阿賀野川鹿瀬発電工事・昭和電工鹿瀬工場での朝鮮人労働

 

 2023年9月、阿賀野川流域での朝鮮人労働に関するフィールドワークに参加した。案内は新潟県高等学校教職員組合平和教育研究委員会でこの地域の調査を行ってきた木村昭雄さんである。木村さんは多くの資料を用意し、阿賀野川流域での朝鮮人労働について話した。この現地調査をふまえて他の文献にあたった。以下、鹿瀬(かのせ)・豊実(とよみ)の発電工事と昭和電工鹿瀬工場での朝鮮人労働を中心にまとめる。

 

1 鹿瀬・豊美の発電工事

最初に、戦時の強制労働の前史として阿賀野川での発電工事をみてみよう。

福島県から新潟県の鹿瀬、三川を経て新潟市へと流れている。その上流の鹿瀬に1920年代後半、鹿瀬、豊実の二つのダムが建設され、そこで朝鮮人が労働した。豊実ダムは鹿瀬ダムの5キロ上流にある。

鹿瀬の角神でのダム建設は1926年に磐越電力によって始められたが、同年11月に東信電気に吸収された。鹿瀬ダムは1928年11月に完成した。当時は日本一の発電規模だった。鹿瀬ダム工事の責任者は東信電気の取締役の矗昶(のぶてる)であり、森は日本沃度(後の日本電気工業、アルミニウムを生産)、昭和肥料、昭和鉱業を設立するなど、電気化学工業を中心に森コンツェルンを形成した人物である。

ダム工事は飛島組が請け負った。飛島組の下請けには浅谷組、佐伯組、武藤組などがあり、労働者総数は約4000人、そのうち朝鮮人は700人ほどと推定される。

鹿瀬ダム工事では1926年9月に工事用の渡船が転覆し、17人が死亡する事故が起きた。そのうち14人は朝鮮人だった。新聞記事によれば、氏名は李萬出、権現鉄、金進道、徐坤伊、呉斗甲、林南宣、金元錫、南獖斗(慶南蔚山)、宋鳳九、崔龍鶴(慶南東莱)、金準成(順祥)、朴柄英(慶北慶州)、朴文甲(慶北慶山)、朴守一(慶北禮川)である。みな慶尚道出身者であり、蔚山が多い。

工事の請負者は遺族に対して150円の香典を送ったが、金順祥の母親は息子を失い心痛のあまり精神を害して名を呼びながら歩き回るという状況だった。そのような遺族の状況をふまえて在日本朝鮮労働総同盟側(執行委員の李東宰、金天海、弁護士の李又龍)は翌27年8月、新潟県と津川署に事情を説明し、会社側と交渉した。鹿瀬ダムの追悼碑には氏名を刻んだ板があったが、戦時の金属供出で失われたという。

1928年10月、飛島組は「御大典」前にダイナマイトが盗まれたと告発し、警察が朝鮮人飯場を捜索した。しかしこの事件は飛島組の火薬庫の取扱給仕が帳簿と現品が不一致のため錠前を壊して盗難に見せかけたものであり、えん罪だった。


鹿瀬ダム 葉書

豊実ダム工事は鹿瀬ダム工事に続いて1927年から着手され、1929年末に完成した。この工事にも多くの朝鮮人が労働した。

1928年12月、新潟朝鮮人労働組合が結成された。朝鮮人の団結の動きがすすむなか、豊実の工事現場には朝鮮人が600人ほどいたが、29年4月、豊実の朝鮮人が賃金の値上げ、労働時間の短縮などの待遇改善を要求して闘った。全日本労働組合新津支部の支援の下、集会やデモをおこなって会社側と交渉したが、会社側は拒否し、日本人労働者を使って朝鮮人150人に暴行を加えた。特別高等警察は監視を強めた。

飛島建設の社史によれば、朝鮮人の14か条の要求には支払い賃金額の人種的差別を撤回して同格とすること、居住飯場施設での同格、工事現場に専属診療医師を置くことなどの項目があった。社史には問題があるのは朝鮮人側であり、飛島組の現場では労務者の酷使、喧嘩、暴行、集団騒擾、賃金の不払い、地元民への被害などはほとんど発生することがなかったと記している。

