これからの英霊のために

 

「靖国神社に参拝するのがなぜそんなに批判されなきゃならないのか理解に苦しみます」813日の前倒し公式参拝という姑息な、しかしこれからの戦死者のためには必ず実行しておかなければならないセレモニーは、芸能政治家小泉首相によって難なく強行された。

言うまでもなく靖国神社は侵略戦争における戦没者を英霊とたたえる天皇の神社である。戦争はこの国家神道という政教合体により正当化、聖戦化された。ナチスドイツのあらゆる遺物を禁止した戦後ドイツと日本との決定的な違いは靖国神社そのものが半世紀後の現在も東京の中心に存在し、首相がその(軍神にぬかずいて平和を誓う)という憲法矛盾を国家的行事として行なう、ということだろう。

1997年愛媛玉串料訴訟最高裁の「国家は特定の宗教団体と特別な関わりを持ってはならない」という判決は、完全に無視された。

憂うべきは多くの日本人の(問題の喪失)だろう。韓国では小泉の「靖国参拝」に抗議して青年が自らの指を切断する映像がニュース放映された。対米追随に邁進する小泉首相にはアジアへの視点は完全に欠落している。そんな外交能力の無さを指摘する声は小泉人気という芸能フィーバーにかき消されている。815日以外は閑古鳥が鳴くという靖国神社で「純ちゃんまんじゅう」や「純ちゃんの好ケーキ」などが飛ぶように売れているという。

アジアの人々にとっての靖国神社と、日本人にとっての靖国神社の決定的な違いは、「軍神」が今だに健在であり「英霊」をこれからも必要とするこの国の現実を認識可能かどうか、ということだ。

軍神にささげられたこの国の政治の動きを記憶する必要がある。それはまさに次の英霊の準備の過程に他ならないからだ。

1999年「周辺事態関連法成立」「盗聴法、日の丸・君が代法制化」「住民基本台帳法改悪」、2000年「憲法調査会設置による改憲への策動」こうした流れが小泉政権に引きつがれ、堂々と「憲法改正」を明言した首相は「有事法制」の検討を指示、「集団的自衛権の行使」と歯止めを完全に失って、戦争に向かっている。さらに世界のならず者国家アメリカの利己的単独路線のミサイル防衛への積極的参加は、日本人のリスク判断能力欠如の象徴ともいえる。あげくの果てはようやく対話の始まった朝鮮半島に冷水を浴びせ、あえて中国という「敵」をつくり出そうとする、まさにならず者国家アメリカに言うなりの日本。

暴走する底無し不況の渦中にあって、さらに芸能政治家小泉の語る「痛み」にいったいどれ程の日本人が耐えられるのか?すでにこの国では年間の自殺者が31千人を超えている。生存権保障のセイフティ・ネットが実体としてこの国には無い。そんななかで一目小泉を見ようと押しかけた人々に、握手を求められサインぜめにあいながら夏期休暇を終える小泉首相は、笑顔で「当然失業者は出るだろう」と語る。

やりなおし(リセット)の効かない社会は当然犯罪天国になる。すでに日本の刑務所は定員オーバーの109%の収容率という。「命」を大切に考えない社会が凶悪犯罪を生むのは当然だ。殺人そのものである戦争を正当化するためには「命」を大切に考えては困るからだ。戦争可能な国家と死刑制度を有する国家とは、その意味において、不可分な関係にあるだろう。両方とも「殺人」という言葉を巧妙に避けながら、現実には国家による殺人が行なわれるからだ。路上死を放置することも同義である。

人間は、おそらく大多数の人は、自分の「生」が何であったか明確な答えを出せないまま死んでゆくだろう。しかし不明確な生だからといって、他者に操作・改変されるいわれはない、まったく本人独自のものであるはずだ。たとえ自ら命を断つ事であってもそれは自分の選択のひとつだ。英霊などと呼ばれ国家に死を強要されたり、兵士として殺人を犯すことなど正当化するいかなる論理もあり得ないはずだ。

国家による(幾千万人もの強制的な死)の責任・記憶とは象徴的なものでも、形容的なものでもなく、具体的なものである。ひとりの愛する人間の死は他の何をもっても替えることは不可能だ。あらゆる言葉や論理を突き破るすさまじい痛みや苦しみを、たかが神社ごときでいやす事など出来はしない。

戦争で殺される事も殺す事ももうたくさんではないか。憎しみの連鎖は無限に続いてしまう。たとえば現在のイスラエルとパレスチナに何という言葉が効果的だろうか?そんなものはない。

