7・31金順吉裁判提訴30周年記念集会開催
2022年7月31日、東京で金順吉裁判提訴30周年記念集会がもたれ、裁判を支援する会の平野伸人さんが「金順吉さんとの出会いと金順吉裁判」の題で講演した。
金順吉さんは1945年に釜山から三菱重工業長崎造船所へと強制連行された。1992年7月、金さんは日本政府と三菱重工業に対して強制連行、強制労働に対する慰謝料と未払い賃金などを求めて長崎地方裁判所に提訴した。裁判所は連行と労働の強制性や未払い賃金の存在を認めたが、国家無答責や別会社を理由に、請求を棄却した。この金順吉裁判は1991年の金景錫さん日本鋼管を訴えた裁判とともに、企業の強制連行・強制労働の責任を問うものだった。
平野さんは長崎での被爆2世の教職員の会と在韓被爆者の支援の活動から話を始め、金順吉さんとの出会い、裁判の経過について話し、高校生平和大使の活動を紹介した。その話をまとめるとつぎのようになる。
平野伸人講演(概要)
私は1946年12月、長崎で生まれ、母は被爆者でした。1963年のことですが、同級生が白血病となりました。彼はやせ細っていきましたが、死の3日前の「生きたい」と訴える目は、忘れることはできません。政府は被爆2世に対して全く対策をとっていません。次世代にまで不安を抱かせる原爆とは、恐ろしいものです。
1985年の被爆40年を経て、長崎で被爆2世教職員の会が結成され、全国組織もできました。その初代会長となりました。1946年生まれで年長者だったからです。その頃、母の被爆体験を初めて聞きました。戦争によって原爆が投下されたわけですから、反核を語る前に反戦を語るべきと思います。被爆した中国人や朝鮮人、捕虜のことも考えて活動してきました。また、若者の平和活動を支援し、高校生平和大使は今年で25年目を迎えます。
50年ほど前ですが、1971年に韓国の原爆被害者を救援する市民の会が発足しました。1987年、被爆2世の会で訪韓し、韓国の被爆者の家庭を訪問しました。被爆者は放置されていました。それ以後、在韓被爆者の支援を続けてきました。訪韓は500回を超えます。
1987年の訪韓の際、韓国原爆被害者協会には約2500人が登録されていましたが、長崎の被爆者は79人でした。長崎の朝鮮人被爆者は約2万人、死亡者は約1万人とされています。もっと長崎での被爆者がいるはずと考え、その後、第16次の調査までおこないました。その結果、長崎の被爆者は200人ほどになりました。長崎からの支援活動は、生活を支援する、実態を知らせること、渡日治療を実現することなどです。
長崎被爆の在韓被爆者の特徴は、徴用工が多いこと、そのため同年代の男性が多いこと、徴用が全土にわたり被爆者同士の関係が浅いこと、爆心地4・5キロの被爆が多いこと(ケロイドが少ない)などです。長崎への朝鮮人強制連行者は三菱重工長崎造船所の6800人が最大です(政府厚生省の報告書では約6000人)。長崎は軍需産業都市であり、そのため、長崎に徴用されたというわけです。
この支援活動のなかで、韓国原爆被害者協会釜山支部で金順吉さんと出会ったのです。1991年3月、金さんは「出張手帳」と題字された徴用工の時の日記を示し、長崎造船所に連行されて平戸小屋寮に収容され、被爆したこと、歴史の真実を明らかにしてほしことを求め、その日記を私に託しました。私の父はその日記を読めるようにと書き直し、解読できるようにしてくれました。この日記は歴史の真実を語りかけるものです。91年8月、私たちは三菱、県、郵政局、法務局、社会保険事務所などと交渉したのです。
金順吉の手帳を示す平野さん
翌年の1992年7月に長崎地裁に提訴し、口頭弁論は30回以上おこないました。第1審で、事実は認定されたのですが、請求自体は国家無答責論や別会社論によって棄却されました。金順吉さんは毎回、出廷していたのですが、判決の時には、肺がんのために長崎に来ることはできませんでした。控訴審の中、金さんは亡くなり、遺族が継承しましたが、1審を覆すことはできませんでした。しかし、この裁判は、その後の在外被爆者裁判に大きな影響を与えました。被爆した原因は、強制連行にあるのですから、被爆問題の根本を問うという裁判でした。
自社連立政権の時ですが、菅直人さんが厚生大臣となり、1996年8月、長崎市を訪問し、原爆病院で被爆者を見舞いました。その帰り、私たちは金さんの厚生年金の脱退手当金の支給を求め、直訴したのです。菅さんは金順吉さんの問題は承知しているといい、書状を受け取りました。支給金額は35円ですが、同年10月末に、支払われることになりました。「日韓請求権協定で解決済み」といわれている問題に風穴をあけたのです。
いまは平和公園となっていますが、そこにはかつて長崎刑務所浦上支所がありました。在所者全員が即死しました。そこには中国人32人、朝鮮人13人もいました。そのなかには日本による強制連行に抵抗した人がいました。平和公園に中国人の追悼碑を建設する活動もしました。
いまだ、徴用工の問題は解決していません。在韓被爆者も存在します。被爆地として認められてはいないため被爆者として認定されない人もいます。今後も、多くの問題を解決するために活動を進めていきたいと考えています。
平野さんの講演は、在韓被爆者支援の活動の中で金順吉さんと出会ったこと、そこでの信頼関係の中で手帳を託されたこと、その被爆の根源である強制連行・強制労働の責任を問う裁判闘争を行ったこと、その裁判では事実認定があり、その後の活動の力となったことを示すものだった。
2021年、長崎市内に新たに中国人連行被害者追悼碑、2022年には、韓国人被爆者追悼碑、連合軍捕虜追悼碑などが建てられた。歴史の事実は、朝鮮人強制労働はなかったという歴史否定論の宣伝を許さない。歴史を戦争被害者の視点でとらえ直すこと、歴史否定論に立つ政治を変え、被害者の尊厳を回復する歴史観を確立すること、今回の集会はその闘いの出立の歴史を学ぶ場だった。
追記
2022年4月17日、広島で韓国の原爆被爆者を救援する市民の会結成50周年記念集会がもたれた。集会では元市長の平岡敬さんが記者の頃、1970年代の支援運動を証言し、東京、広島、長崎のメンバーがこの間の活動を報告した。そして、過去の補償、現在の保障をふまえての「未来の保証」の向けての活動を誓った。その席で、平野さんは高校生たちを紹介した。毎年、3月に高校生が訪韓し、在韓被爆者と対面していることも話した。若い世代の登壇がよかった。
書籍紹介、田賀農謙龍『高校生平和大使に至る道 被爆2世平野伸人の半生』(2021年)に、この間の平野さんの活動が紹介されている。金順吉の裁判を含め在外被爆者の裁判については、平野編『海の向こうの被爆者たち』(2009年)に詳しく記されている。原爆被爆者を救援する市民の会結成の起点となった孫振斗裁判については、中島竜美編著『朝鮮人被爆者孫振斗裁判の記録』がある。
(竹内)