豊橋のクールベ美術館展 2005・8

クールベは1819年に生まれ、1877年に死亡した。1848年の革命の時には30歳ほどだった。圧制と革命の時代にクールベは共和主義・社会主義の風潮を受け止めて、作品を描きつづけた。かれが、ロマン主義に別れを告げ、写実主義に向かったのは、この1848年の革命前後のことだった。宗教画・歴史画から離れ、民衆を描き、時には寓意を込めて作品を創作した。1842年の作品「銀メッキ屋」にはその志がすでに見える。

かれは勲章を拒否して自由を求め、パリコミューンが成立するとそれに参加した。かれは、ナポレオン戦勝記念碑を倒した首謀者として6ヶ月の禁固刑を受け、スイスへと亡命することになる。1866年の「トゥールヴィルの黒い岩」はかれの抵抗する意志を象徴するような風景だった。

「1853年のプルードンの肖像」(1865年)は、好きな作品のひとつだが、今回は展示されていない。ちなみにパリコミューンではプルードンの影響を受けていた社会主義者が多かった。この場には展示されていなかったが、1855年の「画家のアトリエ」にはかれの思いが込められている。そこにはボードレール、プルードン、バクーニンやコシューシカなどが描きこまれ、彼方に民衆を置き、その中で裸体の女性ではなく風景を描くかれの姿は、当時のかれ自身の革命と独立への想いの表現であり、風景を確実に捉えていこうとする意思表示でもあるのだろう。これも展示されてはいないが、かれの作品に「世界の起源」(1866年)がある。これは開かれた女性の下半身を描いたものである。かれの女性像は、かれ自身との距離感を感じる。つまり、疎外された対象物の印象が強い。そこにかれの時代的ジェンダー性を感じる。 

ともあれ、19世紀に生き、民衆を表現し、自らもコミューンに参加した一人の男の作品群に接することができた。貧困のうちに死んだというシフラールのクールベ像もよかった。かれは、出会ったことのないクールベを理想的に描いたという。  (T