10.21反戦平和行動

 

 猫へのマイクロチップ埋め込みを飼い主に義務付けることになった。都市基盤整備公団が江東区に建設中のペット共生住宅で行なわれる。IC回路には飼い主などのデータが記録される(01.10.11毎日)。

究極の管理がこうした形態であるのは予想されていた。日本の行方次第では人間に運用されるのも時間の問題かもしれない。高齢化社会において痴呆老人の徘徊予防などの名目で、さらに進めば犯罪者、その予備軍に至るまで考えられる。何しろ、世界中どこで何が起こるかわからない「恐怖のテロ社会」なのだから「テロ防止」のためなら何でもありという、実はテロより恐い監視社会が訪れようとしている。

半世紀にもわたり人を殺さなかった日本の軍隊が遂にその手を血に染めようとしている。言うまでもなく「テロ対策措置法」による自衛隊の武器使用拡大、武器・弾薬輸送そして自衛権行使。対米はもとより多国籍軍支援を範囲無限定、無期限に行なうことであり、待望の(人を殺せる軍隊)への変容である。「反テロ」なら何でも可能と「憲法9条」は完全に無視される。

もとより戦争国家であるアメリカは(戦争を続けることで存続可能)という構造をもつ。在米ジャーナリスト後藤英彦氏によると「小規模戦争が年に数回、中規模戦争が年に12回、大規模戦争は10年に一度くらいの割合」で起こらないと失業や破綻に追い込まれる構造だ。建国以来、200回以上の対外派兵を続け、朝鮮戦争以来20ヵ国以上の国々に無差別爆撃を行なってきたのは、生活のために膨大な兵器を生産し続けるアメリカ人が平和に暮らしてゆくためだったのだ。

N・チョムスキー(言語学者)は、「湾岸戦争は米国による国家テロ・大虐殺だったし、戦後の経済制裁で栄養不足や劣化ウラン弾による白血病などで死んだイラクの幼児たちも米国家テロの犠牲者である」と語る。湾岸戦争では125000人〜300000人のイラク人が殺された。

以前も書いたがイラクのクウェート侵攻直後、米下院でクウェート難民少女ナイーラが「イラク兵が未熟児保育器から赤ん坊をとり出し、床に投げて死なせた」と証言。これでフセインは悪魔になりイラク空爆に誰も異を唱えなくなった。ところがこの証言はヤラセだった。ナイーラは実は駐米クウェート大使の娘でイラク侵攻時にクウェートにいなかった。そして証言は米国大手広告代理店が演出して証言させたものだったことがわかった。

有名になった「ペルシア湾の油まみれの水鳥」もイラクでなく米軍が原油貯蔵庫を爆撃した結果であることが判っている。米戦略にメディア操作が含まれるのは当然なのだ。こうした誤魔化しにまんまと騙されてもあとの祭りだ。

小泉首相が「我田引水」の如く引き合いに出した例のアーミテージ米国務副長官が柳井駐米大使に伝えたとされる「ショー・ザ・フラッグ」は実は「ショー・ザ・フロッグ」だったのかもしれない。たとえばHiビジョンなどで小泉首相が袖をたくしあげて両手でウシガエルでもトノサマガエルでも見せてみんなで笑っておわりにすればよかったのに。

海外の多くの論客が、平和憲法により半世紀もの間戦争をしてこなかった日本に期待される役割について、日本が中東への最大の援助国であり、米英と違い宗教でも中立で、アラブ・中東地域での近代化を促す取り組みを主導する立場であることを指摘する。武力でない貢献を望んでいるのだ。

派兵されようとしている自衛官にも不安と困惑がかくせない。陸自トップの陸上幕僚長OBは「与野党とも陸自を派遣することの重さへの認識が不充分」「自衛隊は軍隊でないと言っても通用しない」「日本が太平洋戦争以来初めて戦争に参加するということだ」「もっと隊員たちの立場を考えてほしい」と語った(10.17毎日)。

