浜松大空襲に学ぶ 軍都・空襲・軍拡

 

はじめに

 

 きょうは「浜松大空襲に学ぶ 軍都・空襲・軍拡」という題で、浜松の軍事基地による加害、米軍による浜松への空襲の被害、そして現在の軍拡と憲法をめぐる動きについて話したいと思います。私は「日本陸軍のアジア空襲」、「浜松の戦争史跡」、「浜松・磐田空襲と死亡者名簿」などで浜松の陸軍部隊によるアジアでの加害の歴史、浜松への空襲被害の歴史について記しました。その調査で知ることができたことがらを、軍都・空襲・軍拡の順にお話ししたいと思います。この話の前に、空襲死者名簿と「弔詞」の朗読がありましたが、空襲によって奪われたひとり一人の命の地平から、戦争について考えることが大切だと思います。

●    浜松の陸軍爆撃隊によるアジア空襲

 はじめに、浜松の陸軍爆撃隊によるアジアでの空襲についてみてみます。

浜松に陸軍の爆撃部隊である飛行第7連隊が置かれたのは1920年代のなかばです。浜松に航空基地ができてからもうすぐ100年というわけです。1931年の満州事変、37年の日中戦争、41年の太平洋戦争と、浜松から爆撃部隊の派兵が繰り返されました。航空基地ができてから最初の20年は、浜松の爆撃部隊によるアジア空襲がなされた、つまり加害の歴史があるのです。その戦争の結末が、米軍による浜松への空襲なのです。

 今、ホンダの工場があるところに飛行第7連隊の本部がおかれていました。飛行第7連隊の設置後に、あらたに陸軍浜松飛行学校が編成され、飛行学校は空自浜松基地の司令部がある場所におかれました。当時の基地の地図から、本部、格納庫、弾薬庫、修理工場などの場所を確定できます。

浜松から派兵された部隊は現地で強化されました。爆撃先は、満州から中国各地、そしてシンガポール、ビルマ、インド、インドネシアと移動します。当時の爆撃写真が残っています。陸軍の爆撃部隊による中国などでの爆撃を示すNHKのニュース映像も残っています。その爆撃の下には民衆がいるのですが、そのような加害を批判する力は弱かったといわざるをえません。

この写真は満州事変の際に浜松から派兵された飛行部隊による1932年1月の郭大発屯という村への爆撃です。「匪賊爆撃」と記されています。日本軍に抵抗する者は匪賊とされ、いまふうにいえばテロリストであり、殺戮の対象でした。村の半分が爆撃されていますから、爆撃された側からみれば無差別爆撃ということになります。日中戦争期の重慶爆撃が有名ですが、重慶だけではありません。日本軍による爆撃は1930年代初めから繰り返されていたのです。

満州事変により浜松から派兵された部隊は飛行第12大隊となりました。日中戦争による侵略戦争の拡大の中で空中部隊と地上部隊が分離され、それにより飛行第12戦隊と名称を変えました。この部隊は浜松から派兵された飛行第60戦隊と共に重慶などへの爆撃を繰り返しました。爆撃隊による中国の蘭州、昆明、重慶への爆撃の写真も残されています。写真の昆明爆撃は第60戦隊によるものですが、100㎏弾135発と記されています。町の中心部を破壊したのです。

飛行第60戦隊の戦隊史の記載から中国での爆撃先を示す地図を作成してみました。いかに多くの場所を攻撃したのかがわかります。当時、使用された陸軍爆撃機の一つが97式重爆撃機であり、三菱重工業が製作しました。三菱の軍用機生産の中心地は名古屋でした。

太平洋戦争にともない、陸軍の爆撃部隊は東南アジア方面に派兵されました。飛行第12戦隊による42年4月のビルマのマンダレーの市街地への爆撃写真には500㎏弾3発、250㎏弾18発、100㎏弾122発とあります。このような爆撃による市民の死傷者も多かったはずです。英領インドのインパールへの爆撃写真をみても市街地への爆撃であることがわかります。

