ワ・タ・シ・ハ・ア・ナ・タ・ガ・ワ・カ・ラ・ナ・イ

 

およそ多くのトラブルはコミュニケーション不全の為せるものではないだろうか。少年がバットを振り下ろすことから他国への空爆に至るまで…。

相手と同一の情報を共有できないために生じる「ズレ」はすぐに肥大し、時として相手の生命を奪う(存在の否定)にまでエスカレートする。大恋愛の渦中にあって、互いの全てがわかり合っていると思っている時でさえ、実はそれぞれの幻想を一分の隙も無く信じ切っているにすぎないのかもしれない。この時「ズレ」が無くなったのではなく、認識不能になっているだけなのだろう。それ程、人の考える事は異なっている。

私が私である限り、あなたを完全に理解することは不可能だ。これは私があなたとして生きる事が出来ないことでもある。

世界中のそれぞれの「私」は他者に交換することが出来ない。それゆえ、世界は無数の異質な「私」が連なっているともいえる。

完全なコミュニケーションはAという人間がAに情報を伝える時のみ(つまり情報を発信する本人にしか変形しない情報は伝わらないということ)であってABに伝える時には成立しない。ABでなく、経験も感覚も情報の質も量も異なるからだ。それでも言語などのコミュニケーションによって意志疎通が可能で、社会がなんとか機能しているのは、異質であることを前提にコミュニケーションが行なわれているからだろう。要するに“あいまい”なのだ。寛容こそが多様な社会を保障している。

それぞれが異質なこと、生き方も考え方も感じ方も違っており、それゆえにコミュニケーションは柔軟性と許容量を要求される。こうした、いわば自明の理を今の日本社会は欠落させつつあるように思う。異端を排除し、同一の思考と生き方の強要による巨大なコンビニ空間と化した社会。マニュアル通りの生き方を強要されたら、そこには生物的に無理が生ずるのは当然だ。

全体主義の結末を思い知らされたはず(そういえば日本は思い知らなかったっけ?)なのに多様性と複雑性という生命の本質は無視され続けている。「なぜ、私とあなたが違うのか?」という問いについて仮説を考えてみる。

“人間は多細胞生物で哺乳類であり、有性生殖、つまり雌雄異体である。親と同じ遺伝子のセットをもつ子をつくる無性生殖のほうが、他個体の遺伝子を混ぜて繁殖する有性生殖よりもはるかに効率が良い。有性生殖では増殖率に関係無い雄を半数近くつくる。無性生殖はそのような無駄が無い。有性生殖は性を維持するという大きなコストを支払う、という不利を上回る有利さがある。有性生殖は子の数からいえば不利でも、多様なタイプの子供をつくり出すことが出来る。”(資料:巌佐庸『性の起源と進化』遺伝 別冊122000.9

多様性こそが生き残るためのさまざまなリスクに対応出来る可能性でもある。だがしかし、どうして遺伝子を混ぜて繁殖しなければならないのか、という問題は生物学で最大の難問の一つだ。分かり合えないからこそ、分かり合おうとする方法を模索しつづけることでしか、異質の連なりである人間社会を生きてゆく術はないのだろう。ファシズムはそこに答えられない。

生きる事はおそらく未知への限りない好奇心の為せる技だと思う。それは人がさまざまな生き方で存在し、だからこそ何が起こるかわからない明日に期待することでもある。皆、違って当然だ。だからもちろん答はひとつではない。        2000.12.22

 

 

アイヒマン、もしくは来るべき戦時下におけるあなた

 

 ブッシュ米新政権の動向が注目されるが、2001年米国防報告によると東アジア・太平洋地域における米軍10万人削減と日・韓・豪との強固な同盟関係の構築を指摘している。しかし新政権はボスニアやコソボの平和維持活動に懐疑的で地域紛争への米軍投入は慎重だ。落ち目の経済をかかえてなお「強い米国」を維持するため「ミサイル防衛導入」や日米同盟強化により日本の集団的自衛権行使を強くうながす様子だ。自国の負担をできうるかぎり減らし、同盟国(日本)に兵力も出させるということだろう。

湾岸戦争から10年目だが、この間日本は転がり出した石のように「軍拡」路線を加速してきた。1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法成立、カンボジア海外派兵に始まり世界各地に派兵の常態化。そして1999年ガイドライン関連法成立を期に主体的参戦という決定的変質をとげた。一連の派兵、参戦のためのキーワードは「国連」だったが、米国の戦略が国連をも指向しつつあるため、今後、矛盾が浮上するだろう。

