2023年強制動員被害者遺族調査と佐渡証言集会

                     

1 強制動員被害者遺族の証言・佐渡集会

 2023421日、全羅北道の益山から佐渡鉱山に強制動員された鄭雙童さんの遺族鄭雲辰さんが妻の金三汝さんと共に佐渡鉱山跡地を訪問した。22日には佐渡市相川で開催された強制動員の証言と交流の集いに参加した。韓国の民族問題研究所により今回の訪問計画が立てられ、真相究明ネットの紹介で佐渡市民が実行委員会をつくり、集会が用意された。

⑴ 相愛寮煙草台帳の閲覧と第4相愛寮跡地での追悼会

■相愛寮煙草台帳の閲覧

集会前日の21日の午前、鄭雲辰さんは佐渡博物館を訪問し、相愛寮煙草配給台帳を閲覧した。佐渡博物館では館長と佐渡市教育委員会社会教育課長が対応した。鄭雲辰さんは父鄭雙童の写真を持参し、原本の閲覧を求めた。折衝の末、博物館は相愛寮煙草配給台帳の原本を提示した。第4相愛寮の煙草配給台帳には194410月と458月時点の収容者の名簿があり、そこに「東本﨎童」の文字が記されていた。

鄭雲辰さんはこれまで父の動員資料を探してきたが、見つけることができなかった。韓国での強制動員被害の申請は同郷の村人の証言によるものであり、父の動員事実を記した資料に佐渡でやっと出会うことができた。

雲辰さんは父の名前を見つめ、その労働と生活に思いを馳せ、つぎのように話した。「父が連行された足跡を探してきたが見つからず苦労しました。韓国からきて、ここで確認できて、うれしい。協力に感謝します。胸が詰まる思いです。強制動員された遺族は他にもたくさんいます。これからもその人たちが確認できることを願います。父と一緒にこられなかったことが残念です。佐渡では空腹での労働で苦労したと話していました。」

その言葉は、被害者遺族の親族への思いの深さを示すものであり、真相の探求を呼びかけるものだった。

■第4相愛寮跡地での追悼会

同日午後、鄭雲辰さんは佐渡鉱山の近代コース(道遊坑内)を歩き、鉱山近くにあった第4相愛寮の跡地などを訪問した。鄭雲辰さんは坑内で感想を問われると、一瞬、涙で言葉に詰まり、横を向いた。妻が抱きしめ、背中をなでる。そこで「胸がいっぱいです。くらい監獄のようなところで働き、十分に食べることもできなかった。胸が痛い」と話した。世界遺産登録について問われると、「江戸のことだけでなく、強制動員の歴史も隠すことなく真相を明らかにしてほしい」と語った。

 鉱山の茶屋の近くの諏訪町には朝鮮人が収容された第3相愛寮があった。その近くの万照寺には近代に入っての部屋(飯場)制度の「坑夫人夫」の供養墓があるが、この寺の坂を上ると、江戸期の無宿人の追悼墓がある。その墓に向かう途中の次助町に雲辰さんの父が収容された第4相愛寮があった。次助町は鉱山労働者が居住した町であるが、鉱山から急な坂を上がった場所である。仕事で疲れていれば、あるいは負傷していれば、登るにはきつい坂である。坂を上がるなか、体調の優れない雲辰さんは胸を押さえながら、父が動員されての労働の日々を思いやった。

4相愛寮跡地では追悼の会をもった。雲辰さんが寮跡近くの鎮魂の「普明の鐘」を突き、訪問団の代表者が追悼と真相究明への思いを語った。追悼歌「徴用者アリラン」が歌われると、雲辰さんはその歌詞に関心を持ち、その場で歌詞を朗読した。

この日、「史跡佐渡金山」を経営するゴールデン佐渡で「佐渡鉱山史」(平井栄一)を閲覧した。また、強制動員真相究明ネットワークと民族問題研究所の名で「半島労務者名簿」の公開を求める要請書を出した。この「半島労務者名簿」は新潟県史編纂事業の中で佐渡金山株式会社の資料から写真撮影されたものであり、そのマイクロフイルムが新潟県立文書館に所蔵されている。しかし、非公開である。ゴールデン佐渡の社長に問い合わせたところ、「原本がないものは公開しない」とのことだった。

 

⑵ 韓国・強制動員被害者遺族の証言と交流の集い

 422日、相川開発総合センターで、韓国・強制動員被害者遺族の証言と交流の集いがもたれた。集会には80人が参加した。

 はじめに現地実行委員会代表の永田治人さんが、被害者遺族の証言を聞く会を開催する趣旨を話し、佐渡鉱山の世界遺産登録において戦時の朝鮮人の強制労働を位置づけることの大切さを語った。

■強制動員遺族調査の現状

集会では、金丞垠さん(民族問題研究所)が韓国の強制動員被害者支援財団の強制動員被害遺族調査を研究所が受けて調査した経過を報告した。強制動員生存者は現時点で1200人ほどとなった。2020年から3年間で約140人の生存者・遺族の証言を収集した。動員された人の多くが貧しい農民だった。動員の証言では、飢え、自由のはく奪、殴打による屈辱、空襲の恐怖、あきらめと虚無などが示された。証言の映像記録も作成している。2022年には佐渡鉱山の被害者1人・遺族6人の証言をえた。2023年には3月の事前調査と4月の現地調査で計5人の遺族と面談した。それにより申泰喆(益山)、金文国(論山)、盧秉九(青陽)らの遺族の証言をとれた。今後の課題は、隠蔽されてきた強制動員の歴史を明らかにし、被害事実を被害者遺族が知らないという現実を変えていくこと、佐渡鉱山の記録と被害者遺族が出会うことで動員の事実を確認すること、強制労働の被害は被害者の生涯全体を貫き、家族の生活まで傷つけたものであるから、それを地域の記憶とすることなどである。

