「公平」か「不公平」か…

 

「オーストリアで右翼政党が政権入りした問題で日本政府のだんまり姿勢が続いている。(中略)日本にとっては、人権や歴史認識などの理念が絡む問題は苦手科目。その上、侵略の過去を肯定する過去の歴史をめぐるオーストリア自由党党首の問題発言は、日本の政治家にもあるだけに、批判はわが身に返ってくるとの心配も出ている。」(00.2.5朝日新聞)

世界に自国の基準を押し付け、権益の独占を計ってきた米国と、その在り方に無批判・無節操に追従してきた日本を「公平」という視点で考えてみる。

最近、都内の公園で少年2人が男性をなぐり殺して金を奪うという事件があった。若者による、明らかに弱い立場の人間に対する傷害・殺人事件が後をたたない。徹底的な「力の論理」がそこにある。そして上下関係も。自分たちより弱い者を見つけ出して「力」を行使する。親のしつけ・教育・社会などそれぞれに理由があり関係があるだろう。しかしそこに、米国と日本と世界の反映は読めないだろうか。

現在となっては、あやしくなった言葉「日本は平和」は実は沖縄の犠牲という代償によって語られてきた。「地球にやさしい原子力エネルギー」は被爆労働者の犠牲によって、というように偽せ物民主主義社会のキャッチフレーズは隠された犠牲がつきものだ。

“冷戦は終った。だから(平和に生きるため)に常に敵をつくり続けなければならない”これが米国軍事支配構造であり、軍事同盟日本もそれを共有している。この根本原理のために「民主主義」「人権」は必ず「画に描いた餅」でなければならない。

一部マスコミによる「人権」を徹底的に笑い話にして排除する姿勢は、だからこそ日本に必然的な現象だ。「敵」を創作して自己の利益を確保するという原理は内側にも作用する。しかも、きわめて恣意的に。米国の武力行使を思い出して欲しい。ユーゴ空爆は行ったが、ルワンダ、ソマリア、その他のアフリカ諸国には手を出さない。

「テポドン」さわぎの浮き足だった動きは何だったのか。けっきょくマスコミあげての情報操作に国民がおどらされたわけだ。カミソリで切られたチマチョゴリの少女たちの悲しい記憶だけが残る。米・韓の対話外交が始まると急に静かになって遅ればせながら「話し合い」に追随しはじめた。最近、与論島にロケットの残骸が漂着した。直径12m、長さ6mもあるのに米国のものと判明したために何のさわぎにもならなかった(00.2.2朝日新聞)。スペースシャトル「エンデバー」による立体地図作製は実は米国防総省による軍事目的のミッションだったことがわかった(00.2.16毎日新聞)。宇宙開発を平和利用に限定している日本の毛利衛飛行士の参加はどう考えてもおかしい。しかもマスコミを通じて子供たちに「夢の実現」などと語っている。インチキとはこの事ではないか。

ところで「エシュロン」(米国家安全保障局の通信傍受システム)が国際的に問題になっている。世界最大のスパイ装置といわれ、電話やFAXEメールなど電信電波情報ならすべて地球上どこも傍受可能だ。1時間に200万件を傍受しているという。すでに国際会議の各国情報が米国に漏れたり、民間企業や私人の通信が盗聴され、影響が出ている。情報化時代では情報による(武器を使わない戦争)が行なわれている(00.2.17毎日、2.18毎日)。だが、米国の世界支配志向が情報だけに頼るわけでは決してない。米国は2001年度の国防省予算を公表した。2911億ドルで前年比1%の実質伸び率だ。中でも弾道ミサイル防衛(BMD)に45億ドルを計上、このうち米本土ミサイル防衛(MMD)に19億ドル、戦域ミサイル防衛(TMD)に17億ドルを計上した。TMDにはすでに日本が共同開発参加が決められている。こうした(BMD)関連に重点を置いた予算に中国やロシアの反発は必至だ(00.2.8毎日新聞)。既に飽和状態で危うい均衡にある各国の弾道ミサイル配備状況を自国に決定的優位に導くための「米国一人勝ち」兵器構想なのだから。しかも、またしても日本は無条件の追従だ。