このような戦争加害の歴史を明らかにし、それをふまえて日本への空襲の歴史をとらえ直していく必要があると思います。

ここでもう一つ、浜松での毒ガス戦研究についてもふれておきます。浜松の陸軍飛行学校は航空機による毒ガス攻撃の研究を行ないました。攻撃にはガス弾投下と雨下によるものがあります。また、攻撃と共に防御も研究しました。防御にはガスを除染する作業があります。写真は三方原で防護服を着て、きい弾(イペリット)という致死性の高いガスの効果を調べているものです。いかに致死性の高い攻撃ができるのかを研究していました。その研究と訓練をふまえて、中国大陸では、ガス攻撃が実際に行なわれているのです。戦争末期には航空毒ガス戦部隊は三方原教導飛行団という名称の部隊になります。化学戦、毒ガス戦の部隊と知られないような名称になっています。部隊は三方原におかれましたが、いまは自衛隊の官舎がおかれています。

浜松への空襲の歴史をみるにあたり、浜松から派兵された陸軍爆撃隊によるアジアでの爆撃、毒ガスを使用しての攻撃など加害の歴史の理解は欠くことのできないものだと思います。

浜松基地のなかに戦後、「陸軍爆撃隊発祥之地」という碑が関係者によって建てられました。その碑には、アジア各地への爆撃が肯定的に刻まれています。反省はありません。戦争の責任や加害の自覚は示されないのです。この碑は、戦後の戦争肯定と戦争加害の無自覚を象徴するものです。侵略戦争や植民地支配への反省、その過去を清算するという姿勢に欠けています。反省の意識が共有されるようになったのは、戦後50年、1995年頃です。しかし、その反動がいまあり、過去の肯定と歴史否定がすすんでいます。

 

●    米軍による浜松への空襲

では次に浜松への空襲についてみます。

三菱重工業とともに主要な軍用機生産企業が中島飛行機です。中島飛行機のエンジン工場が東京の武蔵境にあり、そのエンジン工場は浜松にもできました。また、日本楽器は航空機のプロペラを生産していました。浜松は工業都市であり、中小の工場でも軍需生産がおこなわれていました。

ですから、日本楽器などの軍需工場は、浜松の軍飛行場ととともに、米軍による空襲の標的となったのです。遠州地域への米軍の空襲は爆撃機と艦載機によっておこなわれ、自治体史などの記述を総合すると、60派にわたります。浜松市の記録だけでは空襲の実態は分かりません。各地の資料を総合して空襲被害の実態を把握し、米軍資料から投下爆弾量など攻撃の状況を把握することが必要です。

米軍の作成した日本地図をみると東三河と遠州が浜松(90.21)に区分されています。豊橋から掛川付近までが浜松区域なのです。彼らはこの地図をイメージして爆撃を加えているわけですから、旧浜松市域だけの地図をもって爆撃状況を示しても、爆撃の実態を示すことにはならないわけです。

米軍は浜松を中心に爆撃用の地図を作成していますし、浜松の爆撃の中心点は日本楽器の工場となっています。爆撃対象地には番号が記され、日本楽器天竜工場、中島飛行機浜松工場、国鉄工機部、鈴木式織機高塚工場なども記され、浜松・三方原の飛行場も明示されています。爆撃用のリトモザイクも作成され、浜松周辺の軍事基地の存在がはっきりと分かります。日本楽器や中島飛行機浜松工場などの攻撃目標用シートもあります。

浜松地域での空襲は1944年末から行なわれていますが、1945年に入って、主な空襲は6回をあげることができます。それを「浜松6大空襲」としてとらえれば、わかりやすいのではないかと思います。

ひとつめは1945年2月15日の空襲です。これはB29爆撃機によるものです。浜松だけでなく、舞阪、磐田、天竜、浜岡などへと空襲がなされ、死者は170人以上、被害家屋は1000棟を超えます。

