ネオコンとコバンザメ
「自衛隊の行動範囲拡大を目指す石破長官に対し、首相官邸側には、積極発言を利用して世論の反応を瀬踏みしようという思惑があるようだ」 「イージス艦派遣を決定する際も、石破長官が必要性を繰り返し強調した。政府関係者は“”と語る。」(02.12.22毎日)
昨年末、訪米してラムズフェルドらと会談後、石破防衛庁長官はミサイル防衛について「将来の開発、配備を視野に入れて検討したい」と表明した。石破長官が対米公約することで既成事実化を狙ったのではないかとの見方もある。(02.12.19中日)
ミサイル防衛は憲法の禁じる集団的自衛権の行使に抵触し、武器輸出三原則との関係も問題になる。何よりも開発費が1兆円以上もかかる。
12月13日発表された不良債権処理加速による雇用への影響試算で「失業者最大60万人」という予測が出たが、竹中金融経済担当相や金融庁の反対で削除され「失業者は22万人」というシナリオで発表された。小泉政権は一体どこまで国民を欺き愚弄し搾取するのだろう?
ところで昨年末から話題の本がある。元国連大量破壊兵器査察官スコット・リッター著「イラク戦争―ブッシュ政権が隠したい事実」(合同出版)である。
リッターはブッシュ政権の対イラク政策について集会、テレビ、ラジオで激しく異議を唱えてきた。そして今では売国奴、イラクのスパイなどと呼ばれている。
2000年大統領選挙で のリッターはサダム・フセインの兵器能力を査察の当事者として正確に把握し米国が戦争を仕掛ける根拠が無いと説く。以下は要約である。
1991年国連大量破壊兵器査察チーム(UNSCOM)創設、イラクの生物・化学・核兵器計画のあらゆる部門をシラミ潰しに調査。
米のスパイ工作により1998年査察が中断される段階で核兵器のインフラと施設は100%廃棄され破壊された。イラクがふたたび核兵器を保有するためには数百万ドルの資金とそれ相応の工業インフラと大量の電力と一般には手に入らないような特殊技術が必要。もしイラクがそれを復旧するなら西側の諜報部門にすぐバレてしまうような活動をするしかない。サリンとタブンは貯蔵寿命5年。もしイラクが大量の化学兵器を査察から隠せたとしてもすでに無用無害の物質に変質している。化学兵器はムサンナ国立施設という巨大な工場で製造されたが、湾岸戦争中に爆撃され、戦後、査察団が廃棄を完了。何千トンもの化学物質を廃棄した。VXについても1996年 製造装置200ケースを発見。廃棄した。もしイラクがVXを温存していてもすでに変質している。現在イラクにVX製造工場は絶対にない。炭疽菌、ボツリヌス菌も発見、工場と装置の破壊を行なった。もし、隠しておいても炭疽菌は3年で発芽、効果を失う。
米国ではイラクの大統領宮殿で炭疽菌がつくられている、宮殿に入るためにイラクに戦争をしかける寸前までいったが、結局何も見つからなかった。ところが宮殿での検査を。イラク側に「なぜ検査をしないのか」と詰め寄られると元アメリカ陸軍生物戦担当将校ディック・スパーツェルは、「、結果がシロと出てイラクの得点になってはおもしろくない」と答えた。
サダム・フセインは過去30年間、イスラム原理主義に対して宣戦布告し戦ってきた。あらゆるイスラム教の強制的布教を厳禁し死罪で臨んでいる。特にオサマ・ビンラディンのワッハーブ主義派を目の仇にしている。ビンラディン側もフセインを背教者と呼び宿敵視してきた。ゆえにアルカイダ・コネクションなどバカげた話だ。
1998年査察官リチャード・バトラーはサダム・フセインをスパイするというだけの目的で査察を利用して国連の任務からはずれ諜報活動をして査察体制全体の信頼を損なった。アメリカはイラク爆撃の用意をととのえ、バトラーに爆撃計画を伝え、査察を爆撃の引き金に使おうとした。バトラーはイラクを徴発するためだけの査察をすることになる。そしてすべての査察チームを引き揚げると2日後に空爆が始まった。
