佐渡鉱山・労務係の記録からみた強制労働
ここでは佐渡鉱山の労務係の手記や聞き取り記録から朝鮮人の強制動員・強制労働の実態についてみていく。
1 佐渡鉱山での朝鮮人の強制労働
⑴ 佐渡鉱山の概略
佐渡鉱山は金・銀・銅を産出した。江戸期、佐渡鉱山は幕府によって直接経営された。明治政府は1869年に政府直営とし、西欧技術を導入した。佐渡鉱山は1896年に生野鉱山、大阪製錬所と共に三菱合資会社の所有となり、その後、三菱鉱業の経営となった。佐渡鉱山は日本最大の金銀山であり、三菱財閥に多くの利益をもたらした。戦時下の1943年、政府の金山整理によって銅の採掘を主とするようになった。
戦後、三菱鉱業の金属部門は太平鉱業となり、さらに三菱金属鉱業から三菱マテリアルへと名称を変えた。戦中の乱掘の影響や金の品位の低下により、鉱山は縮小され、三菱の子会社の佐渡金山は1989年に操業を停止した。佐渡鉱山の跡は「史跡佐渡金山」とされ、三菱マテリアルの子会社ゴールデン佐渡が経営している。佐渡での400年ほどの採掘により、金78トン、銀2330トンを産出したという。
⑵ 朝鮮人強制動員の概要
佐渡鉱山・朝鮮人強制動員1940~45年
「佐渡鉱山史」平井栄一、「半島労務管理ニ付テ」、「煙草配給台帳」、新聞記事、証言から作成。 |
強制動員期、1943年6月の佐渡鉱山「半島労務管理ニ付テ」によれば、佐渡鉱山には、1940年2月から42年3月までの2年間で、忠清南道の論山・扶余・公州・燕岐・青陽などから約1000人が動員された。動員された朝鮮人は、山之神社宅、第1、第3、第4相愛寮などに収容された。平井栄一の「佐渡鉱山史」(佐渡鉱業所、1950年)では、さらに1944年・45年度に朝鮮人514人を動員したとする。佐渡鉱山への朝鮮人動員数は1500人を超える。佐渡へは全羅北道の益山、忠清北道の清州、全羅南道の珍島、慶尚北道(動員当時は江原道)の蔚珍からも動員された。
1945年には日本各地で地下施設が建設されたが、佐渡鉱山からも地下施設工事のために埼玉に189人、福島に219人の朝鮮人が派遣された。そのため8・15解放時に佐渡の現場に残っていた朝鮮人は244人であった。解放後、派遣された人びとが佐渡に戻ると、動員朝鮮人の現在員数は570人ほどになった。45年10月以降、帰国が始まった。
佐渡鉱山への朝鮮人の動員は日本政府の労務動員計画によるものである。企業は動員数の承認を日本政府から受け、朝鮮総督府の斡旋により「産業戦士」として集団動員した。動員された朝鮮人は警察と企業により監視され、職場を移動する自由は奪われた。「決死増産」の掛け声の下、生命を賭けた労働を強制された。
佐渡鉱業所「半島労務管理ニ付テ」によれば、政府方針により「内鮮無差別」とするが、「民族性」により、「常ニ可成リ引締メテ行ク」と記されている。日本人として「訓育」し、作業能率をあげるとも記されている。待遇については、与えるものは与え「締メル所ハ締メル」とし、勤務状況や性行が不良の者には「相当厳重ナル態度」で臨むとしている。
朝鮮人を日本人化させて増産態勢に組み込んだが、朝鮮人であることから強く統制し、ときには暴力をともなう処罰によって管理したのである。
動員された朝鮮人は坑内労働に集中的に投入された。現場では増産が強要され、労務管理では暴力が使われた。賃金の一部は強制貯金されたが、逃亡を防ぐことに利用された。自由な移動は禁止され、逃亡すれば、捜査対象となって指名手配され、逮捕、処罰された。
強制労働とは、処罰の脅威の下に労働を強要され、自由意志によらないすべての労務をいう。佐渡鉱山に動員されての労働は強制労働だったのである(詳細は『佐渡鉱山・朝鮮人強制労働』日韓市民共同調査報告書2023年参照)。
