佐渡鉱山に強制動員された朝鮮人の遺族調査

                              

2023年4月上旬、韓国に行き、佐渡鉱山に強制動員された朝鮮人の遺族を訪ねた。韓国の民族問題研究所と強制動員真相究明ネットワークは共同調査報告書「佐渡鉱山・朝鮮人強制労働」を作成してきたが、その作業の継続である。調査企画は民族問題研究所による。

佐渡鉱山には戦時に1500人を超える朝鮮人が動員された。動員初期には1000人ほどが忠清南道の論山、扶余、青陽、燕岐、公州などから動員され、その周辺の全羅北道の益山、忠清北道の清州からも動員がなされた。とくに論山からの動員は1940年2月の第1次動員での100人をはじめ400人を超える規模となった。

 今回の調査では論山、青陽、益山の被害者遺族を訪問した。1990年代の新潟県の市民団体による調査では30人ほどが、韓国の強制動員被害真相糾明委員会の活動では150人ほどの動員被害者が確認されている。そのなかから解放後も故郷に居住した被害者で、遺族が存在する人びとを訪問した。ソウルから論山までは約150キロ、益山までは約170キロである。

 

⑴   益山 申泰喆さんの遺族

 強制動員被害の申告と調査で、申泰喆さん(益山郡龍安面出身)は詳細に動員の状況を話し、強制動員被害真相糾明委員会に写真を1枚寄贈していた。解放後も益山で農業に従事していることも話している。おそらく遺族が現地に居住しているのではないかと考えた。

申泰喆さんの申告記録をまとめるとつぎのようになる。1941年の春、18歳のとき、動員から逃げて、家の納戸に隠れていた。しかし、捕まってしまい、列車で護送され、麗水に到着、夜に出発し、日本に送られた。トラックで佐渡鉱山に護送された。ダイナマイトや手作業で鉱物を採掘するという辛い仕事をした。殴打され、耐えられずに自殺する人、酷い労働で疲れ切って倒れる人もいた。逃亡して捕まり、過酷に殴打される人もあり、本当に悔しいことが多かった。当時、労働は3交替で8時間労働だった。日本でくれた小遣いはわずかだった。一番辛いことは飯の量が少なくて、お腹が空いて一日一日を耐えるのがきつかったことだ。労務者として2年の契約で行ったが、2年後、帰国しようとしても、その当時、戦争中だという理由で日本人たちは2年延長するよう強要した。解放になり、その年の秋に帰国の途につき、列車で移動した。戦争で多くの建物が破壊され、廃墟が目に映った。日本の船着き場に到着したのだが、帰国用の船が無く、何日か待って、やっと船に乗り、釜山港に到着 した。帰国後、過酷な生活による後遺症があり、農作業も円滑にできずに生活した。苦労しながら病魔と闘う生活である。今思い出しても、身震いする、他国で4年という地獄のような強制徴用の労務者生活だった。

民族問題研究所の事前調査で、娘の申成起さんが近くの村(龍東面大鳥里)に住んでいることがわかった。農村にある平屋の一室、春風が土のにおいを運び込む。そこに座り、申成起さんはつぎのように話した。

 父の申泰喆が住んでいた場所には、今は誰もいない。墓は共同墓地にある。祖父は淳昌から来た。父は1923年11月に生まれた。日本語が話せ、本も読めた。帰国後、結婚し、子どもが生まれ、6人(男2人、女4人)が育った。農業をする体力はあったが、肺が悪く、息苦しそうだった。他の人に手伝ってもらった。田に落ちた残米を集めて食べたりした。娘たちが日本への輸出用の絞りを作って家計を支えた。酒を飲むと鉱山の話をした。70歳を過ぎて脳卒中で倒れた。20年ほど介護されての暮らしだった。倒れた後での被害申請だったが、記憶力はよかった。父の申請を手伝った。2012年に亡くなった。

私は1952年に生まれ、1975年に結婚した。(委員会に提供した写真の)父の顔は末の娘に似ている。この写真が釜山の強制動員博物館にあることは知らなかった。弟が父の写真や族譜を処分してしまったから、他には何も残っていない。被害申請の届けを出したことは忘れていたが、来て報告してくれてありがたい。