新保守主義(neo-conservative)はイスラエルと直結。大統領選以後ブッシュは民主党や穏健派の取り込みに失敗。ネオコン寄りにならざるを得なくなり、急にネオコンが主流派になった。ラムズフェルド、ウォルフォヴィッツ、リチャード・バールの3人が実験を握ってしまった。(E・W・サイードの『イスラエル、イラク、アメリカ;戦争とプロパガンダ3』みすず書房74、75頁における国防総省国防政策委員会についての指摘も参照のこと)
「私にとって、すべての市民が発言の自由をもつことこそ、他の何にもましてアメリカ民主主義の原則を体現しています。市民が関与しない民主主義はその名に値しません。(中略)反対意見を尊重し、反対する人たちに議論に加わってもらい、相違点を徹底的に論じ合い、食い違いの詳細を明らかにするよう呼びかけるだけです」スコット・リッター
2003年正月のNHK BS放送および1月5日TBS報道特集にスコット・リッターが登場し、自論を披露した。しかしおそらく米国の軍事的バイアスによって、CIAがサダム・フセインはいかに危険な存在かをわかりやすく解説するシーンが挿入され、全体として論点があいまいな番組となっていたことは予想通りだった。マスメディアはあくまでプロパガンダの重要な道具なのだ。額面通り受け取ることのリスクを私たちは充分すぎる程思い知らされている。その上で1月7日中日新聞による「イラク大統領が査察はスパイ活動と批判」という記事を慎重に読むべきだろう。査察団が米国の息のかかった存在であるか否かは「公正」の基準といってもよい。米国は単独でイラク攻撃をやろうとしていた。しかし多くの国際世論の反対意見を受け、強行はまずいと路線変更しての攻撃なら文句はないだろうというわけだ。98年の査察の茶番劇を踏襲すると見ても間違いではあるまい。まず戦争ありき、が現在の米国なのだ。ユニラテラリズムの旗手、ネオコンのラムズフェルド、ウォルフォヴィッツ、パールという3人組がキリスト教原理主義者のブッシュと組むという最悪のシナリオが平和的解決で戦争回避する可能性は残念ながら非常に少ない。だがメディア操作にも限界があるはず。隠しようのない規模の反戦の声が挙がれば、そしてそれが国際的に連帯して大きなうねりになれば風穴はあく。イラク国民を殺させてはいけない。
失業やリストラの脅威にさらされ、必死の努力を余儀なくされながら、莫大な税金が戦争に使われることを座視する程、私たちは無力でおろかだろうか?
「世論の反発が思ったほど大きくなかったことも官邸の判断を後押しした」などという屈辱的な記事を書かせてなるものか。
2003.1.7高木
酔っ払ったラバの時間
公園やガード下に段ボールやブルーシートで作った「家」に住む人たち、野宿を強いられる人たちの生活を多くの人々は知らない。あえて知ろうとしないと表現したほうが当っているはずだ。金もうけがすべてであるかのような日本の社会が衰退し、かつてのような高価な買い物に明け暮れた日々が嘘のような不況にさらされて、街並みのいたるところにシャッターの降りた店が増え続ける現在でさえ、さらにリストラや倒産に見舞われて失業もしくはその予備軍という身になってさえ、社会保障のセイフネットからこぼれ落ちた、その日食う事もままならない人たちと意識を共有しようと思う人はおそらくほとんどいない。金持ちになることを無意識に原理とした多くの人たちは、富の偏在を自明の理としてその流れの上部を意識しても、下層を見つめようとはしない。
「身体」を使うこと。生物であれば当然の行為を、先進国と呼ばれる国程、代替することが文明のものさしであるかのような錯覚に陥ってきた。言いかえれば、「いかに身体を使わずに生きるのか」という共同幻想である。身体を使わないことがステータスでさえあるのだ。生物として評価すれば、これはまぎれもなく異常そのものだ。この異常の対極に、私たちが知る機会さえ少ない、しかし膨大な人々が生きている。「南北問題」と呼ばれるものの「南」の貧困は、富の偏在に疑問を持たぬかぎり、そして勝ち組志向である限り、話題にのぼらず見える事さえない。