佐渡鉱山の労務係(外勤)だった杉本奏二の手記(書簡1974年)、労務係(内勤)だった渋谷政治への聞き取り (録音テープ1973年、79年)が残されている。これらは佐渡鉱山史を研究していた本間寅雄氏の手元にあったものであり、1991年頃に佐渡と韓国をつなぐ会に提供されたものである。
以下、これらの労務係の記録から佐渡鉱山での強制労働の実態をみる。杉本奏二の手記については、誤字を直し、現代語表記に書き直したものを使う。渋谷政治への聞き取り記録については、筆者が筆耕し、整理したものを使用する。〔 〕は筆者による註である。
2 「募集」による朝鮮人の強制動員
⑴ 植民地統治下の朝鮮
日本による植民地統治下、日本人が朝鮮人を支配し、日本人に従うことを強いていた。労務係は当時の朝鮮の状態をつぎのように語っている。
渋谷「朝鮮での植民地政策は徹底していた。駐在所の巡査が二人いれば、若くても上は日本人だった。特高には朝鮮人はいない。特高は大田にいて、思想に問題がないかをみた。朝鮮人の白衣を禁止していて、着ていれば後ろから警察関係者が墨を塗って着られなくした。」
杉本「総督は殆ど軍人(大将級)、道庁・郡庁共に内地人がその実権を握って居りました。何れも道長が半島人の場合は内務部長が実権を、郡守(郡長)が半島人の場合は内務部長(内地人)がそれぞれ実権を握って居たのです。」
⑵ 強制動員の手法
日本への労務動員は募集、官斡旋、徴用などの名でおこなわれた。それらは日本政府の労務動員計画によるものであり、自由な「募集」ではなく、官許の集団動員であり、官憲の強制力を背景とするものだった。
杉本「総督府に(労務課)所定の書類(1)募集人員(2)募集地域(希望地域)(3)雇庸期間(此の場合、書類の上は1ケ年〔2年か3年〕)(4)職種等明記したものを提出し許可を受けるのですが、内地からの各事業者が殺到するので必ずしも希望地域の割当てを貰う事は保証できないので、外交戦術に依り地域の獲得を得る事が出来るのであります。総督府、道庁、郡庁何れも内地人、半島人各役人は外交戦術に依って大体希望地域を満して頂きました。」
杉本「募集の方法は官庁斡旋なので、郡庁の労務係が面事務所(内地の町村に該当する)の労務係を督励して人員を集め、警察で身元調査をしてから思想の良いのを渡航さす方法になって居たので、私達は郡庁の係と一緒に面(村)に行き係を督励し、一方警察方面にも外交をして居れば良いのでした。」
⑶ 佐渡鉱山への第1回目の動員
第1回目の1940年の「募集」による佐渡鉱山への労務動員の状況はつぎのようなものだった。
杉本「第1回は昭和14年〔1939年、40年の誤記〕1月1日、鉱山を出発しました。一行は労務課外勤主任立崎高治、外勤新保宗吉と私杉本奏二、それに先導役として羽田浜町に居住の林金次〔朝鮮人〕の4名でした。関釜連絡船にて釜山に着き、忠清南道大田迄同行し、立崎外勤主任は大田より京城に直行(総督府に手続のため)、私達は目的地の論山郡論山にて内地人旅館にて待機して居りました。1週間後、立崎老は総督府及道庁(大田府)の許可を予定通り論山郡の指定を受けて論山に来ました。早速行動開始です。郡守は内地人にて快く各種指示をして呉れました。早速当夜は郡関係者、翌晩は警察関係と密接な関係を持ちました。労務係の郡庁杉野治作氏と私〔とは〕殊の外意気投合し、あらゆる点にて便宜をはかって貰いました。募集人員百名。光石面(村)〔など論山郡〕にて目標が立ち、私は団体輸送(関釜)の承認を得るため釜山の広島鉄道局釜山営業所案内係助役木下氏と折衝して、輸送日時のダイヤを組んで貰いました。当時、団体のダイヤは広島鉄道局釜山営業所に於いて一切を組んで居りました。」
