2022年10月06日 笹の墓標展示館巡回展・東京 築地本願寺での報告
北海道・朝鮮人強制連行 資料公開・遺骨返還・賠償基金設立
〇朝鮮人強制連行・強制労働
日本は中国からアジア太平洋地域へと戦争を拡大し、総力戦体制をとって植民地から民衆を動員しました。動員は「皇民化」政策とともにすすめられ、日本の侵略戦争のために朝鮮人が労務や軍務で動員されたのです。これらの動員は日本政府の労務動員計画や軍の命令によっておこなわれましたが、詐欺や暴力をともなう強制的な連行でした。労務動員計画により、企業は必要な人員を政府に申請して許可を受け、朝鮮現地で連行にかかわりました。労務動員は1939年から45年にかけて「募集」「官斡旋」「徴用」などの名でおこなわれましたが、移動の自由は制限され、現場での労働を強制されました。軍人や軍属による動員もおこなわれ、軍が必要とした労働者は軍属とされ、基地建設や輸送などの現場で労働を強いられました。
連行された朝鮮人の数は、労務で80万人、軍務で36万人以上とみられ、連行数は100万人を超えます。日本での強制労働の現場は1500か所を超えるでしょう。また、朝鮮国内での強制動員もおこなわれました。軍需生産の現場で「現員徴用」された人々もいます。
強制連行者の数値としては、内務省警保局の「労務動員関係朝鮮人移住状況調」(1943年末)では約49万3000人を動員したとし、同「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」(1944年度予定)では29万人の連行を予定しています。45年度の動員を勘案すれば、動員数は約80万人となります。「大蔵省管理局「朝鮮人労務者対日本動員数調」では、日本へと労務のために連行された朝鮮人を72万4787人とし、炭鉱に34万2620人、鉱山に6万7350人、土建に10万8644人、工場他に20万6073人が振り分けられたとします。
これ以外にも軍需徴用(現員徴用)された人々がいました。軍人軍属では、陸軍軍人軍属では約26万人、海軍軍人軍属では11万人ほどが動員されました。また、軍隊や事業所関係で性の奴隷とされた女性もいました。
〇北海道・北方への朝鮮人強制連行
「労務動員関係朝鮮人移住状況調」(1943年末)と「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」(1944年度予定)には道府県別の動員数も記されています。
それによれば、北海道へは1939年度に1万5830人、40年度に1万7215人、41年度に1万7663人、42年度に3万2378人、43年度に3万8515人の計12万1601人が動員され、44年度の動員予定数は6万3265人です。この統計から、北海道への動員数を約18万5000人と示すことができます。これ以外に、軍務で動員された人々もいます。また、千島など北方への動員者もいますから、労務・軍務での動員数は約20万人を超えるものになります。
「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」(1944年度予定)には業種別の動員予定数が示されています。北海道についてみれば、石炭山に3万161人、金属山に1万1770人、土木建築に1万9127人、工場その他に2207人となっています。動員者の半数近くが炭鉱への動員だったのです。ですから、炭鉱に10万人以上が動員され、ほかに鉱山、工場、土建、軍工事現場などに連行されたというわけです。北海道での強制労働の現場は200か所を超えました。『笹の墓標』で描かれている雨竜発電工事、陸軍浅茅野飛行場工事、三井鉱山芦別炭鉱は、そのような強制連行・強制労働の現場です。
北海道や北方へと動員され、亡くなった朝鮮人の名前は3700人ほどが判明しています。そのなかには雨竜や浅茅野、芦別での死者もいます。
ここに強制労働現場の地図を載せましたが、北海道による朝鮮人強制連行実態調査報告書である『北海道と朝鮮人労働者』(1999年)には、今後の調査の手引きとなる詳細な一覧表があります。
(『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 増補改訂版』から)
〇強制連行調査の動き
日本では1960年代から朝鮮人強制連行の調査や研究がおこなわれるようになりました。北海道では民衆史運動のなかで朝鮮人強制連行の調査がおこなわれました。1990年、全国の調査グループが集まり、朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会が各地で開催されるようになりました。また、戦後補償裁判が起こされ、強制連行被害への賠償や強制連行の企業責任などが問われるようになりました。
