2022・5・7 佐渡と朝鮮をつなぐ会の活動を聞く集会・佐渡
2022年5月7日、佐渡相川で佐渡と朝鮮をつなぐ会の活動を聞く集会がもたれ、20人が参加した。主催は2022年に入り数人で結成した佐渡の朝鮮人労働者の足跡を記憶する会。佐渡と朝鮮をつなぐ会(佐渡と韓国をつなぐ会)とは1990年代に活動、訪韓調査をおこない、佐渡や新潟で証言集会を開催した団体である。
集会では、林道夫さん(佐渡、小木・宿根木の寺の住職)が会の活動について話した。林さんは社会的な関心を60年代後半の全共闘運動の体験から持った。東京の大学を出て、佐渡の寺に入っても、社会的な問題の関心を持ち続けた。
1991年に佐渡鉱山の相愛寮の名簿を入手し、佐渡の朝鮮人強制労働について調べようとした。相川には小杉邦男さんの活動があり、小杉さんや金山教勇さんと佐渡と韓国をつなぐ会(後に佐渡と朝鮮をつなぐ会と改称)をつくった。名簿をたよりに新潟県の研究会とともに現地で聞き取りをし、佐渡に動員被害者を呼んで集会を持った。訪韓に際しては当時、韓国領事館も支援した。しかし、社会保険問題にかかわると韓国領事館から政治的な問題に関わらないでほしいといわれた。
林さんによる活動紹介ののち、1991年の調査(『佐渡鉱山朝鮮人強制労働追跡調査』コリアン強制連行等新潟県研究会)と92年の調査(『50年目の真実 佐渡鉱山“強制連行“の傷あと』NHK新潟放送局)の映像をみた。映像は現地調査の記録であり、佐渡鉱山に動員された金周衡、盧秉九らの動員の状態を示すものだった。NHKの映像には、佐渡に残った朝鮮人の映像もあった。イムジェチョル(山本)は日本女性と30年間暮らしたが、突然、帰国し、数か月後に亡くなった。動員期に日本の手先となり、解放後も帰国できず、日本人と家族を持った人もいた。NHKの映像は植民地支配により、戦後も続いた傷跡についてもとらえていた。
集会がもたれた佐渡相川教会では戦争末期、牧師と朝鮮人が語り合った場所である。強制労働の歴史を否定する動きが、いま強まっている。歴史の記憶をたどり、強制労働の存在を照射すべきときだ。過去の調査に学び、歴史を否定する動きを止めよう。
(t)
「歴史認識問題研究会」の歴史認識の問題
●「歴史認識問題研究会」意見広告
2022年2月3日、「歴史認識問題研究会」(西岡力会長)の意見広告「佐渡金山は朝鮮人強制労働の現場ではない、事実に基づく反論を!」が「新潟日報」に掲載された(以下、文中敬称略、〔 〕は筆者による)。その内容を要約すると次のようになる。。
戦時動員期間に、240万人の朝鮮人が内地に渡航したが、そのうち60万人だけが動員で、180万人は自分の意思による個別渡航。「強制連行」「強制労働」などとは異なる歴史的事実だ。佐渡金山では1519人の朝鮮人労働者が動員されたが、約1000人は「募集」に応じた者たちだ。残りの約500人は「官斡旋」「徴用」で渡航したが、合法的な戦時労働動員であって「強制労働」ではない。待遇はみな日本人と同じだった。家族宿舎と独身寮が無料で提供され、会社が費用の一部を負担して安価な食事も出された。終戦時には1096人が残っていたが、暴動など起こさず数人の在留希望者以外全員が帰還した。日本政府は〔2021年〕4月、朝鮮人労働者の戦時動員は強制労働に関する条約の強制労働には該当していないと明確な閣議決定をした。強制労働に関する条約には、戦時労働動員は国際法違反の強制労働に含まれないと明記している。歴史的資料と証言は多数ある。国際広報につくすべき。事実に基づく反論だけが祖国と先人の名誉を守る道である。朝鮮人戦時労働動員は強制労働ではない。韓国の政府とマスコミは佐渡金山を朝鮮人強制労働の現場と批判するが、歴史的事実ではない。