杉本「昭和十三年〔1938年、39年の誤記〕は、南鮮は大干ばつにて大ききんのため農民一般労務者は困難その極に達して居りました。一部落二十名の割当に対し約四十名の応募がありました。之は必ずしも鉱山労働を希望するものでなく、内地へ行き先輩友人を頼りて自由に内地で暮らしたい望みを持つ者も居て、下関大阪等にて団体から逃亡するものが何れの団体も跡を断たない所を見ても明瞭の事であります。幸にして佐渡鉱山に応募した連中は比較的思想も良く、僅かに下関にて1、2名の逃亡者を出したのみ、殆ど百%鉱山につきました。」
渋谷「佐渡鉱山には朝鮮半島から第一陣が昭和15〔1940〕年3月に入った〔入山は2月頃〕。その連中が来たとき私は教員を止め、鉱山に入った。第一回目は論山郡(100人)、第1回目に連れてきた人が杉本。当初、紋平坂の寮(いまの山本カサクさんの家の所)に入った。」
渋谷「当時、個人では内地に入れなかった。募集されてくれば、渡れた。下関に渡ってくると逃げてしまう。小作のため生活が苦しく、内地の連中と連絡し、金儲けができた。別れを惜しんで泣く者もいたが、苦しい生活を抜ける思いで募集された。」
⑷ 佐渡鉱山への第3回目の動員、甘言・接待・査証
第3回目の朝鮮からの動員状況をみてみよう。動員は甘言によるものであり、現場担当者への接待、査証での買収もなされた。このときの動員は論山と扶余からなされた。渋谷はつぎのように話す
渋谷「私は3回目の募集に横山、立崎、宇佐美、川島、杉本、ゲンギジョウらとでかけた。新潟から下関へ、釜山から京城に行った。募集をねらったのは忠清南道なので、大田に行った。1回目が論山であり、鉱山としては北より南の方が、性格がいいと申し込んだ。年齢には制限はないが、50歳より下の人を集めた。3回目は300人の割当だった。昭和15〔1940〕年の10月から12月に行き、立崎、横山、私が大田に本拠を置き、京城の総督府で交渉した。どこで割当を得られるか、どこで募集させてくれるのか、許可をとるために交渉した。11月の半ばまでかかった。総督府から道に通知した。道庁は論山と扶余からそれぞれ150人を割り当てた。」
渋谷「金は3万円持って行った。うまく進めるために外交した。郡長を呼び、妓生のいるところで飲んだ。郡長とその下の2人、係の2人が来て、こちらは立崎、川島、宇佐美、杉本、ゲンギジョウら6,7人だった、90円で接待した。また、警察官5人を呼んで、一人5円のお膳で、芸者の玉代を渡した。立崎は論山、私は扶余を担当した。郡庁の職員が協力しないとできない。郡庁から面に割当、集めるように通知させた。郡の連中も面の係がアレする〔手を抜く〕と困るから面に来た。各面に医者を連れていき、身体検査した。検査が通ると何時にどこに集まれと指示した。面で名簿を作り、さらに郡の係が名簿を作り、写真は郡で撮って貼り付けた。名簿は査証用に2部、鉱山用に1部、さらに郡用、面用など5,6部作成した。連れていくにあたり、送っておいた服を渡した。」
渋谷「査証が面倒だった。釜山で名簿に判を貰った。査証の際には一人ひとりチェックした。写真で照合した。〔夜〕11時に船に乗ることになっていて4時までに査証してもらう予定だった。乗れなければ、釜山に泊まることになり本土の貸切った車両の変更もしないといけない。が、大田から釜山行きの列車が4時より遅れてついた。他の鉱山の査証が行われていて、明日にしろと言われた。一泊すると大変だから、廊下で税関の係官に20円の金を渡した。それで朝鮮人を表に整列させ、税関に帳簿、名簿などを渡し、税関で査証を得た。朝鮮人は釜山の旅館に夜11時まで置き、夕食を係官に接待した。」
