佐渡鉱山での朝鮮人強制労働   - 強制労働否定論批判

                            

「佐渡金山で強制労働がなかった」と宣伝される資料はどのようなものですか?

 

佐渡金山、わたしは佐渡鉱山と表現しますが、その世界遺産の登録をめぐる議論のなかで、2022年1月20日、新潟県選出の国会議員高鳥修一が彼のブログに「歴史戦を闘い抜く」という記事を書いたのです。この人は自民党の右翼議員グループ「保守団結の会」代表世話人です。そこで高鳥は「当時の一次資料」を公開するとし、「佐渡鉱山史」(平井栄一、佐渡鉱業所)の表紙とその鉱山史の「朝鮮人労務者事情」の頁の写真を掲載しました。そして韓国側の「非難」の「濡れ衣」に反論し、「一愛国者として佐渡の名誉のために闘い抜きます」と記したのです。

翌日、その写真を安倍晋三(元首相、「保守団結の会」顧問)も自らのフェイスブックに掲載し、「歴史戦」を呼びかけました。同日、西岡力らの歴史認識問題研究所もその写真を掲載し、強制労働の歴史否定を宣伝したのです。

この平井栄一の「佐渡鉱山史」は1950年に書かれたもので、当時は太平鉱業と称していましたが、三菱鉱業の佐渡鉱業所による社史です。ですから、一次資料ではありません。平井栄一は戦時には佐渡鉱山で採鉱課長を務めて、戦後、佐渡鉱山の資料を利用してこの本を書いたのです。この平井の著作は麓三郎が記した「佐渡金銀山史話」(三菱金属鉱業1956年)にも利用されていますが、麓の本では江戸期・明治初期の記載にのみに利用されました。この本には20世紀の歴史は記されていません。

三菱資本による産金とその利益についてはこの本を読んでもわからないのです。公刊された本では、江戸期のみが記され、三菱の産金による利益、その経営状況は示されていないのです。「佐渡金山」という名称は、近代の佐渡鉱山での三菱の利権を隠すような表現として使われてきたと思います。三菱が戦前に経営していた時には佐渡鉱山と呼んでいました。歴史全体を示すならば、佐渡鉱山と呼ぶべきでしょう。

平井のこの「佐渡鉱山史」についてはそのコピーの存在が知られていましたが、継承企業のゴールデン佐渡の意向で非公開であり、新潟県が「近代の佐渡金銀山の歴史的価値に関する歴史学的・史料学的研究」(2009年)をおこない、そこで復刻され、読めるようになったのです。しかし、「朝鮮人労務者事情」の主頁(845頁)が、コピーでは抜き取られていたため、復刻本では欠落していました。企業側は朝鮮人管理の実態そのものを隠そうとしたのでしょう。今回、強制労働の歴史否定論者らが示したのはその頁を含む資料です。しかし、かれらはその所蔵先を明らかにしていません。おそらく、ゴールデン佐渡に保管されていたのでしょう。本の表紙には社内で回覧したことによるとみられる印鑑の跡があります。

この資料は、佐渡鉱山の側から朝鮮人の労務動員とその管理の状況について記した頁を含む社史なのです。社史ですから、当然、企業の側に不都合なことは記されていません。企業の労務管理の視点で記されているわけですから、動員された人びとの歴史について、行間を読む必要があるのです。歴史を読むには、書かれた用語の裏側に潜む本当の意味を読みぬく力が必要です。社史を示し、その本に記載された事項を示しただけでは、朝鮮人の強制労働の歴史は否定できないのです。

 

註 高鳥修一ブログ最終閲覧2022年2月3日 (その後、削除)https://takatori55jim.wpcomstaging.com/2022/01/20/%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e6%88%a6%e3%82%92%e9%97%98%e3%81%84%e6%8a%9c%e3%81%8f/

 

●この「佐渡鉱山史」から新たな事実は確認できるのですか?

