爆発や炉心からの水漏れがおきるなかで、2002年に、浜岡原発とめよう裁判の会が結成され、運転差し止めの仮処分を申請します。翌年には本訴をおこないました。原発震災を防ぐ全国署名運動も始まりました。
2007年の中越沖地震では柏崎刈羽原発が損傷し、原発震災の危険性が明らかになるなかで、同年に出された静岡地裁での運転差し止め訴訟の判決は旧指針でも原発は大丈夫とする不当な判決でした。原告は控訴し、東京高裁で裁判がすすみましたが、中電は1・2号機の廃炉を決め、新たに6号機を新設することを発表しました。また、浜岡4号機でのプルサーマル実施をすすめるようになりました。
●福島原発震災による浜岡原発の停止
2009年の駿河湾地震では4・5号機が自動停止しました。5号機には多くの損傷が起きました。この地震は5号機に地盤の悪さを実証するものでした。しかし、中電と国は5号機を再稼働させました。ところが2011年3月の東北での地震と津波により福島第1原発ではメルトダウンにより大量の放射性物質が漏れ出しました。
同年5月には政府によって浜岡原発の停止が要請され、浜岡原発全号機が停止しました。止めるにあたり5号機では海水が流入するという重大事故が起きました。中電は防波壁を作って再稼働をおこなうとしました。
日本中の全原発が停止し、自治体の首長が原発に反対するケースも出ました。牧之原市は浜岡原発の永久停止決議をおこないました。再稼働反対の民衆運動がおきました。
静岡県内ではさまざまな市民団体が生まれ、2014年2月に中電が4号機の再稼働に向けて原子力規制委員会に安全申請をおこなった時には共同して抗議しました。反対運動のネットワーク化もすすんでいます。金曜行動も各地で展開されています。
おわりに
再稼働をめぐる攻防は、生命・自由と健康・生存を守るための人格権の闘いとなっています。NO!NUKES!反核・反原発に向けて力を合わせるときです。核と人類は共存できません。原子力と民主主義は相いれません。地震の国に原発は無理です。国の安全を信じたら殺されます。原発は差別であり、原発事故は犯罪です。核に依存した社会のありようを根本から変えるときです。
日本には反核・反原発の歌がたくさんあります。たとえば、「1本の鉛筆」、「祈り」、「リボン」、「ラブミーテンダー」、「ずっとウソだった」、「We
Are Friday Voice」・・など、これ以外にもさまざまな歌があります。そのような人々の思いが実現することを願います。
(竹内 2014年6月、浜松集会での話)