コーエン国防長官は28日、年次国防報告を議会に提出した。それによると、軍事力をよりどころにして世界のリーダーとしての役割を果たしていく決意を明らかにしている。さらに中国、北朝鮮が将来米国の脅威となる可能性を指摘し、現在の「東アジア10万人体制」(ほら、またか)を堅持する方針。という内容だ。“世界が平和であるためには常に敵を創作し続ける”というわけだ。

そんな「米国一人勝ち」のために日本は年間5000億円もの税金を「思いやり予算」として使って頂いている。敗戦後最悪の不況により失業者が激増し、中小はもちろん大企業に至るまでリストラの風にあおられ、路上には野宿者があふれ、国民一人あたり600万円ともいわれる赤字財政で国債を乱発している国が、好景気による財政黒字の米国に一体何を思いやるのか。

正確な歴史認識を欠落させ民主主義や人権というものをもの笑いの対象にし、それゆえに主権者意識が芽生えず政治に全く無関心な若者が、アメリカ文化や精神を無批判に受け入れているのは、この国の政治の在りようと決して無関係ではないはずだ。利己主義はさらに拡大するだろう。犯罪もバレなければOKだ。何しろ連日の不祥事のニュースで明らかなように警察にも正義は無いのだから。他人の事より今、自分さえ良ければそれでいいというわけだ。

こうした風潮(現実)に大人が文句を言う資格があるだろうか。理念や理想を目指す大人が居なくなった社会が若者に語る言葉を失うのは、彼らにそれを聞き取る耳を育てられなかった大人の責任でもある。冷戦後の世界が共有出来たはずの平和のチャンスを「米国一人勝ち」の傲慢に、さらなる軍事的緊張を強いられている。これがアンフェアでなくて何だろう。

銃によって築かれてきた米国の歴史を見れば、銃社会の不幸を自虐的に味わう必然性は火を見るよりも明らかだ。引き金はいつも「正義」によって引かれてきた。内側で子供や幼児までが銃を乱射する社会が外に向けてかざす「正義」がどれほど虚言に満ちているかは言うまでもない。(子供は大人の鏡)とはうまく言ったものだ。米国も日本も「アンフェア」という同盟を生きている。

日米のみならず、すべての軍需産業を解体し、平和産業に転換出来なければ平和など画に描いた餅にすぎない。                      2000.2.18

 

 

終りなき侵略

 

 「関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺という蛮行を連想させ、衝撃的な発言を受け止められている」「日本政府が一方では積極的な国際化を言いながらも、依然として外国人への視点が改善されていない日本国民の(意識の)奥底を代弁している」建国の通信社、聯合ニュース(4.11毎日)

410日陸上自衛隊記念式典で石原東京都知事が「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返し、大災害時には騒じょう事件すら想定される」と発言。国内外で批判が高まっている。50年以上も日本国民が曖昧にしてきた「戦争責任」問題、「憲法9条」と自衛隊の問題、旧植民地問題と差別意識などを誤認したまま明確に語ったこの発言はもちろん、とんでもない話だが、気になったのは「三国人発言」に対し都に寄せられた意見のうち発言を支持した意見が60%を超えていたことだ。聯合ニュースが指摘する「依然として外国人への視点が改善されていない日本国民の(意識の)奥底」はその意味において本質を突いている。60%の差別主義者の罪は深く重い。