豊実ダム近くの丘には1929年11月に建てられた追悼碑(殉職者之碑)があり、35人の名前と年齢が刻まれている。そのうち9人が朝鮮人であり、氏名と年齢は、金元甲24歳、孫孟基23歳、李誠洪38歳、呉尚夋33歳、金学文27歳、呉聖玉60歳、李允伊25歳、李基載31歳、朴夢亀28歳である。1928年3月、豊実の発電工事の労働者である李珠洪(慶南居昌)と孫孟基(慶南宜寧)は板橋とともに阿賀野川に墜落し、死亡した(「新潟時事新聞」1928年3月23日)。碑に孫孟基の名はあり、李珠洪はこの碑の李誠洪であろう。

 

飛島建設の社史では、工事終結までに殉職死者68人、重傷者120人、軽症者800人とする。殉職者とみなされなかった者もいたとみられる。

 発電工事以外にも朝鮮人の労働現場があった。そのひとつが阿賀野川下流の安田での南部耕地整理組合の隧道掘削工事現場である。1932年には朝鮮人が解雇反対や賃上げを要求し、ストライキに起ち上がったこともあった。この時期に掘削された水路は農業の基盤となり、今も使用されている。

 

2 戦争と昭和電工

つぎに昭和電工の成立と昭和電工鹿瀬工場での強制労働についてみよう。

森矗昶は鹿瀬発電所の余剰電力を利用するために、ダム近くに昭和肥料鹿瀬工場を建設した。昭和肥料は1928年に東信電気と東京電灯との共同出資で設立され、鹿瀬工場は1930年に完成した。鹿瀬工場では下流の小花地や水谷沢で採掘した石灰岩を利用してカーバイド、石灰窒素などを生産した。石灰岩を炉で焼くと生石灰(せいせっかい)となり、コークスと混ぜて高温で熱するとカーバイド(炭化カルシウム)となる。このカーバイドに窒素を混ぜて熱を加えると石灰窒素となる。

昭和肥料は1939年6月に日本電気工業と合併して昭和電工(社長は森矗昶)となった。昭和電工は主としてアルミニウムと肥料を製造したが、昭和電工は森コンツェルンの中心企業であった。ほかに森コンツェルンにはステンレス鋼の日本冶金工業、火薬製造の昭和火薬(日本火工)などがあった。

戦時、昭和電工は軍需生産を担い、朝鮮半島からの強制連行により労働力を補充した。昭和電工の工場で朝鮮からの動員が確認されている現場は、長野の大町(アルミニウム、黒鉛電極)・塩尻(研削材フェロアロイ、金属珪素)、新潟の鹿瀬(石灰窒素、カーバイド、黒鉛電極)、福島の広田(苛性ソーダ、塩素酸ソーダ、過塩素酸アンモニウムなど化学薬品)・喜多方(アルミニウム用炭素電極)、神奈川の川崎(アルミニウム、硫酸、硫安)、富山(アルミナ、アルミニウム)などがある。横浜工場(アルミナ、苛性ソーダ、黒鉛電極)にも動員されていたとみられる。大町や広田では工場の拡張工事に朝鮮人が動員されている。鉱業では、昭和電工は北海道に豊里炭鉱を所有し、ここにも千人規模で朝鮮人が動員された。

昭和電工は1943年に日満アルミニウムを吸収した。朝鮮でも事業を拡大し、朝鮮理研金属の経営を受託し、さらに朝鮮での工場建設をすすめた。工場は建設途中で敗戦となったが、建設に向けて多くの労働者が動員された。日本軍の委託を受け、中国では広東でタングステンの開発、フィリピンのマニラではアセチレン会社、インドネシアのパレンバンでは石油コークス工場を経営した。

森コンツェルン傘下の日本冶金では川崎工場と京都の大江山鉱山に朝鮮人が連行された。同傘下の昭和鉱業にも朝鮮人が動員された。愛媛の大久喜鉱山、島根の都茂鉱山、鰐淵鉱山、岐阜の平金鉱山、新潟の実川鉱山などでの動員を確認できる。

 
昭和肥料鹿瀬工場 葉書                  原石山 葉書

昭和電工のアルミナ、アルミニウムの生産は全国比で50%ほどであった。カーリット爆薬材料としての昭和電工広田工場の過塩素酸アンモニウムは全国生産比の50%、塩尻工場の金属珪素は95%を占めたと推定されている。カーリット爆薬はスウェーデンのカーリット社から導入されたものであり、酸化剤の過塩素酸アンモニウムを主成分とし、燃焼剤の金属珪素(珪素鉄)と木粉、結合剤として重油を入れて爆薬にする。アルミと爆薬は軍需品として重要であり、軍が管理する工場となった。。

