信濃川水系発電工事での朝鮮人強制労働

ここでは「信濃川水系発電工事での朝鮮人強制労働」の題で、1920年代の中津川発電工事と1930年代から40年代前半の信濃川発電工事(鉄道省と東京電灯)における朝鮮人労働の状態について記したい。

先行研究で、主なものをあげれば、中津川発電工事での朝鮮人の虐待・虐殺については佐藤泰治「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」(「在日朝鮮人史研究」15)がある。信濃川発電工事における労働の状態については、概要が佐藤泰治「新潟県における朝鮮人・ノート」(『新潟近代史研究』3)、同「信濃川水系の発電所」(「平和教育研究委員会資料シリーズ第1集 中国人・朝鮮人強制連行の地を訪ねる旅」)に記されている。

中津川朝鮮人虐殺事件から100年目の2022年7月、佐藤泰治氏の案内で現地を調査する機会があった(新潟日報2022年)。ここではその調査をふまえ、収集した史料をまとめていく(以下、文中敬称略)。

 

1 中津川発電工事と朝鮮人

⑴   中津川発電工事の概要

秋山郷を流れる中津川は長野県栄村から新潟県津南町に至り、信濃川に合流する。この中津川での発電工事は東京電灯の子会社信越電力によるものである。その後、信越電力は東京電灯に吸収され、東京電灯は戦時に日本発送電に統合された。戦後の電力分割により、現在は東京電力となっている。

中津川発電工事は栄村の切明で取水し、導水路で津南町の結東の高野山貯水池まで運び、そこから穴藤(けっとう)の集落近くに建設した中津川第1発電所に水を落として発電する。さらに水を導水路で津南町の芦ヶ崎まで運び、中津川第2発電所で発電するというものである。この工事をすすめるために第2発電所の近く、芦ヶ崎の中津橋付近に先に補助(第3)発電所を建設した。

導水路のトンネルは、切明から第1発電所の穴藤まで約15キロ、穴藤から第2発電所まで約10キロあり、合わせて25キロを超える。また、芦ヶ崎から切明まで軌道工事をおこない、電車による資材搬入をおこなった。軌道は支線を含めると40キロを超えるものになった。

補助発電所の建設工事は1919年から21年5月にかけて行われた。その電力を利用して第2発電所の工事が21年6月から始まり、23年4月の第2発電所の沖の原調整池が竣工で終了した。第1発電所の工事は22年6月からはじまり、24年9月の第1発電所の高野山調整池の竣工で終わった(津南町1985、316頁)この工事を大林組、日本土木(大倉土木)などが請け負った。日本土木の社名の推移をみておけば、1917年に大倉土木組、1910年に日本土木、1924年に大倉土木、1946年に大成建設と名称が変っている。

中津川第2発電所工事では、大林組が芦ヶ崎の第2発電所、日本土木が水路工事を請け負った。第1発電所工事では、第1発電所を穴藤に建設し、日本土木が結東から前倉までの水路工事、発電所工事、調整池工事を、大林組が長野県の屋敷から切明までの水路工区を請け負った。

 
                               中津川第1発電所上部

これらの工事には朝鮮人も多く働いた。朝鮮人は日本人労働者と共に集落内の民家に寄宿、あるいは朝鮮人用の飯場に収容された。朝鮮人労働者は補助発電所の用地工事の頃から労働していたという(佐藤泰治1982年、8頁)。

日本土木と大林組には下請けの組があった。日本土木には日本土木直営のほかに鈴木音二郎、清水清吉、柳田伊三郎などの下請けがあった(佐藤泰治1985年②、表6,93頁)。日本土木の下請け、鈴木音二郎を頭とする組は鈴木工業部といい、拠点を穴藤の集落に置いた。主としてこの鈴木工業部で朝鮮人への虐待がなされ、とくに鈴木音次郎の弟の鈴木勝次郎(三勝)の現場での虐待が知られるようになった。

これまでの調査により、中津川第1発電工事関係史料が確認されている。そのなかの「中津川第一線切明建物関係及雑工事関係」には県境の前倉の飯場の設計図がある。また、「中津川第一線前倉出張所各課関係雑書類」では、1923年3月時点での第1発電所工事の従業員総数を7167人、そのうち請負者別の従業員総数を6444人とする。また工事を請け負った大林組、日本土木配下の下請け業者が、結東原と切明を中心に21か所に分散配置され、穴藤にも787人が配置されていたことがわかる(佐藤泰治1982年9、13、14、28頁、事業地・従業員の一覧表は津南町①1984年、384頁に掲載、史料は東京電力株式会社信濃川電力所総合制御所蔵)。

1933年の北越新報の記事「電気王国今昔譚」によれば、この工事での労働者数は1万3~4000人であり、死者は83人に及んだ。屋敷での隧道事故で3人が死亡することがあった。募集された朝鮮人100人が来たのは1921年12月29日という。逃亡の見せしめに河原に引っ張り出して磔場のように木を3本組み合わせて吊し、竹棒で叩きつける。働きぶりが気にいらないとハンマーで背中を殴るといった虐待がなされた(「電気王国今昔譚」1~3『北越新報』1933年12月12~14日、佐藤泰治2022年①所収、2、3頁)。

 

⑵   李相協(「東亜日報」)の調査報道

 中津川発電工事現場での朝鮮人虐待・虐殺は1922年7月29日の「読売新聞」の報道により、「信濃川朝鮮人虐殺事件」の名で社会問題となった。報道は信濃川を朝鮮人の虐殺死体が流れる、逃げ出すとなぶり殺し、山中にも腐乱死体というものだった。

 この報道を受けて「東亜日報」は編集局長の李相協を日本に派遣した。李相協は22年8月6日にソウルを出発し、東京を経て8月12日に新潟に到着した。李は新潟事件特電記事を送り続けた。東京の朝鮮人団体の黒濤会は金若水を、ソウルの新潟県朝鮮人虐殺事件調査会は羅景錫を現地に送った。この3人は現地で合流し、共同で調査した。東京苦学生同友会で活動し、黒濤会員でもあった黄錫禹も現地調査をおこなった。

李相協は8月20日に東京に戻り、現地調査をまとめ、8月23日から9月4日にかけて「新潟の殺人境=穴藤踏査記」を12回にわたり連載した。この記事から虐待・虐殺の実態をみてみよう(以下、張明秀1982年所収の翻訳記事を要約)。

日本土木(大倉組)の説明では実働9時間というが、夜があければ仕事をはじめ、日がすっかり暮れるまでが定めである。忙しときには若干の交代だけで夜が明けるまで働かせることもある。朝鮮人の仕事は硫黄の匂いで息が詰まるような洞窟に入って火薬を扱う、つま先で身をささえ切り立つ山腹に道を切り開くような危険な労働である。3日に1日はマラリア患者のように寝込まずには体力や気力を持ちこたえることはできない。1日休むと食事代70銭は引かれ、22~3日間、死に物狂いの苦役をしても7~8日間の食事代が引かれ、16~17日分の稼ぎにしかならない(「穴藤踏査記1」)。

信越電力の水電工事を請け負っているのは大林組と日本土木(大倉組)の2社である。所轄巡査駐在所によれば、朝鮮人は1923年2月末には男48人だったが、3月末には244人(うち女10人)、4月末には383人(うち女17人)、5月末には492人(うち女23人)、6月末には587人(うち女29人)、7月末には867人(うち女34人)となった。多くが慶尚南道出身である。大林組の朝鮮人は会社との関係が長くて問題はない。大倉組には自由労働者と朝鮮からの募集労働者がいて、大倉組の朝鮮人約600人のうち募集労働者は400人であり、彼らがひどい虐待を受けている。募集人は甘言利説で騙して募集し、釜山から貨物船で神戸に送り、鉄道で工事現場に連れてきた。募集人は募集労働者の賃金のうち15銭から20銭を得ている。志願による募集のように見せかけているが、実際は詐欺であり、人身売買と変わらない(「穴藤踏査記2」)。

