佐渡鉱山・朝鮮人強制労働Q&A                              

 2022年1月末、日本政府は「佐渡島の金山」をユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産候補として推薦すると表明しました。当初、韓国側の強制労働を巡る批判から見送りを検討していましたが、自民党内の国家主義集団「保守団結の会」などの圧力を受け、推薦に転じました。

国家主義者は「国家の名誉に関わる事態」などと語り、世界遺産登録を「歴史戦」と位置づけ、戦時に強制労働はなかったと喧伝していますが、朝鮮人の強制労働はなかったと歴史は否定できるのでしょうか。

1「佐渡金山」はどのような鉱山ですか。

歴史全体をみるならば、「佐渡金山」ではなく、佐渡鉱山と呼ぶべきと思います。佐渡の相川での採掘は17世紀初頭とされ、鉱山は江戸幕府の直轄とされました。

明治政府は1869年に佐渡鉱山を官営とし、西欧技術を導入して経営をすすめました。1896年、佐渡鉱山は生野鉱山、大阪製錬所と共に三菱合資会社の所有となりました。その後、佐渡鉱山は三菱鉱業の経営となり、日本最大の金銀山であることから、三菱財閥に多くの利益をもたらしました。

戦時中には朝鮮人を動員し、1943年からは銅の採掘を主としました。戦後、三菱鉱業の金属部門は太平鉱業となり、さらに三菱金属鉱業から三菱マテリアルへと名称を変えました。

戦中の乱掘の影響や金の品位の低下により、佐渡鉱山は縮小され、三菱の子会社、佐渡金山は1989年に操業を停止しました。佐渡鉱山の跡は「史跡佐渡金山」とされ三菱マテリアルの子会社ゴールデン佐渡が経営しています。

佐渡での400年ほどの採掘により、金78トン、銀2330トンを産出したといいます。

2 朝鮮人はどれくらい強制動員されたのですか

 強制動員期の1943年6月に示された佐渡鉱山の「半島労務管理ニ付テ」によれば、1940年2月から42年3月までの2年間で、忠清南道の論山・扶余・公州・燕岐・青陽などから約1000人を連行しています。

動員された朝鮮人は、山之神の社宅、第一、第三、第四相愛寮などに収容されました。

43年6月までに150人ほどが逃亡しています。送還や帰国を合わせると42%が現場を去っています。佐渡には連行された朝鮮人に同情し、船で逃亡を助ける人もいたのです。

佐渡鉱山への動員はその後も続くことになります。

 平井栄一の「佐渡鉱山史」(佐渡鉱業所、1950年)は、「半島労務管理ニ付テ」と同様の数値をあげ、さらに1944年・45年度に朝鮮人514人を動員したとします。

 佐渡鉱山への朝鮮人動員数は1500人を超えるのです。

初期の動員者は逃亡や帰国によって減少しました。生産態勢を維持するには44年、45年度に新たな動員が必要でした。韓国での真相調査から、この時期、忠清北道の清原、全羅南道の珍島、慶尚北道の蔚珍からの動員がわかります。

1945年には各地で地下施設が建設されますが、佐渡鉱山からも地下施設工事のために埼玉に189人、福島に219人の朝鮮人が派遣されました。そのため8・15解放時に佐渡の現場に残っていた朝鮮人は244人でした。解放後、派遣された人びとが佐渡に戻り、朝鮮人の現在員数は570人ほどになりました。 

3 動員された朝鮮人はどのように管理されたのですか

佐渡鉱山への朝鮮人動員は政府の労務動員計画によるものであり、「産業戦士」としての動員でした。動員者は警察と企業により監視されました。職場を移動する自由は奪われ、「決死増産」の声の下、生命を賭けた労働が強制されたのです。

「半島労務管理ニ付テ」には、政府方針により「内鮮無差別」とするが、「民族性」により、「常ニ可成リ引締メテ行ク」と記されています。日本人としての「訓育」をし、作業能率をあげるとも記されています。朝鮮人を日本人化させ、増産態勢に組み込ませるが、朝鮮人であるから常に強く引き締めるというのです。これは民族差別によって統制し、強制したということです。

待遇については、与えるものは与え「締メル所ハ締メル」とし、勤務状況や性行が不良の者には「相当厳重ナル態度」で臨むとしています。これは暴力をともなう処罰によって管理したことを示すものです。

動員された朝鮮人は坑内労働に集中的に投入されました。現場では増産が強要され、労務管理では暴力があり、強制貯金によっても拘束されました。自由な移動は禁止され、逃亡すれば、指名手配され、捜査対象となり、逮捕され、処罰されました。