 

 すでに資料としては、1943年6月の佐渡鉱業所の報告書類「佐渡鉱業所半島労務管理ニ付テ」があります。平井の本に記されている労務管理の状況はこの報告書と同じ内容のものがみられますから、彼もこの報告書の綴りを参照したのでしょう。この報告書は東京鉱山監督局、大日本産業報国会などが主催した「朝鮮人労務管理研究協議会」で、佐渡鉱山が報告したものです。そこには、1940年2月から1943年5月までの1005人分の朝鮮人の動員状況が、朝鮮人を駆り集めた地域、忠清道の論山・扶余・公州・燕岐・青陽などの記載も含めて、逃亡や死亡者の数も含め、社史よりも詳しく記されていました。しかし、その後の朝鮮人の動員状況は不明でした。

この佐渡鉱山史には、その後を含む、「移入」による動員数が明示されています。この本の記載では、1940年2月に98人、同5月に248人、同12月に300人とされています。1940年で646人の動員となります。さらに1941年280人、1942年に79人を動員し、1944年に263人、1945年に251人を動員したことが記されています。この資料から計1519人の朝鮮人動員が判明するのです。不明だった44年・45年の動員数がわかるわけです。

1945年の敗戦後の残留者をこの社史では1096人としていますが、これは他の史料と一致しません。45年の新潟県の相川警察署長からの新潟県知事への報告書があります。そこでは、9月現在で573人としています。43年頃の佐渡鉱山での朝鮮人の現在員数は500~600人であり、その数を維持することで生産体制を維持していました。警察の調査報告の数字の方が正しいといっていいでしょう。家族を入れれば、その数はもう少し増えることになります。

待遇などを「内地労働者と同一」と記していますが、差別がなかったとみるべきではありません。なぜかといえば、当時は、植民地朝鮮で皇国臣民化政策がなされ、「内鮮一体」の名で戦争動員がすすめられました。社史の記述にはそのような状況に対する批判的視点がみられません。そのような民族性を奪い、動員する政策自体が差別だったのです。日本人化させられ、それに服従することで対等の扱いを受けることができたのです。しかし、反抗すれば、処罰されました。査定においても差別されたのです。賃金があるから強制労働ではないとするのも無理です。国策により動員され、移動の自由がなかったことが問題なのです。

この社史には「産業報国会」という語もでてきます。当時は、労務統制によって、職場を移動する自由は奪われ、増産の掛け声の下、「産業戦士」として生命を賭けての労働が強制されていたのです。、「産業報国」とはそのような実態を象徴する用語なのです。

もうひとつ、この社史の記述からは、動員された朝鮮人が鑿岩、支柱、運搬などの坑内の労働現場に多数が動員され、日本人よりも多い数となっていたことがわかります。坑外は日本人が多いのです。朝鮮の農村から甘言で動員し、未経験な人々を鉱山の採掘労働の最前線に動員したことがわかります。日本人と同数の配置ではないこともわかります。このような形で動員したこと自体に差別があるのです。

このように、この資料からは、佐渡鉱山への1519人の強制動員、坑内労働への多数の投入、産業報国の名での労働統制などを確認することができます。動員された人びとは強制労働させられたといっているのです。1519人もの朝鮮人を強制動員し,強制労働をさせたこと、それに対する責任を日本政府と三菱はとるべきなのです。

 

●この社史に記されていないことがらは何ですか?

 

歴史用語では、戦時の朝鮮人の労務動員を、朝鮮人強制連行、朝鮮人強制労働、強制動員などと呼んでいます。それは日中戦争開始後の総動員体制の下、日本政府によって労務動員計画がたてられ、募集、官斡旋、徴用などさまざまな形で動員がなされたのですが、それが国策による強制的な動員であったからです。

企業は動員必要数を県知事に出し、県知事は政府に報告し,政府がその数を許可し,朝鮮総督府が動員場所の郡を指定し,行政、警察、企業が一体となって「募集」したのです。当時は「移入」と呼んだのですが、この移入の実態は、甘言による欺罔、命令、ときには暴力によっての強制的な動員であり、動員現場では監視され、移動の自由を奪われ、労働が強制されたというわけです。逃亡を防ぐために強制貯金もなされました。

「移入」、「募集」と呼んだ動員が国家政策による強制性を持ったものであることが、ここには記されていないのです。また、三菱鉱業は1944年4月に軍需会社に指定され、そこで働く朝鮮人は皆、軍需徴用されています。佐渡鉱山も同様です。そのような労働現場への労働統制の強化についても記されてはいないのです。