大倉組の下には請負の頭目が4人いて、その頭目の下の小頭が労働者を直接管理している。飯場で労働者は寝起きし、飯場の頭によって監督される。頭目、小頭とピラミッド型の支配があり、小頭は労働者一人に1日15銭以上、頭目は合計工賃の10分の1以上を掠め取る制度になっている。過酷な労働で10人分に相当する仕事を7~8人にやらせ、10日くらいを要する仕事を8~9日で完成させる。そうして1~2人分の賃金と1~2日の賃金を掠め取る。賃金の高い労働者と偽り、安い労働者を使って掠め取ることもある。頭目たちはこのような現場を渡り歩き、人に悪行を加えることを手易く考え、暴圧で儲けた金を貯めることに長けている。笑みを浮かべながらいくらでも人を殺せるという陰険な輩である(「穴藤踏査記3」)。

契約では労働者の募集費用は雇用主負担としているが、実情は日本から集めた労働者に比べ賃金を少なく支払って搾りあげる。仕事上の病気の場合でも治療費を支払わないことがあり、薬代を労働者に支払わせる例が少なくない。仕事を休めば賃金は貰えず、飯代は支払わなければならない。苦役と虐待で死ぬほどの重病になり、帰国を再三願ってもどうしても送り返そうとしない。死亡者の慰労金が支給された例はない。契約書は20~30人の労働者の代表者にしか渡されていない。わずかな権利を主張できる契約の根拠は示されず、ゲンコツと棍棒で勝手気ままに義務が強制されている(「穴藤踏査記4」)。

差別待遇をあげれば、日本人は前借金があれば3か月仕事をするという条件が付くが、朝鮮人には1銭の金を貸すこともなく20か月間は必ず仕事を続けなければならないとする。同一労働でも日本人と朝鮮人の間には平均日給で30~50銭の差がある。朝鮮人の危険な仕事や時間外労働には工賃が付かない。仕事が指示通りにおこなわれていないと朝鮮人を足蹴りにして棍棒で殴りつけ、「朝鮮人は犬より劣るから豚と同じ」と侮辱する。このような生の地獄室から逃亡して捕まれば、頭目の部下によって残酷な悪刑を受ける(「穴藤踏査記5」)。

 頭目たちは労働者一人から3重、4重に毎日剥ぎとる金が無くなるのを恐れ、必死になって逃亡を取り締まる。逃亡者を憎み、暴悪な力で防ごうとする。道筋には、頭目らの手下が待ち受け、コソ泥をつかまえるように一斉に飛びかかる。自動車営業所も頭目とつながっている。駐在所の巡査も「朝鮮人は注意人物」とみなし意気込んで捕らえる。近隣の日本人らは協力して朝鮮人の逃亡する道に網を張っている。逃亡した朝鮮人で餓死する人、重病にかかる人もいる。日本人の方が逃亡する割合が高いのが、実情だ(「穴藤踏査記6」)。

 飯場という仮屋は牛舎のようである。険しい山を背に、深い川に向け、敷地を選ぶ。それは逃走防止のために考案されたものだ。一棟に平均6~70人が住み、出入口は一か所しかない。まるで荒づくりの臨時留置場のようであり、「監獄部屋」とはぴったりな呼び名である。食事もなかで作り、便所もなかにある。仕事を終えて労働者が中に入ると、頭は出入口に錠をかける。煮物、大小便、汗、土などあらゆる臭いが入り混じり、疲れた身体をゆっくりと横たえることはできない。夜中に出入口に近づくと頭の飼うセパードが牙をむいて飛びかかる(「穴藤踏査記7」)。

 大倉組の下の鈴木音次郎という頭目は最も多くの仕事を請負い、労働者500人のうち朝鮮人が300人余りである。地獄谷と呼ばれる穴藤での仕事のほとんどを担当している。労働者虐待事件のほとんどがこの鈴木の現場で生じている。鈴木の小頭の中島(良三郎)と三勝(鈴木勝次郎)が特にあくどい。中島の飯場では、沈東介は重病で苦しんでいたが、帰郷させることもなく、7月中旬に亡くなり、川岸の墓地に埋められた。弔慰金も出さなかった。記者の質問に対する大倉組の返事はうっかり忘れたためという。長野県の山中で朝鮮人の惨殺死体が発見されたという報道があったが、それに対する警察巡査の調査は、中島の飯場の慶南密陽出身の兄弟、朴珍烈と朴寿烈が逃亡して飢え死にしたものという。中島の配下の吾妻秀松が穴藤からさらに奥地の山中に飯場を持っている。そこで朱洛淳、李洪根の二人が逃亡したが、捕まった。二人は殴打され、見せしめに四肢を縛られ、松の枝につるされ、終日放置された。二人は健康で気丈だったから命は救われた。今まで病気で死んだ人のなかに虐待が原因で病にかかった者はないと誰が断言できるのか(「穴藤踏査記8」)。

 三勝は鈴木音次郎の弟であるが、虐待か虐殺なのか見分けのつかないような残酷な行為をおこなった。密陽出身の金甲喆は当時19歳であった。大人一人分の仕事をさせられたが、工賃は半人分だった。激しい仕事と棍棒やゲンコツによって生命をすり減らし、2月に逃亡したが捕らえられた。三勝は角棒で殴るだけでなく、裸にして縄で縛り、荷鈎で肌を突き刺し、雪の穴に放り込んだ。金甲喆は2週間、体を動かせなかった。その傷あとは今も残っている。三勝の飯場から禹徳東、禹允成、禹仁賛の3人が逃げたが、捕らえられた。裸にして冷水に投げ込み、縛って正座させ、砂利とセメントを身体の周りに詰め込み、水をかけて放置した。同僚の哀願により気絶寸前で助け出され、命だけは助かった。申明玉、権元竜も逃亡して捕まったが、滅多打ちにされて屋外に引きずり出された。そこで頭の上に両腕で鉄板を持ちあげさせ、降ろせば棍棒で殴打された。2人は2度目の逃亡を計って成功した。三勝は労働者に往来する手紙を先に読んで悪刑を加えた。申明益への大阪の兄からの手紙に、虐待があまりにひどいようだからこちらに働きに来たらどうかとあるのを見つけ、申をコンクリート漬けにしたという(「穴藤踏査記9」)。

 三勝の飯場は逃亡した人を木に逆さに吊るして放置する、木に縛り付けて昼夜風雨にさらすなどの虐待をおこなっているが、警察は説諭すらしない。鈴木の下に三勝と同じ小頭の浜田がいる。浜田は逃げた者を刃物で切り付け血だるまにし、冷水に放り込んだ。激しい虐待と悪刑のため逃亡する者が後を絶たず、残った者も命がけで反抗するようになった。すると残った者を他の頭目に振り分け、朝鮮に渡って労働者を募集しているという。逃亡を防ぐために、ひと月の労賃を翌月の10日以内に出すのも適当ではないが、実際にはさらに1日、2日と遅らせ、月の20日を過ぎて出すこともしばしばである。仕事を休んだ分の食事代、酒代、煙草代、靴代、衣服代などその月の分が月の賃金から容赦なく差し引かれる。受け取る労賃を22日働いて33円と仮定しても、実際は数円程度になる。そのうえ頭目によっては貯金の名目で賃金の10分の1以上を強制的に取り上げる。月日がたてば少なからぬ額になるが、逃亡させない担保となる。逃亡すれば70円から30円を捨てることになる。残された金は頭目が自分のものにする。大倉組は京釜鉄道工事以来、朝鮮で大工事を手掛け、朝鮮人労働者を蔑視して、虐待もひどかった。朝鮮人への犬や豚に対するような虐待をさせてはならない(「穴藤踏査記10」)。