二つめは45年2月16日から17日にかけての艦載機約100機による浜松・三方原・天竜の飛行場への攻撃です。この攻撃は米軍が硫黄島攻略に向けて、制空権をえるためのものです。浜松をはじめ、日本各地の航空基地を攻撃したのです。

三つめは45年4月30日の空襲です。B29による浜松・磐田地区への空襲です。死者約900人、被害家屋は8000棟に及びます。浜松の飛行場への攻撃もなされています。

 四つめは45年5月19日の空襲です。B29による空襲であり、浜松をはじめ、磐田・豊田・福田・掛川など広い範囲で被害がありました。死者は約600人、被害家屋は約5000です。

 五つめが45年6月18日の浜松の市街地をねらったB29による空襲です。米軍による中小都市空襲の最初の空襲地として、浜松、四日市、大牟田、鹿児島がねらわれたのです。空襲は可美や豊田方面にも及び、夜間の燃焼弾(焼夷弾)による攻撃により、死者は1700人以上に及びました。4月30日の死者900,5月19日の死者600と合わせれば、この三回の空襲で3200人を超えるのです。

 六つめは45年7月24日から31日にかけての艦載機による空襲です。死者は90人以上です。この攻撃は浜松・三方原の飛行場に対して行なわれ、舞阪、掛川、磐田などでも攻撃がなされました。この時期には、艦砲射撃がなされています。空襲は艦砲射撃をおこなう艦船への航空機攻撃を阻止するため、飛行場の制圧をねらってなされたのです。浜松と新居への艦砲射撃は7月26日になされ、死者は約200人、被害家屋は650棟です。

 さらに、45年7月26日には浜松市の将監町に原爆模擬弾が投下されています。浜松はこのとき、第2目標とされていたのです。同日、静岡県では島田と焼津にも同様の爆弾が投下されました。

米軍は空襲後に報告書を作成しています。艦載機報告書には、艦載機による浜松・三方原飛行場攻撃の成果を示す地図や写真が収録されています。浜松市内を爆撃すると、その損害影響評価を示す地図が作成されました。6.18空襲後の損害評価地図をみると、それ以前の損害と6.18攻撃による損害が明示されています。

 

近年、工藤洋三さんがアメリカの公文書館で収集された浜松関連の写真には、艦載機による飛行第7連隊基地への攻撃写真、艦砲射撃による浜松駅周辺の損害評価用写真、将監町の原爆模擬爆弾投下後の写真などがあります。貴重な戦時の写真です。

戦後、空襲被害の実態が具体的に把握されていたといえるのでしょうか。空襲被害を、死を強いられた一人ひとりの地平からみつめること、死者の名簿を作成すること、米軍資料と照合して被害実態を明示すること、これらのことがらは不十分なままであったと思います。 

近年、新たな視点で、再度、空襲被害を表現し、加害の歴史もふまえて空襲を語るという作業がはじまったというべきでしょう。また、空襲被害に対して日本政府は「受忍論」を語り、空襲被害者への補償を否定してきました。

空襲被害者の尊厳は回復されていないのです。空襲被害を受けた市民の尊厳回復は無視されたままなのです。政府の行為の結末が空襲被害であり、政府にはその責任があるというべきです。その責任は今も取られていないのです。

加害の歴史についてみれば、その歴史の否定が公然と語られるようになりました。危機の時代にあるとみるべきでしょう。

空襲による被害者の名前で不明のもの多いのです。磐田や浜松には戦争末期に農耕部隊が配置されていましたが、この部隊は朝鮮人兵士で編成されていました。当時、磐田の伊通南国民学校も宿舎とされていましたが、5・19空襲で、近くの正医寺の南方での作業中に隊員7人が死亡したといいます。その名前は不明です。農耕勤務隊の名簿が残っているのですが、死亡の状況が記されてはいないのです。今後の調査が必要です。

