戦没画学生「いのちの絵」展・清水

 

20067月から8月にかけて無言館の絵画展が清水のフェルケール博物館で開かれた。浜松出身の中村萬平や野末恒三の作品も展示されていた。

無言館の作品群は、絵画への情熱や生への希望を示すだけではなく、戦争に動員されたかれらの失われた可能性を語っている。そこには、愛しい者たちを描いた初々しい作家の情熱が60年の歳月を経て、色あせることなくある。そこでは戦争による生の破壊と別離が示され、その現実が、それを繰り返してはならないという想念を静かに呼びおこす。

日高安典の「自画像」は茶色の画面にうっすらと自らの顔を描いている。それは、戦争と抑圧のなかで、時代の風景に組み込まれながらも自己の生存を示し続けようとするかれの意思を示すかのようである。

片岡進の「自刻像」は入営の前日の塑像である。かれは、軍隊という奴隷制度によって自己が解体され、生命さえも奪われていくことを予感し、今ある自己をそこに練りあげ形象したように思う。

片桐彰の「梢のある風景」は、暗天にわずかな光を示し、その下に黒い梢を描いている。梢は暗黒の時代を拓く光を求めるかれ自身の姿であるかのようだった。かれの作った「貯蓄せよ」のポスターは戦争末期の空爆を予言している。

川崎雅の「屏風絵」をみると、扇子が数多く描かれているが、そのなかには朝鮮民衆や朝鮮の村落が描かれている。そこにかれの国境と民族を超えるまなざしを感じる。

曽宮一念の子、俊一の絵もある。そこに一念がかれの死を悔しいと語ったこと記されている。ここにあるのは、そのような当然の想いが語れなかった時代、戦争を拒否することが犯罪であった時代の作品群である。

結城久は独学、プロレタリア展にも出展していた。かれの「自画像」は兵士の顔のようであるが、戦争なき新たな世界の形成を労働者として語りかけているようにも思われた。

野末恒三は浜松出身の作家である。出品史料を見ると住所は、浜松市鴨江となっている。かれの自画像を見ると、頬や鼻筋、耳元に絵の具の塊が盛り上がり、かれの筆運びが痕跡をとどめている。それはかれの生の軌跡であった。この顔に弾丸が貫通してかれは死んだ。彼は1944年に徴兵され、翌年ルソンで戦死した。36歳だった。

中村萬平の「霜子」の絵は服を着たものが展示されていたが、未完のものであった。かれが生きていれば、それはどのように描かれただろうか。

表現に完成はあるのだろうか。もともと未完成なのではないか。大切なものは初々しさ、希望や情熱であることを、これらの作品は語りかけているように思う。

7月はじめ、浜松市美術館で中村萬平の作品展がひらかれた。そこにはデッサンを中心に何点かが展示され、萬平と霜子の手紙も紹介されていた。

そこには、萬平の、永久に残るものを創りたい、平和な世にわが命があるなら、芸術家として大成したい、子の暁介を絵描きにしたいという思いが記されていた。

また、霜子が萬平を太陽にたとえて歌を作り、敬意を示したことが記され、妻の霜子を月にたとえ、月を見ると霜子を思うことなどが記されていた。そのように萬平が記した日に霜子は亡くなり、のち萬平も43年に戦病死した。

かれの作品は数点が残っている。そのなかの1点、霜子の裸像を描いた「霜子」には、若き萬平のかの女への情愛の視線が刻まれている。この作品は長野の無言館に寄贈されている。

 

                           (竹内)