多くの人々に機械メーカー、家電メーカー、自動車メーカーなどと認知されている企業が、少なくともまだかろうじて生きている憲法第9条が機能しているはずの日本において「殺人」という唯一の目的を持つ兵器産業でもあることはあまり知られていない(たとえば、トヨタ、三菱重工、ダイキン、IHI、川崎重工など)。

そこで働く労働者の家族、親戚は、もとより関連産業、下請メーカーと見てゆくと、軍需産業のすそ野の広さは日本社会に深く根をはりめぐらしていることに気づくだろう(もちろん米国の軍需産業は言うまでもなく巨大だ)。

当然だが、軍需産業(兵器産業)は生産品が使われることによって成立する。すなわち、旧式になって新式のものと交換するか、実際に戦争によって消費されなければならない。

「親台湾派の大物ヘルムズ外交委員長ら共和党の保守派はブッシュ政権誕生で中国政策の修正に対する期待感を隠さずにいる。当面は台湾への武器売却問題が、新政権と議会との調整の焦点になりそうだ」(01.1.19朝日)

「ブッシュ新政権はとりあえず北朝鮮のミサイル脅威を理由に米本土ミサイル防衛(NMD)、同盟国や米軍を守る戦域ミサイル防衛(TMD)構想の積極的推進を掲げている。湾岸戦争で名をはせたパウエル次期国務長官は「国際社会の反発を押し切っても配備する決意を示した(01.1.18中日)。」

NMD開発計画の実施には総額594億ドルの費用が見込まれているが度重なる実験の失敗に実現のめどはたっていない。なにしろ弾丸を弾丸で射ち落とすのだから。

TMDの実現までに日本側の負担だけで1兆円以上かかるとされる。自衛隊の年間の正面装備費を上回り、装備の抜本的変更は避けられない。日本側は本音では「研究そのものが北朝鮮や中国への抑止力」( 防衛庁幹部)との認識が大勢で、実際の配備には懐疑的だ。ブッシュ新政権がNMD計画の実現を急げば、中国がミサイルの長射程化を加速させ、北朝鮮のミサイル問題も再燃しかねない。同盟重視の路線は、アジア地域の不安定要因になる危険性をはらんでいる。」(00.12.31信濃毎日)

軍事依存の社会構造は文字通りマッチポンプとして機能する。戦争がなくなると食べてゆけないたくさんの人々、という矛盾は過去の戦争の膨大な犠牲を反古にするばかりだ。空虚なセレモニーで追悼しながらさらなる犠牲を求めるという繰り返しが続く。ここには何の反省もない(むしろ、生活のために反省しないといった方が正確かもしれない)。

ところで阪神淡路大震災から6年が経った。森首相は「神戸に行けば一日仕事になる」と追悼式を欠席。政府の復興対策本部も昨年解散したことだし、区切りをつけると判断した。しかし現実には復興住宅では「孤独死」が後を絶たない。長野県の田中知事は、昨年まで続いていた県庁内での黙祷を中止。「117日だけ黙祷することで災害防止に対して真摯であるように見せるのはポーズ以外の何ものでもない」と語り、神戸市が60億円を費やして始めた神戸21世紀復興記念事業も「空虚なセレモニーをやるような街に未来はない」と批判した。(01.1.18朝日)

日本政府にとって神戸の震災は、「ボランティア」という市民の無償の行政補完行為を認知するために非常に有意義だった。以来、「ボランティア」は善人の代名詞のごとく使われている。それ故さまざまなボランティアは衆愚政治の予算不足の解消に大いに役立っている。

もうひとつ無駄遣いの話をしよう。2001年度予算に国際熱核融合実験炉の立地予備調査費1億円が盛り込まれた。建設費だけで5000億円という巨大計画だ(イーター計画)。

小柴東大名誉教授によると核融合発電には致命的欠陥があるという。普通の原発なら飛び出た中性子は減速剤によって減速されるが、核融合発電では減速されないまま真空容器の壁を直撃する。この壁のダメージは経験したことのない強烈なものになるという。米国は98年にこの計画から撤退した。大量の放射性廃棄物も含め、問題が未解決のためと思われる。(01.1.18朝日)