●    現代の軍拡と憲法の危機

では、戦後の浜松基地の歴史、特に現在の軍拡の問題を中心にみてみましょう。

戦後の航空自衛隊浜松基地については、1950年代から約40年間は冷戦下の軍拡の時期、1990年以後の30年間はグローバル戦争の時代の軍拡、自衛隊の海外派兵の拡大という軍拡の時期です。このように区分できます。

敗戦により、浜松基地は、一時期、米軍の横田基地の分基地となりました。保安隊ができると航空学校がおかれ、航空自衛隊の設立によって第一航空団がおかれました。当時の機種はF86Fでしたが、故障が多く、基地周辺での墜落事故もおきました。1962年には術科教育本部、69年には高射教導隊などが置かれましたが、基本的には、冷戦下の教育関係の拠点の基地でした。1982年にはブルーインパルスの墜落事故が起き、10年余にわたりブルーインパルスの曲技飛行は浜松では行うことができなかったのです。軍事基地を教育と実戦とに区分をすること自体、無意味かもしれませんが、教育を中心とする基地であったことは事実です。

このような浜松基地に、冷戦以後、1990年代に入ると、空飛ぶ司令塔とよばれるAWACS(エーワックス・空中警戒管制機)が配備されました。AWACSがそれぞれ2機、98年・99年と浜松基地に配備され、それにともない警戒航空隊本部が浜松基地に移転し、基地の警備も強化されました。実戦基地へと変貌したのです。

ちょうど日米防衛協力の指針が改定され(いわゆる新ガイドライン安保)、日米が「周辺事態」に対応し、自衛隊が米軍を後方支援する態勢が整備される中でのAWACSの配備でした。空自の広報館も浜松基地内にでき、浜松は広報の拠点ともなったのです。

冷戦後のグローバル戦争では、宇宙の支配が戦争の帰趨を決めるようになりました。海の支配から空の支配へ、そして宇宙の支配へとかわったのです。宇宙の軍事化がすすんだわけです。

宇宙支配による予防先制攻撃、ミサイル攻撃からの防衛、戦時と平時の区分のないシームレスな戦争状態、ロボット兵器の利用などがグローバル戦争の特徴です。イラク戦争はこのようなグローバル戦争でした。そのようなイラク戦争に自衛隊は派遣をおこない、空自はクウェートを拠点に小牧基地のC130による米兵や武器の輸送をおこない、米軍を後方支援したわけです。C130の整備のために浜松基地からもクウェートに派兵されました。この派兵による輸送に対しては、名古屋高裁が2008年に憲法第九条違反と判定しています。

ミサイル防衛(MD)、これに関する兵器として改良型パトリオットミサイル(PAC3)が開発されましたが、2008年に浜松基地の高射教導隊に配備されました。ミサイル防衛というと防衛のための態勢のようですが、先制攻撃と一体のものなのです。日米の軍事的一体化は2012年、米軍横田基地に日米統合運用調整所が置かれたように、このMD推進とともにすすみました。日本のMDは米軍の衛星情報、その指示によって動くからです。

そして2015年にはいわゆる戦争法、安保関連法が制定されました。それにより、日本政府が重要影響事態と判断すれば米軍を後方支援し、存立危機事態と判断すれば米軍と共に集団的自衛権を行使して戦闘し、さらに特措法なしで恒常的に海外に派兵できるということになりました。それとともに日米防衛協力の指針も再改定され、自衛隊はグローバルに派兵され、米軍と共に共同作戦を担うという態勢の整備がなされました。

しかし、日本国憲法があり、その憲法第九条では交戦権を否認していますから、現状では、グローバルに派兵しても交戦できないわけです。交戦すれば、憲法違反とされます。ですから、ウクライナ戦争など、ことある毎に憲法を改正すると、右派は喧伝するのです。

けれども、軍事力で他者を圧倒することで、平和になるのでしょうか。やはり求められるのは、人間の尊厳を基調とする非軍事の国際協力、安全保障です。戦争ではなく、外交による対話です。