内海愛子恵泉女学園大教授は「…敗戦後、連合国にも中立国にも属さない日本の植民地から開放された人々のことを『三国人』と呼ぶようになった。(中略)さらに、戦後の混乱の中で開放された朝鮮人や台湾人が精力的に活動したのをみて、日本人が生活に困ることがあったから、敵意を込め「第三国人」と呼び、在日朝鮮人や台湾人に対する差別的な意味で使われるようになった。死語になったと思われたが、闇市をテーマにした映画や小説で今も差別的に使われている」(4.13毎日)

日本が、かって侵略した国々と歴史の共通認識を持てぬかぎり「三国人」は死語にはならない。時代錯誤を生きているのはひとり石原という年寄りだけではない。戦争責任、歴史認識が誤認されたままなら、来るべき「東京大震災」でも、普通の魚屋さんや八百屋さん、おじさん、おばさん達が包丁やバットで「三国人」殺しを繰り広げるに違いない。その際、平和運動や人権活動にかかわってきた人たちも、関東大震災の時と同じように「主義者」として一般人によって惨殺されるだろう。現代にそんな野蛮があるものか、と思うなら「オウム」バッシングを見れば解るはずだ。全体主義にどっぷりつかった日本人なら、何をやるかわかったものではない。

 大正デモクラシー運動を担った詩人故加藤一夫の関東大震災直後の日記が何年か前に発見された。

「朝鮮人が放火するとか、井戸に毒薬を入れるという噂が立つ。市民は殺気立つ。今夜から市民の夜警が始められる。朝鮮人が放火しようとしていたのでたたき殺したと言っている。乱暴者は殺してもいいと、すぐ青年団の人らしいのがふれて来る」この後、加藤自身も警察に留置され拷問を受ける。「…再びまた打たれ始め、倒され、蹴られる。“殺してしまえ”“戒厳令の効き目を知れ”そのうち主任が刑事をとめたがきかない。主任が怒ってやっとのことでやめさす」死を覚悟した加藤だが「東京退去」を条件に釈放され、芦屋に着く。「920日(中略)大杉、及び野枝さん、二人の子が甘粕という憲兵大尉に殺されたという報道だ。何という驚愕!こんなことが起こるかもしれないとは思っていた。しかし、何という不法、何という乱暴だ」(朝日新聞)

言うまでもなくアナーキスト大杉栄、伊藤野枝の虐殺事件だ。「関東大震災の朝鮮人虐殺事件では、警察に加えて軍隊も大きな役割を果たした。海軍の無線は朝鮮人暴動のデマを広めたし、実際に軍が虐殺に加担したという手記も残っている。軍の治安出動は、ある意味で災害そのものより恐ろしい」大江志乃夫茨城大名誉教授(朝日4.12

自らの歴史を都合良く改ざんし、認めたくない部分を忘却してきた日本人として石原発言は出るべくして出たというべきであり、石原個人への批判だけでは何も解決しない。ただ(歴史認識を誤っている)だけのまじめなごく普通の日本人の異常性が問われている。

某企業に勤める友人がいる。彼は技術者でこのところアジアの国々へ海外出張の機会が増えた。以前はとりたてて政治や社会に関心が高いわけでもなかったがアジアから帰国する度に「日本は何か、おかしい」と口にする。この国でしか通用しない論理があまりにも鼻につく、というのだ。現地の人々と話を深めるにしたがって日本の特異性を感じるらしい。

まじめで普通で勤勉であればある程、国際的に孤立してゆく国、そんな国に私たちが住んでいるといったほうが正しいのかもしれない。

「自衛隊は軍隊である」と発言して石原知事は、はれものにふれた。では、はれものをどうしてつくったのか。日本人がすべてに曖昧だったからだ。AWACSという最先端の兵器を4機も保有し、海外派兵のために空中給油機まで導入しようという浮き足立った軍事的武装集団は軍隊ではないのだろうか。