私たちに可能なことは死者をそして戦争を正確に記憶しつづけることだけだ。そのことによってしか手前勝手な論理による戦争を避けることはできないだろう。だからこそ英霊などあり得ない。「いまの日本の平和は安保条約、基地のおかげ。戦争になるなんて考えたことない」と語る高校生たちの現実感は、身近な人の死からも戦死者からもはるかに遠い。逆説的にはこうした詭弁によってしか新たなる英霊を生み出せないということでもある。インターナショナリズムではなくナショナリズムが御家芸である日本ならでは、の話だ。 小泉首相の靖国参拝とは、言換えれば新たなる宣戦布告に他ならない。                                2001.8.24

 

 

民衆による戦争犯罪告発という潮流

 

 ペルー国会は(9111月軍特殊部隊が8才の子供を含む15人の民間人を左翼ゲリラと間違え自動小銃で射殺した事件)、(927月、同特殊部隊が左翼ゲリラ・シンパとみられる大学生9人と教授を誘拐し殺害した事件)の2件について、フジモリ元大統領を殺人罪で起訴することを承認した。人権侵害事件の場合、国連の「拷問禁止条約」(84年採択)を根拠に、日本に送還、操作の義務が生じる可能性がある。

ペルー司法当局は今年2月、元大統領を「職務放棄罪」で起訴したが、日本政府は身柄引渡しに応ずることなく、本人も拒否している。現在フジモリ元大統領は日本国籍になっているという。何とも都合の良い話ではないか。それにしても日本という国は、呆れる程、民主主義から遠い。論理は後まわしで中身の無さを外見で取り繕うことが難なくまかり通るこの国において、ケータイ・ストラップの純ちゃん人形や現役の首相の写真集が刊行されたり、小泉特選のエルビス・プレスリー名曲集CDが発売されたりと、まるで不況で苦しむ民衆を嘲笑うかのパフォーマンスが可能であるのも当然かもしれないが、その源がどこにあるかと問えば疑いなく19458月の敗戦とその後の米国によるコントロールにあるだろう。言い方を変えれば「憲法9条と軍隊のセット」という矛盾を与えられ、人権と民主主義の完全に欠落した半世紀だ。腐敗した権力と、告発を忘れた社会は「無責任」の限り無い増殖培地なのだ。

それ故、世界で最も地震の多い島に50基以上の原発を稼動させながら「東海地震が来そうだ、備えを万全に」などと防災を声高に叫ぶという阿呆な国が実現したわけだ。半世紀前「矛盾」から出発した社会は、結局矛盾を増大させることしか出来なかった。

米国の人権団体「人権ウォッチ」は829日ペルー国会がフジモリ元大統領を殺人容疑で告発したことを歓迎、支持する声明を発表した(01.8.31中日)。

そのアメリカにおいて元米兵捕虜による日本企業相手の損害賠償請求など「日本の戦争責任」を問う動きが活発化している。こうした動きは99年ごろから相次いでいる。米下院では7月末に「米兵捕虜の訴えを妨害することに国務、司法両省の予算を使うな」という歳出法案修正条項が通過し、また大戦中、日本軍の捕虜になった中国人が、強制労働させられた日本企業に賠償を求め米国で提訴した。MITのジョン・ダワー教授は「東西の冷戦が日本の戦争犯罪を覆い隠した」と明確に指摘している。

(反共の日本を作るため)極東軍事裁判において、またそれ以後も日本の戦争犯罪を、自国の戦略のために意図的に隠蔽し、見逃してきた戦勝国アメリカにとっても「冷戦構造の崩壊」によって皮肉にも半世紀前の問題の積み残しが、避けられない形で噴出してきた。政治目的のための侵略戦争中の元首である昭和天皇の全面的特赦の合理性がアジア、日本そしてアメリカ内部からさえ問われ始めている。