自分たちは決して銃撃も爆撃もされないという確信を持つ立場の人間が、自衛官には血も汗も流してもらって戦争が堂々と出来る国にしたい、というわけだ。

ところで先進各国は年平均1万数千人の難民を受け入れている。日本はわずか1020人程度にすぎない。こうした人権後進国であることを証明する事態が起きている。

アフガン少数民族ハザラ人のアブドゥラさん(25)が難民不認定とされ、異議申し立ても却下、アフガニスタン送還の退去命令により西日本入国管理センターに収容された。

支援団体は「退去命令は迫害が予想される国や地域への送還を禁止する(ノンルフールマン原則)に反し、即時送還が不可能としても長期収容となり、国家による人権侵害に当たる」と強く抗議している。また「米国の攻撃が激化し、迫害が予想される本国に送還するのは死の危険にさらすことと同じで強い憤りを感じる。日本はアフガン難民支援の必要性を認めているのに矛盾だ」と話す(01.10.18中日)。

結局、この国は中東の難民のことなど知ったことじゃないのだ。ただ、戦争を可能にするために口実として難民支援を使うにすぎない。

アジア各国との関係をないがしろにしたまま、対米貢献のみが優先され「反テロ」を口実に一切の戦争責任を反古にするばかりか、新たな「英霊」さえ求めようとする日本政府に、アジアの人々は極度の警戒感を抱いている。

米国の勝手な戦略と、それを利用する日本政府によって私たちは中立国から加害国、敵国になろうとしている。                     2001.10.19

 

 

元祖テロ国家

 

サッカー、ジョージ・ハリスン、マサコサマ、ハリーポッター…そんなどうでも良いニユ−スの喧騒が重要な現実を覆い隠しているのはどうやら日本だけではないらしい。ならばグローバル・ファシズムとでも呼ぼうか。驚くべきことに毎日確実に増え続けるアフガンの死者は、多くの人の興味の対象にはなっていない。本来なら世論が動けば止める事も可能な大量殺人が、(アメリカナイズされた平和な日常)の話題に譲歩するという異常を私たちは生きている。まれに伝わってくる殺される側、抑圧される側の小さな記事は、だからこそ大変貴重だ。そんな小さな記事からしか私たちの日常の異常さに気づくことが出来ないからだ。おそらくナチス時代のドイツも、太平洋戦争までの日本も、いわゆる「大本営発表」というものを、まるでフォアグラをつくるために強制的にガチョウの肝臓を肥大させるように有無を言わさずに信じこませたが、現在私たちの時代では強制を強制と感じさせない技術が巧妙になったために多くの人が(アメリカナイズされた平和な日常)を自覚するだけでほとんど不自由を感じていないのだろう。言いかえれば「なんとなく殺人を肯定するたいくつな日々」を私たちは生きている。さしたる熱狂も悲哀も感じないままに。

米ウエストバージニア州で「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校した女子高生ケイティ・シェラさん(15)は3日間の停学処分を受け、さらに脅し、中傷、嫌がらせを受けて退学した。ケイティさんは地裁に「憲法に保障する表現の自由を侵害された」と訴えたが却下され、上訴したが州最高裁は訴えを退けた(11.29毎日)

他にも事件発生時のブッシュの対応を「逃げ回った」と批判した地方新聞の記者が解雇されたり、テロリストを「臆病者」呼ばわりしたブッシュを冷やかしたABCテレビの司会者が批難を浴び、謝罪せざるを得なくなった。(11.29毎日)UCLAの職員が政府のイスラエル政策を批判するメールを同僚に送っただけで停職処分。ニューヨーク市立大の教員が米政府外交を批判する集会に参加したと批難され弾劾標的に。ニューメキシコ大教授は授業中の発言が過激として辞職を迫られ、脅迫を受ける。などたくさんの思想狩りが始まっている。

9.11」以後、何回も全米各地で行なわれたという数千人、数万人単位の反戦デモは日本ではまったく報道されない。もちろん日本においても各地で反戦集会やデモが行なわれているが、号外まで出す程のマサコサマの報道や果てしなく続く記帳のための行列の報道はあっても反戦行動への言及はほとんど無い。