「判断を回避すること、判断力の衰弱」が全体主義特有の精神構造であるとハンナ・アーレントが指摘している。

戦争の被害者たちが、現在つまり(はれあがった軍隊がまさに海外を目指そうというこの日本)に対して過去の戦争責任を問い詰めている。たとえば実際にアジアの国、日本が侵略した国の人々に向かって「そんな昔のこともういいじゃないか」と言えるだろうか。この国内でしか通用しない論理をいくら大声で叫んでも無意味だ。重要なのは自ら止めてしまった時計を出来るかぎり早く正確に合わせる事だ。(話し合い)が苦手なのは共有する歴史、共有する言葉を持とうとしなかったからだ。そのようにしなくては憲法9条と最新兵器装備の軍隊を両立させることが出来なかったからである。意図的に「敵」を創り出さなくては存在意義が無い国は、軍隊とその原理を共有する。そして兵器産業も。このような閉じた社会は友人ではなく「敵」だけを生み出すことになる。だからいつまでたっても「三国人」というわけだ。この時代錯誤を一刻も早くあらためるべきだ。

生物は基本的に開放系であり、常に変化し続けるものだ。世界の、そして環境の変化を正確に認識して自らにフィードバックする。その上ではじめて世界との相互作用として生き続けることが可能になる。

 半世紀も侵略戦争を終らせることが出来なかっただけでなく、いつまでも旧態依然とした身勝手に固執するだけでは未来は無い。              2000.4.14

 

 

ハンナ・シュミッツはハンナ・アーレントを読んだ

 

先日「ベストセラーに興味は無い」と書いたが、後ろめたさを覚えながらはやくも持論を覆すことになりそうだ。少なくともこの一冊の本に関しては。1995年ドイツで出版された「朗読者」がやっと邦訳された。5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超えるベストセラーとなったという。シュピーゲル紙(独)は「これは文学的事件だ。ギュンター・グラスの(ブリキの太鼓)以来最大の世界的成功」と評している。

小説はストーリーがわかれば良いというわけでは決してない。その表現すべてが感性の実験として読み手に提示される。詳しく内容を説明しても意味はないが、大まかには以下の通りだ。

15才の少年が30代のハンナと出会い恋に堕ちる。ハンナは逢瀬の度毎に、少年にさまざまな本を朗読させ熱心に聴く。しばらくして何の前ぶれもなくハンナは姿を消す。少年は成長し法学生となる。ナチスドイツの戦争犯罪を裁く法廷で奇しくも少年は戦犯としてのハンナと再会する。ハンナはナチス時代ユダヤ人収容所で看守をしていたのだった。起訴理由は収容所でのユダヤ人の生と死の「選別」に関わっていた。ハンナの法廷での態度は裁判に悪影響を及ぼし、最終的に無期懲役が決まる。少年は10年間さまざまな書物を朗読してカセットテープを獄中のハンナに送りつづける。

18年目にハンナは恩赦が認められ、少年ははじめて会いにゆく。年をとり別人のように変わり果てたハンナ。彼女は刑務所から開放される日に首を吊る。ハンナは文字がよめなかった。それを少年に隠し続け、無学のままナチス時代に自分が看守だった事の意味を、刑務所の中でカセットテープにより、エリ・ヴィーゼルやハンナ・アーレントなどたくさんの書物を通して独学する。少年は戦後世代であり、直接の戦争責任は無いわけだが、同じ国の歴史を共有し生きてゆくうえでナチスの戦争犯罪を考えざるを得ない立場だ。

ちなみにドイツはこれまでに約56千億円のナチス強制労働被害者補償金を支払ってきた。さらに717日新たな財団を発足させ、今世紀の道義的責務を今世紀中に果たそうという姿勢をアピールしている。

「朗読者」はナチスの看守という加害者の意味をゼロから独学して理解してゆくという、悲しい、恐怖の過程を少年との恋愛を超えて、深い罪の自覚と自らの裁きに至るまでを描いている。