広告はこのように戦時の朝鮮人の強制労働の歴史を否定するものであるが、その誤りをただして、次のように記すことができる
日本政府は総力戦体制の下で労務動員計画を立て、1939年から45年にかけて募集・官斡旋・徴用などの名で、約80万人の朝鮮人を強制的に動員し、労働を強制した。「強制連行」「強制労働」はこの時期の総動員体制での労務統制の状況を示す歴史的事実である。
1940年から42年にかけて、佐渡鉱山には約1000人が動員されたが、それは甘言による動員であり、約束が違うことから労働争議が起きた。43年5月までに10人が死亡し、過半数が再契約を強要された。逃亡すれば、逮捕され、処罰された。のちの官斡旋や徴用による動員では約500人が動員され、労働を強制された。
植民地から、皇国臣民の名により朝鮮人の民族性を奪って動員がなされた。現場では暴力による管理と差別があった。食事は粗末であり、空腹の中で労働を強制された。塵肺に よる健康破壊も起きた。敗戦時には570人ほどの動員朝鮮人がいたが、帰国は10月から始まった。
1999年、国際労働機関(ILO)の条約勧告適用専門家委員会は戦時の朝鮮や中国からの動員について、「悲惨な条件での、日本の民間企業のための大規模な労働者徴用は、この強制労働条約違反であった」と認定している。国際社会はこの動員が国際法に反する行為であるとし、日本政府が責任をとることを求めている。
強制労働を示す歴史的資料と証言は多数ある。戦時の朝鮮人の労務動員は強制連行・強制労働だった。佐渡鉱山は朝鮮人強制労働の現場であり、それは歴史的事実である。強制労働を認めることで佐渡鉱山の評価は高まることになる。
●「歴史認識問題研究会」セミナー冊子
歴史認識問題研究会は2022年3月23日、「佐渡金山における朝鮮人戦時労働の実態」というセミナーをもった。そのセミナー冊子がある。読んでみると、戦時の朝鮮人強制労働はなかったという議論であり、事実認識での間違いや史料の恣意的な解釈が多い。
朝鮮人強制労働の歴史を否定する彼らの発言は、歴史事実を相対化するためものであり、史論として対置すべきものではない。しかし、そのうごめきを止めるためには、その誤りについて指摘しておく必要があるだろう。冊子に収録された西岡力「朝鮮人戦時労働と佐渡鉱山」の記述から原文を示し、その問題点をみよう。
西岡は次のように記す(以下、1から7の上段はセミナー冊子での記述)。
1「内務省の統計によると戦時動員期間(1939年から45年)に合計約240万人(正確には237万8232人)が内地に渡航したが、そのうちわずか4分の1の60万人(60万4492人)だけが戦時動員(募集・官斡旋・徴用)であって残りの180万人(177万3740人)は自発的個別渡航者なのだ」(冊子2頁)。
「私は内務省統計という一次史料を使って」「〈朝鮮から内地への雪崩のような出稼ぎ渡航があったのだが、それを戦争遂行に必要な事業所に秩序だって送ろうとしたのが戦時動員だった。「強制連行」「強制労働」などとは異なる歴史的事実だ〉と新しい学説を提起して〔古い学説(強制連行)を〕否定した」(5頁) 。
西岡は、内務省統計と記しているが、具体的な資料名を記していない。この西岡の数字については西岡編『朝鮮人戦時労働の実態』(30頁)に同様の論がある。そこで、西岡は森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』の表「朝鮮人の日本内地渡航・帰還」(72頁)、「日本内地への労務動員」(75頁)から渡航者数と動員者数を抜き出して一つにまとめている。森田はその典拠を内務省(警保局)の『社会運動の状況』および内務省(警保局)資料とする。西岡の数字はこの森田の本からの重引である。森田は1943年から45年にかけての数字を内務省資料としか記していない。西岡はその史料名不明の内務省資料を直接みてはいないだろう。なお、西岡編著では動員数を60万4429人とするが、セミナー用論文での引用に際し、60万4492人と誤記している。