 申成起さんはこのように語り、父が寄贈した写真を見つめ、涙をぬぐった。壁には孫達の写真が飾られていた。申泰喆さんの写真で残っているものは委員会に寄贈したものだけとなった。

申泰喆さんの命は、姿を変えて継承されている。彼の戦時での体験も消すことはできない。遺族に伝えられた記憶はわずかであっても、残された資料と証言によってその歴史は新たな形でよみがえることができる。そうすることが歴史に学び、記録する者たちの責務だろう。

 京畿道の龍仁では、この報告の佐渡集会の項で記した益山から動員された鄭雙童さんの遺族、鄭雲辰さんの話を聞くこともできた。

 

⑵   論山 金文国さんの遺族

 益山の北側が論山である。論山からは佐渡鉱山ヘと数多くが動員された。そのなかに金文国さんがいた。金文国さんは1913年に論山郡の恩津面城坪里で生まれた。農村の路地を入って行くと、金文国さんが暮らしいた場所があり、今も遺族が住んでいる。

金文国さんは佐渡に動員された後、家族を呼び寄せた。帰国後は塵肺に苦しみ、1955年に亡くなった。息子の金平純さんは1947年に生まれ、父と共に暮らした。病んで動けなくなった父は多くの借金を抱えた。金平純さんは跡を継ぎ、農業で生計を立て、借金を返済した。金平純さんは新潟の市民団体と出会い、1992年、95年と来日し、その体験を語った。来日時の資料や写真を大切に保管していた。日記も書き続けている。若い頃の父母の写真を示しながら、金平純さんはつぎのように話した。

 現在の家は建て替えたものだが、父母と共にここで暮らした。父は帰国したが、息が苦しくなって、農業ができなかった。寝たきりの状態になり、病院にも行けず、母が介護した。胸に水がたまり膨らんで息苦しそうだった。まともな対話をした記憶が無い。鉱山での生活についても詳しく聞くことはできなかった。

私は1947年生まれ、小学校1年のころ父が亡くなった。田は少しあったが、病気による借金で土地を売り、家だけが残った。生活は苦しく、子どもの頃から働いた。薪を集めに山に入ったり、糞尿を貰って畑に撒いた。1日に一食のときもあった。祖父母は父が先に亡くなったので、共同墓地に入れた。その墓の草刈りに行くのが恥ずかしかった。親のいない子の苦しみは言い尽くせない。金が無く、中学は卒業できなかった。1968年4月に軍隊に入り、江原道で軍生活を送った。その後、子ども達を貧しくさせないために朝晩と働いた。私がハウス農業などで稼いで、借金を返した。父が苦労して亡くなったことから、日本の製品は見たくなかった。

 1992年には、(新潟の市民団体の依頼で)論山の民主党が手配して佐渡と新潟で証言した。95年には新潟で証言し、東京に行き、厚労省で社会保険について要請した。記者の取材もあり、この問題は大切なものと実感した。その後、市民団体から連絡は途絶えた。佐渡鉱山を観光し、いやおうなく動員された人達の苦労は大変だったと感じた。(佐渡に動員された)兪鳳喆さんは隣に住んでいた。林道夫さんは同じ年であり、会えればうれしい。小杉邦男さんは現地を車で案内してくれた。感慨深い。もう一度行ってみたい。(この問題については)日本政府が謝罪することが必要と思う。

 このように金平純さんは父の闘病生活と戦後の生活について話し、来日した際に出会った人びとを懐かしんだ。来日した際に記したメモも残されていた。そのメモを読む金平純さんの声には、体験を語ることもできずに塵肺で苦しんだ分国さんの心が宿っているようだった。

30年前に日韓の友好を目指した真相調査と証言の活動の記憶は、論山の農村の一室に消えることなく残っていた。記憶の底にあった友好の感覚が蘇えった。

 戸籍関係書類によれば、文国さんの三女は1944年に千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷村で生まれている。家族と共に鉱山から離れ、1944年には千葉県に移動していたのだろう。その後、家族で帰国したとみられる。さまざまな資料から歴史を復元することが必要だ。

 