2日間で読み終えたのだが、終章を喫茶店で読んでいながらはからずも涙を抑えることが出来なかった。

ところで、朝日新聞(718日)の報道によると

“ドイツ政府と経済界が17日、ナチス時代の強制労働被害者への補償金支払いに最終合意したことで、戦時中の強制連行問題を抱える日本が今後、元捕虜やアジア諸国民からの補償要求の矢面に立たされることが必至となった。米国では昨年以降、戦時中の強制労働に対し、損害補償請求訴訟を起こせるとした州法が相次いで成立し、既に日本企業相手に約三十件の訴訟が起きている。(中略)日本国内で起こされた約六十件の戦後補償訴訟のうち、和解に至ったのは今月11日に最高裁で和解した「不二越訴訟」を入れても3件にすぎず、対応の鈍さではドイツと対照的。”

毎日新聞(720日)では、

“東条英機が1941年に発令した「戦陣訓」が拡大解釈され、40人もの兵を仲間の手で銃殺。その根拠は「生きて捕虜の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」にあり、捕虜になるのは日本軍人でない、万死に値するという。(中略)「生きた虜囚を認めない日本軍は、敵の捕虜にも残酷だったし、戦えない自軍の傷病兵の扱いも冷酷だった」。(中略)ドイツ政府がナチスの犯罪を総括し反省したように、日本も「日本人は残虐」の事例を分析したうえ、軍事国家の異常な訓令が兵を死のふちに立たせ、残虐行為や集団自決に駆り立てた原因の一つ、と説明すべきではないか。その努力が、海外の歴史的な日本不信の解消に役立つと思う。”

こうしたジャーナリズムの指摘をあざ笑うように自民党は19日、「靖国神社問題に関する懇談会」を開いた。A級戦犯の分祀問題や神社の特殊法人化などが検討される見通しだ。そして、首相らが堂々と靖国参拝を行えるような方向を探ることも。

歴史(過去・現在・未来)は分断不可能だ。過去を無かった事にする事はアイデンティティの否定でもある。戦争の事実をどれ程、客観的に見据え、評価するかによって現在の私たちの在り様が決まり、将来を描くことにつながるはずだ。ナチス・ドイツに負けず劣らずの日本軍国史は当の日本人にいまだに総括されていない。「朗読者」にたとえるならば、ナチス時代のハンナのままであり、自主的、主体的に自らの歴史を解読していない段階といえるだろう。

ハンナは無学でナイーブな性格であるがゆえに青年期のファシズムの流れに従順だったのだろう。おそらく思考もしくは思想という(ものさし)を手にしていたならばハンナも多くの日本人もファシズムに抗することが可能だったのではないだろうか。無条件で体制に身をまかせてしまう怖さを知った戦後世代の責任とは、少なくとも過去に目を閉ざしたまま未来を語ることではあるまい。

小説の力が未知の可能性を秘めていることを実感した一冊だった。言葉にならないものまで言葉を駆使して伝えようとする文学が、もし歴史認識に影響を与えるならば、ひいては社会を動かし、国を動かしうるなら、これは最強の武器ではないか。そんな実感が持てたら私は「ベストセラーに興味は無い」などという捨てぜりふを永久に葬るだろう。

私たち日本人は「ハンナ」であり、また「朗読者」でもある。

※『朗読者』ベルンハルト・シュリンク著:新潮社2000

2000.7.21

 

 

「左翼のバカども」

 

危機管理とはマニユアルにない事態にどう対応するかという問題ではないだろうか。非日常であるからこそ日常そのものの在り方が問われることになる。

非現実的と思わないで欲しいが、日本において災害とは単に建物が倒壊したり、火災が発生することだけを意味しないはずだ。特に巨大地震においては、目に見えない、手のつけられない核災害と、その壊滅的被害における「選択的救命」が行なわれる可能性がある。差別的救命は差別的殺人と同義である。生きて良い人間と死ぬべき人間が人為的に発生するわけだ。被害者にとっては二重の被災を意味する。