西岡は強制連行や強制労働は歴史的事実ではないとする。しかし、朝鮮人の戦時動員は国家総動員法の下で政府が労務動員計画を立てておこなわれた。その動員は政府の承認を受けた企業によるものであり、朝鮮総督府が関与しての割当動員であった。それは国家権力を後ろ盾とするものであり、強制力をともなうものであった。わたしは当時の一次史料、内務省警保局の内鮮警察の統計、「労務動員関係朝鮮人移住状況調」などを使い、史料名を明示した上で、日本への労務での動員数を約80万人としている。
戦時下、植民地朝鮮の人口の一割近くが流浪を強いられたのであり、それは戦時の植民地統治の過酷さを示すものである。「雪崩のような出稼ぎ渡航」などと記すべき状態ではない。戦時の労務動員は「強制連行」「強制労働」の実態をともなうものであった。
2 「「強制労働」あるいは「強制連行」という言葉は当時なかった。」「1960年代から日本の左派系学者らがその言葉を使い始め、その後に韓国でも使われるようになった。つまり、後世における歴史評価だ」(4~5頁)。
西岡のこの記述は次の事実から誤りであることがわかる。1945年12月8日の「京城日報」には日本帝国主義の下で「強制徴兵」「強制徴用」「強制勤労」されたことが記されている。動員された朝鮮人とって、それは強制であったのである。後に日韓会談で韓国側の一員となる李相徳は、雑誌「新天地」1948年1月号に「対日賠償の正当性」について記し、「強制動員」による被害として、軍人軍属の死亡・傷害などの損害と徴用・勤労奉仕、報国隊の名での「強制労働」の犠牲をあげた。また、動員被害者は「太平洋同志会」を結成し、1948年10月、韓国国会に「対日強制労務者未債金債務履行要求に関する請願」を出している。
このように、「強制徴用」「強制動員」「強制労働」「強制労務」という言葉を用い、当時の被害を示し、被害回復を要求する動きがあったのである。当時から韓国内で使用され、日本でも調査・研究がすすみ、「強制労働」「強制連行」という用語が定着したのである。「1960年代から日本の左派系学者らがその言葉を使い始め、その後に韓国でも使われるようになった」のではない。
3 「一次史料、つまり、戦時労働が実施されていた当時かその直後に現地で書かれた資料、当時の関係者の証言は先の意見広告の注2から4に挙げた三点しかない」(2頁、〔意見広告によれば、注2は平井栄一編「佐渡鉱山史其ノ二」〔佐渡鉱業所1950年〕、注3は佐渡鉱業所「半島労務管理ニ付テ」〔1943年〕、注4は相川町史編纂委員会編「佐渡相川の歴史通史編近現代」〔1995年〕の3点〕) 。
西岡は一次史料が3点しかないというが、戦時の佐渡鉱山の労働状況を示す史料はほかにもある。西岡のいう平井栄一の著書は戦後の社史であって一次史料ではない。「佐渡相川の歴史通史編近現代」も一次史料とするが、自治体史であって一次史料とはいわない。一次史料を利用した著作である。
「半島労務管理ニ付テ」は企業による一次史料であるが、その史料批判は欠かせない。これ以外にも、佐渡鉱山については、特高月報、思想月報、警察公報などの文書や中央協和会、日本鉱山協会、新潟県警察部、新潟司法事務局などの記録、相愛寮煙草配給台帳などの史料がある。また、強制動員された朝鮮人への聞き取り資料や労務係の手記もある。
元労務係杉本奏二は「一方稼働の悪い連中に弾圧の政策を取り、勤労課に連れ来り、なぐるける、はたでは見て居れない暴力でした」。「彼等にすれば強制労働をしいられ、一年の募集が数年に延長され、半ば自暴自棄になって居た事は疑う余地のない事実だと思います」と記している。