機能停止状態のマスコミ・ジャーナリズムと国会は憲法9条を完全に空文化させた。21世紀最初の年の秋に日本は半世紀の軍の縛りを解いてしまった。ここまで一気呵成に事を進めた「反テロリズム」を正確に認識しておかなければならない。なぜなら解き放たれた戦争のできる軍隊の行動の必然性を根幹から覆す可能性さえあるかもしれないのだ。大義名分がひっくり返ったらどうだろう。

先にグローバル・ファシズムと呼んだ現在の世界的傾向を言い換えるなら「反テロなら何でもあり」ということだ。米国が声高に叫び、属国日本が尻尾を振ったその反テロリズムの目指すものが本当に民主社会に対する脅威ならば、実は米国自身が都合の良い2重基準、いや大ウソつきということを露呈させることになる。

1980年代のニカラグアで米軍の攻撃により何万人もの人びとが死んだ。ニカラグアの人々は国際司法裁判所に提訴、裁判所は米国に攻撃中止と賠償金支払いを命じた。これを米国は侮りとともに無視、攻撃を強化した。そこでニカラグアは安全保障理事会に訴えた。米国は拒否権を発動した。ニカラグアは国連総会に訴え、同様の決議を獲得したが、二年続けて、米とイスラエルの2国が反対した。イラクで100万人の非戦闘員と50万人の子供の殺人を米国が実行。

トルコが自国のクルド人を撲滅するため米政府は武器の80%を支援。

スーダンのアル・シーファ薬品工場爆撃のために数万人が死亡。(ノーム・チョムスキー著;9.11アメリカに報復する資格はない)

28年前、チリでアジェンデ政権に対するクーデターが起きた。米国はピノチェトのクーデターを助け、アジェンデを倒させた。数十万人が拷問され、たくさんの行方不明者が出た。(アリエル・ドーフマン1128朝日)

連日の空爆だけでなく、人権にも気を使っているというポーズのために米軍が爆弾とともに投下した食糧が民家を貫き、女性が亡くなった。大体、刃物を振り回しながらバンドエイドを配るようなものではないか。

世論は敏感ではあるが、決して敏捷ではない。ましてや米国社会も日本社会も「反テロ」というキーワードで一気に思想弾圧が始まっている。少し前、女子高生たちが「好きでもないし似合うとも思わないのに穿かないとイジメられるから」皆でルーズソックスを穿いたように、歌わないとひどい目にあうから君が代を歌い、意味も不明なまま、皆行くから「記帳」に並ぶ日が近づいている。あの頃声を挙げておけばよかった、などと後悔しても遅い。被害者になるまで決して理解できないといわれる日本人の意識が、すでに加害者になったという(参戦という)現実をどうしたら自覚できるのだろうか。

先日、60万都市浜松で、反戦平和集会に30人もの市民が参加して熱い想いを語り合った。報告によると英国デイリー・ミラー紙のヘッドラインに「この戦争はウソっぱちだ!」と書かれたという。まさに的確な文章ではないか。

「反テロ報復爆撃」というデッチ上げを日常化してはならない。それが無差別殺人であることを解すべきだ。報道されない米国の姿を知る時、あなたは聞こえないだろうか「ビル2?そんなものでは足りない」という声が。            2001.12.3

 

 

中国製星条旗、ならば日本軍死体袋も?

 

アフガニスタン北部マザリシャリフ近郊の捕虜収容所で20才のアメリカ人青年タリバン兵が北部同盟軍に捕らえられ米軍に引き渡された。CIA要員のきびしい尋問にも沈黙を貫いた青年ジョン・ウォーカーは9.11テロを支持する、と語る。16才でマルコム]の自伝を読み、イスラム教に改宗、イエメン、パキスタンに渡った。取調官に彼は、私はタリバンの一員でありアルカイダの一員でもある、と誇らしげに語っている。