三勝が利用した建物

駐在所調査では、信濃川で発見された死体の朝鮮人は京幾道江華出身の安永喆であり、板の橋から足を踏み外して落ちたもの、頭目が殺したものではないという。朝鮮人はトンネル工事での爆薬事故、絶壁での落石事故で死んだ者がいるが、頭目が虐殺した事実はないという。我々の調査では朝鮮人労働者を直接殺した事実は発見できなかったが、この駐在所の調査が正確と信じることはできない。朝鮮総督府は東亜日報を押収したという事情から、駐在所の報告をそのまま紹介するにとどめる。穴藤の工事現場では行方不明者を逃亡と片付けているが、その行方を一つひとつ確認できないのは遺憾である(「穴藤踏査記11」)。

十日町警察署は現場からは遠く、工事場を直接管轄するのは大割野の駐在所である。そこの巡査数名は会社の請願巡査という。朝鮮語を解する2人の巡査が配置されているが、一名は咸鏡北道茂山の元憲兵であり、一名は京城鐘路警察署で巡査をしていた者である。朝鮮人労働者をうまく使うのかなどの方針はこの二人の判断を待って決定されるという。このような警察官が3日に一度巡回したところで、どれほど朝鮮人の便宜を図るというのか。所管の警察は朴珍烈と朴寿烈が逃亡して兄の朴珍烈が飢死と報告したというが、最近、朴珍烈から工事現場の労働者に手紙が来た。手紙によれば死んだのは朴寿烈という。朝鮮人労働者の話によれば水に落ちて死んだという。工事現場で働く金学述、南学戌のうちの一人が仕事中に死亡したが、駐在所では金と南を取り違えて記録したため、生きている人が死んだことになった。警察の調査はこれほどいい加減である。力のある者が罪悪を隠そうと思えばいくらでもできるだろう。警察署長は責任逃れで書かれた報告書だけを信じ、虐殺の事実があるとか、ないとか断定している。このような態度はとぼけたものだ(「穴藤踏査記12」)。

この李相協の報告は、第1に朝鮮人労働者を虐待する飯場のありかを明らかにした。とくに虐待があったのは日本土木の下請け、鈴木工業部であり、穴藤周辺の飯場である。第2に朝鮮人労働者の募集と労働の実態を明らかにした。甘言による人身売買のような募集、飯場での拘束、親方による中間搾取、契約違反、2重3重の賃金の搾取、侮辱と差別、強制貯金、手紙の開封、棍棒での暴力などを具体的に示した。第3に虐待の実態を具体的に明らかにした。病者を帰郷させない、逃亡者を木に吊るす、荷鈎で刺して雪の中に放り込む、セメント漬けにする、鉄板を持ち上げさせ降ろすと棍棒で殴るなど、致死に至る暴行が繰り返されていたことを示した。第4に警察と企業との癒着を示した。駐在所の巡査は植民地統治の経験者が充てられ、企業のための治安管理がなされた。巡査の報告には死者名を間違えるものもあり、罪悪が隠蔽される状況であることが示された。

 このように李相協は権力による監視と妨害のなか、朝鮮人募集とその労働、現場での搾取と虐待の実態、警察の監視の不十分性を示し、社会に問題を提起したのである。

 

⑶   日本政府による虐殺の隠蔽

 「東亜日報」は1922年8月1日付記事でこの虐殺事件を報道したが、朝鮮総督府は発売禁止とし、押収した。日本の内務省は事実無根、新聞報道のようなことはないとし、朝鮮人労働者二人が逃亡して病死したことがそのよう風説となったとした。そのなか、ソウルでは新潟県朝鮮人虐殺事件調査会が発足した。しかし鐘路警察署は「虐殺」の2字は穏当ではないとし、看板を外すように迫り、看板を取り外させた。8月9日、金若水ら3人に対し内務省警保局長は新潟県知事の報告によれば「誤報」と話した(東京日日新聞8月9日付)。新潟新聞と新潟毎日新聞の両紙は8月12日付けで当局情報を記し、虐殺は「誤報」とする記事を掲載した。また両紙には8月16日付けで、新潟県保安課警部の調査として朝鮮人は労働者の3分の1を占めて820人いるが、虐待は認められないという記事を掲載した。

これに対し、8月20日、李相協ら3人は東京で報告会を持ち、今後の方針を協議しようとしたが、警察は解散を命じた。8月26日の調査会の会議では、演説会など方法で世論を盛り上げる、大倉組に無法な契約解除を求める、未払いの工賃、弔慰金を支払わせる、不法な手段での募集を防止する、各地の実態を調査し待遇を改善するといった方針が議論された(東亜日報8月28日付)。9月7日、東京で朝鮮人労働者虐殺事件の演説会が開催されたが、警察や警視庁内鮮係が監視し、集会途中で解散が命じられた(東亜日報9月9日付)。9月16日、朝鮮人虐殺事件調査会は、在日本朝鮮人労働者状況調査会の設置を目指し、東京で総会を開催したが、警察は総会の解散を命じた(東亜日報9月18日付)。

このように政府側は虐待や虐殺を否定し、真相調査の活動を妨害したのである。

そのなか、朝鮮の調査会は9月27日、報告演説会を持ち、現場で人に石を縛り絶壁から突き落す現場目撃者を明らかにするよう内務省に交渉する、労働者を連れていく時20か月間は他所に移さないという契約を解除するよう当局と交渉する、死亡者の家族に慰謝料の支払いを契約どおり実行させる、の3点を決議した。

 問題の発端となった読売新聞の7月29日の記事では、下穴藤の高さ1450尺の断崖から一人の朝鮮人に大石を結び付けて投げ込んだのを、村民が来て内々知らせてくれたという官吏の話を記している。それに対して政府はその後の読売新聞の特派記者の記事の掲載を中止させ、誰にも内容を話さないよう約束させた(東亜日報8月13日付)。読売の特派記者は東亜日報の取材に、虐殺現場を見たというのは電力会社の使用人であり、内務省には詳細に話したと語った(東亜日報8月20日付)。「新潟新聞」(8月5日付)は「残忍極まる地獄谷 信越国境の山中 此処だけは治外法権」の題で、「朝鮮人を投げた処」を確認し、信越電力の技師の「日本人人夫等は何れも大名気分で君主専制の有様で我々監督者の目を盗んであんなことを遂にやって仕舞った」という談を記している。

電力会社の関係者が断崖から朝鮮人が投棄されたと話しているのであるから、虐殺は事実だろう。李相協らの調査からも虐待致死に至る暴力がなされていることがわかる。このような虐殺事件はあったが、国家権力は朝鮮人への虐殺事件として社会問題となり、民族運動や労働運動が高まることを恐れ、「誤報」と宣伝し、事件を隠蔽したとみるべきだろう。