樺太庁警察部の「警察公報」(551号、1941年12月15日)には、「団体移住朝鮮人労働者逃走手配」の項があり、三菱佐渡鉱業所から逃亡した朝鮮人4人についても記されている。新潟県警察部は、氏名、出身、身体の特徴、着衣などの特徴を記して、全国に指名手配したのである。政府の労務動員計画で集団移入させられた朝鮮人は、政府(警察)と企業による監視の下で労働を強いられていたのである。
証言や史料からも強制労働の存在は明らかである。西岡は一次史料の概念理解、史料批判、史料調査などが不十分である。
4 「この史料〔平井栄一編「佐渡鉱山史」〕の原本が現在どこにあるのか不明だ。複写版が佐渡市相川郷土博物館と三菱史料館に所蔵されているが、公開されていない。」「歴史認識問題研究会は1月26日にある筋から目次と「(九)朝鮮人労務者事情」という項目の写真を入手して、研究会HPで公開した」(2頁) 。
西岡はこのように記すが、平井栄一編「佐渡鉱山史」の原本はゴールデン佐渡(三菱マテリアルの子会社)が所有している。複写版については、新潟県が「近代の佐渡金銀山の歴史的価値に関する研究」で公開している。しかし、複写版では「(九)朝鮮人労務者事情」のうち、動員数を記した主要一頁が削除され、不明のままだった。その部分を含む朝鮮人に関する頁を、2022年1月20日に新潟県の高鳥修一衆議院議員(自民党、保守団結の会)がブログで公開した。1月27日には、安倍晋三元首相(保守団結の会)がフェイスブックに同じ写真を示している。
経過から見れば、ゴールデン佐渡から高鳥修一の手に渡り、そこから安倍晋三、西岡力へという流れだろう。西岡は「佐渡鉱山史」の原本の所在を知らないとし、新潟県が部分復刻している史料であることは示さず、社史を一次史料とみなすのである。この史料では、佐渡鉱山への朝鮮人動員数を1517人とする。複写版ではその事実を示す頁が抜き取られ、隠されていたわけである。動員数を示せば、その動員の責任が問われるからであろう。
5 「注目したいのは不良送還25人だ。つまり、きちんと働かない者は朝鮮に返したのだ。強制労働ならそのようなことはしないはずだ」(3頁) 。
「出来高払いで賃金が計算されていたので最高〔221.03円〕と最低〔4.18円〕ではこれほど差が出るが、かなり良い賃金だったことがわかる。これが「強制労働」なのか」(3頁) 。
「転出は1943年になって金採掘が停止して戦争物資である銅採掘だけを行うようになり、労働者が余ったため、埼玉県などの工事現場に朝鮮人労働者を送ったものだ」(3頁)
。
西岡は強制労働の概念規定を理解していないか、故意にすり替えている。強制労働とは、処罰の脅威の下に労働を強要されること、自由意志によらないすべての労務をいう。
司法省刑事局「労務動員計画に基く内地移住朝鮮人労務者の動向に関する調査」(「思想月報79」)の佐渡鉱山争議の記事にあるように、現場で労務統制のために、争議を起こした者は、朝鮮に送り返された。その争議は、甘言による動員のもと、低賃金であり、福利厚生が不十分であり、労働が強制されていたことから生じた。争議の中心人物は排除され、送還された。
賃金の多寡は問題ではない。就労できなければ、一か月に4円程度の収入となり、食費などの控除により赤字となることもあったのである。労務係の手記にあるように暴力による労務管理がなされており、職場を自由に辞める権利はなかった。
佐渡鉱山は1943年の政府による金山整理により、銅生産に主軸を置くようになった。そのため、細倉鉱山や明延鉱山に転出させられたものもいた。埼玉県や福島県の地下工場建設現場に転送されたのは1945年に入ってからのことであり、銅生産への転換期の43年ではない。