戦時、昭和電工は軍需生産の拠点工場となり、増産態勢がとられ、そこに朝鮮人が連行された。昭和電工鹿瀬工場には朝鮮人と連合軍捕虜が強制連行された。

昭和電工鹿瀬工場に朝鮮人が強制連行されていたことは、新潟県警察部「集団移入朝鮮人労務者計画輸送ニ関スル件」(1945年9月13日、新潟県警察部特高課『内鮮関係書類綴』)に45年9月18日に「昭和電工鹿瀬工場74人」を輸送予定とする記事から明らかである。

日本電気冶金西川鉱山(磁鉄鉱採掘)では朝鮮人50人が徴用され、さらに鉱山工事土木のためにも朝鮮人を動員していた。西川鉱山の事務所は津川にあったが、採掘現場は上川の人ヶ谷にあった。西川鉱山から新潟県警察部特高課にあてた「集団移入半島労ム者早期帰国ニ関スル件」(9月21日)には、隣の谷花の昭和電工原石山に45年5~6月ころに徴用された朝鮮人が9月17日に集団帰国するのを見て、西川鉱山の徴用朝鮮人が怠業し帰国を求めている旨が記されている。谷花とは昭和電工の石灰石採掘場のあった水谷山のことである。この記載から鹿瀬工場での石灰石採掘に徴用された朝鮮人がいたことがわかる。

水谷で採掘された石灰石は策動によって7キロ先の鹿瀬工場に運ばれた。当時、労働者が渡った昭和橋は水害で流され、両端の橋脚だけが残っている。

 
                       あがのがわ環境学舎のパネル

昭和電工鹿瀬工場の連合軍捕虜に関する文書「俘虜収容所ニ関スル回答」(1946年1月21日)には、朝鮮人の宿舎が急拵のバラックであり、通風、採光、衛生などが不十分であり、1945年2月から6月まで190人を受け入れたが、作業衣、地下足袋の支給はその3分の一であったとしている。鹿瀬工場に連行された朝鮮人は石灰石採掘、その輸送、カーバイド製造などに配置されていたとみられる。

鹿瀬工場には連合軍捕虜が1944年4月の100人をはじめに45年までに約290人が連行された(東京捕虜収容所第16分所)。解放時の収容人員は288人、うちイギリス152人、オランダ86人、アメリカ50人、収容中の死者4人だった。

1945年7月26日には米軍が工場近くの丈山に模擬原爆弾を投下した。工場内には当時の建物が残っている。

 
                                          あがのがわ環境学舎のパネル

3 阿賀の金属鉱山

阿賀野川に沿って鉱山があった。鹿瀬の角神には古河鉱業の草倉鉱山があり、銅が採掘された。草倉鉱山は1914年に採掘を止めたが、この鉱山は古河鉱業の創業の地とされる。阿賀町鹿瀬支所近くの龍蔵寺には草倉銅山坑夫無縁供養塔(2015年)がある。坑夫の友子墓を集めて集合墓として追悼するものであり、古河機械金属(古河鉱業を継承)による追悼文(2018年)が刻まれている。

草倉鉱山が停止した後も阿賀野川沿いの各所で鉱石の採掘がおこなわれた。戦時に朝鮮人が強制連行された所もあった。

豊実の実川上流には昭和鉱業の実川鉱山があった。この鉱山については、戦後の調査「未処理事業場調」(厚生省労政局給与課文書1946年、『朝鮮人の在日資金調査報告書綴』1950年所収)から、実川鉱業所に35人分の未払金があることがわかる。なお、戦時の1940年、昭和鉱業の鉱山は国策会社の帝国鉱業開発の経営ヘと移管された。実川鉱山の労働者は300人ほど、そのうち半数ほどが朝鮮人になったというが、実態は不明である。

昭和鉱業との関連は不明だが、実川下流の小荒に日豊鉱山があり、1942年頃からモリブデン(輝水鉛)を採掘した。巴山組が1943年に選鉱場と採鉱坑の工事を請負った。ここに動員された朝鮮人は50人ほどとみられる。1945年の元旦、動員された崔弘斗と鄭玉葉の子、崔淇龍、崔海龍、崔泰龍の3人がそりで遊んでいた時に渓谷に滑落した。この事故で崔泰龍は木につかまり一命をとりとめたが、淇龍と海龍が亡くなった。1998年になり、崔泰龍は小荒に二人の追悼碑「鎮魂の碑」を建てた。