強制労働とは、処罰の脅威の下に労働を強要され、自由意志によらないすべての労務をいいます。佐渡鉱山に動員されての労働は強制労働だったのです。

4 労務係の手記にはどのような記述がありますか。

残された労務係の手記には、「募集」に際し、募集人、募集希望地域、雇用期間、職種などを書いて提出した、希望地域での割当を得るために、総督府・道庁・郡庁関係者に「外交戦術」で接したとあります。

募集の方法については、面の係、警察方面への「外交」をおこない、官庁斡旋により、郡庁の労務係が面事務所の労務係を督促して人員を集め、警察が思想などの身元調査をおこない、渡航させたとしています。

「外交」、つまり接待によって有利な「募集」をすすめたのです。それにより、第一回めの動員では、佐渡鉱山は忠清南道論山郡での動員割当の許可を受け、現地の行政・警察の協力をえて、光石面などで集団動員をおこない、100人を駆り集めたのです。そして鉄道局釜山営業所に特別列車の用意を依頼したのです。

このように「募集」は、総動員体制下での政府の動員計画によるものであり、自由な労働契約ではなかったのです。

この手記には、「一方稼働の悪い連中に弾圧の政策を取り、勤労課に連れ来り、なぐるける。はたでは見て居れない暴力でした」とあります。また、「弾圧に依る稼働と食事に対する不満」は、ある時には10数人一団となって逃亡することになったとしています。両津や鷲崎などから機帆船で逃走するため、船着き場に見張りを置いて警戒しました。

さらに「彼等にすれば強制労働をしいられ、一年の募集が数年に延長され、半ば自暴自棄になって居た事は疑う余地のない事実だと思います」と記しています。

そして、島外脱出の手引きをする友人の名前などは「如何なる弾圧にも遂に口を割らず」と記し、もっとも信頼していた家族持ちの班長が家族を友人に頼んで逃走したことにも言及しています。

このように、労務係の手記からも、暴力による労働の強制や労働期間延長の強制により、自由を求めて、逃亡が起きていたことがわかります。

5 動員された朝鮮人は抵抗しましたか

 1940年4月、論山から同年2月に動員された朝鮮人が、賃金が応募時の条件と異なるとし、賃金値上げを求めてストライキを起こしました。

 4月10日の業務終了後、賃金が支払われたのですが。その額は朝鮮で道庁の内務課長や面職員が示した待遇条件とは劣るものでした。11日、97人全員が就労を拒否し、坑内夫の日本人労働者199人も坑内での就労を拒否しました。

12日には朝鮮人41人が坑口に連れていかれましたが、日本人労働者116人が入坑を拒否していました。朝鮮と日本の労働者は気勢を上げ、集団行動をしました。これに対し、警察が介入し、日本人2人、朝鮮人3人を検束しました。

警察側は鉱山側にも待遇改善を求め、鉱山側はその実現を検討しました。それにより、13日、朝鮮人は就労しました。警察に首謀者とみなされた尹起炳、洪寿鳳、林啓澤ら3人は本籍地の論山に送還されました。

鉱山側はこの争議の原因として、言語が通じないことからの「誤解」、「智能理解の程度が想像以上に低き為」に意思疎通が欠けたこと、募集現地の郡面関係者が坑内作業の内容の認識に欠け、労働条件への多少の「誤解」があったこと、2・3の「不良分子」の煽動に乗じて「半島人特有の狡猾性付和雷同性」を現わしたことをあげています。そして「不良労務者」の「手綱」を「ゆるめざる管理」が必要としています。

 このような表現は、鉱山側の朝鮮人に対する差別と偏見を示すものです。人間ではなく、牛馬のようにみていたのです。

6 佐渡から逃亡の事例はありますか

政府の労務動員計画で集団移入させられた朝鮮人は、警察と企業による監視の下で労働を強いられました。

樺太庁警察部の「警察公報」(551号、1941年12月)には、「団体移住朝鮮人労働者逃走手配」の項があり、同年11月に三菱佐渡鉱業所から逃亡した4人の朝鮮人の記事があります。そこに、月山玉同(趙玉同)、忠清南道論山郡光石面沙月里、丈五尺四寸、色白・眉大・丸刈、鎬背広・ゴム靴などと記されています。サハリンにまで指名手配されたのです。

1941年12月に労務調整令が公布され、転職や退職は禁止されました。調整令指定の職場からの逃走は労務調整令違反とされ、処罰されたのです。

1943年1月の「特高月報」の記事には、佐渡鉱山の朝鮮人労務者四人が、自由労務者に比べて賃金が低いことを理由に逃走を企画、朝鮮人古物商と2人の日本人漁夫に依頼し、発動機付漁船で逃走しようとしたが発見とあります。