なお、朝鮮人の死亡については「中津川第一水路工事 大倉組加算式以外」に従業員死傷者の治療費・慰謝料等の請求資料が収録され、1924年3月末での朝鮮人の業務上の死傷者数は死亡5,負傷44である(佐藤泰治1982年、14、15頁)。鈴木音次郎配下での死者には、金成録の名があり、即死とされている。記録されているものは30日以上の負傷であり、重傷者である。鈴木音次郎・配下の場合、20人が記録され、日本人は5人、あとは朝鮮人である(佐藤泰治2022年②、8頁)。「中津川第一水路工事 大倉組加算式以外」に記載されている朝鮮人の死亡者は金成録の他に李基祚、林五萬(柳田伊三郎配下)、金国宝(宮川豊吉配下)、姜相律(清水清吉配下)がある。死傷の状況から労働現場の危険な状況がわかる。

この中津川虐殺事件を契機に1922年に東京朝鮮労働同盟会が結成され、1925年には在日本朝鮮労働総同盟が結成された。朝鮮人による労働争議も盛んになった。

1928年12月、この朝鮮労働総同盟に加盟する形で新潟県朝鮮労働組合が結成された。新潟の朝鮮労組は青海の日本電化、谷浜の鉄道護岸工事、姫川鉄橋の保線区砂利採取工事、米坂線鉄道工事などの争議に関与した(橋沢裕子1987年)。

 

⑷   住民の証言と再度の隠蔽

この中津川での朝鮮人の虐待・虐殺についての地域住民の証言が収集され、公開されたのは、事件から60年後のことである。日本土木の鈴木工業部の拠点となった穴藤や見玉の民家には労働者が寄宿し、飯場も建てられた。住民への聞き取り調査は津南町史編纂事業としてすすめられ、佐藤泰治は『津南町史』の調査執筆員として証言調査をすすめた。それにより、穴藤や見玉での朝鮮人虐待・虐殺に関する証言が収集された。佐藤泰治は「新潟県における朝鮮人・ノート」(『新潟近代史研究』3、1982年)で穴藤や見玉の地区住民の目撃証言から虐待・虐殺の実態を示した。

さらに佐藤はその調査報告を『津南町史編集資料19』に「中津川朝鮮人虐殺事件と今日的課題」(のちに「中津川発電工事と朝鮮人労働者」と改題)を掲載する予定であったが、町により掲載は拒否された。それは「独善的で偏狭な愛郷心」による検閲であった。(佐藤泰治1989年、87頁)。この原稿は加筆され、「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」(『在日朝鮮人史研究』15、1985年)の形で掲載された。

収集された証言をみてみよう(佐藤泰治2022年①、12~15頁、要約)。

 まず、朝鮮人の居住についてである。穴藤には鉄管路の下、幅道など朝鮮飯場は5つあった。鈴木工業部の朝鮮飯場が一番大きかった(穴藤、涌井彦一、1907年生)。自宅前に鈴木(音次郎)、こちらの空地に柳田(伊三郎)の事務所が置かれた。浜田(与五郎)が朝鮮に行き、200人以上、何回も連れてきた。まとまって200人連れてきたときは穴藤の上方のセメント倉庫(水天宮の脇)に入れた。朝鮮飯場で大きなものが2棟あった。朝鮮人は800人くらいいた。(穴藤、涌井国重1907年生)。(見玉の)村中がほとんど工事に関わっていた。土方が各戸に入った。多いところで30人、わたしのところで22~3人いた。朝鮮人もいた。一緒に家に住み、土方の親方に使われた(見玉、中沢郡十郎、1906年生)。自宅には中島良三郎という請負師がいた。人夫を泊め、多い時には7~80人いた。朝鮮人もいた。賄いは朝鮮人の女がやった。自分も朝鮮人と一緒にモッコ担ぎをした(見玉、中沢盛正、1907年生)。

 つぎに朝鮮人への虐待である。(穴藤の三勝が留まった)涌井勝次郎の家には朝鮮人20人、日本人10人くらいいた。あそこの家は上の方から見ればよく見えた。今晩はケツワリを連れてきたから叩くぞというので行ってみれば、朝鮮人を皆の見ている前で叩いたり、頭の毛を鉈で切るんだ。鉈で髪を切れば終わりだ。たびたびあった。三勝がするのではなく、世話役の棒頭のあんちゃんと大熊だ。あんだけすれば、もう逃亡しない(涌井彦一)。(見玉の)中島の棒頭がセメント樽の板をはいで持ち、怠けると板でケツをひっぱたいた。ほとんど奴隷扱いで、耐えられなくて逃げていくと、棒を持った番がいた。捕まれば死ぬくらいに叩かれた。中島の仕事場は沈砂池、けがで死んだ者などはそこらへ埋めたり、捨てたんでしょう。リンチは見ていられない。私の家には土間があり、蓆を敷いていた。血でもって真紅に染まった。宿へ連れてきて棒でひっぱたき、刀を出してきて斬るというので(それは困ると、刀は)こちらで預かった(中沢盛正)。小学校に入学したころだが、朝鮮人が白い服を着たままぞろぞろと連れてこられた。棒で朝鮮人を叩いていた。その後もたびたび朝鮮人の集団が通るのを見かけた(滝沢秀男、1916年生)。朝鮮人が寒中、ソリを引っ張っていたのを(棒頭が)棒で叩いているのを見た。旧草津街道の復旧を手伝ったことがある。野反に川鱒や米を牛で運んだ。その際、あちこちの樹木に縊死体がぶら下がっているのを何度も見た。関わりあいになるのも嫌だし、無政府みたいだった(石沢松三郎、1902年生)。

 虐殺についてはつぎのようにいう。

 (虐殺は)あるね、あったと思うね。高野山の辺では埋められたんではないかね。人柱となって入ったんじゃないかな。水の中に入れて、コンクリート入れて流し込んだり、いい付けで、やったんでしょう。かなり死んでると思う(中沢盛正)。父が、逃げた朝鮮人が捕まって、冬、ぐるぐる巻きにして川のなかにつけたのをみた。父の話では県境の森宮野原まで追い詰められ(信濃川に)飛び込んだそうです(涌井米造1900年生、同席した嫁の発言、「飛び込んだ朝鮮人は死んだのか」の問いに父の米造は「おう、もちろん」と答えた)。

 国家権力は虐殺を隠蔽しようとしたが、虐待を目撃した住民は虐殺を否定しない。逃亡した朝鮮人の溺死体が信濃川を流れることもあったのである。戦後、熊谷組が請け負った中津川発電所の拡張工事(1969~72)では工事現場で、白骨が出てきた。現在の穴藤ダムはこの工事で建設された。

 (第2)発電所を少し大きくするため(調整池からの鉄管の下を掘ったところ)、人骨が段ボールひとつくらい出た。実際に見た。親方が掘り出してきて、粗末にしちゃいけねえ、丁重に扱わなければといって事務室の隅に置いたのを他所に埋めさせた(中沢郡十郎)。熊谷組で働いていた友人が鉄管路を支える一番下のコンクリートを掘っていたら、突然、ボコッと穴が開いて白骨が出てきたといった。一体きりだったが、面倒になると困るので、上の方には話さず、監督くらいに話をしてそのあたりに始末した(小林幸次郎、1921年生)。

 正体不明の白骨の発見は他にもある。1924年頃、炭焼きをしていた人が山の中で白骨を発見し、寺に運んで葬った。飯場から山へ逃げるが、何年もたってから村人が白骨を見つけたなどの証言がある(新潟日報1982年)。