活動期に入った地震列島に稼動する50基以上の原発。止まるところを知らない軍拡路線と、もはや常識を超えたリスクの増殖にさえ覚醒しないジャーナリズムといった状況にはなすすべは無いのだろうか。同じ社会で数千億円〜数兆円という無駄金が消えてゆき、あちこちの街の路上で千円程の金も無いために人間が餓死、凍死してゆく。「平和」や「民主主義」という言葉が正反対の意味で使われる時代に私たちは生きている。社会全体が戦争のために再構成され、殺人が合法化した社会における労働者像を想定してみよう。ナチスSS中佐、アドルフ・アイヒマンの裁判の記録映画「スペシャリスト」のラストシーンの言葉だ。「…ですから、私は心の底では責任があるとは感じていません。あらゆる責任から免除されていると感じていました。(中略)私は担当を命じられた仕事で非常に忙しかった。私は課におけるオフィスワークに合っていたし、命令に従って義務を果たした。そして義務を果たさなかったと批難されたことは一度もない。今日でもなお、私はそれを言っておかねばなりません」(『不服従を讃えて』R・ブローマン、E・シヴァン 1999 産業図書)

自らの存在について、また社会との関係に思考停止した姿がここにある。

2001.1.20

 

 

安全保障が人を殺す?

 

 「英海軍基地に忍び込んで核搭載原子力潜水艦の一部を壊そうとして起訴され、公判で『核兵器は国際法上、違法だから、破壊するのは正当な行為』と主張していた女性二人に対し、裁判所の陪審団がこのほど無罪評決を言い渡した。英国で同様の抗議行動が有罪を逃れたのは、四件目」(2001.2.2朝日)

日米安全保障条約によって日本は事実上、米国の核の傘により守られていることになっている。その「核抑止論」そのものに現在多くの、そして重要な疑問、反論が投げかけられている。

米空軍リー・バトラー大将(退役)は1991年米戦略空軍司令部の総司令官であり、1992年から94年には米国の全核戦力を掌握する統合戦略軍総司令官という地位にあった。そして彼はこれまで「核抑止論」に反対した世界で最高の資格をもった軍人だ。

冷戦後11年経てなお米国とロシアはそれぞれ2000発以上の核弾頭を常時発射可能に保持している。呆れたことにコンピュータ2000年問題でもその態勢を解除しなかったという。

1995125日、ロシア軍はロシアに向かっているらしい未確認の核ミサイルをノルウェー上空で発見した。大統領の「核のブリーフケース」が初めて起動された。ミサイルがノルウェーの研究ロケットと確認されて、惨事はわずか数分のところで回避された。しかし世界には30,000発以上の核兵器が残っている。

国際的市民ネットワークである「世界法廷運動」は核兵器が合法であるかどうかについて国際司法裁判所(世界法廷;オランダ.ハーグ)に勧告的意見を求めるよう国連総会を説得する活動を行なった。NATOなどの反対工作に抗しながら199678日に裁判所は、核兵器の使用ばかりか、核兵器による威嚇も一般的に非合法であることを認めた。

「私たちは核の巨人と倫理的な赤ん坊の時代に、知恵のない知識と良心のない権力を完成させた世界に生きている」(リー・バトラー)『検証−核抑止論 現代の裸の王様』ロバート・D・グリーン 高文研2000

際限の無い「リスクの拡大」でしかない核抑止論という矛盾にやっと世界が気づき始めた。

南北会談の実現後、ぎこちないながらも歴史的な和解に動き出した朝鮮半島だが、ほとんど報道されなかったにもかかわらず、一歩間違えば…という事件もある。

「韓国合同参謀本部によると、29日午前1050分頃韓国空軍のF5E戦闘機が全羅北道・群山の空軍基地を離陸した直後、空対空ミサイル一発を誤って発射した。ミサイルは基地の西側約1.5kの黄海上に落ち、船舶への被害や負傷者などはなかった模様」(2001.1.30朝日)

危うい軍事均衡のさなかで偶発する事故の多くはその軍事的性質ゆえに報道されることはほとんどない。これは私たちが、ある日突然、わけがわからぬまま死んでゆくことを意味する。