渋谷「徴用で引っ張るのではなく、募集で連れてきた。前渡金、支度金としては一人20円くらい。家族の生活費として。ここよりもっといい暮らしができると募集した。扶余からは私と杉本(元巡査)の二人で連れてきたが、汽車が停車すると逃げるので、一つの汽車を貸し切り、杉本と私は両端にいて逃げないようにした。一睡もせず連れてきた。私達は一人も逃がさなかった。」
⑸ 佐渡鉱山への朝鮮人動員数
動員初期、鉱山側の募集係は動員を募集であって強制ではないという意識している。それはこの動員を労務動員計画によるものとする認識がないからである。甘言による集団動員も強制動員の一形態であった。その動員は警察に監視されてのものである。動員された現場では暴力による管理がなされ、労務統制下、自由な職場の移動はできなかった。
動員数についてはつぎのように記す。
杉本「斯くして回を重ね、総数千二百名の労務者を募集しました。昭和二十〔1945〕年の三月が最終回でした。」
杉本「忠清南道80%、忠清北道20%、全羅北道20%と記憶して居ります。」
実際には、佐渡鉱山への動員数は約1500人であり、慶尚北道(当時は江原道)、全羅南道からの動員もなされた。鉱山側の労務政策によって、家族を呼び寄せた者も100世帯を超えた。
3 佐渡鉱山動員後の労務管理・強制労働
⑴ 佐渡鉱山の労務管理
では、動員された後の労働状態と労務管理はどのようなものだったのだろうか。
渋谷「立崎は労務課外勤の主任、私は労務課内勤で、保安の仕事をし、日本語を教えたが、様子を見てきたらと〔朝鮮に〕送られた。佐渡鉱山では昭和17年〔1942年〕頃に労務課から勤労課に名称が変わった。末綱(すえつな)〔磯吉〕副長が勤労課長だったが、京都大出身で、ドイツへの個人留学経験もあり、佐渡で所長になって、本店の勤労部長になった。佐渡では副長が勤労課長を兼ね、課員は70人ほどだった。土地を買い、協和会館、山之神に朝鮮人の社宅、さらに総源寺の上の方にも社宅を作った。」
渋谷「勤労課の外勤が募集、休む者の出稼の督励、勤務状態の悪い者への注意、逃亡者を捕える等をおこなった。外勤が坑内で稼働状況を判定した。外勤の助手もいた。外勤は警察官あがりが多かった。内勤は保安の仕事(労働者のケガや病気の処理、公傷か私傷の見極め)、福祉事業(映画や運動会)、査定(日給の請負であり、稼働を認めて分を付ける)をした。勤労課は坂を下がった所、門の外にあった」
渋谷「労務の方でも朝鮮語がわかる者を求め、京城高等工業を出た職員の安(安村)を通訳にした。裵メイシャクは第1回目で連れてきた。日本語がわかり、性格がおとなしく、信用して助手にした。裵など朝鮮人50人ほどを細倉鉱山に転職させた。佐渡から背広を着て革靴を履きボストンバックを持って移動したが、山奥の細倉はまるで違ったため、一緒の部屋になるのを嫌がった。朝鮮の元警察官のゲンギジョウを職員にした。2回目の募集できたが、ダメでやめさせた。坂本は論山の辺の郡庁の給仕か何かだったが、〔1940年12月に〕連れてきて仕事をさせた。」
渋谷「安さんは日本語が全くわからない者に言葉を教えた。私は朝鮮の小4をでた日本語下級の組と文字を読める者の組の2つの組を教えた。紋平坂の寮の部屋、第1相愛寮の娯楽室で教え、定着した者には山之神の集会所でも教えた。教えたのは坑夫だけ。」