上川の御番沢川上流の人ヶ谷には日本電気冶金西川鉱山があった。この鉱山は戦時に磁鉄鉱の増産のために開発され、1944年11月、朝鮮半島から50人が強制連行された。鉱山の土木工事でも朝鮮人が集められた。連行された朝鮮人、文応斌(ムンウンビン)さんの証言がある。文さんは平安北道楚山郡出身、1944年11月に連行され、45年8月まで人ヶ谷で労働を強いられた。文さんは朝から夜遅くまで働いた。朝鮮人は50人ほど。食事は粟などで今からみれば家畜のえさのようなものだった。日本語ができたので通訳をした」と現地で証言した(新津市在住、当時78歳、新潟日報95年5月28日)。文さんは日本人と結婚し、日本に残った。1971年に帰郷したが、すでに母親は亡くなっていたという。

西川鉱山の近くにあった神光鉱山では1942年2月に雪崩があり、飯場の倒壊により6人が死亡、そのうち4人が朝鮮人だった。氏名は洪憬告、李来晃、金岡発、金村鎮範である(「新潟日日新聞」1942年2月23日)。

上川の広谷川上流には広谷鉱山があった。角神の古河鉱業草倉鉱山の支山として銅が採掘された。戦時の増産のなかで1942年に巴山組が選鉱場と採鉱坑の工事を請負った。この広谷鉱山にも朝鮮人が動員された。

阿賀野川の支流、新谷川上流には日本鉱業の三川鉱山があった。三川鉱山では金・銀・銅・鉛・亜鉛などが採掘されたが、戦時には銅の採掘が重視された。三川鉱山は日本政府から1940年、41年と計85人の募集の許可をうけ、42年3月までに74人を連行した。43年3月には朝鮮人数は坑内104人、坑外10人の計114人となった。当時、坑内の日本人は76人であり、坑内では朝鮮人のほうが多かった。警察が賭博を見つけると殴る、蹴るなどの暴力をふるった。落盤事故で亡くなった朝鮮人がいたという。三川鉱山は1961年に閉山した。

三川鉱山については未払い金資料が残っている(『朝鮮人の在日資金調査報告書綴』1950年)。未払い金の供託分には退職積立金、国民貯金、従業員預り金、従業員積立金、保険給付金、野村生命保険料、補給金などがある。退職積立金(通帳分)の債権者数が78となっていることから、当時、78人が帰国したとみられる。国民貯金や従業員の預り金・積立金はそれぞれ70件ほどあり、合計額は9000円ほどである。これらの貯金や預り金は強制貯金に該当するとみられる。未払い金の供託分は1万2481円96銭であり、一人あたり190円ほどが未払いであったことになる。このほかに、未供託金には遺族補償金2万8847円10銭、債権者数1と記されている。それは死亡者の遺族補償金が未払いのままであったということである。これらの未払い金は1965年の日韓請求権協定で処理済みとされた。だが遺族補償金などは遺族に支払われるべきものである。

戦時の朝鮮人の動員は鉱山だけでなく、地下施設工事でもおこなわれた。1945年2月、津川駅から約8キロ先の小川の三郷の愛宕山近くに陸軍被服廠の疎開用地下壕建設がはじまった。朝鮮人も動員され、「血みどろ、ドロまみれの作業が強要され」、「落盤のため十名前後が生き埋めになったが、一般には知らされず、ウヤムヤにうちに葬られたこともあった」という(元小川村長長谷川潔証言、「新潟日報」1953年8月15日)。地下壕の一部、5本の壕とその横を繋ぐ壕ができ、被服やミシンなどの機械の搬入が始まる頃に日本の敗戦となった。

 

4 昭和電工による水銀汚染

最後に昭和電工鹿瀬工場による水銀汚染をみておこう。

鹿瀬工場では1936年からアセトアルデヒドが製造され、その工程でメチル水銀が副生された。メチル水銀とは有機水銀化合物のひとつで毒性が強く、体内に取り込まれやすい。アセトアルデヒド製造の際に無機水銀が利用されるが、メチル水銀は水銀原子に炭素原子が結合して生まれる。