佐渡現地には佐渡鉱山からの通知を綴った「相愛寮煙草配給台帳」という史料が残されています。この名簿に1944年10月末付で掲載されている朝鮮人は軍需徴用された人びとです。徴用による動員だけでなく、募集や官斡旋で動員された人で1944年4月に現場に残っていた人びとは軍需徴用されたのです。第1相愛寮の煙草配給台帳には、1945年2月に慶北蔚珍郡からの徴用動員100人分の氏名・生年月日、本籍、出身地を記した名簿が含まれています。史料には徴用された朝鮮人が入寮する旨が記されています。その名簿を解析すると、当時の動員において、蔚珍郡の各面で動員数が指定され、動員者が指名され、集合させて連行した状況を伺い知ることができます。「相愛寮煙草配給台帳」にその他の資料を加えると、500人を超える動員朝鮮人の名簿を作成することができます。この社史には、動員された朝鮮人の名前はひとりも記されていません。

動員現場から逃亡すれば、捜索され、逮捕されました。「募集」といっても国策によるものであり、自由な契約による労働ではないのです。動員された朝鮮人は警察に本部を置いた協和会に組織され、監視されました。内鮮警察というのですが、朝鮮人の監視を担当する部署、係があり、朝鮮人は警察の監視下にあったのです。特別高等警察の資料には、逃亡した朝鮮人が逮捕され、労務調整令違反で処罰されたとする記事もあります。そのような実態についても、この社史には記されていません。

死亡者についても記されていません。死亡状況は大日本産業報国会の『殉職産業人名簿』から知ることができます。この名簿には1940年から1942年までの死者が記されています。その後の死亡者名は,被害者の証言があるものについてはわかりますが、不明のものが多いのです。強制労働を否定するのではなく、死者の名を明らかにすべきでしょう。

動員された朝鮮人は、すぐに争議を起こして抵抗しています。1940年の4月には「募集」条件と実態が異なることから100人ほどがストライキを起こし、3人が朝鮮に強制送還されています。42年4月には、賭博行為で警察に連行される状況で、160人が寮事務室に殺到し、窓ガラスを破壊する事件も起きています。集団で逃亡する事もありました。そのような抵抗の事実も記されていません。企業側に都合のいいことしか記されていないのです。

特高警察や司法省の文書から、争議の実態を知ることができます。社史だけではなく,さまざまな史料や証言などを照合することで,労働の実態が判明するわけです。そこからひとり一人の歴史を考えることができるのです。

社史には「不幸ありたる」という言葉が記されています。それは死亡事故のことでしょう。その際には300円を贈呈と記しています。鉱山側の1943年6月の報告書では、朝鮮人の1943年4月の平均賃金を、約84円としています。この平均賃金の約4か月分が「不幸」の金額ということになります。現在の価値でみれば、1か月の賃金を25万円とすれば、4か月で100万円です。これが命の値段ということなのでしょうか。帰国すれば、災害への扶助も無く、解放後は災害補償も放棄されたわけです。坑内労働経験者の多くが塵肺による後遺症で苦しみました。労働災害としての動員朝鮮人の塵肺の苦しみについての記載もありません。

解放され、帰国する際、佐渡鉱山には朝鮮人1140人分の未払金約23万円が残されました。それらは供託されました。個々人には返却されず、時効を理由に処分されています。そのような未払金についても記されてはいません。

このように、企業側のきれい事だけが記された資料なのです。他の資料と照合すれば、記されてはいない不都合な事実が現われるのです。この社史をもって、強制労働はなかったということはできないのです。強制労働など無かったと居直るのではなく、動員された人びとの声を聞くべきなのです。

 

●「歴史戦」を語る人びとは何を狙っているのですか?

 

「歴史戦」という言葉は、歴史否定論者が自己の歴史否定の活動を正当化するためものであり、使うべき用語ではないのです。また、かれらを「歴史修正主義」という用語でくくってはならないのです。修正主義よりも悪質であり、歴史否定論とすべきです。かれらの強制労働否定論は、歴史的事実を示すものではなく、その事実を歪曲し、強制労働を否定するための宣伝に過ぎないのです。まともな歴史の議論では無く、過去を合理化する偽計によるものです。強制労働否定を宣伝し、社会の中に強制がないという意見もあるという雰囲気をつくり、事実を相対化させることが狙いとみるべきでしょう。