「エロティック・テロリズム」などのアルバムを出している英国のラップグループ、ファンダ・メンタルのメンバー、アキ・ナワズ(39)は「イスラム教徒であろうとなかろうと、アメリカの政府や政策、世界を消費し尽くすような態度を、心底嫌っている人間は無数にいるんだ。アメリカ人は政府に言ってやったらいい。『アメリカの名の下に行なわれることがどうしてこれほど怒りを買うんだ?』と」と語る。(ニューズ・ウィーク1219

アメリカが世界各地でさまざまな国家テロを行なってきたことを米国民の多くが知らない。それらはCIAなどにより秘密裏に行なわれ、報道もされないからだ。9.11以後、全米に星条旗があふれた背景にはそんな無知も一因となっている。

CNNの小学生の討論集会で、子供が「私たちがこんな仕打ちを受けたのは、アメリカがなにかよほど悪い事をしたからに決まってる。それはなんなの?」という問いに参加していた大人たちは答えられなかった。

ところで米国の歴史において(正義や自由を語るのに)都合の悪い部分を米国民も私たちも知らないまま過ごしてきた。歴史上の大きな出来事の渦中にある今こそ、隠蔽された部分を知っておく必要がある。たとえばコロンブスによるアメリカ大陸発見当時、8000万人いたネイティヴ・アメリカン(原住民)は、その後、大量虐殺されて150年〜160年後にはなんと5%に激減したという。反省と謝罪と補償の無かった国家の誕生のこうした経緯がその後の歴史に影響を与えないわけにはいかない。

アメリカの政治は演説が重要だ。さまざまな理由があるが、国家が内包する矛盾を虚言でいかに正当化できるか、というテクニックの競い合いと考えれば納得できるかもしれない。

米国は(自由と民主主義による多人種・多文化の共生)によって成立するはずだったが、そうしたものは都合良く語られはするものの、決して実現させない歴史を歩んできた。結果として米国内における富の独占は国境を越え世界に向けて拡大してゆく。

本来、自由および民主主義と武力は、相容れず矛盾するものだ。矛盾の言説を恥じる事なく掲げてきた米国と、憲法第9条と軍隊を共存させてきた日本はこうして通底していた。

話がそれるが、チベット仏教は、極めて論理性の強いものであるらしい。少年僧は初めの15年程、徹底的に論理学を学ぶという。その卓越した論理性に魅了された欧米の知識人の間で、世界平和という意味で「ダライ・ラマ」という言葉が使われているという。日本の仏教はそれに比べると、きわめて情緒的なものらしい。大体、無宗教と言ってもいいぐらいのこの国は、だからこそ論理的でなく曖昧な性格をもつのかもしれない。論理性を確実にするならば、原発も自衛隊も天皇制も消滅する。もっとも、戦争という現実を前にしてそんな矛盾に納得しても始まらない。

力こそ正義、お前のものは俺のもの、と単純きわまりないブッシュという最低の無能男に世界が引きずられる今こそ、論理の復権が求められる。

米オレゴン州ポートランドの警察が、具体的容疑もないのにアラブ系留学生らのプライバシーに触れる聞き取りは出来ないと人権を盾にFBIへの協力を拒んだ。市長も警察を支持。対テロを理由に自由が踏みにじられる危険に警鐘を鳴らしている。ポートランドは革新的風土で知られている。星条旗も東海岸に比べて少ない。「肝心なのは憲法だろう。愚かもの!」というステッカーを貼った車さえ走っている。署長は「私は法律に従っているだけ。長い警官生活で法を破ってでも行動しろ、と世論が求めたのはこれが初めて」と語る。なぜ、そこまで固い信念を持つかの問いに「ボスニアやルワンダで文民警察官として働いた経験から得た教訓。オレゴン州くらいのボスニアで25万人が戦争で死んだ。ナショナリズムや民族の価値が法の支配より優先したからだ」と答えた。(朝日1211

なぜ、アメリカは9.11テロを受けることになったのか?テロ対策に血道を上げる前に問うべき問題があるのだ。民主主義、法治国家を求めるならば国際刑事裁判所で裁くしかない。

