はじめに

 

過敏すぎるのだろうか?いやそんなことはないはずだ。この国を覆いつくしそうな閉塞感について、である。失われてゆく「自由」の話でもある。

誰かが抑圧されていればその社会は自由ではない。そして民主的ではない。現実には一部の人間の自由のために他の人間の自由を奪うことが常態化している。最悪なのは異論・反論が消滅してゆくことだ。

最近、ある老人から「戦争が終った頃より(現在は)もっとひどい。あの頃は物質的には何もなくて、その日生きてくのもままならなかった。でもみんなに希望があった」という言葉を聞かされた。返す言葉がみつからないままでいる。

敗戦後間もなく生まれた私が子供の頃、春の陽ざしのなかで、一体何に対してなのかわからないが、わくわくしたような記憶がある。それ程世界は魅惑に満ちていた。

あの頃の可能性を取り戻せないものだろうか?過干渉の無い世界を…。人も虫も動物も大好きだった幼い頃と比べると、はるかに人間ぎらいになり、その分、虫や動物そして化石たちの方にひかれている。そんな現在までの個人的な過程が、そのまま日本の敗戦後史に思えてならない。人間が人間をきらう、これは不自然そのものである。

浜松ピースアンデパンダン展2000 EXIT

作品コンセプト

 

 最大の環境破壊は戦争である。人間は最大の殺戮効果を持つ最強の兵器に際限無い欲望を抱いてきた。たとえばアメリカでは「銃による正義」が憲法で保障され、国際政治においても民主主義という正義の名の下に空爆を繰り返してきた。しかし「銃による正義」は、必然的に発生した児童による銃乱射事件を抑止する原理を持ち得ないジレンマに言葉を失う。

情報化時代において私たちは、戦争という大量殺戮をモニター上の出来事やゲームと錯覚している。しかしそこで殺人が行なわれているのは事実だ。殺人を無味・無臭で非現実化するためのさまざまな言いまわしによる戦争の正当化、プロパガンダは私たちの日常に差別と排除を持ち込む。暴力の連鎖はひとたび起これば止めようがない。個別の悲しみが憎しみを生み次なる暴力を、というように。戦争を考えるときあなたは虚しくならないだろうか?すでに人間は、殺しすぎたと思わないだろうか?私たちは「費用対効果」における、戦争の無意味さ、虚しさを学習すべき時にある。

「人類史」という人間中心主義をどれだけ相対化できるだろうか。歴史は人間だけのものでは決してない。人類史は生命史のほんの小さな部分にすぎない。人間しか見ないことによって、どれ程世界を一面的に矮小化してきただろう。生命史において真核生物は少なくとも21億年前に出現。6億年前の多細胞生物の出現(カンブリアの大爆発)を経て現在まで脈々と、まさに「生き継いで」きた。生命の個別性と全体性を考える必要がある。同じ生命は存在しない。それぞれがただ一度だけ生まれ、生きて、死んでゆく。私はあなたを、あなたは私を生きることはできない。たとえば、打ちよせる波がどれも同じようでありながら、すべて一回性で個別のものであることは私たちの生においても同様ではないだろうか。あらゆる場所に見い出すことのできる生命の流れの宇宙誌。あなたの指紋はあなただけのものであるように…。

沖縄で語り継がれる「命どぅ宝」(命は宝もの)こそ生命の原理であり、同時に最強の反戦の原理でもある。                         2000.7

 

AWACS」あるいはパノプティコン

 

 AWACSは空飛ぶスーパーコンピュータだ。それ自体は「非武装」でさえあるが、戦闘のすべてを(すなわち大量殺戮を)統制する機能を持つ。

「電子戦」において「移動しながら」敵・味方のすべての情報をコントロールし戦闘を「予測可能なもの」に限りなく近づけるものだ。それは「シミュレーション」といってもよい。従来の戦闘における「敵にみつからないように隠れる」ことや「白兵戦という統制不能状況」などの概念を一段階上から見ることによって無意味にしてしまう。現代戦はAWACSを頂点にしたコントロール体制で行なわれるといっても過言ではない。

“「戦争機械」のかたわらには、つねに視覚的な「観察機」が存在し、そのおかげで兵士は現下の軍事行動に関して視覚的な展望を得ることができた。従来の監視塔から…遠隔感知衛星まで、兵器の眼の役割をはたす機能がずっとくりかえされてきた。戦場がいかに広くとも、敵の軍隊や整備兵がどこにいるのか、できるだけ早く全貌をつかむ必要がある。ここでは、見ることと予見することが非常に接近し、実際のものと潜在的なものとを区別することはもはや不可能だ。いまや電波の電子イメージが、リアルタイムで現実の視覚を代替する。それにつれて、軍事行動は「視覚の外」でおこなわれるようになっている。”(Virilio 1989)