村人の目の前に現れた白骨、拡張工事で発見された白骨は、当時の労働の虐待・虐殺を物語るものである。しかし身元の調査はなされず、真相は究明されなかった。

津南町史編纂の過程ではこのような朝鮮人虐待・虐殺の証言が得られた。しかし、津南町はそれを町史編集資料に掲載しなかった(津南町1984年①)。そのなか、佐藤泰治は『新潟県史通史編8近代3』(新潟県1988年)で新潟県での朝鮮人史の項目を担当し、「中津川第2発電所と朝鮮人虐殺事件」の項を置いた。そこで虐殺の真相究明の活動の存在と国家権力による干渉の動きを記した。さらに、新潟県の日本人と朝鮮人が共同しての調査活動がすすめられ、1988年11月5日「中津川朝鮮人虐殺事件調査報告集会」がもたれた(張明秀1988年)。

そこで佐藤泰治は「中津川朝鮮人虐殺事件究明の今日的意義」の題で講演し、朝鮮人虐待・虐殺の実態を示して次のようにまとめた。津南の近代化には朝鮮人多数の尽力があったのです。その朝鮮人が虐待、虐殺されたことを掲載することが町の恥でしょうか。もし恥だというのであれば、町の近代化に尽力した朝鮮人を供養もしないでコンクリートや川や土の中に放置し、露呈すると大慌てで取り繕う態度でしょう。津南町民の本当に多数がこの事件を正確に知る必要などない、おぞましいからと隠蔽を希望するでしょうか。掲載を拒むことが加害者を擁護することになると気付けば、加害者の側に立つことを潔しとしないと考える町民が圧倒的に多いでしょう。真の国際親善とは何かを一緒に語り合える機会ができたことを喜びたい(佐藤泰治1989年、88~91頁要約)。

津南町史編集資料での朝鮮人虐殺記事の不掲載から20年、2002年6月、十日町市内で朝鮮人強制連行・強制労働を考える魚沼集会がもたれた。主催は歴史教科書問題を考える魚沼地域ネットワークである。その会で佐藤は「中津川事件と私たち」の題で講演し、現地視察もおこなわれた。このように真相究明の活動は続いた。

 中津川発電工事での朝鮮人死者は、李相協の調査から安永喆(溺死)、朴寿烈(逃亡死)、沈東介(病死)の名がわかる。当時の新聞記事からは、芦ヶ崎の10号隧道工事で金磐石が中津川に墜落死(1921年12月)、結東の34号隧道で竹谷配下の都乙俊が岩石落下による出血多量で死亡(1923年7月)、結東原で武田作太郎配下の姜相律が竪穴に墜落死(同年7月)、高野山の3号隧道で柳田伊三郎飯場の金国宝(慶尚道)が土砂崩落により死亡(同年9月)、文在玉の変死により遺族が飢餓状態(1924年3月)などとある。さらに切明の取水口堰堤復旧工事で断崖からの岩石落下で朝鮮人二人が死亡している(1927年12月、平和教育研究委員会2006年所収記事)。従業員死傷者の治療費・慰謝料等の請求書からは金成録、李基祚、林五萬、金国宝、姜相律の死亡がわかる。

これ以外にもコンクリートのなかに埋め込まれた人も含め、多くの人びとが命を失ったとみられる。重傷を負ったものも多い。すでに中津川朝鮮人虐殺事件から100年が経つが、真相が究明されたとはいえない。そこで苦しめられた人びとの「恨」も解かれてはいない。

なお、大割野付近には吉野家、美都本、岡崎屋、寿しや、宮野原付近には金楽亭、光陽館などの芸妓を置く店ができ、1924年頃にはその数は50人を超えた。「大割野花柳界の大盛況」という記述に隠された性の搾取の問題についても明らかにされるべきだろう(津南町1984年①、110~112頁)。1922年11月の高田新聞には、朝鮮人女性4人が直江津の遊郭、浜松楼に移籍し、警察が鑑札の下附を了解したという記事がある(平和教育研究委員会2006年、9頁)。中津川付近にも朝鮮人女性が連行されてきたとみられる。

後にみる信濃川発電工事では1933年8月、貝野村宮中のカフェで朝鮮人女性に性売買を強制し逃亡すると柱に裸体で縛り半殺しにしたという報道がある(平和教育研究委員会2006年、33頁)。これ以外にも女性への連行、虐待があったとみられる。

この事件から100年の現在、中津川流域の秋山郷は「苗場山麓ジオパーク」とされ、原生林、柱状節理の岸壁、温泉などの観光地の中心となっている。道路も整備され、歴史民俗の資料館で新設されたものもある。だが、過疎化はすすみ、穴藤では廃屋が増え、朝鮮人を収容した建物で崩壊したものもある。穴藤の中津川第1発電所は戦後に拡張され、構内にその時の追悼碑があるが、戦前の死者については記されていない。このなか、新たな視点で電源開発での朝鮮人労働の歴史が記され、そこで起きた虐待・虐殺の歴史も示されるべきだろう。そうすることで新たな日韓の交流の場が生まれると思う。

 

2 信濃川発電工事と朝鮮人

⑴   信濃川発電工事の概要

中津川発電工事とともに飯山鉄道の工事がすすめられた。飯山鉄道は長野県の豊野から新潟県の十日町を経て越後川口までの路線である。信越電力は発電工事物資の輸送手段とするためにこの鉄道工事に出資した。飯山鉄道の第一工区(森宮野原から小出原第1隧道入口)を大林組、第2工区(辰ノ口まで)を飛島組が請けたが、1926年頃、土工1800人のうち1000人が朝鮮人だった。3交替制は建前であり実際は割当制、朝鮮人は割安とされ、下請けの小頭による中間搾取がなされていた(「飯鉄工事視察記」十日町新聞1929年9月15,25日、平和教育研究委員会2006年)。

新聞記事からは飯山鉄道工事での死亡者の一部がわかる。1925年5月、李基連が土砂崩壊で生き埋めとなり死亡、25年9月、金仁実がトンネル工事中に岩石落下により即死、26年6月、孫有成が羽倉の工事現場で岩石落下により即死、同年7月、朴章煥が羽倉で岩石落下により圧死、同年9月、飛島組配下の朝鮮人山口金吉が岨滝トンネルで夜業中、岩石落下のため死亡、27年7月、田沢トンネル落盤事故で23人が埋没、そのうち日本人13人、朝鮮人5人(白碵浩、河漢鎬ほか)が死亡した(平和教育研究委員会2006年)。

川沿いにトンネルを多数掘りぬく工事であり、事故が多く、死傷者が出た。難工事の末、1929年9月、飯山鉄道は十日町駅に到達した。すでに1927年11月に国鉄の十日町線が開通していたため新潟から長野県境を超えて飯山にむかう鉄道がつながった。

この飯山鉄道を利用して1930年代に入ると信濃川での発電工事がすすめられた。一つは鉄道省による信濃川発電工事であり、もう一つが東京電灯による信濃川発電工事である。

鉄道省による水力発電工事の計画は1919年頃からあったが、震災など紆余曲折があり、工事は1931年4月から始まった。これは国鉄の電源確保のためである。首都圏の鉄道は今もこの電力を使用している。この工事は中里の宮中に堰堤(ダム)を作り、そこから浅河原調整池まで導水路(隧道・トンネル)で水を運び、川西の千住発電所で発電、さらに導水路で水を運び、山本調整池を作り、小千谷発電所で発電するという計画だった。資材運搬のための軽便鉄道工事もおこなわれた。戦時には強制連行された朝鮮人が投入され、さらに中国人も強制連行された。戦時末期に一時中断されるが、戦後も拡張工事が続いた。

鉄道省信濃川発電工事での工事の請負をみてみよう。宮中堰堤(ダム)を栗原組、宮中沈砂池を佐藤工業、宮中暗渠(沈砂池と水路を接続)、第1隧道を間組、第1隧道下部を西松組、第2隧道を星野合資、第3隧道を飛島組、第3隧道下部(浅河原直轄隧道上部)を鉄道工業、小泉・圧力隧道下部を鹿島組、信電建物建設基礎工事を大倉組、放水路上端部を堀内組、放水路を西本組が請け負った。これらの組の下に多くの下請け飯場があった。