21日の日航機ニアミス事故は私たちがいかに危うい社会に生きているかをまざまざと見せてくれた。この空域は日常的に過密な状態という。石原都知事の弁を借りるまでもないが、関東・中部に存在する米軍事空域により押しやられた結果としての民間航空域の過密は、そのリスクの根源に「軍事条約」という、あえて有事をつくり出すことによってしか機能せず、日常的には不安材料そのものの存在によって生み出されている。もちろん過密の原因には、日進月歩の高度情報社会が要求する絶え間無い「人」の移動がある事はいうまでもない。情報は電送可能でも「人」は不可能だからだ。私たちが考えなければならないのは、日米安保そのものは勿論の事、かって米軍事技術であった「コンピュータ」というものが意図的に民生用に解放され世界標準になってしまった社会の脆弱性ではないだろうか。便利な社会は別の言い方をすれば、安全のために自由を限りなく売りわたし、排除してゆく社会でもある。(人間を含めた)自然をコントロールすればする程、そのリスクが増大することを忘れてはいけないだろう。

ヒューマン・エラーはどんなに便利な技術にもついてまわる。ニアミスが起こるのは民間だけでは勿論無い。偶発事故がただでさえリスクの飽和点にある軍事上で起きたら、笑い事では済まされない。核の存在そのものがリスクであるように、軍の存在そのものが不安や緊張を生みだすならば、その根絶を求めることでしか安全は保障されないだろう。

「よけいな不安をあおると観光地の集客にひびく」のでタブーだった富士山噴火の可能性の話が出始めた。富士山は過去2千年間に75回も噴火した。歴史は無視すべきではないだろう。(2001.1.31朝日)

私たちが生きている環境は、危険きわまりない軍事的均衡に無駄な経費や努力を注ぎこむほどの余裕の持ち合わせなどこれっぽっちも無いのだ。        2001.2.2

偶然か、必然か?

 

 偶然か、必然か…2001210日ハワイ・オアフ島沖の米原子力潜水艦と愛媛県立宇和島水産高校実習船えひめ丸の衝突事故では非戦闘時に、時代錯誤の思考と構造である米軍とともに思いがけない撃沈というまぐれあたりにうろたえる日米両政府の醜態が露わになった。

軍の目的は決して人命救助にあるのではなく、戦争に勝利することすなわち殺人そのものにあって、戦争以外には思考停止してしまうということがまたしても明らかになった。

冷戦後に存在意義が薄れた米軍はその巨大な構造を維持するために必死になっている。本来、軍は民間から独立して機能するが、その経費は税金を源とするために積極的に民間にPRしなくてはならない。軍縮の流れにその存在さえ否定されかねない時代にあって、窮地の策として「民間人の観光招待」という、まさにアメリカならではのディズニー・ワールドが出現した。目玉の「原潜ツアー」は年中行事になり、年間1000人以上も参加しているという(実は、日本でも民間人にりゅう弾砲や自動小銃、機関銃を射たせている)。

本物の原子力潜水艦が民間人に解放され、ワドル艦長が笑顔で「(緊急浮上のための)レバーを引いてみないか」と誘う。民間人は「もちろん、やってみたい」こうして世界最強を誇る最新鋭原子力潜水艦グリーンビルはズブの素人の手で「緊急浮上レバー」が作動され、仮想現実でない本物の日本の民間実習船に激突し、鋭く切り裂いた。たとえば撃沈したのが「ならず者国家」の艦船ならば「ワルキューレ」あたりがBGMに流れるはずだったが、実際には新たな武勇伝は語られることなく、実習船の沈没と9人の行方不明者、そして(軍そのものの存在への問い)を波間に残した。注意すべきは、きっと頭の中が真っ白になったであろう艦長の責任を問う事だけがこの事故の本質ではないということだ。

いったい自分たちが何をやらかしたのか理解出来ない潜水艦の軍人たちは、事故後1時間何もせず、ボーッとしていた。事故の報せを受けた日本の首相もまた、どれ程重大な事か理解出来ず、ゴルフを続けた。

事故後現地ホノルル入りした桜田外務政務官は米太平洋艦隊司令官との会談で『今年で日米安保50周年』『こうした困難を乗り越え、互いの関係を強化していきたい』これに対して司令官は『困難な状況を乗り越えることで、日米関係はさらに強くなってゆくのではないか』と応じた(01.2.12朝日)