関東大震災における朝鮮人および社会主義者等の虐殺を知る日本人は多いが、そこから学んだ日本人は残念ながら多くはない。そして悪夢の再来を予感する言説が実態を表わし始めた。

93日、東京において「ビッグ・レスキュー東京2000」が行なわれた。約7,100人の自衛隊員、1,900台の車両、対戦車ヘリを含む航空機120機、艦船22隻が参加。石原都知事は軍艦マーチで登場、陸海空の自衛隊を「三軍」と表現して「外国からの侵犯に対しても、まず自らの力で自分を守るという気概をもたなければだれも本気で手を貸してくれない」(9.4毎日)と語った。この日の石原の笑顔は99年の「同時に、北朝鮮とか中国に対するある意味での威圧になる。やるときは日本はすごいことをやるなっていう。だからせめて実戦に近い演習をしたい。相手は災害でも、ここでやるのは市街戦ですよ」(99.8Voice)という意識を実現できた満足感であるのは間違いない。50基以上の原発が稼動する日本でたとえ一基でも事故が起きれば、実はレスキューどころではない。日本がチェルノブイリ原発事故に学ばなかったということは、86年以後現在に至るまで原発を増設し続け、稼動させ続けている愚行そのものを指す。被爆により「動く放射性物質」と化した住民の移動を阻止するため、銃を手にした自衛隊部隊は要所ごとにバリケードと検問を強化し、突破しようとする住民には躊躇せず引き金を引くだろう。逃げ場のない核汚染の孤島となった日本から少数のVIPだけが退避してゆくのがオチだ。そんなシナリオを荒唐無稽と思うあなたはこの国が抱えるリスクを理解していないだけだ。残念ながらそれは災害時のパニックのエネルギーにしかならない。

さて、除染車、自走架橋、化学防護車、87式偵察警戒車、対戦車ヘリコプターといったハードと「訳のわからない左翼のバカどもが反対を唱えていたが都民から孤立していた」(9.4中日)とうそぶく石原のソフトによるビッグ・レスキューの意味を考えたい。

「訳のわからない左翼…」この時点で人間の選択が行なわれている。レスキュー(救命)とは本来、信条や思想以前にある。すなわちビッグレスキュー東京2000が治安訓練であることを吐露したことになる。自衛隊員は迷彩服を着て迷彩車両を使っている。迷彩(カモフラージュ)は戦闘において敵に発見され攻撃されないように兵士、兵器をまわりの環境と区別し難くして隠蔽する目的をもつ。

一方、レスキュー(救命)は被災者やレスキュー隊員同士に明確に視認されるよう、出来るだけ目立つオレンジ色等の色彩が使われる。つまりビッグレスキュー東京2000とは“救命”と“殺人”という正反対の目的が相殺し合う行為ではないか。この国が得意な自己矛盾そのものだ。陸自幹部は災害派遣が重視されることについて「我々の出動で国民が安心してもらえるのはありがたいが、救助や消火の能力は自衛隊にはそれほどない。あまり存在を強調されて、万能のように思われると怖い」と語る。(9.4毎日)

自衛隊員が日常的にレスキューの訓練を重ねる専門、すなわち技術的体力的に民間人以上の能力があるのは当然だが、レスキューを極めるならば殺人訓練を省いた専門職であるべきだ。レスキューにとって余分な訓練、装備そして何よりもあいまいな自衛隊のアイデンティティという部分こそが、石原をして我田引水の口実となり、治安訓練を可能にしているわけだから。

たとえば三宅島の災害にAWACSを飛ばし、イージス艦を出してパトリオットや対戦車ヘリによるミサイル攻撃をなぜしないのか。対人用の武器や兵器は「殺人」の目的においてのみ最大の効果をあげ、自然災害の前には無用の長物にすぎない。(笑ってはいけない、あなたの税金ですよ)