第1期工事では1939年11月に千住発電所の送電がはじまった。さらに導水路を並行してもう1本掘削するという第2期工事が40年4月から始まった。第2期の第1隧道、圧力隧道下部は鹿島組、第2隧道は間組、第3・第4隧道、第2期放水路、調整池第2余水路は西松組、第5隧道は西本組、第6隧道は鉄道工業などが請け負った。第2期では、45年3月に第4号機が稼働、同年4月に調整池が使用できるようになった。

第3期工事の準備は43年末から始まり、工事を鉄道建設興業が請け負うことになった。鉄道建設興業は44年に入って設立された統制会社であり、社長は鹿島組、副社長は西松組、間組から出された。実際に信濃川で工事を担ったのは西松組や間組であり、その内容は堰堤を築き、導水路で水を運び、小千谷発電所で発電するというものである。しかし、工事は44年末に一時中止となった。戦後、1946年に工事が再開されたが、50年9月、落盤事故で労働者45人が死亡する事故が起きた。小千谷発電所は51年に発電を開始した。その後、第4期、第5期の拡張工事が行われ、現在に至る。

鉄道省電気局の「信濃川発電工事の過去現在と将来」(1942年)には信濃川発電工事の概要と第3期・4期工事の重要性が記されている。この史料には鉄道省電気局電化課作成の「信濃川発電水路平面図」(1942年9月)が添付され、この図面から第1期から第4期工事での水路(隧道)の位置、宮中堰堤や放水路、浅河原調整池の断面図などの工事の概要を知ることができる。材料運搬用の軽便線の軌道も描かれている。

もうひとつの東京電灯の信濃川発電工事は、第1期工事が1936年9月にはじまり、39年11月に第1号発電機の送電がはじまった。その後も第2期工事が41年末まで続いた。工事は西大滝(長野県)に堰堤を作り、そこから上郷を経て外丸へと導水路で水を運び、鹿渡発電所で発電するというものである。

工事に際して東京電灯が作成した「信濃川発電水路」図面集が残されている(東京電灯1938年)。この図面集には、工事の概要図4枚をはじめ、取水堰堤、取水口、排砂路、沈砂池、放水路、標準水路、連絡水槽、調整池連絡暗渠、水槽余水吐、水槽バルブなどの設計図面90枚ほどが収録されている。そのなかの「信濃川発電所水路平面図」(1936年5月)からは、隧道や竪坑・横坑、土捨場の位置、堰堤や調整池、沈砂池などの建設予定状況がわかる。水路毎の延長表も収録されている。

第1期工事が終了する中で編集された「東京電灯株式会社信濃川発電所」(1939年12月、東京電灯)には、取水堰堤、沈砂池、圧力隧道(水路)、水圧鉄管の写真が収録されている。

西大滝の堰堤から上郷の導水路工事は飛島組、外丸での導水路、発電所、調整池の工事は大林組が請負った。飛島組と大林組の配下で多くの朝鮮人が労働していた。飛島組は強制連行された朝鮮人も使用した。

現在は東京電力の信濃川発電所となっているが、累計総発電電力量は日本で最大、年間発電電力量は佐久間発電所に次ぐという。東京電灯の冊子には労働者についての記述はないが、隧道の写真から労働現場の状態を知ることができ、そこでの事故を想像できる。

 

⑵   鉄道省信濃川発電工事と朝鮮人

鉄道省信濃川発電工事は宮中ダム、導水路のトンネル掘削、浅河原調整池、千住発電所、余水路などを建設する大工事であった。また第1期から3期工事が1930年から44年にかけておこなわれた。間組、西松組、飛島組、鹿島組、大倉組、鉄道工業、佐藤工業、堀内組、栗原組、西本組、星野合資などの請負業者の下に多くの労働者が集められ、そこには朝鮮人もいた。

当時の新聞記事からこの発電工事での朝鮮人の死亡状況を知ることができる(平和教育研究委員会2006年)。

1932年12月、貝野村の飯場の朝鮮人佐々木太郎は喧嘩の際に手斧で殴られた。1933年6月、李周伯は貝野村の第2隧道で土砂運搬中にトロリーから振り落とされた。1935年7月、慎万金は宮中沈砂池工事で昼、線路を通行中に運搬車に轢かれた。1936年6月、安七伏は千手村沖立の放水路工事現場で土砂の崩落にあった。1937年12月、堀内組配下の野坂事務所の三つの下請飯場が積雪で崩壊、朝鮮人2人が亡くなった。1941年2月、鄭浩文は第2期工事の第4隧道(貝野村)の労働で落岩のため即死した。1941年10月、西松組石倉事務所の千手放水路工事の作業所が崩壊して朝鮮人1人が下敷になった。1942年5月、貝野村堀ノ内の第2期水路工事で鹿島組配下の富田泰順は落盤により生き埋めとなった。1943年9月、発電工事の吉田村北鎧坂の現場で土砂が崩壊して3人が生き埋め、松沢珠煥が死亡、平田金厚・金山連福は重体となった。1944年8月、浅河原から小千谷の飯場に帰る途中、十日町橋より西300メートルの県道で40人乗りトラックが7メートル崖下に転落、即死6人、手当後死亡2人、重傷10人の事故を起こしたが、大部分が朝鮮人だった。ほかにも西松組の殉職者追悼碑(1943年)の5人のうち、道川先得、渡邊用鎮といった朝鮮人の創氏名がある。かれらは43年以前に労災で亡くなったとみられる。

これ以外にも多くの死者が出たとみられるが、詳細は不明である。

鉄道省信濃川の現場に強制動員された朝鮮人については、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」に、1941年度に間組が100人、西松組が200人、鹿島組が200人、西本組が100人の計600人の動員承認を受け、1942年6月までにそれぞれ、77人、342人、143人、95人の約650人を連行したことがわかる。しかし逃亡などにより現在数は400人ほどに減少している。工事はその後も続いたことから、政府の労務動員計画による強制動員数は1000人を超えたとみられる。

1943年に吉田村の浅河原での鉄道工業の現場に動員された「半島移入勤労報国隊」の記事がある(新潟日報1944年10月16日、佐藤泰治2022年①17頁)。


浅河原調整池

この記事によれば、報国隊は1943年7月16日に慶尚北道から100人が移入されたが、10月に残ったのは58人となった。隊長の小川金守は「工事は米英陣地の攻略」であると隊員に吹き込み統制している。食事時にも「一致団結」「祖国興廃の決戦を乗り切る」などと感化に努めた。仕事は土壇場への粘土積み込みであるが、普通は一人一日6~7台であるが、この隊は一人平均14台という。隊員の3分の2は妻帯者であり、飯場は北鐙坂にあった。家庭送金や貯金により本人分の手渡しは1円である。約一年間での家庭送金の平均額は1126円53銭、貯金は平均265円42銭という。44年8月の賃金は、最高が31日間の労働で273円90銭、最低が22日間労働で125円40銭である。支出では、食費で40円30銭、税金が約1割、酒代、間食代、地下足袋代、餞別代などが引かれている。

記事からは、鉄道工業の浅河原の現場に勤労報国隊の形態で100人単位の集団動員がなされたが、半数近くが姿を消したこと、飯場が北鐙坂にあり、戦場のような精神動員によって、盛土の現場で一般の倍の量の労働がなされたこと、一日休みなく労働させられた者もいたこと、地下足袋代は自費であり、食事代が一日1円30銭ほど取られ、一か月で40円に達したこと、送金と貯金によって本人への手渡しは小遣い1円程度であったことがわかる。逃亡すれば貯金は没収されることになる。