昭和電工は戦後の1957年に鹿瀬でのアセトアルデヒドの製造を強化した。それにより排水口から垂れ流されるメチル水銀が増加した。1964年、正体不明の神経疾患の患者が新潟大学医学部附属病院に入院、翌1965年、新潟大学の教員が新潟県に対し阿賀野川流域に有機水銀中毒患者が散発と報告した。これが新潟水俣病の公式発見とされる。原因は阿賀野川の魚と推定された。1966年、新潟大学の教員が鹿瀬工場の排水口の水苔からメチル水銀を検出した。

この動きの中、昭和電工は1965年初めにアセトアルデヒド製造を中止した。昭和電工はこの年に製造プラントを撤去し、アセトアルデヒドの製造工程図を焼却した。同年末には昭和電工から鹿瀬工場を分離し、鹿瀬電工を設立した(1986年に新潟昭和に名称変更)。昭和電工は証拠を隠滅し、30年間、工場排水を出してきたから、突発的に病気が発生したと説明できない、64年6月の新潟地震によって流出した農薬が原因などと反論した。

汚染を認知しない昭和電工に対し、1967年、新潟水俣病被害者は裁判に立ち上がった。このなか、日本政府は1968年に新潟水俣病の原因を昭和電工鹿瀬工場からのメチル水銀を含む排水とする見解を示した。1971年に新潟水俣病第1次訴訟の判決が出され、原告が勝訴した。

だが国の認定基準は患者を救済するのはなく切り捨てるものだった。そのため1984年、第2次訴訟が起こされた。さらに2007年には第3次訴訟が、2009年には新潟全被害者救済訴訟(4次訴訟)が、2013年には新潟水俣病抗告訴訟(5次訴訟)、2019年に新潟水俣病第2次抗告訴訟が起こされるなど、訴訟が続いた。第5次訴訟の原告は151人に及ぶ。この23年10月に新潟地裁で結審し、24年春にも判決という。被害者は救済されていないのであり、日本政府と昭和電工はその責任をとっていないわけである。

鹿瀬工場の排水口は今も残っている。阿賀野川の奔流と比べれば排水口は小さなものである。だがメチル水銀は魚に蓄積し、人間へと生体濃縮された。環境汚染の教訓は「薄めれば安全」ではなく、総量規制が必要であり、汚染物質の排出自体を中止すべきということである。2023年8月、日本政府は福島原発事故汚染水を処理水と表現し、希釈すれば安全と海洋に放出し始めた。だが安全ではなく、その後の責任をとることもできないだろう。


現在の排水口                   あがのがわ学舎のパネル

2023年、昭和電工は昭和電工マテリアルズ(旧日立化成)と合併し、レゾナックと名称を変え、半導体を主軸とする企業になった。レゾナックは共鳴(resonate)と化学(chemistry)を組み合わせた造語であり、レゾナックのウェブサイトによれば、自らを「地球環境と人びとの幸福の両立」を目指す「共創型化学会社」とする。しかしウェブサイトには新潟での水銀汚染の歴史や戦時の軍需生産と強制労働については記されていない。史実は示されず、反省は記されない。このように名前を変えても、強制労働や環境汚染の歴史的責任を消し去ることはできない。(竹内)   

                 

 参考文献

小野清造「収益時代を迎えて国策の第一線を往く昭和鉱業株式会社の事業内容」1938年

新潟県警察部特別高等課『昭和二十年内鮮関係書類綴』1945年(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書13』1990年所収)

労働省『朝鮮人の在日資産調査報告書綴』1950年、国立公文書館つくば分館蔵

『経済協力 韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』大蔵省1953年、国立公文書館つくば分館蔵

五十嵐文雄『新潟水俣病』合同出版1971年

『昭和電工50年史』昭和電工1977年

『新聞などに見る新潟県内韓国・朝鮮人の足跡』新潟県高等学校教職員組合平和教育研究委員会2006年

『新潟県内における韓国・朝鮮人の足跡をたどる』新潟県高等学校教職員組合平和教育研究委員会2010年

『現場から学ぶ新潟水俣病』新潟県福祉保健部生活衛生課2018年

あがのがわ環境学舎「貴重な写真でたどる阿賀野川流域 水との闘い・水の恵み」(パネル)新潟県2021年

木村昭雄編「阿賀の韓国・朝鮮人の足跡を訪ねて」(フィールドワーク資料集)2023年