 敗戦後(占領後)の日本の軍拡は「平和憲法」のオブラートに包まれながらも、あいまいに、かつ極めて巧妙に世界のトップクラスを達成した。国民が知ろうが知らまいが、まず第一にその事実がある。軍事のハードにおける充実は、「新ガイドライン」というソフトにより名実ともに日本を「有事体制」として完成させた。

 沖縄の現実が本土に反映されはじめて、やっとこの国が米軍の占領地にすぎないことを自覚したわけだが、「カンケーネエヨ」とうそぶく大多数の日本人による「後方支援」はすでにはじまっている。さまざまな分野へのコンピュータ導入は革命的に高度な管理を実現した。かつてバラバラで無関係であったものが急速に有機的つながりを持ちはじめた。そして、その高度情報管理社会が「有事」のキーワードで統制される。だからこそカンケーネエヨという無関心層は政治的に重要な存在だ。あらためて、究極の管理社会が「誰もが管理されていると自覚出来ない社会」であることをいうまでもなく。それぞれが勝手に働き、納税してくれるだけで立派な軍事貢献となる。

“戦略への応用からより広い社会へとシミュレーション・テクノロジーと監視テクノロジーはひろがってゆき、今日では逸脱者の管理、労働現場の統制、子どもの教育、さまざまな娯楽などにも利用される。今世紀末には軍事管理は急速に社会管理のパラダイムとなる。戦場でのテクノロジーがより日常的により巧妙に、戦間期にも適用されるだろう。実際には、脱産業社会、ポストモダン社会は、徹底的に軍事化された社会であり、市民と兵士、兵士と機械、戦争と平和の区別が情報テクノロジーの大量普及によってぼやけていく社会である。”(de Landa 1991)

 日本中に設置された膨大な監視カメラや、もうすぐ具体化する国民総背番号制などがプライバシーの消滅を実現する。さらにすべての国民の個人情報の管理は、すなわち「有事体制」の実質的な「後方支援」となる。

あらゆるものがネットワーク化される現在、私たちにとって「脱・有事体制」は可能だろうか。冒頭で指摘したように高度情報管理は「予測可能性」を目指す。すべてがシミュレートされた社会だ。そこでは「不確実制」や「偶然制」、「予測不能性」といったものが排除される。直感や無駄、ムラ、行きあたりばったりといったものが嫌われるのだ。しかしそれこそ私たちを最も人間らしく存在させる要素ではなかったか。そのように数値に還元出来ない部分にこそ可能性がある気がする。ともかく、限り無く均一・均質な時空間は生命にはふさわしくない。私たちは透明な存在などではない。“花粉症”などの時代の病に鼻水たらしながら「良心的兵役拒否」などという言葉など知らなくてもラストシーンで「ドタキャン」してしまう不確定要素を持ちたい。驚き、悲しみ、笑い、そして怒るといった情感はとりあえず、まだコンピュータには不可能な領域であり、私たちに残された表現はその部分に依拠している。           1998.3.17

 

 

戦争する国で戦争しないためには?

 

“同じ山登りであっても、一般の縦走路と、沢登りや岩登り、冬山が決定的に違うのは、縦走の場合は「安全と危険が別々に存在している」ということ。(中略)

安全と危険が同居している場に入るために必要なことは「危険に対する想像力」である。個々の技術が意味をもつのは、全体の流れの中に位置づけられ、理解できているかどうかである。全体の流れの理解とは「何がどう危険であるか」を予測しうる想像力をもっているかどうか、にかかっている。(中略)

常に自分で考えるという蓄積のみが、想像力をもたらしてくれる。想像力がつくことによって、はじめて自分以外の他の経験からも学ぶことができる。(中略)

できるだけ小さな事故を大切にし、そこから学び、考え、想像力を鍛え、大きな事故に対する防衛能力を高めたい。事故事例こそが最大の学習の場なのだ。”(若林岩雄 岳人1999. No.624