そして90年代から世界各地での戦争被害の沈黙を破る動きが加速している。日本軍従軍慰安婦を強制された人々の発言、告発。ユーゴ、ルワンダの女性による発言、告発。北京での女性会議における戦争犯罪の真相究明、被害者への補償、処罰の必要性の指摘、さらに2000127日〜12日東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」は外国からの被害者64人を含む5000人が参加した。法廷では、「昭和天皇の有罪、日本政府の国家責任を問う判決」が出た。国会において議員が「あの戦争の責任者はいったい誰なのか」と質問すると「それは政府としては触れないのがいい」という答弁。また国会速記録には、「東京裁判で裁かれたA級戦犯は愛国者であり、犠牲者である」と国会本会議で繰り返されているという。政治におけるこうした欺瞞が、今だに主権者である自覚を欠いた日本人に、当然の如く共有されている。過去の人道に対する犯罪への沈黙と無関心は、同じ犯罪の繰り返しにつながっている。かってどのような犯罪があったかに無関心でいることが再び加害者になることと同じ意味であることはアジアの人々の方が正確に理解している。「小泉首相の靖国参拝」に中国では激しい反発が起きている。反対に日本人は「なぜそんなにさわぐのか理解できない」程の歴史認識なのだ。

「ユニラテラリズム」を独断強行するアメリカの戦略がいかに21世紀の世界にふさわしくないかという問題以前に、戦勝国アメリカの最大の誤算は侵略戦争責任者を政略的に処罰しなかったことだ。

常設の裁判所を設けて戦争犯罪を処罰していこうというローマ条約にはすでに60ヵ国が調印している。

ニュルンベルク憲章の新たなカテゴリーである「平和に対する犯罪」「人道に対する犯罪」は、一人の人間の権威の重要性(たとえ国家であろうと対等であり、戦争犯罪を追求可能であること)を法的に正当化している。国家が行なった戦争であっても、責任者は人間であり人間がそれを裁くことが可能という世界的な流れが始まっている。

世界中の戦争をコントロールしようとする米国のグローバル・ミリタリズムを阻止できるのは、まず最大のコントロール対象であり続けてきた日本が日本安保条約の呪縛を解き、自らの戦争責任を認め、被害者(国)に謝罪し、正当かつ合理的な補償をすることが発端になるだろう。自ら手を汚すことなく自国の兵士の被害を最少にすることを戦略とする米国内にも第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など勝敗にかかわらず戦争被害者がたくさん存在する。国境を越えた戦争被害者をアジア最大の侵略国であった日本が積極的に連帯し協調することになれば、軍産複合体の強い影響下にあるアメリカの身勝手に対する強力な歯止めになる可能性はあるはずだ。

アジアとの友好無くして日本の存在はあり得ない。小泉政権の親米、アジア無視による孤立化は地震列島で稼動する原発群のように危険きわまりない。    2001.8.31

 

 

9.11」事件

 

 なぜ原発でなかったのか?誰が生き残ったのか?誰が得をするのか?ニューヨークの青空に黒煙を上げる貿易センタービル、さらに別の方向からの飛行機の激突、そして、まさかのツインタワーまるごとの崩壊。ワシントンでは軍事大国中枢のペンタゴンの破壊。一連のスペクタクルが「チャレンジャー爆発事故」当時の美しい映像を思い起こさせたのはそれが我々の常識の破壊だからか…。グローバル・エコノミズムの象徴貿易センタービル、そしてグローバル・ミリタリズムの象徴ペンタゴン。自国領土において戦争をしたことのない軍事大国アメリカが、ナイフ一本でその心臓を射抜かれたことは間違いない。

世界の半分の人々は心からおどろき、悲しんだだろう。しかし残りの半分はザマミロと喜んだかもしれない。なぜならストーリーはここから始まるのではなく、すでに「世界の半分以上が飢えている事実」という前提があるからだ。アメリカの富の独占は多くの敵をつくり出してきた。

アメリカは「移民の国」として始まった。奴隷解放、公民権運動などを経てきたが結局、差別は無くならない。世界で最も民主主義や人権を口にしてきた国が、実は正反対の歴史を歩んできた。なにしろ現職の大統領を暗殺する程の国だ。演説用の表向きの言葉と現実の差が拡がる程、それを修整するための荒療治が必要になる。「まさか!」のシーンはこうしてつくられる。

「冷戦の終り」は軍事大国アメリカにとって致命的だった。大量の兵器を投入した湾岸戦争というカンフル剤も一時しのぎにしかならず、ところかまわず兵器輸出と紛争の創出と介入をくりかえしたが、国家の中枢に深い根をはる巨大軍産複合体はまるごと失業の危機にさらされ続けてきた。なにしろ年間軍事予算30兆円が目的を失うのだ。自国の構造を変えずに世界の構造を変えるためには意表を突くパラダイム・シフトが必要だ。過去にもそうしてきたように生き残るためには合法・非合法は問わない。多少の犠牲も仕方がない。だが世界を納得させるためには世界に通用する規模の犠牲と論理が欲しい。ブッシュいわく「これは自由と民主主義への攻撃だ」

かくして美しい青空を背景の阿鼻叫喚の図が描かれるといったシナリオを、今のところ否定する材料はないはずだ。

それにしてもあまりにも事がうまく運びすぎているではないか。あれ程正確にターゲットを狙えるテロリストがブッシュやパウエルを逃がすだろうか?自爆までする気ならなぜ原発を狙わないのか?

