富山・黒部川発電工事フィールドワーク

 

 2023年7月、富山県の黒部川発電工事の朝鮮人労働のフィールドワークがもたれた。前日には富山市の富岩運河を訪れた。黒部発電工事については、内田すえの・此川純子・堀江節子『黒部・底方の声 黒三ダムと朝鮮人』(桂書房1992年)がある。この本には戦前の朝鮮人関係の新聞記事をまとめたものも入っている。この本を元に現地を訪れ、フィールドワークのルートを考えた。2021年に実施する予定であったが、23年に入って行うことができた。

 

■黒部での発電工事と朝鮮人

 はじめに黒部での発電工事と朝鮮人の労働についてみておこう。

 黒部川での発電工事は豊富な水量と急勾配を利用しておこなわれた。この工事のために黒部鉄道が敷設され、1923年に宇奈月までの工事が完成した。宇奈月温泉の歴史はここから始まる。現在、この鉄道は富山地方鉄道の本線として利用されている。黒部鉄道の工事には朝鮮人も就労していた。宇奈月は発電工事の拠点とされ、朝鮮人も居住した。

 1920年代には宇奈月の下流で、黒部川電力による黒部川第1・第2・第3発電所が建設され、1932年には黒部川電力の第4発電所も建設された。また、日本電力は宇奈月の上流に柳河原発電所(黒部第1発電所に相当、1927年完成)を建設した。さらに欅平から上流に向かい岩壁を削り、移動路も作った(日電歩道と呼ばれる)。そして日本電力は柳河原の上流に黒部第2発電所(1936年完成)、第3発電所(1940年完成)を建設した。その際、軌道工事や運搬用トンネル工事、道路工事も行われた。1930年代には富山県により愛本発電所工事もおこなわれた(1936年完成)。

発電工事ではダムの建設と山をくりぬいての導水路(隧道、トンネル)の建設がおこなわれる。その工事には日本人と共に朝鮮人が労働した。1922年、新潟県の中津川発電工事の現場での監獄労働が社会問題になったが、中津川だけではなく発電工事の現場では強制労働がなされる現場が多かった。

そのような現場が十分に改善されることもなく、1939年末からは日本政府の労務動員計画により朝鮮人の強制動員が行われた。日本電力による黒部第3発電所工事の現場には朝鮮半島からの動員者も充てられた。そこは戦時の強制労働の現場となった。

戦時の電力統制によって日本電力の発電所は日本発送電に統合され、戦後は電力分割によって関西電力の所有となった。関西電力によって黒部第4発電所(1963年)、新柳河原発電所(1993年)、宇奈月発電所(2000年)などが建設された。

 富山県では黒部川、常願寺川、神通川、庄川などの水系で大規模な発電工事が行われた。1920年代、30年代の新聞記事には、それらの発電工事に関する事故の記事があり、そこには朝鮮人のものも多い。

 

■愛本発電所工事

最初に訪れた場所は愛本発電所である。土手から愛本発電所と上部にある導水管を見て、当時の労働状態を考えた。朝鮮人強制連行前史の現場であるが、強制労働がなかったわけではない。

愛本発電所の建設工事は、富山県によるものであり、日満アルミニウム工場(のちに昭和電工)の誘致計画を契機に1933年末から始まった。工事を請け負った土木業者は佐藤工業である。佐藤工業は富山市に拠点を置く土建業者である。愛本発電所では柳川原発電所の放流水を導水路で運んで利用する。のちに愛本発電所は日本発送電の管理となり、その後、関西電力に引き継がれた。関西電力による愛本発電所のリフレッシュ工事は1996年に完了している。

1935年は黒部第2と愛本で発電工事がおこなわれていた時期である。35年5月の記事には黒部の隧道工事の現場に長野から出稼ぎにきた労働者が、12時間の過酷な労働、断崖絶壁での危険性、労働者への監視などを理由に親元に救助の手紙を出したとある。6月の記事には1月から5月までの黒部第2での死者8人、重傷678人、愛本での死者17人、重傷1272人とある。9月の記事では、この1年間での黒部と愛本の工事で惨死53人、重傷2450人という。その中で6月に労働争議も起きた。愛本発電の現場では中央土木配下の労働者百数十人が出来高制をやめて出面制とするなど、賃金の値上げを求めた。全員解雇となったが、交渉により、ストライキの中心となった金山飯場の23人が退去することになり、他の者は就労となったという。