軍の存在自体が危機を創り出すという本質は、冷戦後も枚挙にいとまがない。

“昨年9月チリ沖で戦車揚陸演習中の輸送船が座礁するなど、1年間で6件の重大な事故が発生。昨年7月ハワイオアフ島沖でも水陸両用艦と給油艦が衝突。陸軍では部隊を率いる大尉クラスの辞職が目立っている。毎年、大量に辞めるため指揮命令系統に穴があき、中尉を大尉に任命して窮場をしのいでいる”(2.16毎日)

もちろん、日本において沖縄の動きが重要であることは言うまでもない。際限の無いレイプ事件をはじめ、放火犯の引き渡し拒否、沖縄県知事らを「ばかで弱虫」と中傷したことなどにより、たとえば北谷町議会では215日、米政府などに海兵隊撤退を求める事件への抗議決議と日本政府への意見書を全会一致で可決した。(01.2.15毎日)

さらに稲嶺沖縄県知事は放火事件に関して、こうした事件が発生した場合の日米地位協定の改正に取り組むよう河野外相に要請した。これに対し、河野外相は協定改正も視野に検討したい意向を表明した。(01.2.15中日)

失業した戦争のプロは、やはり生活のために危機をつくりだすことが宿命であり、必然的に起こった巨大兵器の暴走による被害者、犠牲者を前にして、なすすべがなかったことが示唆するのは、どう考えても軍の解体でしか平和が創り出せないということだろう。

非戦闘状態の日常において、素人が最新最強の兵器を無雑作に扱い、いとも簡単に大量殺人をやってのけることは決して偶然ではない。今回の事故を持ち出すまでもなく、「平和のための武力」とは論理矛盾そのものだ。

「戦争とはなんだろう。戦争はもちろん暴力であって、人間がかかわる行為のうちでいちばん激しく暴力的な行為だ。戦争の目的は、敵を自分の意志に従うように強制することで、その方法は、人を殺したり怪我をさせたり物を壊したりすることだ。人の殺し方として、普通は体に穴を開けたり(昔は刀か槍か矢で、今は鉄砲の玉か爆弾の破片で)、爆薬で爆破したり、焼夷弾で燃やしたり、場合によって飢えさせることも使われる。文民がそういうことをすれば、テロリストか連続殺人犯人として逮捕されるが、軍が国家を代表して同じことをすれば良い市民としてほめられる。これが国家の魔術だ。」(ダグラス・ラミス 『憲法と戦争』晶文社2000

戦争と暴力の世紀であった20世紀の歴史を背負い、私たちが「忘却」を選ぶか、それとも「脱戦争・脱暴力」という、かって人類史が試みたことのなかった、しかし最も「生命」にふさわしい世界の実現をもって越えようとするのかが現在問われている。

PS親ブッシュの愚行を再現した子ブッシュに強く抗議する。今回のイラク空爆が、危機そのものである米軍の存在をなんとか正当化したい意思であるのは明白だ。「ばかで弱虫」とはまさに米国のことだ。                  2001.2.16

 

 

アンフェア

 

 さまざまな情報が世界中で同時に共有される現在、民主主義や人権といった概念が少なくとも半世紀前よりは国際的共通性もしくは普遍性を獲得してきたはずだ。とはいってもそれが世界中の「共通認識」に成熟するにはまだいくつもの試練があることだろう。その試練がたとえば暴力によるものでなければ、そして物理的、心理的を問わず強制されたものでなければ、多民族多文化の共生社会のための共通言語を生みだす有意義な過程であることはまちがいない。

これまでも自他共に先進国を認めるアメリカは民主主義をレトリックとして語ってきたが、他国はもちろんの事、当のアメリカ人でさえ自分たちが(真の)民主国家であるか疑問を抱いているはずだ。たとえば、先の米原潜によるハワイ沖実習船撃沈事件に関して、米国内でさまざまな意見が出ているという。

注目すべきはタカ派的ナショナリズムが、被害者が日本人であること、パール・ハーバーで起きた事などに対して、居直って加害者である米軍を擁護する勢力として現われたことだろう。米国はその物理的大きさとともに左右イデオロギーにおいてアナーキーとも言える程の多様性をもっている。そうした国内において、今回の事件をどう判断するのかということだが、当然とはいえ、最終的に軍事優先の結果が描かれるだろう。なぜなら米国を動かす力学として「軍・産・学」複合体は、国際的認識における民主主義よりはるかに上位にあるからだ。良心的意見は存在する。ただ政治に反映しないだけだ。

