620群馬の森・朝鮮人追悼碑の存続を!上告棄却・抗議集会

 

 2022615日、最高裁第2法廷は「記憶 反省そして友好」の追悼碑を守る会の上告を棄却した。「記憶 反省そして友好」の追悼碑は2004年に群馬県高崎市の県立公園群馬の森にある戦時の朝鮮人追悼碑である。この碑の前で2012年まで追悼式が開催されてきた。

右翼団体がこの碑に対し2012年に抗議行動をおこない、2014年には群馬県議会で碑の設置許可の取消を求める請願を出し、採択された。群馬県は2014年、追悼式で「強制連行」の発言がなされたことを政治的行事とし、設置期間の更新を不許可とした。そのため、守る会は不許可処分の撤回を求めて提訴した。

2018年、群馬地裁は、発言を政治的発言と認定しつつも、政治的行事をおこなったことが、直ちに公園の効用を喪失したとはいえないとし、県の不許可処分を裁量権の逸脱、違法とみなし、不許可処分を取り消す決定をした。

これに対し、群馬県は控訴し、守る会も付帯控訴した。2021年、東京高裁は県の不許可処分を適法とみなし、守る会が敗訴したのだった。20226月、最高裁はこの高裁決定を追認し、守る会の上告を退けた。
 

2022620日、参議院議員会館で守る会は上告棄却・抗議集会をもった。集会では弁護団長の角田義一弁護士が、上告棄却に抗議し、追悼碑を死守する決意を示した。弁護団の下山順弁護士は、判決の問題点を指摘し、朝鮮人強制連行は史実であり、強制連行の発言があっても碑の中立性は損なわれないこと、東京高裁の判決が政府の強制連行解釈に忖度した政治的に偏向したものであること、それは司法の危機であることなどを示した。

その後、竹内康人が群馬県での朝鮮人強制連行の歴史と判決の問題点、田中宏が歴史の記録・記憶の意味について発言した。

以下、竹内康人発言(要旨)

強制連行の用語は戦時の朝鮮人の労務動員を説明する歴史用語として定着している。群馬県の隣県をみれば、1988年の新潟県史、1990年の長野県史には、強制連行の用語が使用されている。1983年の神奈川県史でも使用され、1994年には神奈川県が強制連行等関係史調査報告書を出している。日本政府の国会答弁では強制連行の用語を認め、教科書の記述にも強制連行の用語がある。

ところで、1989年の群馬県史には朝鮮人の労務動員に関する記述がない。これに対し、猪上輝雄は1990年代に群馬県の強制連行調査をおこない、追悼碑の建設を発起し、建設を進めた。それは群馬県史の空白を補完する事業だった。韓国では強制動員の真相究明委員会ができ、ドイツでは「記憶・責任・未来基金」が設立された時期である。

群馬県の強制連行での動員数は内鮮警察の史料から、1943年末までに1551人が動員され、44年度には4560人の動員が計画されていた。動員数は6000人以上とみなすことができる。知事事務引継書などの公文書にも労務動員の記載がある。主な動員現場は、鉱山では小串鉱山、上信鉱山、日本鋼管群馬鉱山、工場では、中島飛行機の太田、小泉工場、理研工業前橋、関東電化工業渋川、関東製鋼渋川工場、土木では、吾妻線工事、高崎鉄道改良工事、日発の箱島、岩本発電工事、中島飛行機の薮塚、後閑などの地下工場建設工事などがある。高射砲や歩兵部隊に動員された朝鮮人もいる。朝鮮人の埋火葬書類が発見された所もある。

社史では、間組の100年史は岩本発電工事での強制連行について明示している。動員された朝鮮人の証言もある。動員と死者の存在は消すことのできない歴史の事実である。群馬での追悼碑の建設は評価されるべき市民と行政の活動である。

ところが強制連行の歴史否定の動きがあり、安倍政権のもとで、その動きが活発になった。強制連行を否定する政治家とそれに呼応するヘイト集団が公的施設にある朝鮮人追悼碑への排撃をはじめた。強制連行はなかったという嘘が、歴史の真実のように宣伝され、強制連行の事実が相対化され、強制連行を語ることが「政治」とされ、中立性を害するものとされた。

高裁と最高裁の判決は、「GHQの洗脳教育による自虐史観の歪んだ反日歴史観を正し、日本の国益を守り、日本に対するえん罪を払拭する闘い」などと喧伝するヘイト集団たちを喜ばせるものである。歴史否定を宣伝し、追悼碑の前で紛争を起こせば、碑を撤去できることになる。判決は、現憲法下で保証された表現の自由、人身の自由に対する認識や歴史認識を歪めることになる。過去を反省し、友好をすすめるという活動に反するものである。歴史否定の影響を受けたこのような政治的判決は糺されねばならない。

筋の通らない理屈で棄却しても、行政と企業による朝鮮人強制労働の歴史を消し去ることはできないし、その歴史的責任も問われる。植民地主義を克服する視点、過去の清算による戦争被害者の尊厳の回復の視点が重要である。