世界最高の軍事施設ペンタゴンが難なく攻撃されるのはおかしい。おそらく米国はテロを予知していた。テロ以前の田中外相の訪米後の言葉にも「異常な警戒だった」とある。そのうえ政府高官は誰一人テロの犠牲になっていない。「パール・ハーバー」とは知っていながら攻撃させたという意味において使うべきだろう。その上で問題はなぜテロを黙認したかだ。米国の経済危機は極限だった。「報復」の声がすぐに挙がり正当化され、日毎に昂まってゆく。まるで報復に異を唱える者が「非国民」であるかのように。報復ファシズムの渦中にあっては「なぜ長期に及ぶ軍事作戦が必要なのか」という疑問の声も聞こえない。まるで初めから用意されていたように事が運んでゆく。おそらく「報復」こそがブッシュ政権の目的だったのだろう。万策つきた末、戦争だけが肥大した軍産複合体を核にもつ軍事国家を救う、と読んだ挙句の大博打。だからこそ長期忍耐が必要というわけだ。

同時テロ以後、米国内でもアラブ人などにイヤがらせが続いている。ピストルで撃ち殺されたり、車で突っ込まれたりしているとう。ブッシュはイスラム全体を敵にまわすことだけは避けたいのでわざわざモスクに出向いたりしている。しかし「報復作戦」を思わず「十字軍」と口走ってしまうなど本音はかくしようもない。

同時多発テロのどこまでをブッシュ政権が把握していたのかは知るよしもない。だがこの無差別テロを徹底的に利用して戦争に導くことにより、行き詰まった経済危機の「まさか」の荒療治を強行することになるのだろう。もちろんテロは憎むべきものだ。しかしこれから行なわれる「報復戦争」の犠牲者が「死んで当然」な理由を誰が説明出来るだろうか?過去に世界各地でアメリカが行なったテロ行為が正当に糾弾されただろうか?

パレスチナとイスラエルの紛争に世界の誰も訴えるべき言葉を持たなかったように「報復」とテロの連鎖は世界を金縛りにしてしまうはずだ。

「テロ防止」を口実に世界は警察国家、管理社会の強化に走るだろう。しかしテロの原因を理性的に考える必要がある。富の偏在、南北格差などをそのままに、管理をいくら強化しても無駄だ。

自由と民主主義を建前としてきたアメリカは建て前においては「開放系」の志向だったはずだ。だが軍事国家は本質的に「閉鎖系」であり、人権差別、経済格差を抱えたまま矛盾と自己否定を蓄積してきたことになる。異人種、異文化の寄り合いでありながら、異物を認めない反共生指向では平和外交が不可能なことは自明だ。論理の破綻が必然的に今回のカタストロフィーを招いた。ユニラテラリズムが見出したのは、すなわち「自業自得」である。軍事的解決を望む限り、さらなるテロを生むだろう。   2001.9.21

 

 

自爆列島

 

 7月中旬、静岡市役所は「公然」とした強制排除・荷物撤去を行なった。静岡市の維持管理課は「商店街から要望があり、紺屋町地下街や駅前地下道でホームレスに対する排除指導を行なった」と明言した。(野宿者のための静岡パトロール)によれば市の担当部署はホームレスなど「ゴミ+恥」と言わんばかりの物言いで、しかも「排除」を公然と認めているという。全国各地の行政においても同様のケースは後を絶たない。(野宿者は人間である)という最低限の認識すら持つことのない行政が不況により激増する失業者、野宿者をゴミとして平然と排除している。生存権、人権という言葉を無効化する社会がここにある。こうした問題を隠蔽しながら平和や国際貢献を声高に叫んでいるのが日本なのだ。

アフガニスタンは30年ぶりの大干ばつに見舞われている。1979年の旧ソ連軍侵攻以来、20年以上も内戦が続き、家族に犠牲者のいない者はないという。テロ以前の段階でもおびただしい餓死者が出る状態だ。軍事報復などにより600万人の犠牲が予想されるという。こうしたアフガニスタン、パキスタン周辺の悲惨な情況は日本その他先進国には伝わらなかった。私たちのニュース・ソースがいかに偏向したものか思い知らされる。

ニューヨーク9.11事件は6000人以上の行方不明者を出したという。世界の視線を集めたこの悲劇はもちろん許されるべきではない。しかし報復攻撃によりアフガニスタンに発生しかねないその千倍の犠牲を正当化するどんな論理があるのか。アメリカ人には途上国の人間の千倍の価値があるとでも?