ブッシュの独裁は、京都議定書からの一方的離脱、対人地雷全面禁止条約批准拒否、アラスカ野生動物保護区での石油開発開放、核廃絶決議への反対、国際刑事裁判所設立不支持表明、そして弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約からの一方的脱退、臨界前地下核実験などである。こうした路線は戦争の日常化、富の偏在を固定化するものでしかない。あまり実感のわかない富の偏在を数字にすると、栄養不足の人たちは世界で83千万人、このうち援助されている人は2億人だけ。そのままでも食糧になる穀物が、全生産量18.7億トンのうち、先進国で主に食べられる牛肉、豚肉をつくるために飼料として6.6億トンも使われている。また米国の年間食べ残し量は4360万トン、日本は1600万トンある。それに対して世界の食糧援助総量は年間1000万トンにすぎない。(朝日12.12

ついでにBLU82燃料気化爆弾、別名デイジー・カッターは一発で野球場56個を破壊する。これが一発328万円。厚さ35mの岩を貫くというバンカー・バスターはその6倍の値段だ。巡航ミサイルトマホークは一発14400万円、アフガン空爆初日だけでこれを50発使用した。費用対効果、という面で考えれば米国がどれ程愚かな存在か、そして尻尾振ってついてゆく日本のさらなる愚かさが解るだろう。あげくの果てに日本軍の本格的参戦をめざす空中給油機が決まった。当初から指摘されたボーイングE-767すなわちAWACSと同型機だ。これで世界中どこへも派兵可能になった。(9.11テロでWTCに激突したのもE-767?)

 少し前「自衛隊に死体袋はない」と言われていたが、本格的参戦ならば当然発注されるはず。いったいどこのメーカーが落札するのだろう。もちろん談合だと思うけれど…

2001.12.14

 

 

蝶の舌

 

歴史から学ばなかった社会が再び悲劇を繰り返す…

1999年のスペイン映画「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルタ監督)は背筋の凍るような印象だった。

純真無垢な少年が老教師グレオリオによって、自然が驚異と魅惑に満ちていることを教えられ目覚めてゆく様子、その背景がスペインの民主的時代から暗黒の時代に移り変わる時期だった事によって、大好きな先生と運命的別れが待っている、という内容だ。

少年モンチョが初めて学校に行きグレオリオ先生と出会ったのは1930年代。左右勢力の対立が激化するものの、まだ共和国・人民政府のもとに人々が自由を口にする事が可能だった。共和派である先生は子供たちに自由の大切さを説くが、これは同時に右派にマークされることでもあった。1936年軍事クーデターが発生、スペインは2分され内線が始まる。ドイツ・イタリアが反乱軍に加勢、ファシズムが台頭しはじめるとソ連が人民戦線を援助。(ファシズムVS民主主義・共産主義)という構図がうまれる。ファシズムと戦うため世界各地から民主的活動家が集まる。その中にはジョージ・オーウェル、シモーヌ・ヴェイユ、ヘミングウェイなどもいた。反ファシズムの闘いはフランコ将軍の圧倒的勝利に終り、数十万人のスペイン人が処刑される。同じ頃、世界は第2次世界大戦に入ってゆく。

「本は人生を豊かにする。この本を読みなさい」とグレオリオ先生がモンチョに書棚からクロポトキン(ロシアのアナキスト)の本を取り出すが躊躇して、かわりに「宝島」をモンチョに渡す。同時にプレゼントした虫捕り網はモンチョに自然の魅惑を教えてくれるきっかけとなった。「蝶に舌があるのを知っているかい?」「蝶の舌はいつもは見えなくて渦巻きのように巻かれているんだ。花の蜜の匂いを嗅ぐと巻いていた舌を伸ばして花びらの奥の蜜を吸う」「ティロノリンコという鳥はメスに蘭の花を贈るんだよ」

「人が死ぬとどうなると思う?」先生の問いにモンチョは「善人は天国、悪人は地獄ってママが言った」。先生は「ここだけの秘密だよ。あの世に地獄はない。人間が地獄をつくるのだ」