⑶   青陽 盧秉九さんの遺族

論山の北西には扶余があり、七甲山を越えると青陽の村々がある。青陽の村々は山に囲まれている。そこに人々が住み、農地が広がる。春には、木々が芽吹き、黄やピンクの花が咲く。田が掘り起こされ、畑にはネギが植えられる。ビニールハウスが連なり、用水の水音が響く。のどかなこの青陽からも、戦時には100人を超える人々が佐渡鉱山に連行された。

青陽邑の赤楼里の盧秉九さんは1923年生まれ、1941年に佐渡鉱山に動員された。新潟の調査団と出会い、1992年、95年と来日、佐渡で証言している。

この間の調査から、盧秉九さんの動員状況は以下のようである。1941年、役場から佐渡鉱山に行くように命じられ、青陽から釜山を経て動員された。当初、金剛塾に入れられ、毎日朝晩、皇民化教育と技術訓練をうけた。寮長が教育を担当し、言うことを聞かないと「気合いを入れる」と言われ、殴られた。職場は削岩だった。坑内墜落事故、昇降機事故、漏電事故、発破事故で死亡した人がいた。解放によって帰還した。後遺症で肺が悪く、咳がひどい。青陽から共に動員された李炳俊は坑内の事故で死亡した。

1992年の新潟の市民団体の調査の際、NHK新潟放送局が同行し、家族に囲まれた盧さん一家を撮影している(『50年目の真実 佐渡金山「強制連行」の傷あと』NHK新潟放送局1992年放映)。このような経過から盧さんの家を探すことにした。調査により、家には現在、末の子の盧安愚さんが住んでいることがわかった。家の表札にはノビョング(盧秉九)の文字が残っていた。安愚さんは次のように話した。

 私は6人きょうだいの末で1976年に生まれた。祖父も父も農業で暮らしていた。父は日本語が少しできた。(事故のためか)指の最初の部分が欠けてなかった。父は丈夫な方だったが、70代になると、肺の病がひどくなり、朝方まで咳をしていた。毎日咳をし、痰も出たので、チリ紙を持ち、筒も置いていた。朝にはごみ箱が一杯になった。母の死後、ここで暮らしていたが、体調を崩して動けなくなり、3年ほど兄たちの暮らす仁川の病院にいた。父の妹は健在で仁川で暮らしている。

村の人によれば、中学校の前に小さな店を開いていが、そこに川があり、雨の日には渡れなくなると生徒を背負って運び、溺れそうになった子を助けたこともあったという。節約して必要なものだけを使っていた。新聞も読み、じっとして居れない性格だった。寡黙に働いた。ここは盧氏一族が居住し、本家は少し上の方にある。(日本が)事実を認めないことに心が痛い、悲しい。三菱は謝罪すべきと思う。強制動員の被害申請はしたが、父は2007年に亡くなった。慰労金は申請しなかった。

 盧安愚さんは40代であり、部屋には子どもたちの写真が飾られていた。30年前の取材の事も覚えていた。父の佐渡鉱山での体験については、大変だったとしか聞いていないという。

強制動員の被害申請をしても、被害認定の書類が一通来て、慰労金が出されるだけである。報告書が作成されることもあるが、動員の実態が遺族へと知らされるわけではない。今からでも「大変だった」という歴史の内容を少しでも復元し、伝えて行くことが必要だろう。

 1995年に盧秉九さんと共に佐渡で証言したのが尹鍾洸さんである。尹鍾洸さんは青陽郡の木面新興里から佐渡鉱山に動員された。解放後、近くの安心里に家を建てて暮らした。韓式の家には今はだれも住んでいないが、「尹鍾洸」の表札が残っていた。

 遺族によれば、父は戸籍では1922年生まれだが、実際は1920年生まれ。新興面は同じ家系、尹姓の集姓村だ。尹鎬京、尹鍾甲も動員され、ともに解放後、帰ってきた。動員された人では、尹魯遠やチョンスンヒの名も聞いている。当時、新興里に土地を持ち、農業をしていた。16歳で結婚し、2年後に19歳で動員され、7年ぶりに戻ってきた。日本語が少しできた。興南の日本窒素で働いたこともあったようだ。