 仕掛けられたジジイ・ババアの百名山登山ブームがいかに想像力を欠いたものであるかは、日本中で多発する「縦走路遭難」を考えれば事足りる。そんな「中高年」といわれる世代が敗戦後の日本社会をどう生きてきたかは、ゴルフやテニスにとって替わった「登山ブーム」に、マニュアル通り(つまり想像力を欠いたまま)突入したことと等価である。それはまたその上の世代がボケながらゲートボールに興ずる姿と少しも変わらない。同じ社会に起きている同世代の野宿や路上死に目もくれず未曾有の大不況にも動ずることなく「ブーム」のレールを無自覚にひた走れるそのエネルギーこそが敗戦後日本というモラルハザード(倫理喪失)を深化させてきた。政・官・財の(バレなければ何をやってもOK)の指標はもちろん民間にも通底する。

 個々の想像力を消滅させる意図と、個側の日和見的生活保守主義が予定調和的にハーモニーを奏でた結果としての現在がある。見ない、聞かない、言わない。

91年湾岸戦争はそれ以後の日本を方向づけた。90年代日本とはそれまでボヤケながらもかろうじて自己を映し出す鏡をもちえた日本が、自覚する間も無く鏡が粉微塵に砕け散ったことさえ忘却した時代かもしれない。

 一体、誰が憲法9条(戦争放棄)を持つ国が戦争法(新ガイドライン)を矛盾無く共存させることが可能と想像し得ただろうか。

そして息をつく間も無いまま、盗聴法、国民総背番号制とつづき、破防法さらに有事立法という底無しの状態に突入している。当然、憲法改正も見えはじめた。80年代に「ダッチ・ロール」という言葉が登場したことが記憶にある人はその言葉が短期間のうちに使われなくなったことを同時に思い出して欲しい。日航ジャンボ123便御巣鷹山墜落事故は複数の証言が自衛隊、米軍、日本政府によって人為的に起こされた可能性を示唆している。そのジャンボ機の迷走飛行状態を「ダッチ・ロール」と呼んだ。ほとんどコントロール不能であったにも関わらずパイロットの必死の努力で帰途にあったものが意図的に撃墜されたという。してみれば現在の日本程「ダッチ・ロール」の形容がふさわしい時代はないだろう。

 この国の近・現代史は捏造と隠蔽のくり返しだった。この国で「まさか国家がそんな事を…」という言葉は自国の歴史に疎い事の言いかえであって、「実はあの時、こうだった」という暴露証言で補完される。戦争責任をチャラにしてスタートした「敗戦後」が、世界中の平和運動家がうらやむ憲法9条と、世界中の軍人やテロ集団もうらやむ最新鋭の軍備を両立させて恥じない。あげく、これを真顔で続けるうちにどうやら核となるモラルの虚構性が本領を発揮しはじめた。依るべき思想が鵺(ぬえ)のようなものならば、学級崩壊や子殺しもこれから起こる地獄の前には序の口と言えるのではないだろうか。

 もはや「この会社に居れば安心」と同義として「この国なら安心」という、ノー天気なブランド指向は吹き飛んだ。「新ガイドライン以後」とは、いつ起こってもおかしくない地震の巣である日本列島に50基もの原発とともに暮らす私たちが、「まさか起こるはずのない戦争」を、「いつ起きてもおかしくない」状態にして飛躍的に生命のリスクを増大させたという事だ。しかも能動的主体的に。要するに戦争しない国から戦争する国になったのだ。

 「じゃあどうしたらいい」など知ったことか!各自が考えればよいことだ。はっきりしているのは現在でも「新ガイドライン」「AWACS」「盗聴法」って一体何なの?という日本人が圧倒的多数であり、マスコミのすさまじい白痴化であり、不況への無策、失業者への無策という実態だ。そこからのみ、語る事が可能である。

 もう30年以上前に仏映画で「5時から7時までのクレオ」というのがあった。主人公クレオが癌宣告を受けてから画面がハイキーになり(白黒のコントラストが強調される)何でもない日常シーンが異質な意味を帯びてしまうというようなストーリーだ。最近公開された「永遠と一日」(テオ・アンゲロプス監督)も共通する部分がある。「新ガイドライン」成立以後、日常が変わったとは見えないかもしれない。しかし、癌宣告された患者がそれまでと違った日常風景が見えるのと似た感覚をもつのは私だけだろうか。

 危険を危険と感じるまともな神経は一体どこに行ってしまったのだろう。

ところでジジイの一人として、次はどこの沢登りに行こうか…。     1999.6.8

 

 

ベネチア・ビエンナーレ.涙.表現.