1997年、アナン国連事務総長は「アフガンで発生した内戦は国境を越え、テロや民族紛争、宗教紛争などに姿を変え国際社会に深刻な脅威をもたらしている」と繰り返し警告してきた。しかし米国も日本もそれを無視してきた。

米国は世界最大の武器輸出国である。それゆえに国連小型武器輸出禁止条約締結を拒否した。これこそがハード面におけるテロの最大要因ではなかったか。つまり米国は自国製兵器にやられるわけだ。

軍事報復、テロリストの資金凍結や分断に向けて世界が急速に動いているがこれはあくまで超大国の利己的防衛にすぎない。テロリストの抹殺よりさらに緊急性を求められるのはテロを生み出す貧困や抑圧の構造を変えることだ。

日本における激増する失業者、野宿者に有効な対策を行政は見出してない。これでは援助を断たれた難民と同じだ。自分は絶対に失業などしないという確信を持つ政治家が構造改革などと大ボラを吹いているが、全国いたる処に貼られた、破れて色あせた芸能政治家小泉のポスターの下に呻吟するまぎれもない「難民」を無視しての国際貢献とはいったい何だろう?この国が見ているのは失業の末野宿を強いられた人たちや、飢餓により生死の境をさまよう人々でなく、米国だけなのだ。

人間は物理的には血と肉と糞が詰まった袋にすぎない。野宿者を差別する人たちが「臭くて汚い」と言う。何年か前の東京で聞いた野宿者支援メンバーの言葉を思い出す。「難民と言う時、きれい事と思っている。実際難民キャンプに行くと、すえた体臭と汚物で汚れた人たちがいることをほとんどの日本人は知らない」見えないものを自分の都合良いものに変えてしまう。日本人の清潔志向は汚いものをかくすことなのだ。

戦争とは血と肉と糞の詰まった袋を破壊することだ。難民とは日本の社会で路上に追われ、いわれのない差別と偏見に苦しみ、生存のセイフティネットを失った人たちとまったく同じではないか。こうした当たり前の事実さえ思い描けない日本人に国際政治など百年も早い。いままで精神的貧困をただ「金」だけでごまかしてきたこの国が、今その「金」を失い始めている。

ところで米国9.11事件に圧倒され影が薄くなったのが狂牛病発覚のニュースだ。再三にわたり指摘したようにこの国に人間の命を守る能力などないということを忘れてはいけない。日本という国家と、それを疑わず牛肉を食べた自分を責め悔やみながら、発症を待つしかないのだろう。

それにしてもこの不況で公認の生産工程に組み込まれた者だけが生存を許される社会で、排除された人間は肉骨粉にでもなれと言うのか。

9.11事件以前でもアメリカ経済は急激に悪化するばかり、日本も底無し不況だった。テロはこれを一気に加速するだろう。政治はこの時とばかりに改憲、集団敵自衛権の行使などと浮き足立っている。戦争が可能な国になりたいというただその目的だけがクローズアップされる。それにしても隣国との信頼関係さえ築こうとしない無責任な日本が平和外交など無理な話だ。

現在の課題は、まず失業対策および生存のためのセイフティネットの構築だ。国内の餓死、路上死の克服が「武力」で不可能なように、海外、たとえばアフガンにおいてもテロの源流である貧困、抑圧の構造を変えることによってしかテロを無くすことはできない。9.11事件のあまりの衝撃の大きさに保安官ブッシュの主演するC級西部劇で「アメリカにつくか、それともテロリストにつくか」「テロリストの確保はデッド・オア・アライブ」などという臭いセリフに大よろこびで尻尾を振った小泉保安官助手は実は問題がよく見えていない。結局ファシズムを克服しなかった国がファシズムに寛容なのは当然なのだろう。

もし、あの9.11事件が本当にアメリカの警戒の虚を突いたとしたら、なんという間抜けな軍事大国だろう。そしてその尻馬に乗る日本のさらなる間抜けは言うまでもない。天文学的予算の国防も人間の安全保障には無力ということだ。