日本において最も現実性の高い「核災害」に目を閉ざし、平和外交に力を入れることもなく、参戦意識のみをあおる言説はレスキューの名に値しないどころか時代錯誤そのものだ。誰が何と言おうとすでに私たちは多文化共生社会を生きている。その現実を否定すべくビッグレスキューが強行された。差別的、排他的ナショナリズムと武力による古色蒼然とした世界観で21世紀の日本を描こうとしている。現状をどのように認識するかという点においてビッグレスキュー2000は決定的な誤りを犯している。9条改憲によって海外への「人道的、人権のための軍事介入」を目指そうとする勢力が、実は国内における多文化共生社会にうろたえ、否定し、狭量な民族主義に固執するという本末転倒の実態であり、到底、国際社会のビジョンを持ち得ないことは明白である。災害は忘れた頃にやってくるから忘れてはいけないのであり(すなわち予測不能)、人災は予測可能であり未然に防ぐことができる。ならばそこにこそ最大の努力を払うべきであって人為的に災害を創り出す(すなわち戦争)など言語道断だ。膨大な軍事予算を平和外交に転換する勇気こそ日本が国際的イニシアチブを発揮することではないか。少なくとも「軍艦マーチ」が人命救助のテーマソングとは誰も思わないはずだ。石原都知事よ、一体どちらがバカだ?                         2000.9.8

 

 

ジャパニーズ・ヒストリーX

 

 

「憎しみとは耐えがたいほど重い荷物。怒りにまかせるには人生は短すぎる」

2000年初春に公開された「アメリカン・ヒストリーX」という映画で何度か語られる言葉である。

ネオナチでスキン・ヘッズグループのリーダーの兄と弟の物語だ。兄弟は2人共成績優秀だった。やさしい父親は消防士で、食事中の何気ない会話に人種差別のがセットされる。社会に不満を持ったごく普通の父親の言葉がナイーブで無垢な兄弟の人生を変えてしまうのはいともた易い事だった。そのは消火に出動した父親が黒人の麻薬の売人によって殺されたことで決定的に大きくなる。

社会的不満や怒りを、差別意識にすり替えることで暴力の連鎖が始まる。兄のデレクはスキンヘッズのリーダーとなった。複雑で多様な現実を敵と味方に単純に分かつこと、そうした「わかりやすさ」は多くの人の心を捉えやすい。逆説的には、いかに反差別が不安定であるかということでもある。

不況、社会不安、低所得といった不満を抱えた人々に、容易に偏見や差別意識がうまれ増殖してゆく。きれいごとを笑い飛ばす悪の正当化だ。

髪を剃り(スキンヘッド)、黒のMA-1ジャケット、鋼鉄入りのDr.マーチンブーツ、ハーケンクロイツの刺青などのファッションで連帯感を深め、Oi(オイ)と呼ばれる熱狂的なハード・ロックコンサートが反社会的感覚を快楽にまでたかめる。

兄のデレクは自分の車を盗みに来た3人の黒人を次々と残忍に殺してゆく。何発も自動拳銃を浴びせ、逃げようとした一人を歩道の段差を口でくわえさせ、首を思いきり蹴り下ろして絶命させる。弟は一部始終を見てショックを受けるがこの時には兄に対するゆがんだ尊敬が深まるだけだった。かけつけた警察官の包囲に不適な笑いを浮かべるデレク。殺人を平気でこなす程の憎悪は相手を自分と同じ人間とは見なさない。デレクが刑務所に入る。やはり白人のスキン・ヘッズが服役していて仲間になるが、イデオロギーを曲げないデレクにとって、平気でメキシコ人たちと汚い取り引きをするスキン・ヘッズは許しがたかった。仲間から孤立したデレクは激しい暴行とレイプを受ける。黒人からも白人からも敵視されたデレクを、なんと同じ作業を続ける黒人囚が彼に対する暴行を制止してくれていた。殺しても何とも思わなかった憎しみの対象の黒人が自分の命を守ってくれていたのだ。デレクは人間に目ざめ、自分がしてきた行為の意味を深く理解する。鏡に映るデレクの胸の消すことが出来ないハーケンクロイツはかっての栄光ではなく、底無しの失意と屈辱の象徴でしかなかった。