喘息持ちのナイーヴな少年モンチョの人生の始まりに出会った老教師の自然に対する畏敬、人間にとって自由の大切さ、公正平等であることへのこだわりは彼に大きな影響を残すことになる(むろん映画はそこまで描かれてはいないけれども)。少年期の教育や出会いは人格形成、イデオロギー形成において最も重要な要素であることは言うまでもない。

老教師が引退する日、生徒を前に彼は確実に差し迫るファシズムの気配に恐怖を覚えつつも「ありがとう。自由に飛び立ちなさい」という言葉を残して去ってゆく。

スペインの小さな町で反体制派狩りが始まる。身近な人々が次々と拘束されてゆく。モンチョの家ではもともと保守的だった母が、父の共和党員証や雑誌などを大急ぎで焼却処分する。苦悩する父。モンチョの歳ではそんなイデオロギーに翻弄される大人の世界が理解出来るはずもない。しかし家族も、知人も権力の弾圧に動揺していることは分かる。自由が失われてゆく恐怖。

朝、何軒もの家から強制的に拘束された共和派の人たちがトラックに連行されてゆく。その中にモンチョは大切な先生を見出す。

町の人々、つまり拘束を逃れた人々は連行されてゆく人たちに向かって「アテオ(不信心者)」「アカ」「裏切り者」「犯罪者」と口々にののしる。

家族が連行され泣き叫ぶ者もいる。昨日まで友人だった者どおしが無理矢理敵と味方に分けられる。母が、父に「あんたも叫ぶのよ」と強く促し、父は苦痛に顔を歪めながら「アテオ」「裏切り者」と叫ぶ。母はモンチョにも「おまえも叫ぶのよ」とけしかける。(そうしないと殺されるから)モンチョは心のなかの葛藤を自分なりに表現する他ない。

先生が目の前を連行されてゆく。血の気が失せた青白い顔…

モンチョは大声で叫ぶ。「アテオ!」「アカ!」驚愕の言葉が少年の口から発せられる。さらに「ティロノリンコ!」「蝶の舌!」

大切な先生が教えてくれた大切な言葉。群集には通じなくとも先生だけには解る言葉を大声で叫ぶモンチョ…

自衛隊浜松基地の周辺の老人が、現在でも「そんな事を言うと憲兵が来る」という話を聞いた事がある。40代の歯科医が地域の問題について意見を聞いている折りに耳にして驚いたそうだ。戦前・戦後を通じて軍事都市だった浜松におそらくそんなエピソードがたくさんあるはずだ。暗黙の服従を強いる社会がここにある。

「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀を教訓としなかった国が、憲法を空文化させて一気に参戦を果たした。にもかかわらず、多くの人々にその実感、危機感がない。有事立法の声も次第に大きくなっている。加害者の認識を持たなかった国が、再び加害者となることがこれ程たやすいのは、おそらく当然なのかもしれないが、あまりにも虚しい。自由を置き去りにした国は、その価値を見出せないままさらに自由から遠ざかろうとしている。                              2001.12.24

 

 

死体から話し始めること

 

価値というものは固定したものでなく、常に変化し続ける事をあらためて確認したい。同じものが、時が経ち場所が変わるだけで天と地の差を生み出す。

世の中が常に万人にとって(良いもの)を選択するとは限らず、むしろ正反対であることが多い。言いかえれば恣意的ということだ。だからこそ、それを選ぶ側の責任はとても重いはずである。

たとえば健康食品というものがある。客観的には西洋医学、東洋医学、民間療法などにより、ある商品の価値を恣意的に吊り上げる行為、もしくは作業を指す。そうすることにより差別化された商品は、一般的な販売法よりむしろネズミ講ないしはそれに類する方法で売られることが多い。これをカルトといっても過言ではない。

特にテレビで紹介される事により、その商品には超越的価値が加わる。それなのに同じ番組がその商品について決して継続的責任を負おうとはしない。その昔、身体に良いと過剰な意味付けをされた「紅茶キノコ」は、今ではとっくに忘れられた存在であるが、テレビは超越的価値を今日も新しい商品に与えつづけている。