渋谷「朝鮮人は1000人くらいになった。いま、拘置所になっているところに第1相愛寮、諏訪町に金剛塾、第3相愛寮があり、高田さんのところに共同炊事場があった。もう一つ無宿の墓に行くところに〔第4相愛寮が〕あった。山之神の第2相愛寮は日本人だけだった。レイスイ寮には鉱山の若い職員が入った。山之神の社宅には落ち着かせるために家族を呼んで居住させた。総源寺の上の方にもあった。私はその2か所の朝鮮人社宅、100家族ほどの町内会長だった。朝鮮人は大乗寺から高校に行く方の道に沿って住んでいた。東照宮の前の左手にもあった。独身寮は6畳くらいの部屋に4人、食事は割当のため少なく、普通の食事の下くらいのもの。高千〔たかち、支山〕にも派遣した。」
⑵ 坑内労働ヘの投入と管理
杉本「第一回の募集100名は大工町の新保宗吉老が50名を預り、私杉本が紋平坂寮にて50名を預りました。その際は米など充分にあった時で好きなように食べさせました。一日一人で一升一合を食した程ですから、配給制度になり、満腹する「ドブロク」等を求めるのは当然の事と思って居りました。」〔動員されるとすぐに食料問題で争議が起きた。〕
杉本「彼等労務者の殆どは坑内夫として稼働せしめました。さく岩夫、運搬夫、支柱夫が殆どでした。彼等の稼働状況を説く前に彼等の習性を申します。半島人の殆どが郷里にある時は三日働いて得た賃金は三日食べて休み、金が無くなればまた三日も働き、また三日も休んで食べる、こうした事の連続すると云う習性が大部分にあったのです。殊に彼等は賭博が好きで五人も集まれば直ちに花札賭博を開帳するのが日課の様なものでした。」
杉本「右のような習性を持つ彼等が一週一日の日旺だけに満足する筈はありません〔当時、休日は月に2日〕。殊に之に拍車をかけたのは山の神にある家族持ちの社宅です。労務者家族の妻君達は濁酒を造り彼等に販売し、酔えば賭博をし、勝って金が入れば大儘気取りで仕事を休み、負ければやけになって仕事を休むという状態で稼働率は香ばしからざる状態でありました。乍然全部が全部そうした輩ではありません。中には金の取れるのがおもしろくて健康にまかせて内地人の二倍も働く連中も相当居りました。之等の連中は殆どが国元送金をする実直な者達でありました。」
杉本は、坑内労働に多数を投入したが、賭博と飲酒が問題だったと記している。労務係は朝鮮人を怠惰な存在とみなしていた。食事も配給制度が強まるなかで粗末なものになった。
渋谷「事故になると、本人の過失か、こちらの過失かとなる。高千でケージが切れて落ちる大きな事故があった。竪坑の下の水に沈み、朝鮮人が死んだ。発破で死ぬこともあった。爆発しないで残るものに削岩機が当たることもあった。コンベヤの下に巻き込まれたこともあった。岩盤は固い。勤労報国隊員が亡くなったこともある。岩盤が固いから事故は少ない方だった。」
岩盤の種類から炭鉱のような大規模な落盤事故やガス爆発事故はないものの、現時点で20人弱の朝鮮人死亡者の氏名が判明している。また、帰国後、塵肺の症状で苦しんだ者も多い。
⑶ 朝鮮人の争議と鉱山側の偏見
動員された朝鮮人は1940年4月にストライキを起こした。
渋谷「運搬、削岩、支柱の仕事をしたが、日当は一日3円から2円だった。給料日は10日だったが、1か月働き、4月に給料をやった時に朝鮮人が同盟罷工した。首謀者は主に日本語のわかる人が多かった。食費、カンテラのカーバイド代、地下足袋代、作業衣代などが引かれたが、いくら引かれるのか、事前に知らされず、連中にすれば、想像できない引き方だった。首謀者の10人くらいを帰した。給料の指導が悪かった。」
司法省刑事局「労務動員計画に基く内地移住朝鮮人労働者の動向に関する調査」(『思想月報』79、1941年)には、4月10日の業務終了後、3月分の賃金が清算されたが、その額が朝鮮で道庁内務課長や面職員が示した待遇条件とは違い、劣るものだった。朝鮮人は寮に帰還後、翌日の休業を決めて労務係に問いただすことにした。11日、97人全員が就労を拒否した。この動きをみて、坑内夫の日本人労働者も坑内での就労を拒否した。