デレクが刑期を終え出所する日、弟のダニーは校長に呼ばれ、レポートとして提出したヒトラーの「わが闘争」を選んだ罪として兄のデレクについて作文を書くように命じられる。タイトルは「アメリカン・ヒストリーX」。その夜出所したデレクが弟に刑務所で何があったかを語り、ダニーは深く感銘を受けて差別の虚しさ、無意味さを知った。そして深夜から早朝にかけて書き上げた「アメリカン・ヒストリーX」を持って学校に行く。トイレに入ったダニーの前に黒人の少年が立ちはだかり数発の銃弾を射ち込む。

かって憎悪に燃え、黒人を殺しても何とも思わなかったスキン・ヘッズのリーダーだったデレクを待っていたのは、愛する弟を失った底無しの悲しみと自分がしてきた差別の自覚だった。

父親が生活のなかでさりげなく語った差別のは、果てしない暴力の連鎖となっていった。生まれつきの差別主義者など存在しない。育ってゆく環境や教育が一人の人間を悪人にも善人にも変えてゆく。

対話も理解も無い相手を勝手に悪と決めつける差別の誘惑は、いつでもどこにでもひそんでいる。始めはささいなきっかけで十分だ。手のつけられない規模になるのに手間はかからない。おそらく人間の本質は「悪」なのかもしれない。

浜松のあるガソリンスタンドで給油中に会話をかわしていると野宿者の話題になった。誰にでもそうなる可能性はあるという返事をした後、何の脈絡もないはずなのに「外国人は悪いのが多い」という言葉が返ってきた。「とんでもない、浜松で野宿者を支援しているたくさんの外国人がいるし日本人の悪い奴だってたくさんいる」と答えると「そういうものか」といぶかし気だった。知らない相手をどのように位置づけるかという場面におそらく差別の罠はひそんでいるのだろう。

全国でもトップクラスの外国人労働者の多い浜松はそんなリスクをたくさん抱えている。言葉が通じなかったり、理解出来ない相手と対話や理解の前に勝手な論理を押しつけるのが手っとりばやい。

浜松市内の差別的待遇をした宝石店を相手に訴訟を起こして裁判で勝訴したアナボルツさんの事件は記憶に新しい。他にも浜松では多くの差別が行なわれてきた。外国人と共生を目指す支援グループ「へるすの会」が扱ったたくさんの「ケース」はアメリカン・ヒストリーXが決して私たちと無関係でないことを物語っている。スキン・ヘッズが「黒人だから」殺すように、日本人も朝鮮人、中国人を平気で差別し、殺してきた。そして社会主義者も。そうした負の歴史をこの国は隠蔽しつづけてきたが、欧米のように熱狂的に存在をアピールするスキン・ヘッズはほとんどいないかわりに、国民全体に陰湿な差別の芽がひそんでいるようだ。日本人のあいまいな歴史認識は反差別の確立や共有の困難さを生み出している。この国に人権や民主主義が根付かないのは皮肉にも現在の日本社会の在り様がそれらを必要としないからかもしれない。多様な「個」の大切さが「全体」の前に消されてしまうのだ。

法務省の「人権モデル都市」に浜松市が指定された時、市広報には「人権は失ってはじめて気づくもの」というもっともな主旨が書かれていたが、その後も多くの野宿者や外国人労働者に変化は無かった。実態をともなわない言葉のみが上すべりしてゆく。その下方に「均質」で意味を問われないままの「全体」がよどんでいる。石原都知事の差別発言を支持する声も多いという。ジャパニーズ・ヒストリーXはアメリカよりも根が深いはずだ。                            2000.9.22