このような動きのなかで、空知の民衆史講座の運動は東アジア共同ワークショップの活動につながっていきました。また、2002年、札幌別院で連行期の朝鮮人遺骨が発見されたことから、強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが結成され、現地調査や遺骨返還などの活動にとりくみました。
韓国では強制連行被害者団体の要求によって、2004年には政府機関として日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設立されました。委員会は20万人に及ぶ被害申告を受け、その被害の認定、調査報告書の発行、海外での遺骨調査などをすすめました。この動きを受け、日本では市民団体・強制動員真相究明ネットワークが結成されました。
韓国の真相糾明委員会は2010年に対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会へと形を変え、引き続いて被害認定や支援金の支給をおこない、報告書の発行や強制動員現存企業のリストを作成しました。
〇浅茅野飛行場跡の遺骨
(『調査・朝鮮人強制労働③』から)
2010年5月、陸軍浅茅野第1飛行場跡近くの旧共同墓地で、強制連行犠牲者の遺骨発掘作業(第3次)がおこなわれました。浅茅野第1飛行場の建設現場は1000人を超える朝鮮人が強制連行され、暴行や病気によって多くの死者が出たところです。
発掘現場には3体が重ねられて埋められている穴がありました。発掘により、地表に骨盤や足、背骨、肋骨が現れ、上から焼かれたため、その中央部は黒ずんでいました。3体の遺骨は65年をこえる歳月を経るなかで圧縮され、一部は土になっていました。
説明によれば、上の1体は脊髄、肋骨、骨盤、大腿骨など、その下の1体は頭蓋と脊椎、骨盤、仙骨、大腿骨などが残り、一番下の1体は脊髄、骨盤などの腰部が残っていました。遺骨は曲げられ、上の遺骨は下向き、その下は上向き、一番下は下向きにされ、埋められていました。頭部が残っているのは一体だけでしたが、その頭部は穴に入れるために押し曲げられたためか、頸椎が折れていました。通常の埋葬方法ではなく、凄惨なやり方であり、このような死体の扱いは人間の尊厳をふみにじるものとのことでした。
浅茅野の現場で労働した朝鮮人の証言には、膝を曲げ、しゃがんだ姿勢で箱に入れ、穴に埋めた、病気になった朝鮮人3~4人を穴の中に投げ込んで捨てていたという証言がありましたが、この3体の遺骨の状態は、そのような証言と一致するものでした。
浅茅野での発掘があった5月、熊笹を揺らして強く冷たい風がオホーツクの海へと吹き抜けていました。森の中では陽の光もまばらになります。そのなかでみた重ねられた3体の遺骨とその発掘作業は、心に深く残るものでした。それは、歴史がどのような立場で、どのような方向で記されていくべきかを問いかけるものでした。
強制連行・強制労働の歴史はいまも清算されていません。現在では、その歴史を歪曲し、否定する動きが強まっています。そのようななか、65年余りの歳月を経て、強制労働の現場で遺骨が姿をあらわしました。遺骨の側から、一つひとつの生命の視点で歴史を語り伝えていくべきでしょう。
〇資料公開・遺骨返還・賠償基金設立を
2012年5月、韓国の大法院が三菱と日本製鉄による強制連行被害者に対する賠償を認める判決を出しました。その判決では、日本の支配を不法な強制占領とし、強制連行は人道に反する不法な行為としました。原告の損害賠償請求権は消滅してはいないとし、時効や別会社とする抗弁を否定したのです。2013年7月、高裁に差し戻された日本製鉄と三菱重工業の裁判の判決が出され、連行被害者への賠償を命じました。そして、2018年、韓国大法院で勝訴し、企業に対する強制動員慰謝料請求権を確定させました。運動の継続がついに裁判での勝訴へと結びついたのです。
強制連行については、連行史料の発掘、郵便貯金や未払い金関係資料の公表、遺骨の返還、被害者への賠償など多くの問題が未解決です。この問題の解決に向けて、日本政府による調査と関係資料の公表が求められます。日本政府は植民地支配と動員での強制性を認識すべきです。強制連行被害者の損害賠償の権利が認められるようになった今日、強制連行被害の包括的な解決にむけて、日本政府や連行に関わった企業が賠償のための財団や基金を作ることも必要です。その実現のためには、戦争と植民地支配の責任を問う民衆の側の運動が求められています。
『笹の墓標』には、真実を求め、国境を越え、共同して発掘作業をすすめてきた民衆の運動の歴史が描かれています。その15年の情熱と作業が、全5章、9時間にまとめられています。その映像は、消費される類のものではなく、戦時の強制労働、人間の尊厳、歴史への責任についての理解を深めるものであり、新たな生存の権利の確立に向かう力を持っています。
真実の探求が、遺骨の発見につながりました。その歴史の事実をもって手をつなぐことから、東アジアの平和がはじまります。この作業の未来を信じたいと思います。
(「ドキュメンタリー映画「笹の墓標」パンフレット」2014年寄稿記事に加筆 2022年10月)