請負単価を設定した出来高による給与制度によって賃金が低く設定され、さらに地下足袋代やカーバイド(携行灯の燃料)代まで自費負担だった。食事や福利も不十分なものだった。朝鮮人労働者のストに呼応して日本人労働者も闘ったのである。
「半島人労務者ニ関スル調査報告」(日本鉱山協会1940年)の佐渡鉱業所の報告では、争議の原因を、言語が通じないことからの「誤解」、「智能理解の程度が想像以上に低き為」に意思疎通が欠けたこと、募集現地の郡面関係者が坑内作業の内容の認識に欠け、労働条件への多少の誤解があったこと、2、3の「不良分子」の煽動に乗じて「半島人特有の狡猾性 付和雷同性」を現わしたことなどとし、「不良労務者」の「手綱」を「ゆるめざる管理」が必要とする。このような偏見の下で監視され、労働を強いられていたのである。
⑷ 逃亡と監視
朝鮮人の逃亡について、つぎのようにいう。
杉本「以上の如く弾圧に依る稼働と食事に対する不満は彼等をして曩に内地に来て居る知人、先輩を頼り自由労務者の群に投ずべく次々と逃亡し、一時は十数人一団となり両津、鷲崎等より機帆船にて逃亡するものあり、勿論勤労課に於いては両津、小木等の船着場には係を置いて警戒しては居りましたが、彼等は次々と巧妙に夜のうちに小機帆船にて脱出するので如何とも仕様がなかったのです。後で両津町湊の機帆船所有者の一人がつかまり、一人につき貮十円から貮拾五円にて(当時関釜連絡船は下関釜山間船賃ヽ円〔同額〕でした)、両津を脱出させた事が判明し客船法違反にて処罰された一幕もありました。」
杉本「彼等は友人間の信義の篤い事は到底内地人の比ではありません。島外脱出の手引をする友人の名前等は如何なる弾圧にも遂に口を割らず、手引きせる労務者が逃走してから始めて彼ではなかったかと今度は報告に来る始末でした。彼等にすれば強制労働をしいられ、一年の募集が数年に延期され、半ば自暴自棄になって居た事は疑う余地のない事実だと思います。その一例として私の最も信頼して居た班長(家族持ち)が家族を友人にたのみ逃走した例さえありました。私は尾去沢鉱山をふくめ二十数回半島に行った関係上、半島の人情風俗を一番良く知って居ました。一例を話せば、彼等は老人を敬い父母に対する孝心の深さは到底内地人の比ではありません。父母祖父母の前では決して煙草を吸わないなどその著しい一つです。それだけにまた彼等に心から同情もし、指導もして居ました。唯弾圧だけでは彼等は、動きはしなかったでしょう。要するに蔭の力も必要であった事は否めない事実であったでしょう。」
渋谷「佐渡に来てから、逃げる者はたくさんいた。賃金に不満があり、バクチ好きで送金ができない。もっといいところを求めた。じっくり尻をおちつける連中もいた。あれは金があるから動かない、あるいは借金があり家族を置いて逃げるかもといった話が出た。」
渋谷「逃げれば、探した。港のある両津や小木で探した。」
殴る蹴るという弾圧や不十分な食事の下、強制労働を強いられた。募集期間が延期され、自暴自棄になる者もいた。最も信頼していた家族持ちの班長さえ逃亡したのである。佐渡からの逃亡は続いたわけであるが、それは現場での生産力低下をもたらし、戦争を遂行する動きへの抵抗にもなった。
⑸ 暴力による弾圧・統制
杉本「前述の通り稼働率は上が〔ら〕ないので、勤労課としては之等の対策として賭博の取締りと共に密造酒の取締を厳重にし、一方稼働の悪い連中に弾圧の政策を取り、勤労課に連れ来りなぐるける、はたでは見て居れない暴力でした。賭博をした連中も亦然りでした。私はこれにつき常に反対の立場を取り、賭博密造等については訓戒を主として来ました。(当時私は山の神の事務所詰でした。)賭博も密造も大目に見て非常時意識を持つ様に微細に亘り諭しました。」
