ピースアンデパンダン展浜松2007によせて
2007年8月から9月にかけて、「新しい人」をテーマに、ピースアンデパンダン展in浜松2007が「ギャラリーCAVE」で開催されている。会場には、世界と自己を問うさまざまな表現が展示されている。
ゆっくりと展示をみていくと、ピースアンデパンダンに参加した作品群が、さまざまに語りかける。
「落下する爆弾によって一瞬のうちに奪われた生命、・・ことばもない。渦巻く生命の形を私は描き続けたい」「8月6日,広島で線香立ての前で一人眼を閉じて立ち尽くす少年に出会った。大丈夫と聞くと、彼は想像していたの・・と語った」「日常の景色の歪みは境界を超えて広がる。歪みとしての核は拡散し、いまだに廃絶できていない。」「20世紀、1億7千万人もが戦争で生命を奪われた。その暴力さえ改ざんされようとしている。一人ひとりの死者への鎮魂を込めて、あなたの指の動きとともに空間を表現したい」
「平和、平和というが、その平和の内実とは何か、立ち止まり自らの思想でその内実を記そう。」「銃口から植物の種が飛び出し、撃った人間の体から血ではなく、草が生えるとしたらどうだろう。生命が大切にされる関係を再構築すべきなのだろう。」「生命のルーツの太陽さえも商品化の波に襲われているかのようだ。だが、38度線という分断線を糾す力もまた人々にはある」「新しい人は自らの内にある。一人ひとりの姿を写し取り、一人ひとりの言葉をつむぎ、自然の中で刻銘された線との共同の中で、新しい人は見えてくる。」
「社会と自己を見つめることで、そっと優しい微笑を交し合える関係に向かいたい。アートとはそのような力を持つのではないか。」「グローバリズムと戦争が氾濫する波のように人々の大切なよりどころさえ奪い取っていく。その氾濫の相を闇のなかに再構成することで見つめなおし、抵抗したい。」「沖縄・辺野古での米軍基地建設反対の闘いは今も続いている。非暴力の実力の抵抗のなかに、さまざまなアートがある。現場から切り取ってしまってはならないものがある。」
「一人ひとりが今見ているものから祈りの声を聴き、その祈りを自らすすめていくこと、その集積のかなたに戦争なき世界がみえる。」「破壊の中でも、人間を支える知性は残り、新たな希望も輝いた。その歴史的体験の思想化のかなたに、新しい関係は生まれるし、新しい街頭表現も生まれる。」「一人ひとりの死者の名前は一つひとつの詩であり、物語だ」「生命体はこの宇宙の流れのなかで生存する。この世界をコントロールなどできはしないのに、戦争という人為がつづく。人は隠されたものを視覚以外で捉えることも、闇の中で忘却と歪曲を拒絶する記憶に触れることもできる。」
表現は見るものに波を送る。それは、聞こえはしないが音楽のようなものである。作家の作品と表記をみていくなかで、わたしは作品群からこのような声を聴いた。
現在がグローバル戦争の中にある。宇宙空間を支配しての先制攻撃と「ミサイル防衛」が情報・諜報戦とともにすすんでいる。実際に日本・浜松からも派兵され、戦争を支援している。その実態を隠す映像はあっても切開するものはほとんどない。わたしたち自身の認識空間が管理され、想像の方向性が操作されていく。戦争責任をとることもなく、派兵をすすめる政府が2007年の「戦没者追悼」の儀式の中で唱える「平和」は、偽りである。「復興支援」とは、政府によるあらたな戦争遂行のための美辞麗句であるのだが、いまだに政府はその偽りを語り続け、それが許されている。
そのような不正の蔓延を許す社会の質が問われるべきであり、本来アートはそのようなありようと対決する質を持つものだろう。問われるべきは、アートと接している自己であり、その空間でありアート自体なのだ。
作品群からは、氾濫するグローバル戦争への叛旗の音楽が聞こえてくる。それを聞こうとするならば。
(2007・8竹内)
浜松のピース・アンデパンダン展をみて
先日(9月8日午後)「ピース・アンデパンダン展in浜松」を訪れ、鑑賞しました。会場では中村さんにお話しを伺うことかできました。
私が敢えて浜松まで見に行こうかと考えた訳を率直に申し上げれば、地域の文化運動として行っている人々(主催者)の意気込みを感じたからであり、他方、政治の枠組みよりも圧倒的に広い問題として文化(活動)があるのだと、痛感しているからです。これだけのために行こうと思ったのです。それに浜名湖周辺を散策・撮影する等のプラスをつけました。
当日は会場が分からず、「助信町」で、電車を降りたまではよかったのですがヽ地番標記なので、ウームと唸りました。「104」でも引っ掛からず、駅近くの食堂(おそばやさん)で地図(出前用に使っているもの)をみせてもらいましたが、分からず。それでも町の概念図が頭に入りましたので、丹念に探して見つかりました。良かった!帰りに、駅前からの道沿いであることが分かりました。
前記のとおり、いったいどんなものを展示しているのだろうと,興味津々でした。やや会場の照明が暗く、暑く、鑑賞する条件としては、決して良くありませんが、それも表現の内だと思うことができました。しかし、作品は力作ぞろいでした.主題を平和や人権とすれば、奥が深く、どうしても抽象に走りやすくなります。しかし、抽象に走れば、良く分からないし、具象的すぎれば、これまた如何なものかになってしまいます。難しい。
私は「平和」といえば「ヒロシマ・ナガサ午」や「鳩」というワンパターンを好みません。写真と違い美術ならば、もっとイメージを膨らませて、表現できないものかと思うことがあります。今回はその手のものは1点だけであり、良かったと思います。
今日、シュールリアリズムのようなものが受け止められる大衆的な基盤が崩壊している中で、敢えてシュールだとすれば、生活の中にあるものを手掛かりにして、表現することが重要だろうと感じました。平和とは、単に暴力にさらされない状態だけではなく、各人が幸福を追求することが可能な社会であることが、その基礎になるのだと思います。憲法で言えば、9条、25条、14条が中心になるのでしょうか。日本の今日の状況は、性暴力やいじめ等、けっこうヤバイと思います。
何れにしても地域の仲間で、こういう企画を実現できることは、すばらしいことです。羨ましいです。私も個展(1999年、01年、03年、05年)ばかりではなく、誰かとジョイントするとか、考えたいと思いました。ありがとうございました。
それから地引浩さんの詩、なかなかすごいですね。言葉の力を感じます。美術家のナカムラさんのような、教員でありながら美術家(この逆か)の存在が、こうした企画の実現には大きなカとなるのですね。
何かと忙しい中で、あれこれ考え、着想することは大変です。皆さんの作品や活躍から大いに刺激をうけました。
それから私の個展は2008年中に実現したいと考えています。その際にはご案内をさしあげます。やっぱり政治運動ばかりじゃつまらない。文化運動の発展を追求したいです。来年は音楽を中心としたイベントもやりたいと思っています。生意気なことばかり書きました。申し訳ありません。
(山本・フォトグラファ-