鏡 生駒孝子
「ザーッ」あ、お箸洗い忘れた
えぇい面倒だ、流しながら洗っちゃお
お皿にできた水鏡は、彼女の顔を映し出す
彼女は水桶を担いで何キロもの道のりを往復していた
家族5人分の命の水だ
ひび割れた大地、容赦なく照りつける太陽
毎日の果てのない作業で得られる水は、
日本人が1回のシャワーで消費する量なのだ
「私は蛇口を捻れば水が出る国から来た」と
旅人がいらぬ自慢をする
「これが神さまが私たちに与えられた水の量です」
彼女は旅人を真っ直ぐ見つめて静かに答えた
何ひとつ飾りもない白い布を被っただけの素顔
その美しさを超える人を私は知らない
「キュッキュッ」今日は無駄遣いをしなかったかな
片付けを終えて鏡を覗き込めば
鏡は笑ってパタリとその目を閉じた
午前二時 生駒孝子
午前2時の国道1号線は、トラックのサーキット場になる
赤、黄、橙、紫、青:サイドマーカーたちが
彗星のように尾を曳いて闇を貫いていく
西へ西へ 東へ東へ
働く車たちが命の灯を抱きしめて走る
ヒーター全開でも芯まで凍えた体は温めきれない
灯りに惹かれて牛丼屋の扉をおずおずと開ける
それぞれの作業着姿の男たちが、
ぽつりぽつり申し訳程度に席を埋めている
私も、言葉をかけるのもそ知らぬふりも
許しあえる距離を探して座る
無表情に牛丼をかきこむ男たちは、
豚汁に顔を埋める瞬間だけ僅かに頬が緩む
「はあー」今食道を通って胃に沁みこんでいく
私も豚汁の移動を実況中継中
生まれ損ねた言葉たちが
湯気の中にゆらゆら立ち昇っていく
足早に席を立っていく男たちをガラス越しに見送った
「この国の大動脈は俺たちだ」
テールランプが言い残していった