「カルザイ氏カッコいい」とモード界が激賞している。イタリア、ミラノのメンズ秋冬コレクション(0203)においてグッチの有名デザイナーが、世界で最もシックで誇り高いファッションセンスを持つ男性としてハミド・カルザイ氏を選んだ(02.1.16毎日)。

カルザイ氏が「パキスタンと友好」を強調。復興に向け、アフガンへの物資輸送はパキスタンのカラチ港経由の陸路に依存せざるを得ない。パキスタンとの関係が悪化すれば「経済封鎖」になりかねない(02.1.15毎日)

9.11」、報復空爆、そしてアフガン復興。米国のシナリオ通りに事が運ばれている。しかし東京で誰がいくら金を出すか相談が始まろうが空爆は終っていない。映像が流れないから言葉だけが独り歩きしてゆく。証拠も示さずに始めた空爆が日常化され、アフガンの地にたくさんの死体が増え続けていることさえ忘れた日本で、早くも富の分配が始まった。忘れてはならない。すでにアフガンの死体は9.11を超えていることを。

アフガニスタン暫定政権首相ハミド・カルザイ氏は、在米経験があり、CIAとの関係は公然の秘密。兄弟はシカゴなどでレストランを経営するという。アフガン暫定政権は当然CIAの強い影響下にある。

20019月下旬、米、南カリフォルニア大学創造的技術研究所に、米陸軍の要請により、映画監督、脚本家ら十数人がひそかに招集された。

テロはなぜ起きたか、米国の弱点は何か、将来予想される攻撃手法や対象は−。その場でさまざまな設問が与えられ、入念なブレーンストーミングが行なわれた。ウサマ・ビンラディン氏やアルカイダの幹部を映画の登場人物に見立て、性格分析をし、その結果に基づいて思考方法や行動様式を読むのが会合の目的(02.1.18毎日)。

アメリカのアフガニスタンへの関与が、中央アジアにおける橋頭堡の確保と、カスピ海地域の石油、天然ガス資源開発、輸送路確保に参入、支配という国益にあることは異論はないはずだ。

旧ソが握っていた石油、天然ガスは、今や中央アジアの貧しい国になる。米にとってこれ程、幸運な事はない。ロシアとイランの領土を通らずに米国の思い通りにパイプラインのネットワークが構築できるわけだ。シルクロード戦略ともいわれるこの計画は、表向きには「アフガン復興」という人道的なプロジェクトという仮面をまとって実行されてゆく。ブッシュが石油業界人であることを忘れてはなるまい。ところで森首相は写真集にならなかった。同じ理由でハミド・カルザイ氏は「絵」になる。CIAが戦略的に彼を起用するのがわかるだろう。外見を必要以上に重視する文化の致命的欠陥がここにある。映像世代の民衆を操るのは困難なことではない。もっともケータイ・ストラップや写真集は出ないと思うけれど。

9.11事件」直後に「同時多発テロ義援金」をコンビニなどで展開していたが、現在では「アフガン難民救援」に変わっている。

世界中から忘れられ、無視され続けたアフガンという荒地に、想像を絶する大量の爆弾を落とし、次は「復興」という人道的支援だという。米国の勝手な言いまわしによって、ただの荒地になったり、人道的国際援助を必要とする悲惨な国になったりするというわけだ。これではまるで紅茶キノコではないか。しかしブームが去ったからといって無視するというわけにはいかない。空爆を許した責任、国として主体的に参戦し虐殺に手を貸した責任は消えない。日本は堂々と非合法をやらかしたのだ。

フィクションとノンフィクションの境界が溶けてゆく。情報の受像機と化すことの心地良い誘惑が全身にまとわりつく。しかし、私たちは抵抗すべき義務がある。空爆下の死体から話を始める義務があるはずだ。                2002.1.20

 

 

「許してください」

 