東海地震、南海地震が確実にやってくるというニュースに身震いを感じる。地震列島に50基以上稼動中の原発がチェルノブイリの50倍の地獄を保証する。WTCビルの悲劇の比ではないスペクタクルが見られるだろう。

この国にはテロリストはいらない。自爆列島そのものだからだ。     2001.9.30

 

報復爆撃

 

 108日、米英両軍による「報復爆撃」が始まった。大量の巡航ミサイルや爆弾とともに医薬品、食糧も一緒に投下するという人道的爆撃であるらしい。

この機を逃してなるものか、と日本政府と自衛隊が「テロ新法」成立に浮き足立っている。極めて良好だったアラブ・イスラム世界における「日本観」が変わろうとしている。すなわちこれまでの日本に対する「平和的イメージ」が消え、国内向けには「後方支援だから戦闘じゃない」などと言いくるめても米国のイスラムとの戦争に加担したことにより、イスラム諸国にパイプをもち被爆国でさえある日本が、武力行使を避けるための仲介役の資格を自ら放棄するということだ。これは平和憲法を持ち、まがりながらも半世紀もの間、戦争をしてこなかったという世界の常識からすると極めて異常でさえある平和志向であることの誇りを捨てることだ。おそらく、これ以後日本が世界に誇れるものは何も無くなるだろう。

米国はイラン封じ込めのため80年代にクウェート侵攻直前までイラクに軍事援助をしていた。主要国中、唯一日本だけがイラクに兵器供給をしていなかった。他にも米国CIAは冷戦時代、対ソ戦略としてアフガンゲリラにテロ支援と武器供与をつづけてきた。すなわちこれがウサマ・ビンラディンを育んだのだ。

世界中に武器をバラまき、戦争、紛争を育ててきたアメリカの身勝手は、今回の「テロ撲滅」というキーワードのもとに、ふたたび世界の保安官役を演じることになった。アメリカを頂点とする主要国の富の配分構造を変えることなく、異議申し立てをするマイノリティを徹底的に排除するという原則を国際的にも国内的にも共有しようということだ。

アラブ首長国連邦のエルモスタファ・レズラズィ氏が指摘する。「米国に協力を表明している国々が自国内の紛争解決にこの戦争を利用しようとしている」ロシアはチェチェン独立運動に絡めてテロ撲滅を図る。インドはカシミールの独立運動、中国はウイグル独立運動、フランス、ベルギーは国内の不法移民問題、そしてイスラエルは占領地域の解放運動をテロの温床と批難することで終結をねらう。(10.8朝日)。

まるで世界主要国が「テロ撲滅」の旗の下に結束したかに映るが、実はそれぞれの手前勝手な思惑があるのだ。結局、難民を生み出しテロリズムを育んだ原因の解決などでなく、大国の利益が優先されるだけだ。

しかし、話の本質はそこにはない。世界の富を一極集中させてきた米国経済の破綻と日本経済政策の完全破綻を、どれだけ「対テロ」を口実に軍事的再編するかということだろう。すなわち「戦争なんだからがまんしろ」と。ニューヨークの惨事があっても無くても日本経済は破綻が決まっていた。都合良く「テロ」があったのでこれを利用しない手はないというそれだけのことだ。小泉改革の要求する「痛み」は大量失業者とともに、自衛官の生命、そしてさらなるテロといったリスク増大を口実にして、極めつけの管理社会の出現となるだろう。テレビも新聞もラジオもあるが、肝心のジャーナリズムを失ったこの社会が報復ファシズムに便乗して一気に戦争の可能な国に変容しようとしている。

コンビニ各店には、すでに「ニューヨーク同時テロ義援金募集中」と貼り出されている。そこには「難民支援」とは書いてないのだ。日本中が「ニューヨーク」が話の始まりであるかのように、湾岸戦争の轍を踏もうとしている。悪魔のフセインからウサマ・ビンラディンへと…。私たちがアメリカの視点に立つ時、完全に死角になっている部分に、命を賭しても異議申し立てをする人々がいることを忘れてはならない。世界はその人たちを含めてはじめて「全体」なのだ。テロを無くすことは死角を無くすことに他ならない。9.11事件から一ヶ月、まるで我が意を得たり、と勝ち誇るかのように国道一号線沿いに何ヶ所も監視カメラが堂々と増設された。真新しいにぶく光る金属の柱は、やがておとずれようとしている灰色の季節の予兆のようだ。        2001.10.8