いま、南西諸島への自衛隊の配備がすすんでいます。台湾有事への米軍の関与や敵基地攻撃論もいわれています。「敵基地攻撃」とは敵地攻撃のことですから、明確な侵略行為です。このような議論が現憲法の中で行なわれていること自体、無法状況であり、立憲主義に反するものとみるべきです。

このような動きに抗して、浜松でも「戦争させない、9条壊すな」と総がかり行動が取り組まれています。反戦平和への市民の行動が求められます。

 

おわりに

 

きょうは、浜松大空襲から学ぶというテーマで話してきましたが、まとめます。

第1に、戦争被害の真相を究明することが大切です。日本側と米軍の史料を照合して、生を奪われた側から歴史をみることが大切だと思います。第2に、戦争の加害性、侵略性をみることです。浜松基地から派兵された爆撃隊がアジアで何をしたのか、その歴史を明らかにすべきです。第3にその戦争の責任を明らかにし、その戦争と植民地支配、占領支配の清算を行なうということ、これが大切です。戦争被害者の尊厳回復という視点を持ち、国家による戦争を許さないという活動が、戦争を防止すると思います。空襲被害者への補償もしなければなりません。

4・30、5・19の空襲では女子動員学徒が亡くなり、毎年、学校で追悼会がもたれ、6・18には市民による空襲被害者の追悼会が開催されています。そのような被害をもたらした戦争の責任や加害の歴史を問うことが大切です。その作業がないと戦争の再発を防止できません。

浜松市内には空襲の歴史を物語る遺跡があります。遺跡を歩くことでその歴史を学ぶことができます。開戦80年にあたる2021年12月、仙台では爆撃中心点を示すプレートの設置がなされました。ベルリンの「つまずきの石」のように、アートで死者を追悼し、戦争の歴史を語り継ぐ作業も必要です。

浜松への空襲、浜松からの派兵・空襲という地域の歴史を消し去ることはできません。その歴史から学び、浜松を再び戦争の拠点としない市民の取り組みが、軍拡の時代であるからこそ、求められていると思います。

1964年、浜松市内で自衛隊の軍事パレードが行われた際、遠州教会の牧師松本美実さんは「戦争準備絶対反対」のプラカードを掲げ、抗議しました。それが浜松市憲法を守る会の平和行進の出発となりました。その行動に学びたいと思います。最後に「松本美実」という歌を紹介します。浜松市憲法を守る会の2017年の600回めの行進の際に作った歌です。

                                  (竹内)

 

(2022年6月18日、浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会、浜松・遠州教会での講演)


浜松大空襲、加害と被害の両面から考える 竹内さん講演

2022年6月19日 中日新聞

米軍撮影の映像を見せながら話す竹内康人さん=浜松市中区の遠州教会で

 浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会が十八日、浜松市中区の遠州教会であり、歴史研究者竹内康人さんが講演した。約二十人の市民らが参加。かつての軍都であり、空襲被害地の浜松を、加害と被害の両面から考えた。
 同集会は浜松市憲法を守る会が主催し、約三十年続いている。これまでは戦争被害の立場から平和を考える講座を開いてきたが、語り部の高齢化もあり、被害と加害の視点をバランスよく学ぼうと竹内さんを招いた。
 講演は、石垣りんさんの詩「弔詞」と、浜松や磐田の空襲の死亡者名簿の朗読から始まり、参加者は静かに耳を傾けた。
 同市出身の竹内さんは、浜松の戦争遺跡や空襲死者名簿、日本陸軍のアジア爆撃などを研究している。浜松での空襲について、浜松周辺で米軍が撮影した航空写真などの資料を見せながら、米軍側の視点から解説。また、浜松から中国やインド洋、東南アジアに向かって派兵してきた歴史や、現代の軍拡について話を広げた。
 竹内さんは「加害の事実を明確にするとともに、被害については一人一人の死者の思い、命を捉え直していく必要がある」と呼びかけた。また、台湾有事想定の自衛隊配備などについては「外交の話し合いでいい関係が作れないか、非軍事の安全保障が大事。先の大戦から学ばないと」と危機感をにじませた。