「痛みの歴史」という本だったと思うが、「黒人奴隷は痛みを感じない」と思われていたということが書いてあった。植民地時代に、抑圧を正当化し、自らの道徳心やプライドも傷つけない、都合の良い論理をデッチあげたわけだ。曲がりなりにも人権が世界共通の認識とされる21世紀には、実態はともかく、その建て前からすると仰天する発想だが、実は21世紀が、18世紀や19世紀より人間を大切にしているかというと、甚だ疑わしいものがある。

奇才ポール・バーホーベン監督のSF映画「スターシップ・トウルーパー」は昆虫のような敵と戦うわけだが、完全に相手とコミュニケーションが不能、だから脅威以外の何物でもないという設定だ。ここでは殲滅以外に選択肢が無い。考えてみれば、米国の反テロ報復攻撃とはまさにこのスタイルではないか。しかもこのモラル・ハザードを、勝手に「人道」の名の下に強行する。米国の平和のために不可欠である戦争の継続のため、アフガニスタンの次の攻撃目標さがしが始まっている。

東京都東村山市で野宿を強いられていた鈴木さん(55)が中学生グループに1時間半も暴行を受けて殺された。前日に図書館で机に座ったまま騒いでいた中学生が鈴木さんに注意されケンカになり、一人が鈴木さんの後を尾行して寝泊まりしている場所を見つけ、負けないようにケータイで仲間を集めて襲撃した。親と出頭した少年らは「許して下さい」と泣く者もいたという。このようなニュースに必ず識者などが御言葉を披露するわけだが、それが役に立った事を聞いたことがないからきっと無意味なのだろう。

物心ついた時から暴力にとりかこまれた世界で育ち、競争原理を叩き込まれる子供たち。夢中になってゲームで遊んだりマンガを読んだりして、血が流れ、骨が砕け、死体がころがっても、フィクションだから絶対に自分は傷つかない。常に、抑圧者側(勝者)の視点に立つことを強要される。

負ける事を許さない社会は、正当性や論理を排除しても圧倒的に相手が弱い事、確実に勝つ事を要求する。ここではルサンチマンが消滅する。だたひたすら勝つ事だけだ。負ける側を知る必要はまったくない。負ける事は存在を否定されるに等しい。でも、これでストレスがたまらなければおかしいではないか。自分で自分がわからないうえに意味不明なまま、キレたりムカついたりする。さあ、弱い奴はいないか?ブチ殺してもいい奴はどこだ?

日本において野宿者を人間扱いせず差別してきたのは、誰が何といおうと行政だ。ここにおいて差別が発生し社会に連鎖してゆく。さまざまな人たちによる、さまざまな差別を行政が保証してきた。人権が保証されないかわりに。

イメージして欲しい。あなたが一切の保証のない住所不定、無職になった状態を。食べるもの、着るものが買えない。金がないからだ。寒いけれど家がない。通行人が冷たい視線を向ける。敵意さえ感じる。さてどこに行ったらいいのか?寒さをしのげて、誰からも文句を言われない場所…。デパートに行くには服が汚れすぎている。髪も伸びてしまった。誰でも行く権利がある場所、公園、図書館ぐらいしか思い当らない。とにかく腹が減って、寒くてしかたがない。図書館なら、静かにしていれば少なくとも文句は言われないはず。50すぎでこの不況では仕事は無い。住所がなければ絶望的だ。「林生存権訴訟」に象徴されるように、セイフティ・ネットでがんじがらめの政治家どもでなく、最もそれを必要としている野宿者たちには差別と死の強要しか残されていない。そんな鈴木さんが運悪く図書館で机の上に座りさわいでいる悪ガキ共と遭遇してしまった。そして翌日が人生最後の日に…。

圧倒的に相手が弱い事、最強の兵器を持つ事、あらゆる情報を独占すること、自分に都合の良い論理をデッチあげる事、確実に勝つ事、相手は自分とは違う存在であること(差別)、米国の有り様をこう語れるだろう。そこでは人権や民主主義など存在しようがない。そんな米国に日本は国を挙げて同調している。そして子供は大人の生き方を正確に体現するだけだ。非対称がここにある。              2002.1.28