そんな貧困の、しかしその存在だけで「北」を告発することさえ可能な人たちの映画がクルド人監督バフマン・ゴバディの「酔っぱらった馬の時間」だ。イラン・イラク国境の山岳地帯で、国境を越えて密輸することでかろうじて生きる両親を亡くした子供たちの物語だ。それは国連による不条理な経済制裁下のイラクの非常手段としての交易の物語ともいえるかもしれない。子供たちは兄弟のひとりの不治の障害をもつ兄の手術代をかせぐために想像を絶する労働を強いられる。しかし兄弟愛はそれを乗り越えて強かった。厳冬の峠越えは車が使えず、ラバに頼る他ない。重い大型トラックのタイヤを運ぶ苦痛を麻痺させるため、酒を飲ませたラバに積んで雪道を登るのだ。国境警備隊や地雷、そしてこごえる寒さ。彼らには冬山用のゴアテッゥスウェアやビブラム・ソールの靴などない。あるのは粗末は衣服と身体だけだ。生きることのすべてが思い通りにならない世界に住むクルド人たち。国家を持たない世界最大の少数民族にとって、公共、福祉、保障などの概念は意味を持たない。そんなものは富める国民国家という幻想の生み出した勝手な論理にすぎない。こごえる身体と無心に先に進むことでしか生き延びることの出来ない生の原点に直結した暮らしなのだ。はじめての密輸を体験した少年に、イラクで知り合った少年が忠告する。「前払いの仕事しか信じるな。ヤミ業者なんか信用できない」世間の辛さを味わうのは大人になってから、子供は大人が守るべきもの。世間にはモラルや法律があり、誰だって守られているはず。という幻想に生きる私たち(もっとも最近の日本はおかしくなり始めたが)にはあらためて考えさせられる。「南北」のとてつもない格差にありながら国家を持たないという事がどういうことかを。ここでは老若男女を問わず苛酷な生き方しか許されない。
苦行ともいえる冬山の峠越えは名作「キャラバン」にもあった。富の偏在する世界に於いて貧困の極にある人々が、自然の苛酷な状況を生き抜こうとする姿は、人生や日常の質というレベルで「北」を圧倒する。それは同じ言葉を使ってもその重さが決定的に違うということだ。2つの映画において言葉は常にストレートであり、もってまわった表現は無い。ここには最近の日本のように子供を殺す親はいない。生と死のとなり合わせの世界には、持て遊ぶほどの生も死もありようがないのだ。彼らの生そのものが富める国を告発するといってもいい。
さまざまなコントロール願望を叶えることが目標となった私たちの世界。それにしてもなんという過剰にのめり込んでいることか。辟易する程の物質の氾濫は、貧困で荒涼たる精神をそのまま反映する風景だ。「身体」を使わない文化が「身体」を衰退、消滅させてしまった。思考や精神まで道づれにして。
5人兄弟の末っ子の少女が勉強したくてたまらない。「ノートが欲しいの」と兄に告げる彼女の手には、びっしりと書き込まれたクルド文字で余白が無くなっている。貧困とセットになった、かくも純粋な知識欲を日本の子供たちと比べても何もならないだろう。そんなことより実話をもとにしたというこの映画に登場する、まったくもってひたむきな人々、さらに正解に無数に存在する同じような境遇の人々が、いつも先進国の富の偏在を固定化するために貧困が改善されず、あげくの果てに空爆にまでさらされるという現実を認識すべきだ。
世界中の荒地、未開地を走る(何しろタリバン御用達だ)日本車トヨタハイラックスの荷台にゆられながらクルドの子供たちが歌う。「人生は苦労ばかり、子供でさえ老いてゆく」
非西洋の、国家を持たない少数民族が、私たちの考えうるすべての便利な生活手段を持たずに、「身体」だけで生きることの意味を多くの日本人が理解し、共有し、南北格差について知るためには、つまり、生と死が等価であり、となり合わせである、そして人間が人間であるという原点にリセットするためには、もしかしたらM8クラスの巨大地震というカタルシスを必要としているのかもしれない。勝ち組指向とはそれ程の想像力の貧困を意味する。
200301.16 高木
殺人予行演習、是か非か?
