酔っ払ったラバの時間
 公園やガード下に段ボールやブルーシートで作った「家」に住む人たち、野宿を強いられる人たちの生活を多くの人々は知らない。あえて知ろうとしないと表現したほうが当っているはずだ。金もうけがすべてであるかのような日本の社会が衰退し、かつてのような高価な買い物に明け暮れた日々が嘘のような不況にさらされて、街並みのいたるところにシャッターの降りた店が増え続ける現在でさえ、さらにリストラや倒産に見舞われて失業もしくはその予備軍という身になってさえ、社会保障のセイフネットからこぼれ落ちた、その日食う事もままならない人たちと意識を共有しようと思う人はおそらくほとんどいない。金持ちになることを無意識に原理とした多くの人たちは、富の偏在を自明の理としてその流れの上部を意識しても、下層を見つめようとはしない。
 「身体」を使うこと。生物であれば当然の行為を、先進国と呼ばれる国程、代替することが文明のものさしであるかのような錯覚に陥ってきた。言いかえれば、「いかに身体を使わずに生きるのか」という共同幻想である。身体を使わないことがステータスでさえあるのだ。生物として評価すれば、これはまぎれもなく異常そのものだ。この異常の対極に、私たちが知る機会さえ少ない、しかし膨大な人々が生きている。「南北問題」と呼ばれるものの「南」の貧困は、富の偏在に疑問を持たぬかぎり、そして勝ち組志向である限り、話題にのぼらず見える事さえない。そんな貧困の、しかしその存在だけで「北」を告発することさえ可能な人たちの映画がクルド人監督バフマン・ゴバディの「酔っぱらった馬の時間」だ。イラン・イラク国境の山岳地帯で、国境を越えて密輸することでかろうじて生きる両親を亡くした子供たちの物語だ。それは国連による不条理な経済制裁下のイラクの非常手段としての交易の物語ともいえるかもしれない。子供たちは兄弟のひとりの不治の障害をもつ兄の手術代をかせぐために想像を絶する労働を強いられる。しかし兄弟愛はそれを乗り越えて強かった。厳冬の峠越えは車が使えず、ラバに頼る他ない。重い大型トラックのタイヤを運ぶ苦痛を麻痺させるため、酒を飲ませたラバに積んで雪道を登るのだ。国境警備隊や地雷、そしてこごえる寒さ。彼らには冬山用のゴアテッゥスウェアやビブラム・ソールの靴などない。あるのは粗末は衣服と身体だけだ。生きることのすべてが思い通りにならない世界に住むクルド人たち。国家を持たない世界最大の少数民族にとって、公共、福祉、保障などの概念は意味を持たない。そんなものは富める国民国家という幻想の生み出した勝手な論理にすぎない。こごえる身体と無心に先に進むことでしか生き延びることの出来ない生の原点に直結した暮らしなのだ。はじめての密輸を体験した少年に、イラクで知り合った少年が忠告する。「前払いの仕事しか信じるな。ヤミ業者なんか信用できない」世間の辛さを味わうのは大人になってから、子供は大人が守るべきもの。世間にはモラルや法律があり、誰だって守られているはず。という幻想に生きる私たち(もっとも最近の日本はおかしくなり始めたが)にはあらためて考えさせられる。「南北」のとてつもない格差にありながら国家を持たないという事がどういうことかを。ここでは老若男女を問わず苛酷な生き方しか許されない。
 苦行ともいえる冬山の峠越えは名作「キャラバン」にもあった。富の偏在する世界に於いて貧困の極にある人々が、自然の苛酷な状況を生き抜こうとする姿は、人生や日常の質というレベルで「北」を圧倒する。それは同じ言葉を使ってもその重さが決定的に違うということだ。2つの映画において言葉は常にストレートであり、もってまわった表現は無い。ここには最近の日本のように子供を殺す親はいない。生と死のとなり合わせの世界には、持て遊ぶほどの生も死もありようがないのだ。彼らの生そのものが富める国を告発するといってもいい。
 さまざまなコントロール願望を叶えることが目標となった私たちの世界。それにしてもなんという過剰にのめり込んでいることか。辟易する程の物質の氾濫は、貧困で荒涼たる精神をそのまま反映する風景だ。「身体」を使わない文化が「身体」を衰退、消滅させてしまった。思考や精神まで道づれにして。
 5人兄弟の末っ子の少女が勉強したくてたまらない。「ノートが欲しいの」と兄に告げる彼女の手には、びっしりと書き込まれたクルド文字で余白が無くなっている。貧困とセットになった、かくも純粋な知識欲を日本の子供たちと比べても何もならないだろう。そんなことより実話をもとにしたというこの映画に登場する、まったくもってひたむきな人々、さらに正解に無数に存在する同じような境遇の人々が、いつも先進国の富の偏在を固定化するために貧困が改善されず、あげくの果てに空爆にまでさらされるという現実を認識すべきだ。
 世界中の荒地、未開地を走る(何しろタリバン御用達だ)日本車トヨタハイラックスの荷台にゆられながらクルドの子供たちが歌う。「人生は苦労ばかり、子供でさえ老いてゆく」
 非西洋の、国家を持たない少数民族が、私たちの考えうるすべての便利な生活手段を持たずに、「身体」だけで生きることの意味を多くの日本人が理解し、共有し、南北格差について知るためには、つまり、生と死が等価であり、となり合わせである、そして人間が人間であるという原点にリセットするためには、もしかしたらM8クラスの巨大地震というカタルシスを必要としているのかもしれない。勝ち組指向とはそれ程の想像力の貧困を意味する。
200301.16 高木