関係者は検挙、送局され、1月11日に逃走朝鮮人二人に罰金40円の判決が出されました。あとの2人は再び逃走し、逃走の支援者は証拠不十分で不起訴処分とされました。

7 動員された朝鮮人の証言はありますか

兪鳳喆さんは1940年頃、忠清南道論山郡から動員されました。第三相愛寮の杉本が「募集」に来ました。学校の校庭に集合させられ、100人が論山から釜山経由で佐渡に連行されました。第三寮に入れられたのですが、兄の病気を理由にして帰国しました。

鄭炳浩さんは、全羅北道益山郡から動員されました。区長から出頭命令を受け、同じ面から10人が連行されました。削岩の現場に配置され、44年秋に、落盤で足を負傷し、3か月入院しました。帰国してみると、娘は死亡し、妻は行方不明になっていました。

申泰喆さんは1941年3月頃、全羅北道の益山から18歳の時に動員されました。麗水を出港し、日本の港を経て、新潟県佐渡島に到着、坑内で採掘しました。賃金は小遣い程度を受け取りました。一番辛かったのは食事の量が少なく、空腹で一日一日が耐え難く辛かったことです。労務者として2年という契約でしたが、戦争中という理由で2年延長を強要されました。45年12月に帰還できました。

このほかにも証言があります。戦後、塵肺で苦しんだ人が多いことが特徴です。若くして亡くなる、働けずに治療費がかさみ、貧困になるという状況だったのです。韓国での佐渡鉱山への強制動員の被害認定者は140人以上います。

8 相愛寮煙草台帳の朝鮮人名簿とは何ですか

これは朝鮮人を収容した相愛寮の煙草配給に関する史料です。佐渡鉱山へと煙草を配給していた富田煙草店に所蔵されていたものです。佐渡鉱山の相愛寮からの人員名簿や異動届が収録されています。第一、第三、第四相愛寮分があります。

第一相愛寮の簿冊からは、1944年10月末の第一相愛寮の朝鮮人117人の氏名・生年月日がわかります。また、45年1月の徴用により慶北蔚珍郡から佐渡鉱山に連行された徴用者100人の居住地・本籍地・生年月日・氏名がわかります。45年7月からの福島や埼玉への派遣の準備や派遣先からの帰寮の状況も知ることができます。

この名簿と他の史料から佐渡に動員された朝鮮人600人ほどの名簿を作成しました。

9 強制労働否定論の特徴は何ですか

強制労働否定論は、朝鮮人強制労働はプロパガンダである、戦時朝鮮人労働は強制労働ではない、韓国大法院徴用工判決は偏った研究蓄積によるというものです。朝鮮の日本統治は植民地支配ではないとし、動員朝鮮人は合法的な戦時労働者であるとみなすのです。

過去の植民地支配とその下で動員を不法と認めない立場なのです。これでは韓国との友好関係は作れないでしょう。

 かれらはILO(国際労働機関)の強制労働に関する条約には反しないと言っています。しかし、1999年にILOの専門家委員会は、戦時の朝鮮や中国からの動員を「悲惨な条件での、日本の民間企業のための大規模な労働者徴用は、この強制労働条約違反であった」と認定しています。

国際社会はこの動員が国際法に反する行為であるとし、日本政府が責任をとることを求めてきたのです。

10 今後の課題をあげてください

現在の動きを歴史修正主義とみなすのではなく、歴史否定論としてとらえ、克服すべきです。戦争に参加するのではなく、殺人の誤りを示し、戦争そのものを止めさせるという活動が重要であるように、「歴史戦」に参加するのではなく、その偽りを示し、「歴史戦」自体を終わらせることが大切です。

 強制動員された人々で、動員現場で亡くなった人もいます。帰国後も肺の中に沈んだ鉱石がうずき、咳に悩む日々が続きました。その苦しみ、悩み、その家族の苦しみ、悲しみに思いを馳せるべきです。

韓国では解放60年後、21世紀に入ってやっと、過去清算の動きのなかで、被害の申告ができたのです。その被害の救済が求められます。

佐渡鉱山への強制動員被害者として認定されたのは140人ほどです。1500人以上存在する動員者の1割ほどの数です。歴史を学ぶとは、その未解明の部分を照射することです。植民地主義の克服をめざすことでもあるのです。

 佐渡鉱山を世界遺産としたいならば、鉱山都市としての歴史全体を示し、歴史否定論とは手を切るべきです。強制労働否定論を克服し、朝鮮人強制労働の歴史事実を認知することによって、世界遺産への道が開くと考えます。強制労働を認めることによって、佐渡鉱山の評価は高まるとみるべきでしょう。  (竹)