吉田裕「日本の戦争と空襲の記憶」を聞いて
2022年5月21日、吉田裕の講演「日本の戦争と空襲の記憶」を聞く機会があった(主催は重慶大爆撃を語り継ぐ会)。講演で印象に残ったものをあげておこう。
空襲は最初に植民地での抵抗運動の鎮圧に使われた。軍事テクノロジーの格差から植民地での使用が有効とされた。
日本海軍の一式陸上攻撃機の爆弾搭載量は800キロだが、米軍のB29は9トンを搭載できた。両者の工業力の格差を示す。
日本本土への空襲は空母からのドゥーリットル空襲、成都からの北九州攻撃があったが、44年後半からはマリアナ諸島からの出撃となった。本土空襲は44年11月から45年3月初めまでの軍事目標主義、その後の都市部への低高度からの夜間無差別絨毯爆撃、45年6月以降の中小都市への無差別爆撃と3期に分けられる。艦載機や戦闘機による空襲もあった。
日本上空はジェット気流が強く、レーダーによる爆撃の精度は低かった。精密爆撃と地域爆撃(無差別爆撃)との関係は入れ替え可能な併存関係にあったと理解する方がいい。臨機目標の拡大解釈による「投げ捨て」のような爆撃もあった。
空襲については、戦災孤児、PTSDの研究もなされるようになり、戦争の兵役負担の不平等性についても研究が進んでいる。
戦後社会では「戦争はもうこりごり」という意識が保守・革新の枠組みを超えて形成されたが、戦争の加害性や侵略性、戦争責任の問題など、戦争のきちんとした総括がなされないままだった。高度成長の中で戦争体験の風化がすすみ、政府は戦争被害受任論を主張した。空襲体験の記録する運動もおきたが、加害の問題、戦争責任の問題は先送りにされた。
1980年代に戦争の評価が問われ、1995年の村山談話で侵略と植民地支配への反省とお詫びが示されたが、21世紀に入ると侵略と自衛の両面があるとする人が増えた。東京大空襲戦災資料センターでは2007年のリニューアルで朝鮮人犠牲者の展示を入れた。
自治体の首長が文化財行政を直接担当できるようになり、戦争遺跡を観光資源として活用されるようになった。それにより、ミリタリー趣味への迎合がおき、凄惨な記憶、痛切な記憶、加害の記憶の忘却につながる可能性が起きている。
空襲被害の問題を加害の歴史と結びつけて理解することが必要であり、次の世代、戦争体験者ではない世代にどのように橋を架けるのかが差し迫った課題である。
吉田のこれらの指摘は、空襲に対する理解と分析での課題を示すものである。(t)