信濃川の工事現場に動員された朝鮮人の鄭承博はつぎのようにいう。私は慶尚北道の安東の小さな山村で1929年に生まれた。土地は奪われ、日本語を覚えれば日本へと稼ぎに行くことができると流布された。日本語を覚えたころに日本の土建会社が募集にきて、まだ6、7歳だったが、三重県の紀勢線の工事に連れていかれた。星野組が請け負っていたが、下請け、孫請けがあり、われわれを使うのはやくざ崩れの刺青のオヤジだった。ところが下々のやくざは行方不明になる、飯場の朝鮮人は配下を振り分けて逃亡してしまった。その時、わたしは紀州の農家に売られてしまった。そこから逃亡し、栗須七郎の支援で学校に行った。大坂で海軍管理の軍需工場(米沢金属)に就職した。そこで食料の買い出しを言われたが、警察に捕まった。会社は買い出しなどさせていないと対応したため、会社に行くことを止めたら、憲兵に「現場逃亡罪」とされ、新潟県十日町の信濃川の工事現場に連行された。そこで中国人(八路軍捕虜)収容施設のなかにある徴用脱走者の建物に入れられ、工具の修理などをさせられた。収容施設は鉄条網で囲われ、日本兵が重機関銃で監視していた。夜中に便所の汲み取り口から脱走し、十日町駅から汽車に乗り、名古屋に逃げた。大阪でもう逃げ隠れしなくていい日になったことを知った(鄭承博1999年、要約)。

鉄道省信濃川発電工事の追悼碑は3基が発見されている。中里の小原、小丸山には栗原組が1936年9月に建てた「殉職者慰霊之碑」がある。そこに朝鮮人とわかる名前はない。十日町市姿の箭放(やはなち)神社横の願王庵には西松組が1943年10月に建てた「殉職者弔魂碑」がある。刻まれた5人は第2期工事の第2、第3隧道工事での死者であり、道川先得、渡邊用鎮は創氏名の朝鮮人とみられる。池田周徳も朝鮮人かもしれない。川西の沖立の放水路近くには西本組による1937年の「殉職碑」があり、そこには安七伏の名も刻まれている(佐藤泰治2006年10頁)。

数多くの朝鮮人が生命を失ったのだが、追悼碑で確認できるのはこの3人である。西松、栗原、西本組以外にも間組、飛島組、鹿島組、大倉組、鉄道工業、佐藤工業、堀内組、星野合資などが工事を請け負っている。他に碑はないのだろうか。死者の氏名は分からないだろうか。連行された中国人の氏名、死亡者の氏名は明らかにされている。しかし連行された1000人を超える朝鮮人の名前は不明である。死者の名前も判明しているものはわずかである。植民地主義は継続している。消されたままの死者の名を復元する必要がある。それは植民地主義を克服する活動のひとつであると思う。

 

西松組、1943年の「殉職者弔魂碑」             西本組、1937年の「殉職碑」     

 

⑶   鉄道省信濃川発電工事と中国人

ここで中国人の強制連行についてみておこう。工事を請け負った鉄道建設興業は千手の水口沢(西松組)と吉田の小泉(間組)の2か所に収容所を置いた。中国人は西松組には1944年6月に94人、8月に89人の計183人、間組には44年8月に188人が連行された。2か所に約400人が連行されたわけである。死亡者は西松組が12人、間組は6人である。第3期工事の中止の動きのなかで44年12月に間組、45年1月には西松組の中国人が長野県の間組の御岳発電工事の現場に転送された。さらに中国人は御岳の現場から間組戸寿事業所(黒姫山鉄鉱石採掘)や岐阜県の間組瑞浪の現場などに転送された(中国人殉難者名簿共同作成実行委員会資料、田中宏・内海愛子・石飛仁1987年所収)。

西松組の遺骨は長徳寺、間組の遺骨は宝泉寺に置かれた。御岳への移動の際、飯山線が雪のために不通となり、収容所から小千谷駅まで徒歩での移動が強いられた。そのため西松組では死亡者も出た(上村千恵子1991年、佐藤泰治2006年、9、13頁)。

 連行された中国人の証言には、李祥、李恕(李樹伍)、郭真(郭忠)、韓英林(韓黒)、侯振海(「訴状」1997年、139~167頁)、胡王山、崔寿生、許同友、張小更、曹金菅、李文昇、侯大雪(遺族・侯改香)、平福山(遺族・平槍尓)(何天義主編2005年、158~204頁)などがある。

 李祥、李恕、郭真はともに河北省易県紫荊関近くの農民だった。そこは中国共産党の八路軍の影響を受けた地であり、村の幹部を任されていた者もいた。3人は1944年4月頃、日本軍とその配下の中国軍によって逮捕され、易県の日本軍の拠点に連行され、拘禁された。そこから北京の南宛収容所に連行され、さらに天津の塘沽収容所に送られた。3人は44年6月、貨物船に乗せられ、下関に到着、汽車で新潟の信濃川の西松組の収容所に連行された。10人ほどで一班とされ、小隊、中隊、大隊が編成された。現場は2交替制の12時間労働、昼夜、川を掘り、土砂を運搬し、堤を作るという労働を強いられた。衣食住は劣悪であり、賃金は一度も受けとらなかった。警察が監視し、収容所は塀と鉄条網で囲われていた。3人は45年1月に長野県御岳に転送され、さらに6月に戸寿に送られ、労働を強いられた(「訴状」1997年)。

 胡王山は河北省塩山県柳集鎮在住、八路軍の兵士であり、1944年4月、日本軍との戦闘で捕らえられた。塩山から滄州の監獄に連行され、北京の清華園を経て、塘沽の収容所に送られた。そこから、新潟県の発電工事の現場に連行された。過酷な労働のなか、眼病などの病気になるものが多かった。冬に長野県の水力発電工事の現場に送られたが、そこで警察に棒で手や足、頭を殴られたため、卒倒した。不潔と飢餓、湿気のために疥癬になるものが多かった。胡王山は、日本での労働は牛馬のようであり、頭部には殴打の後遺症が残る。この損害に対し、日本政府と企業は道義を示し、賠償すべきだと語る(「私は日本に棍棒で打たれた幸存者」2004年談、何天義主編2005年、158~163頁)。

 2016年11月、十日町市の長徳寺で信濃川発電工事(西松組)での中国人強制連行に関する「平和友好の碑」の序幕式と追悼会がもたれた。追悼会には記念碑建立委員会、平和基金管理委員会、中国人労工遺族、弁護団、支援団体、地元住民などが参加した。この追悼碑は裁判闘争により西松建設が和解に応じ、企業として歴史的責任を認めて「西松信濃川平和基金」を設立したことから建立された。碑には信濃川工事(西松組)に連行されたすべての中国人の名前が刻まれた。追悼会で遺族の林万発は犠牲者に思いを馳せ、碑の建立の努力に感涙した。そして「国や企業が歴史を直視し、人権を回復し、正義を取り戻す行動をとってほしい。この碑が日中友好の場となってほしい」と語った(十日町新聞2016年11月24日)。

 

⑷   東京電灯信濃川発電工事と朝鮮人

 東京電灯信濃川発電工事にあわせて1936年7月に新光協和会(のち、信越協和会)が設立された。この協和会は各工区に主張所を置き、紛争の防止を図った。この組織は工事に動員された朝鮮人を監視、統制するためのものだった。