 

■呂野用墓と萬霊之塔

 つぎに愛本から内山に向かい、呂野用墓を訪れた。

内山駅の近くに公民館があり、線路を越えると林の中に墓石が散在する。そこに呂野用の墓がある。右には昭和12年10月9日とあり、裏側には大邱府明□□と刻まれている。この墓には呂野用以外の朝鮮人の遺骨も集められてきたという。この墓は1930年後半での朝鮮人の労働の歴史を示す大切なものである。近年、ここで追悼の行事がもたれるようになった。

墓は林の中にあり、夏風の葉を揺らす音が人びとに降りかかる。木洩れ日が墓石を照らすと刻まれた文字が歴史を語りかけるように陰影を持って浮かびあがった。

 内山から宇奈月に向かう途中、薬師寺の墓地に萬霊之塔がある。この塔は1987年に建てられたものであり、黒部での発電工事での労働者をはじめ、宇奈月などで亡くなった無縁者を追悼して建立されたものである。

発電工事によって多くの死者が生み出された。1937年2月の記事には、1936年での発電工事での死者は37人、重軽傷2600人、1昨年(1935年)は死傷者が6000人。今後、県営有峰発電、黒部第3発電工事で「空前の死傷者」が想定されるという。

実際、黒部第3発電工事では1938年12月の志合谷と1940年1月の阿曽原の2回の表層雪崩が起き、多数の死者を出した。冬季に工事を中止せずに強行したことによる。安全性よりも国策による電源開発、軍需生産の重視が招いた結果だった。萬霊之塔の縁起にはこのような電源開発の歴史の中で命を奪われた者たちへの思いが綴られている。

宇奈月の薬師寺の前に日本工業合資会社が1928年に建てた「黒部開拓殉難者供養塔」がある。裏側には1928年5月20日に建立したことが記されている。この塔には由来を記した文字はない。

当時、柳河原発電工事(黒部第一に相当)がおこなわれていた。柳河原発電工事は猫又で取水し、導水路で水を運び、柳河原発電所で発電するというものである。当時、宇名月の朝鮮人は1000人に及んだという。1926年には宇奈月で天然痘が流行し、検事による朝鮮人の飯場の視察もなされた。工事現場での土砂崩壊、墜落死も起きた。1927年の記事からは、1月と2月に雪崩によって飯場が倒壊し、日朝の労働者38人が死亡したことがわかる。同年、富山白衣労働同盟の黒部支部が結成されている。この追悼碑の背景には、日本人だけでなく朝鮮人の労働と事故、抵抗の歴史があるのである。

黒薙に残る水路橋は柳河原発電工事で1927年に建設されたものである。当時の朝鮮人の労働を物語る史跡でもある。

 

 

■トロッコ電車で黒部第2、第3発電所へ

 宇奈月から欅平までは軌道が引かれ、トロッコ電車で行くことができる。この鉄道は1926年に猫又まで、1930年に小屋平まで、1937年に欅平まで敷設された。約20キロである。

 黒部第2発電所の工事は1933年から始まった。小屋平から猫又までが工区となり、小屋平にダムを造り、そこから導水路で水を運び、猫又の第2発電所で発電する。完成は1936年である。日朝の労働者数は5000人ほどとなり、1000人が冬営して労働した。

 1935年7月、朝鮮人2人がゴンドラに衝突し、墜落死した。それにより争議となり、朝鮮人の死体を村上組事務所に担ぎ込んで、慰謝料などを要求した。この争議では12人が警察に連行された。黒部第2の現場は生き埋め、墜落、ダイナマイト爆発事故などにより、死傷者が多くでた。

 第2発電所工事に続き、第3発電所の工事が1936年から始まり、1940年11月に完成した。第3発電所は欅平の上流、仙人谷にダムを造り、そこから導水路で欅平まで水を運び、欅平の第3発電所で発電するというものである。

欅平から仙人谷までは傾斜が大きく、川に沿って軌道を確保できないため、欅平に竪坑とエレベーター作り、トンネルを作って軌道で輸送した。欅平上流の阿曽原付近に「高熱地帯」があり、第3発電工事での難所だった。この工事に多くの朝鮮人が投入された。