2021年、スガ内閣は、強制連行や強制労働は適切でないと閣議決定し、教科書の歴史記述を変更させました。歴史否定論者が歴史用語に介入し、歴史解釈の私物化をねらい、社会の歴史認識を変えようとしているのです。人権認識、歴史認識を歪め,自分たちに都合のいい人権解釈、歴史解釈をする、言い換えれば、過去を支配しようとしているのです。過去の総動員体制での強制労働を認識・批判できない社会は、現在、未来の強制労働を批判的にとらえることができないでしょう。否定論者による歴史の私物化と憲政の破壊がすすむのです。

ILOの専門家委員会は1999年3月に戦時の朝鮮人や中国人の動員について、ILO 強制労働に関する条約(第29号)違反であると認定しているのですが、日本政府はそれには一切触れません。日本政府は、強制労働ではないとし、悪いのは韓国だと宣伝しているのです。

本当に佐渡鉱山を世界遺産として登録したいのならば、強制労働を認知し、歴史全体を示すべきでしょう。強制労働否定論者はこの世界遺産問題を利用して、「歴史戦」を宣伝し、強制労働問題を「韓国の独自の主張」などと矮小化し、人々の歴史意識を自らの側に組み込もうとしているのです。

 

●佐渡鉱山が世界遺産に登録される可能性はありますか?

 

このまま、推薦してもさまざまな問題に直面するでしょう。世界遺産とは人類の知的・精神的連帯を目指すものであり、歴史全体を示すものでなければなりません。他国と人びとの共感をえるものでなければならないのです。韓国と日本とは2000年の文化交流があります。精錬の方法は朝鮮半島経由で石見鉱山に伝えられ、佐渡鉱山にも伝播したと言います。鉱山技術は朝鮮半島経由だったのです。戦時の強制労働を認知し、それも示しながら、文化遺産として佐渡の鉱山を示せば、共感を得るでしょう。このままでは登録すべきではありません。

日本政府のなかに韓国に対抗し強制労働を否定する宣伝をすすめる組織を立ち上げるようですが、このような対応自体が歴史を否定する行為であり、恥ずべきことです。

強制労働、強制連行はなかったという日本政府の主張は日本の歴史学界では通用しません。「新潟県史」、「佐渡相川の歴史」などの自治体史をみても、朝鮮人強制連行の歴史認識をふまえた労働実態の記述があります。「愛国者として佐渡の名誉のために」闘うなどと記し、社史の記述を持ち出し、強制労働を否定しようとする姿は、世界から顰蹙を買うでしょう。それはユネスコが求める人類の知的・精神的な連帯とは相反する考え方なのです。

産業遺産の領域から近代を抜いて、江戸期だけに限定し、金山だけを示して観光資産とするのではなく、歴史全体を示すべきです。近代の三菱による産金の利益と財閥形成の歴史、そこで働いた労働者の歴史、労働争議や塵肺などの労災、戦時の強制労働なども含めて示せば、この遺産の価値は高まるでしょう。産業遺産は資本、労働、国際関係の3点から複合的に示すべきものと考えます。

 

●今、日韓両政府にもとめられていることは何ですか?

明治産業革命遺産の登録に際し、韓国が戦時の強制労働の問題を提起したことから、日本政府は、戦時に朝鮮人などを意思に反して連れてきて働かせた、情報センターを置き、犠牲者を追悼すると約束しました。しかし、日本政府は、働かせたが、強制労働ではないとし、端島炭鉱(軍艦島)では強制労働の証言はないなどと宣伝し、国際約束を反故にしたのです。当然ユネスコは2021年に「遺憾」を表明し、改善を求めました。しかし、情報センター長らは改善することを拒否しています。この中で、強制労働の否定を掲げて「歴史戦」を主張する政治グループが政府を動かし、佐渡鉱山での強制労働を否定して、世界遺産にしようというのです。

日本政府は韓国に対して「冷静で丁寧に協議、対話する」と言っていますが、このような状態で、冷静で丁寧な議論にはなりようがないのです。たがいに話しあうべきですが、まず、日本政府は過去の強制労働の事実をみとめ、この問題の包括的解決をすすめるべきです。

日本政府、社会から強制労働否定論、植民地主義をなくすことが、日本の主権者市民の課題であると思います。過去の侵略と植民地支配の歴史を反省することなくして、アジアとの友好は生まれないのです。

 

                                           (竹内 2022年2月4日)