「サラエボの花」(グルバヴィッツァ)

 

この映画の原題は「グルバヴィッツァ」である。グルバヴィッツァはサラエボにある地区の名であり、1992年から95年のボスニアの内戦のときには、多くの市民が命を失った。グルバヴィッツァはサラエボ駅近くにあり、セルビア人勢力によって包囲された前線にあたる。この内戦では「民族浄化」の名による女性への暴力も数多くおこなわれた。この映画はそれをテーマにしている。

映画は母エスマと娘サラを中心に展開する。内戦によってエスマの級友41人のうち11人だけが連絡がつく。あとは死亡するか、行方不明である。母は「父は『殉教者』」とサラに語っているが、実際には、サラはセルビア人の軍(チュトニック)の暴行によって生まれた。修学旅行の費用を得るために母は金策に走り、夜のクラブでも働く。エスマとサラの間には争いが絶えない。ある日、争う中で、母は娘に真実を告げる。娘は悲しみの中で髪をそりあげる。髪を刈るサラの姿とともに、母エスマのセラピーでの告白が流れる。

「娘を殺したかった。流産させようと思い力のかぎり叩いた」「お腹が大きくなっても犯され続けた」「出産しても見たくない、連れて行けと言った」「赤ん坊の泣き声がすると母乳があふれ出した」「子を腕に抱き上げると弱弱しく、とてもきれいな女の子で・・・この世にこんなにも美しいものがあることを知らなかった」。

生命の力が母の心を捉えた。サラへの愛情が生まれ、ここまで育ててきた。母に送られてサラは修学旅行に出かけることになる。その場面で、「サラエボマイ ラブ」の歌が流れる。

「ともに育った君と僕と町 青い空の下で みんなひとつになる」

「どこへいっても君を夢見る すべての道は君に通じる」「サラエボ マイ ラブ」

「君の歌をみんなに歌おう」「僕の夢を君に伝えたい・・・」

この歌は、民族と宗教の違いで殺しあってきた歴史の体験をふまえ、そのような関係を超えて、町のなかで人々がともに暮らしてしていくことを願うものである。サラ自身が引き裂くことができない存在としてある。母が戦場で受けた背中の傷と心の傷はのこったままであり、サラエボの町も傷跡を抱えている。それを癒すかのように平和への歌が流れる。次世代の平和共存への願いとともに。

映画の情景が見終ったのちも心に残り、これからの人間の方向性を問い続ける。消費されて終わる映画ではない。精神の内側からの問いをもたらし、人間の心をより豊かなものにしていく契機をもつ映画である。

街並みがガラス越しにゆっくりと映される。グルバヴィッツァの街角から発信される大切なものを受けとめていきたい。                 (竹)