竹内(究明ネットワーク)は、佐渡鉱山への強制動員の概要、佐渡鉱山の煙草配給台帳の内容を話し、第4相愛寮には益山出身者が収容され、名簿に「東本﨎童」の名があること、遺族が動員期の鄭雙童氏の写真を所持していることを示した。また、動員者の多かった忠清南道の風景、1990年代の佐渡と韓国での調査活動と当時の証言の様子、金文国さんの遺族の2023年現在の姿、佐渡に動員された朝鮮人名簿である「半島労務者名簿」のマイクロ写真が県立文書館に存在することなどを紹介した。

■鄭雲辰さんの証言


つづいて被害者遺族の鄭雲辰さんが父の思い出と佐渡訪問の印象をつぎのように話した。

父の鄭雙童は全羅北道益山(春浦面)で1905年に生まれましたが、一人息子でした。30代後半で、年老いた両親、幼い娘と生まれたばかりの息子、妻を残して佐渡鉱山に連行されました。村に割り当てられた動員人数は二人でしたが、皆が拒否するなかで、動員されました。村人は無念がる祖父母の姿に胸を痛めたそうです。兄が生まれて郷里で2年ほどは暮らしたというので、1943年頃に動員されたと思います。母は夫なしで家族の面倒を見ることになり、苦労したと思います。

私は父が帰国した後の1952年に生まれました。父は佐渡で銅を掘る仕事をした、空腹が一番つらかったといいました。休みの日に農家に手伝いに行って飯をもらおうとしたのですが、先に食べさえてもらって腹一杯になり、仕事ができずに帰ってきたこと、農家の好意に報いることができなかったことを話しました。一緒に連行された李在花さんは帰国後、後遺症で体を壊しました。

益山は穀倉地帯であり、群山一帯は、当時は日本人地主が多い地域でした。(動員される前)父は日本人農場で堤防を築く仕事もしたのですが、頬を叩かれることもよくあったといいます。屈辱に耐えて黙々と働かなければ、仕事も、賃金も得られなかったのです。

父が動員されたことを証明する記録は何もなかったのです。一枚の作業服を着た写真だけがありました。動員を証明するために村の老人に隣友証明書を書いてもらいましたが、父から詳しく話を聞いておけばよかったと思います。過去を明らかにして二度とこのようなことが繰り返されないようにと考えて、強制動員被害者支援財団が始めた証言採録事業にも参加しました。日本が過ちを認めず謝罪もしないで佐渡鉱山の世界遺産登録をすすめる話を聞くなかで、事実を明らかにして記録しなければならないと切実に考えています。

その中でたくさんの研究者と出会い、日本の研究者が煙草配給台帳の名簿から父の名前を探し出してくれたのです。創氏名のため、父であるという実感は弱かったのですが、記録が残っている事実に驚きました。昨日、名簿の原簿をみることができました。実際にみると胸が詰まり、涙がでました。坑内にも入りました。大変な労働だったと思います。相愛寮の跡地にも行きましたが、坂の上であり、冷たい風が吹き、食堂からも遠い場所でした。被害を明らかにするために努力している人々の姿に感激しました。

30年前から佐渡と新潟の市民が真相を調査してきたことも知りました。いまだ、多くの被害者遺族が佐渡の名簿と出会えずにいます。父の記録を探す作業が、佐渡に動員されたすべての人々の記録が遺族にきちんと伝えられ、親たちの痛ましい歴史を記憶し、追慕できるようになるきっかけとなることを願います。

集まられた皆さんの正義への努力に心を打たれます。その労苦に感謝し、それを分かち合いたいです。今日の出会いを忘れません。この出会いが次の世代のこころに刻まれる教訓となることを信じます。日本の子どもたちも韓国の子どもたちと交流してください。互いに人間の人権を大切にすれば、平和につながると思います。

この発言後、質疑と意見が出された。

■歴史に向き合う

集会では、佐渡相川に住む小杉邦男さんが1992年、95年の相川での証言集会などを紹介した。小杉さんは、佐渡と韓国をつなぐ会の事務局を務め、相川で長年、活動してきた方である。その後、交流を兼ねて、「佐渡おけさ」や「アチミスル(朝露)」の歌が歌われた。最後に司会の石崎澄夫さんが、佐渡鉱山での追悼集会の活動の経過などを話した。

その後、同じ会場で交流会を持ち、20人ほどで意見交換をおこなった。交流会では、現地での慰霊塔建設、半島労務者名簿の公開、佐渡に住む父の動員と第2相愛寮への収容などの話も出され、参加した高校生は「対面で、会えないと聞けない話を聞けてよかった」と感想を語った。交流会は「相川音頭」を皆で楽しんで終った。

その夜、訪問団は夕食を取りながら、今回の行動を振り返った。また、好きな歌なども出て、友好を深めた。

帰途、訪問団の一人が「歴史に向き合うとは何か。遺族が名簿などの記録と出会い、労働した現場を歩き、証言する。市民と交流し、食事を共にし、歌を歌う。資料を読み、講演を聞くだけでなく、人と人とがつながり、明日を語り合う。その積み重ねの大切さを感じた。」と語った。そのような積み重ねによって新たな友好の歴史ができればと思った。
                                                 
(竹内)