帰国後、健康状態は良くなかった。36歳の時に、ここに引っ越してきた。学校の近くであり、文具の店を出し、たばこも売った。朝4時に起きて農作業をした。亡くなる2年前まで仕事をしていた。42歳の頃、クキ茶の商売に出かけたこともあった。パジチョゴリが好きで、外出時によく着た。ものを分かち合う心のある人だった。

 被害申告からはつぎのような動員状況がわかる。

1941年、家に親、新婚の妻を残して動員された。青陽郡庁に集められ、汽車で釜山に行き、連絡船に乗せられて下関へ行った。そこから陸路で新潟に行き、船で佐渡に動員された。最初は金剛塾で軍隊式の訓練を受けた。仕事は削岩した岩を集める、トロッコで運搬するというものだった。ひどい埃の中で作業させられ、若いころは身体が丈夫だったが、年を取るに従い、咳や痰が多くなった。当時は米がなくてソバが出たが、口に合わず、空腹だった。最初2年という約束だったが、何の説明もなく契約が更新された。休みをとることも自由ではなかった。解放後、釜山港を経て帰還した。

 

⑷   遺族調査を終えて

 韓国大法院が日本の植民地支配での戦時の強制動員を反人道的不法行為と確定したのは2018年のことである。この判決は企業に対する「強制動員慰謝料請求権」を認定するものだった。強制動員は1939年から45年にかけておこなわれた、日本への労務動員は80万人に達するが、動員自体を不法と認定することに80年近い歳月を要したことになる。

しかし、日本政府はこの判決を「国際法違反」とみなして批難した。戦時の強制動員による労働を強制労働として認知しないのである。2023年に入ると、その認識を容認するように韓国政府は「肩代わり策」を示した。それはともに大法院判決を無視する行為であり、強制動員被害者の尊厳の回復に反するものである。

 長い間、強制動員被害者の尊厳回復の訴えはあったが、それを社会化することができなかった。判決が確定しても、政府がその判決を否定する行為をしている。政府は強制動員被害を反人道的不法行為による被害として認めないのである。

 解放後の米ソ対立とそれに伴う分断は、韓国社会を戦時体制に組み込んだ。それは何時でも戦争に反応できるような社会体制であり、その体制は戦争動員の被害者の尊厳回復をすすめるのものではなかった。逆に戦争動員への積極的呼応をもとめ、人権侵害を正当化するものであり、国家暴力による被害を被害として認知させないものであった。

このような社会情勢の中で、帰還した動員者たちは後遺症に苦しみながら、日々の生活に追われた。塵肺のために早くに亡くなった人もいる。家族による介護の苦労もあった。戦争動員被害は受忍を強いられた。動員された体験を詳細に語る機会はわずかだった。遺族の多くが被害実態を知らないまま、歳月が流れた。

分断と戦時状態の継続は、戦争動員被害を被害として認識して社会的に共有すること、戦争動員を国家暴力としてとらえて克服することなどを阻んできたといえよう。戦争動員という被害、被害を認識させないという被害の継続、戦争動員を反人道的不法行為とする認定を否定することでの被害回復の拒否、このように被害は三つに重なりあっている。

この現状をふまえ、戦争動員の被害実態を明らかにし、被害者遺族の歴史を含めて戦争被害が隠蔽された歴史を示し、戦争動員被害を被害として認識しえる道が示されねばならない。その歴史認識が、強制労働の歴史を否定する者、強制労働の法的責任を否定する者たちを止める力になる。戦争被害者の尊厳の回復は新たな戦争被害を許さないためにも、植民地主義を克服するためにも必要である。

 春、草木が芽吹き、鮮やかな色彩を与える。雨後に残る雲が山々にかかる。陽光が空気を揺らす。その中、動員された人びとが生きてきた現場を歩き、被害者遺族と対話した。佐渡への動員者名簿や動員地図を示しながら、論山や青陽をはじめ、地域ごとの強制動員の実態をまとめていく必要を感じた。それは権力の側の歴史ではなく、動員された人々や遺族の側から歴史の像を描くということである。強制動員の歴史は大地の記憶となり、地下の水脈となっている。その端緒を探れば民衆の歴史に触れることができる。それに拠って歴史を復元する作業を続けたい。                                              (竹内 2023年5月)