1998年イタリアで起きた米軍機によるロープウェイのケーブル切断事件(民間人全員死亡)は、軍法会議の末、なんと「無罪」判決。

1988年イラン航空のエアバス機が米海軍イージス艦が発射したミサイルで撃墜され、290人死亡、米政府による正式な謝罪は無い。

1999年、米軍機がベオグラードの中国大使館をミサイル爆撃。3人死亡、20人負傷、中国の抗議に対して「ミスだった」と職員一人を解雇、6人を昇進停止処分…などの事例は「えひめ丸」の被害者たちを特別扱いする可能性が限りなく薄いことを示唆するのではないか。査問を前にワドル艦長が涙ながらの謝罪?ハーレクイン・ロマン文庫が一人の作家でなく多くのスタッフによる大量生産であること、ハリウッド映画が観客動員数からのフィードバックによるパターンのもとに製作されていることなどの事実は、「艦長の涙のシナリオ」のねつ造くらいわけないということを忘れるべきではない。

ところで自国の軍隊の加害責任についてどれだけ国際性を持った認識をつくることが出来るかという意味で、日本の「歴史修正主義」による事実誤認が論争を呼んでいる。少し前にうそがバレて雲隠れする他なかったあの「石器ねつ造事件」は張本人藤森氏だけの問題ではないようだ。でも歴史修正主義者たちが「私たちが歴史を歪曲、ねつ造した」などと言うとは思えない。それ程、この国が右傾化し、ゆえにアジアにおいて孤立しているという事でもある。

現在、「新しい教科書をつくる会」編の2002年度版中学歴史教科書が文部科学省の検定中だ。

日本人が考える以上に中国政府、韓国政府の憂慮、正式な抗議をはじめ、アジア各地で「日本の歴史の逆もどり」現象を糾弾する声があがっている。

日本の悲劇とは、敗戦後の教育が、戦争責任を回してきたことと、形骸化(もともと存在しなかった)した民主主義による歴史の客観的評価の当然の失敗と言えるだろう。

自国への正当な(客観的)評価を欠いた教育は当然の結果として国際性の欠落をうみ出した。コミュニケーションを欠いた「買い物」ツアーの日本人の多さはその証明だ。もちろん「買春ツアー」も含めて。多くの敗戦後生まれの日本人は、「なぜ、歴史教科書の記述ごときでそんなにさわぐの?」といった具合に本質を理解出来ていないはずだ。

言うまでもないが、「つくる会」編の教科書は、従軍慰安婦の記述削除を求めた学者らが現行の教科書を「自虐史観」と批判、日本の侵略戦争を「大東亜戦争」「アジア解放のための聖戦」と呼び正当化したものだ。

最近「慰安婦法廷」を扱ったNHKの特集番組が放映直前に大幅改変され、出演者らが抗議する事態になっている。

戦争責任を「人道に対する罪」として裁く国際的潮流に沿ってつくられた番組は、いったんOKが出た後、幹部から改変指示が出され、あいまいなものになったという。「人道に対する罪は時効や二国間条約を超えて追求される」などの国際法の新しい流れや日本の法的責任についての論評がカットされた。(01.3.2朝日)

加害者の言いわけを評価する価値など無い事は明白である。戦争責任にしても軍が起こした撃沈事件の責任にしても、国際的な客観性にもとづく評価こそが求められている。

この国における民衆の(異常な政治への無関心)は、(異常な程のスポーツへの熱中)と補完し合っている。そこには誰にも明確に理解可能な「公平さ」、すなわち現実の日本社会に欠落したものがあるからだ。本当は多くの人々がフェアであることを望んでいるのだろう。だからこそたとえばスポーツ紙の見出し活字の大きさは、実は逆説的にこの国の民主主義の成熟度ではないだろうか。そんな社会で「つくる会」の教科書はドーピングよりもひどい。被害者を無視してフェアでないからだ。現実の政治に反映されない民衆の欲求が、異常なまでにスポーツに向かう意味こそ問われるべきだろう。

20世紀の最後の10年間に渾身の力をこめて証言に立ちあがった戦争被害者、すなわち元従軍慰安婦たちの「声」の重要性は、民主主義および、日本の国際性そのものを問うことでもある。                           2001.3.3