杉本「彼等とて人の子です。誠意を以て接すればやはり彼等も心から応えてくれました。時は太平洋戦争の最中、働き盛りの若者が配給の食料だけでは完全な稼働の出来ないのは無理もありません。満腹する濁酒等を求めるのは当然の事でしょう。」
このように杉本は「稼働の悪い連中に弾圧の政策を取り、勤労課に連れ来りなぐるける、はたでは見て居れない暴力」が行使されたことを明記している。
動員された朝鮮人は1945年に入ると埼玉と福島の地下施設工事に派遣された。
渋谷「昭和20年〔1945年〕7月ころ、私は埼玉に行った。埼玉は小川町のそばの陸軍の地下司令部の直轄工事だった。3つほどの山の中段を朝鮮人が掘った。宿舎は建ててあった。グラマン機をみたこともある。その後の8月、私は福島に行った。福島は海軍管理の中島飛行機製作所の地下工場工事で、第一期工事が終り、第二期工事だった。旋盤を据え付けていた。佐渡からは福島へと地下の仕事や工作関係者など百数十人ほどが車両を貸し切り、削岩機も持っていった。四国、北海道、佐渡などから500人くらいが来ていて、宿舎は福島市のはずれの競馬場にあった。日本人、朝鮮人、幹部の宿舎があった。派遣中に逃げた者もいた。そこで終戦となり、玉音放送を聞いた。福島から佐渡に8月中に連れて帰った。」
渋谷「だれが朝鮮に連れて帰るのかだが、勤労課の連中が連れて帰れば殺されるという話もあった。朝鮮人は20年の末から帰国した。」
解放を迎えて、動員された朝鮮人は帰国することになった。労務係は暴力による労務管理への報復を怖れたのである。
おわりに
ここでみた労務係の記録からも、戦時に強制労働がなされたことは明らかである。にもかかかわらず、強制労働否定論者は、朝鮮人強制労働はプロパガンダである、戦時の朝鮮人労働は強制労働ではない、韓国大法院の徴用工判決は偏った研究蓄積によると喧伝する。否定論者は朝鮮の日本統治は植民地支配ではないとみなし、動員朝鮮人は合法的な戦時労働者であると語る。過去の植民地支配とその下での動員を不法と認めない立場である。
現在の日本政府はこのような歴史否定論の影響を受けている。2018年、韓国大法院は強制動員を反人道的不法行為とみなし、動員被害に対する慰謝料請求権を確定させた。それに対して日本政府は判決を「国際法違反」と批難し、自らを被害者のように振る舞い、経済報復をおこなった。このような歴史認識を継承し、日本政府は2021年、強制連行や強制労働という用語は適切ではないと閣議決定し、それらを歴史教科書から削除させた。
さらにこの日本政府の強制労働否定を前提に、2023年、韓国政府は賠償金を政府傘下の財団に肩代わりさせる策を示した。それは韓国の確定判決を無視し、動員被害者の尊厳回復の活動を否定するものとなる。強制動員被害者と遺族は、強制動員による強制労働の被害を受け、解放後もその強制労働被害を認知しようとしない被害にあってきたが、さらにそのなかで勝ちとった強制動員被害の確定判決を否定される被害の状況にある。
強制動員され、動員現場で亡くなった人もいる。帰国後も肺の中に沈んだ鉱石がうずき、咳に悩む日々が続いた人もいる。その苦しみ、悩み、その家族の苦しみ、悲しみに思いを馳せるべきであり、その尊厳の回復に向けて歩むことが求められる。
この強制労働問題の解決は、強制労働否定論を克服し、強制労働の存在を認知することからはじまる。産業遺産としての佐渡鉱山については、鉱山都市としての歴史全体を示し、資本、労働、国際関係などさまざまな側面からみることが求められる。 (竹内)