鹿渡発電所

1938年12月20日の十日町新聞には大林組の信越協和会が国防献金300円を集めたという記事がある。事務所ごとに内訳が記されていることから、朝鮮人の所在を知ることができる。朝鮮人を抱えた事務所には、木本、佐藤、上村、石田、田中、勝浦、佐々木(小野組・松島組)、牧野、高幸、新川などがあった。また、外丸にあった大林組の安原事務所には少なくとも131人の朝鮮人がいた(十日町新聞1938年7月10日)。1939年5月頃の信越協和会の組織人員は871人であった(朝日新聞新潟版1939年6月9日)。1939年7月に新潟県協和会が設立されたが、皇国相助会、上越融和会、信越協和会など各地の融和団体を統合したものだった。この県協和会は労務動員された朝鮮人などを監視し、戦争動員するためのものだった。

 発電関係の工事、とくに隧道掘削の現場で相次いで事故が起きた。朝鮮人の死亡事故をみてみよう(平和教育研究委員会2006年)。

1937年9月、外丸村青山飯場の姜也大は隧道工事で落石の下敷となった。同年10月、権周七は上郷村の山手線11号隧道でトロッコの下敷となった。1938年12月、黄教八は外丸村の12号隧道の横坑で落盤による生き埋めとなった。1939年1月、金徳基と呉奇用は上郷村寺石の9号隧道で落盤により生き埋めとなった。同年4月、今村飯場の朱茂洲は外丸村の12号隧道の横坑で落盤により即死した。同年7月、朴在允は外丸村樽田沢の隧道で土砂運搬中、落盤のため頭蓋骨を骨折した。同年9月、許林彦は外丸村の隧道工事で土砂崩落にあった。1940年1月、藤田事務所配下の朴平烈は上郷村寺町の穴山隧道入口で除雪中、雪崩にあった。同年2月、李泰述は上郷村の第2期工事、隧道竪坑付近でトロッコとともに竪坑に落下した。同年4月、外丸村樽田沢の川口飯場の鄭七伊は隧道内で土砂崩壊にあった。同年6月、任國寧は外丸村辰ノ口の調整池圧力隧道入口での土砂崩壊で圧死した。同年6月、 佐々木組の金千石は調整池隧道工事の現場で20メートル転落して死亡した。

このように落盤、土砂崩壊、墜落、雪崩などの事故によって多くの命が奪われた。それだけではない。喧嘩や制裁によって命を失った事例もある。1937年11月、朴永守は外丸村笹沢で喧嘩により崖上から谷底へ投げられて死亡した。1938年8月には外丸村で柳基玉が喧嘩の際に投げ飛ばされて頸部を骨折し死亡した。1939年6月、上郷村田中で徐如祥が静岡への随行を拒否したところ撲殺された。これらは新聞報道で判明しているものである。喧嘩とされてはいるが、崖上からの投棄があり、撲殺もあった。ここには示されない暴力的な管理による虐待、虐殺も存在したとみられる。1940年以後の死者には強制動員された朝鮮人も含まれているだろう。

大林組や飛島組の配下に多数の朝鮮人が組み込まれていた。外丸村役場『臨時国勢調査書類』(1939年)には、大林組配下の事務所の下請飯場が記載されている。外丸村内には東京電灯や元請け会社の合宿以外に8人の手配師(事務所)の下に下請飯場が33か所あり、そのうち3分の1が朝鮮人飯場だった(津南町1984年①10頁、佐藤泰治1982年、20頁、同2022年②、8頁)。大林組の配下の樽田沢の上村事務所の下に呉壽烈(岩下飯場)、権泳玉(青山飯場)、朴時享(橋本飯場)、黄生斗(鈴木飯場)、外丸沢の木本事務所の下に金根洙(金村飯場)、笹沢の佐藤事務所の下に李鐘洙、梁在洛、全点石、裵判東などの飯場があり、20人以上の人員を抱えていた。他に、鄭黙伊、崔郁辰(太田飯場)、趙点済(山田飯場)、禹珠星(麦田飯場)、孫願祥などの飯場があった。

この史料から大林組での200人を超える朝鮮人の存在を知ることができる。労働力はこれだけでは足りず、飛島組では労務での強制動員による朝鮮人の配置がなされていった。

 東電信濃川の現場に強制動員された朝鮮人については、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」から、飛島組が1939年に新潟県上郷村に300人、長野県での信濃川発電工事に200人、西大滝作業所に200人、40年に平滝作業所に80人の承認を受け、42年6月までに上郷20人、平滝100人、森作業所に241人を動員したことがわかる。また村上勇は信濃川発電工事に39年100人の承認を受けたが、動員数は記されていない。

東電信濃川工事での承認数は飛島組で780人、村上勇100人の計880人となり、42年6月までの動員数は飛島組で361人となるが、信濃川工事は41年末で終了しているので、この361人はそれまでの動員数とみられる。なお、長野県では飛島組の犀川工事に510人が承認され、381人が動員されている。東電信濃川工事終了後、動員された朝鮮人は犀川をはじめ、他の現場に転送された可能性が高い。

史料から東電信濃川工事への朝鮮人強制動員者数で確認できるものは42年6月末までに動員された飛島組の約360人ということになる。これに鉄道省信濃川工事の朝鮮人動員数650人を加えれば、1942年6月現在までの東電と鉄道省による信濃川発電工事への朝鮮人の強制動員数は1000人を超えるわけである。

 

おわりに

以上、中津川発電工事と鉄道省および東京電灯による信濃川発電工事での朝鮮人の強制労働についてみてきた。ここでは1920年代前半と30年代末から40年代前半での信濃川水系での発電工事における朝鮮人の強制労働についての概略を記すことを試みた。

中津川発電工事では日本土木(大倉組)配下の鈴木工業部での虐待・虐殺が社会問題となった。東亜日報の李相協の記事は当時の朝鮮人に対する監獄部屋での労働を活写し、1920年代前半での朝鮮人の強制労働の実態を明らかにするものだった。それにより監獄部屋への批判が高まり、朝鮮人による労働者組織の形成にすすんだ。

中津川事件から60年後、津南町史編纂作業で住民への聞き取り調査がなされ、住民からの虐待・虐殺に関する証言が得られた。しかし、町はその実態調査の報告を拒んだ。それに抗して日朝の市民の調査がなされ、「新潟県史」の記述は虐殺事件に言及するものになった。一部だが、新聞記事や史料からは朝鮮人死亡者の名を示すことができる。

信濃川発電工事では工事用に建設された飯山鉄道工事での朝鮮人の労働状況を記したうえで、信濃川発電工事の概要とそこでの朝鮮人労働者の存在と死亡状態について記した。戦時の朝鮮人強制連行者数については1942年6月までに鉄道省と東京電灯の信濃川発電工事に合わせて1000人以上が強制動員されたことを示した。1943年に鉄道省工事に動員された朝鮮からの勤労報国隊100人の実態についても言及した。鉄道省信濃川発電工事の労働現場については「信濃川発電水路平面図」から具体的に示した。また、鉄道省工事への中国人強制連行についても記し、裁判闘争によりに西松組が歴史的責任をとる形で日中友好の碑を建立したことを示した。企業の設置した追悼碑で朝鮮人名が記されているものはわずかである。植民地主義は克服されていない。

戦時下での強制動員の実態のさらなる解明、朝鮮人死者名の調査、朝鮮人追悼のための具体的な活動などは、今後の課題である。植民地主義克服に向けての共同作業が求められる。

                                  (竹内)

 

 

参考文献

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東京電灯1939年「東京電灯信濃川発電所」

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(この記事は適宜、訂正、追加しています。)