1938年12月の志合谷では表層雪崩で84人が死亡、そのうち朝鮮人が37人とされる。1940年1月の阿曽原の表層雪崩では死者26人のうち朝鮮人が17人だった。新聞記事からもダイナマイト爆発、岩石下敷、墜落、歯車捲込、雪崩などでの朝鮮人の死亡がわかる。1940年の9月には協和会の常会が阿曽原で持たれていることから、この現場には強制動員された朝鮮人も配置されたとみられる。戦時の1943年には黒薙第2発電所の工事(戦後完成)が進められたから、ここにも動員された朝鮮人がいただろう。

欅平の傾斜地を200メートル上がると水平歩道に出る。参加者3人と傾斜地を山道に沿って登った。斜面に沿って送電線と発電所への導水管がみえた。水平歩道近くに竪坑の出口があった。急な坂を登ったため、全身汗まみれになった。

宇奈月から欅平の間にある宇奈月発電所、新柳河原発電所、新黒薙第2発電所、出し平ダム、新黒部第2発電所などは戦後の建築物である。

トロッコ電車の下方を黒部川が流れる。その水の色はエメラルドグリーン。渓谷の涼しい風が電車の中を吹き抜けていく。戦後の黒部第4発電所工事の死者数は171人、それと同様の死者がそれ以前の発電工事でも出たはずである。その実態は不明である。黒部の風景のなかで消されたままの名を探す作業が求められる。

黒部発電工事と朝鮮人に関する最新の本は、堀江節子『黒三ダムと朝鮮人労働者』(桂書房2023年)である。ご一読を。

 

■富岩運河と朝鮮人

 フィールドワークの前日、富岩運河で水上船に乗り、岩瀬まで行った。この富岩運河は1930年に着工し、35年に完成している。この工事に朝鮮人も労働していた。

富岩運河に加えて1940年に東岩瀬臨港工業地帯造成事業が進められ、住友運河と岩瀬運河が開削された。住友運河は富岩運河の中央部から東に入る形で開削され、そこに住友金属の工場が建設された。水上船が到着する場所は岩瀬運河のなかにある。

この東岩瀬運河工事には朝鮮人が強制動員された。近くの日本海船渠工事にも朝鮮人が動員された。ともに佐藤工業の配下である(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)。

岩瀬の北前船廻船問屋などの旧家を過ぎて東岩瀬駅に着く。かつては越中岩瀬駅と呼ばれ、1950年に東岩瀬駅となった。駅舎は1924年に建てられたものである。戦時、国鉄の主要駅には軍需運送用に朝鮮人が動員され、岩瀬や富山の駅にも配置された。日通の富山支店、富山港支店にも動員されている。日通岩瀬支店には連合軍捕虜も動員された。東岩瀬駅の駅舎は強制動員の歴史を経験した建物でもある。

運河沿いには軍需工場が林立した。運河近くの工場で朝鮮人が強制動員された所をあげれば、昭和電工、立山重工業、日本曹達、住友金属工業、保土谷化学、日本海船渠、燐化学工業、不二越鋼材東富山工場などがある。

富岩運河の拡張工事、運河沿いの軍需工場、岩瀬の駅などは強制動員の現場だったのである。

この日は最後に不二越工場前に行き、不二越訴訟の現状を聞いた。戦前の遺構である煉瓦壁の前に立ち、不二越本館(1937年、2005年改修)の時計塔を遠望した。そこで、強制労働の事実を認知しない企業と政府の現状をふまえ、これからどうすべきかを考えた。

帰りに富山県立図書館で戦前の新聞記事を検索した。印象に残った記事のひとつが「北陸タイムス」の1926年6月の連載記事である。題は「日電の蹂躙にまかせて 呪われた電気王国 県内に漲る怨嗟の聲を聞け」である。連載第7回の題は「大堰堤は暴虐の記念塔」だった。「暴虐の記念塔」「怨嗟の聲」・・、この視点から今ある風景を読み直したいと思った。  

 

 

 

参考文献

内田すえの・此川純子・堀江節子『黒部・底方の声 黒三ダムと朝鮮人』桂書房1992年

堀江節子『黒三ダムと朝鮮人労働者』桂書房2023年

富山県歴史教育者協議会『平和と人権 とやまガイド 増補改訂版』2023年

堀江節子・中川美由紀・竹内康人『富山県・朝鮮人強制労働』コリアプロジエクト@富山2022年