 

20世紀最後のベネチア・ビエンナーレが五月にイタリアで開催された.1895年から続く同展は現代美術界に多くの話題を提起し続けている.近年の問題作として独のハンス・ハーケの「ゲルマニア」というインスタレーションがあった。会場の床の石材を粉砕し、何もない壁に青白いゲルマニアの文字が光るというものだ。重いドイツの歴史が「壁」の崩壊、冷戦の終った現在も問い続けられている。

99年ビエンナーレに空爆の真っ只中のユーゴから危険を冒して大学生のベスナ・ベシチが最年少のアーティストとして参加した。

彼女の作品はビデオだ。モノクロームで彼女自身が流す涙のUP映像がえんえんと続く。大きな目からとめどなく流れる涙、頬を伝い、唇に入り、小さな顎に集まり、滴となって落ちてゆく。上映中もユーゴではNATO・米軍による空爆が続いている。その殺戮の対象であるユーゴの少女が涙を流している。何の説明もいらないだろう。言葉にすることも出来ない悲しみ、痛みは見る者を圧倒する。映像を見る者に逃れられない政治性が突きつけられる。空爆という殺戮によって(加害者)(被害者)に引き裂かれる世界。映像はイタリアの会場で上映されたのだが、ユーゴからはるかに離れた日本人にも空爆の加害の側に立つのか被害の側に立つのかという問いかけは公平に裁かれる。もちろん空爆を支持した日本人であるかぎり加害者であるわけだ。

戦争は人間の暴力の極限の表現だ。そこに至るプロパガンダ、国旗、国歌といったさまざまな象徴を効果的に巧妙に駆使して行なわれる国家規模の殺人だ。現代戦は高度にハイテク化され、特に米軍にとっては、いかに味方を殺さず多くの敵を殺すかという技術が追及される。肉眼でなくスクリーン上のターゲットは単に記号的意味しか持たない。しかも遠隔地からのボタン操作は兵士の「良心」を傷つけることもなく、悲鳴も呻き声も聞かずに済む。もちろん涙を見ることもない。

世界中どこでも米国保有の20数個の軍事衛星により確実に敵の位置がわかり、巡航ミサイルが超低空から地形を読みながら目標を目指す。もはや隠れる事は不可能だ。

赤外線暗視装置により、敵の動きが止まる夜間に攻撃を集中させる。24時間、360°全方位の視覚(情報)を手にした無敵の米軍。力が正義、量が正義……か?エスカレートするハイテク兵器を存分に駆使するアメリカ、そしてハイテク技術に酔いしれて戦果を勝ち誇るアメリカ、ならばその人間性は一体どうなっている?戦争への異常な愛情をもつ「博士」(合掌。S・キュブリック)の人間の部分は世界をリードするに足りる民主性、人間性を確保できているだろうか。米・NATOによるユーゴ空爆の戦果とは「見えない死体は臭わない」というつくり話、もしくは想像力の欠如にすぎない。また相次ぐ誤爆は兵器の進化に人間がついてゆけない証明でもある。

ベスナ・ベシチは映像で武器を超えた。丸腰の女子大生が空爆にさらされながら、たったひとりで一本のビデオテープを持って加害側の地イタリアにやってきた。「人間」の表現が、物量とハイテクで武装するマッチョで粗野な、理性を失った米、NATO側をはるかに凌駕することを突きつけた。

国際性と歴史認識を欠き、エゴイズムと日和見主義に陥っている日本人はこれからもアメリカ主導の戦争をスクリーン上の記号として、他人事として見続けるのだろうか。その異常に気づく時は、おそらくもう遅い。

ところでまったく知らなかったが、浜松には50人もの「アーティスト」がいて、なにやらTシャツをデザインしてゴミ問題を訴えるらしい。けっこうなはなしだ。浜松にはAWACSというとてつもないゴミが存在するのだが、AWACSはステルスじゃないのに「アーティスト」にはみえないらしい。でも「アーティストだらけ」の浜松はさぞかし文化度の高い都市だろう。それとも「あたらずさわらず」で結果的にいつも加害者として生きてゆくのがアーティストならベスナ・ベシチのような存在はアーティストなんかじゃなかったわけか?想像力も表現力もいらなければなんと楽な商売だろう。ハイテク兵器と情報操作のおかげで戦場の悲鳴も大量の血も死体の臭いも感じなくなった現在、決して戦場が消えたわけでない事を忘れてはいけない。それどころかガイドライン以後の日本がいかに可能性としての戦場に近くなったかという意味でひとりひとりの想像力が問われることに他ならない。国民すべてが(主体的参戦)の当たりクジを手にしているわけだ。たったひとりの感性豊かな少女が、想像力により武器を超える表現を成し得たとき、大国の身勝手を粉砕する程の力を持つことを知った。コンピュータに代表されるハイテクよりも人間が、少なくとも今のところ優位にある。まだ人間を信じたい。

1999.7.19