西岡は、「佐渡鉱山史」の社史としての記述の限界をみず、史料の批判をすることもなく、記述を強制労働否定のために利用しているにすぎない。
6 「同書〔平井栄一「佐渡鉱山史」〕も一級の一次史料だ。」「私は一次史料を根拠に強制労働はなかったと書いたのだ。国内の不勉強な勢力に対してもきちんと反論をしつつ、韓国と国際社会に対して佐渡金山では強制労働などなかったという歴史的事実を史料に基づいてきちんと広報しつづけ、ユネスコ文化遺産登録をなんとしても勝ち取らなければならない」(5頁)。
西岡は「〔一次史料から〕佐渡金山では強制労働などなかった」と記す。しかし、総力戦体制の下、「半島労務管理ニ付テ」の記述にあるように、佐渡鉱山に動員された朝鮮人は坑内労働へと集中的に投入され、期間を延長される者も多かった。また、当時の新聞記事に記されているように、「産業戦士」とされ、「決死増産」の掛け声の下、生命を賭けた労働が強制された。さらに労務係の手記にあるように、労務管理では暴力があった。そして警察記録からは、逃亡すれば、指名手配され、捜査対象とされ、逮捕されれば、処罰されたことがわかる。
総動員体制下、労働者としての権利は奪われていたのであり、労務動員での「契約」は自由な契約による労働ではなかったのである。「佐渡金山で強制労働などなかった」ということはできない。
7 強制労働を否定する李宇衍は、この冊子に「佐渡金山における朝鮮人戦時労働の実態」という文を記している。その最後の部分で、李は「〔歴史認識問題研究会の長谷亮介の分析を基に〕労使紛争を含め、朝鮮人の集団行為を警察が武力鎮圧・解散し操業を続行させた事例はない。」「佐渡鉱山でも警察が朝鮮人を武力解散・鎮圧した事はない」と記している(45頁)。〔歴史認識問題研究会は2022年4月末、セミナー報告を自らのウエブサイトに掲載したが、李の報告は前半部分のみの掲載であり、ここで指摘した箇所は掲載されていない。〕
このような記事には、先にみた「思想月報79」での1940年4月の佐渡鉱山争議の記録を示そう。このとき、ストライキで気勢を上げた朝鮮人と日本人に対し、警察が介入し、日本人2人、朝鮮人3人を検束、さらに「徹底的措置」を講じるために12人を検束した。「思想月報79」ではこの行動を「警察側の鎮圧」と明記している。警察が「鎮圧した事はない」のではなく、鎮圧したのである。当時の警察権力による「厳諭」は暴力の行使を含むものであった。李宇衍らはそれを読みこむことができない。
なお、鉱山側は争議の原因として、言語が通じないための「誤解」、「智能理解の程度が想像以上に低き為」に意思疎通が欠けたこと、募集現地の郡面関係者が坑内作業の内容の認識に欠け、労働条件への多少の誤解があったこと、二、三の「不良分子」の煽動に乗じて「半島人特有の狡猾性 付和雷同性」を現わしたことなどをあげている。そして「不良労務者」の「手綱」を「ゆるめざる管理」が必要とする(日本鉱山協会「半島人労務者ニ関スル調査報告」での佐渡鉱山報告)。朝鮮人を人間ではなく牛馬のようにみなしていたということであり、鉱山側の朝鮮人に対する差別と偏見を示す表現といえよう。
歴史認識問題研究会の強制労働否定論は、朝鮮の日本統治は不法な植民地支配ではないとし、動員朝鮮人は合法的な戦時労働者であるとみなす立場からなされている。かれらは、朝鮮人強制労働は「プロパガンダ」であり、戦時朝鮮人労働は強制労働ではなく、2018年の韓国大法院徴用工判決は偏った研究蓄積によるものとするのである。
このような歴史認識自体が問題なのである。
佐渡鉱山のユネスコ文化遺産登録は、朝鮮人強制労働の歴史否定を克服し、その歴史を記すことで実現できる。そうすることで、ユネスコが求める人類の知的精神的連帯、人権と平和の実現に寄与することができるのである。
(2022年5月 竹)