米国で、一般国民が政府代表とイラク攻撃の正当性や先制攻撃について討論する集会が開かれた。300人以上の参加者の多くはイラク攻撃に疑問を呈し、否定的だった。国内のこうした声をブッシュ政権も無視出来ないことになりそうだ。会場の壁面には大きく「by the people」と書かれていた。(03.1.1.NHK TV)
本来、民主主義は流血を避けるためなら血みどろの(比喩として)論争によってでも形成されるべきだと思う。そしてその前提となるのは当事者どうしの対等、平等の関係だ。久しく論争の途絶えた国、国家の動きに口出しをしない多くの日本人、たとえば仲間うちで政治の愚痴をこぼし合っても具体的な勢力になるはずがなく、事後承認的に政府発表として「国内に反対の声がないので・・・」などという結果を招いている。情報社会といわれるが情報管理社会なのであって、「何でも言える自由」という建前が「何も言わない現実」に見事にすりかえられている。気がつけば戦前のファシズム下を思わせる現実だ。この国がすでに参戦していることを踏まえて、確実に近づきつつある戦争のひとつの現場に出かけた。
1月29日から東富士演習場で5回目の沖縄米海兵隊による実弾訓練がはじまる。米国のグローバリゼーションによる支配を軍事力で維持するためのもので、その銃口が向けられる世界各地で、罪無き人々の命を奪うためのものだ。政治、経済、軍事、すべてにおける非対称の世界を構築し、独占を狙う米国。その軍事訓練は限りなく実践に近いものだ。ルーティンワークによりシュミレーションと現実の境界を無くす訓練によって、若い兵士が戦争のプロとなってゆく。現代戦のさまざまな遠隔操作技術は、リスクを削減し兵士の感覚を麻痺させる。血の臭いと体温、というもっとも本能に訴える部分から兵士は意図的に遠ざけられる。現代戦を戦うための(身体の隔離)は、戦争がまぎれもない殺人であることを巧妙に隠蔽する。象徴的には米国において原爆展が開催されないことを考えればわかるだろう。米戦略において、かくも重要な要素である軍事訓練であればこそ反対しないわけにはいかない。なにしろ、2001年までの10年間に、米軍キャンプ富士施設拡充のため日本政府は109億4千万円も払い、米軍移動費用として1回2億3500万円も負担しているのだ。そんな税金が(失業者にまわされず)殺人訓練にまわされている。失業や野宿を強いられる人々こそ反戦行動に立ち上がるべき時ではないか。死ぬ気で抗議する権利まで放棄すべきではない。
キャンプ富士のゲートは抗議する我々の姿が現れると閉じられて、守衛兵もゲート横の詰所に隠れた。米軍キャンプの前に、演習反対の抗議文をわたしに行った自衛隊滝ヶ原駐屯地でも、守衛の1人をのぞいて全員詰所の窓からこちらをうかがっていた。双眼鏡やカメラも見えた。軍は完全な上位下達の命令系統をもつ構造だ。本来ならトップの司令が市民と対等に話すべきだが、アポ無しという事情もあり、抗議文を詰所に渡すだけの行動になった。20人足らずの抗議と高を括られたのかもしれない。バス一台で待機していた機動隊も出番はなかった。
それにしても詰所からの視線には腹が立った。それは監視カメラと同質のものだ。自らの姿を隠した非対称の視線は、抗議する市民を特定し、安全圏にいながら対話無しに勝手な意味付けをするものだ。ともあれ軍隊が民主主義にもとづいて存在する理由はありえない。殺される側との対等、平等性を欠くからだ。
キャンプ富士のゲート詰所の若い白人兵がときおり姿を見せるが、抗議するわれわれを無視する。カモフラージュ・パターンの戦闘服を着た彼らはさすがに戦闘マシーンとしての体格を誇る。長い足、厚い胸、ひろい肩幅を前にして、悔し紛れにベトナム戦争で圧倒的な米軍が、どう考えても貧相なベトコンに敗れた事を思い起こすことにした。マッチョで燃費の悪いアメ車がすでに時代遅れであることも。
富士山は演習場近くまで真っ白に雪をかぶり、雲ひとつない冬の空にそびえていた。御殿場側からは富士のもうひとつの火口である宝永山の火口がよく見える。20年くらい前だろうか、雪の積もったこの火口で、男と女が互いにナイフで首を刺し合って情死したことがある。どのようなドラマがあったのか覚えていないし、特別に情死を好意的にも思わない。しかしここからながめていると富士の壮大なスケールの風景を死の場所と選んだことだけはわかる気がする。いまこの演習場で始まろうとしているのは、最強の軍隊が最新の兵器で圧倒的に貧しく弱い立場の、そしてほうっておいても死んでしまう程の民衆を大量に殺すための(しかも正義の名の下に)現実的な訓練なのだ。なんという愚かな行為だろう。恥とはこのことだ。情死した2人は、きっと、とことん話し合い悩んだ末に死を選んだはずだが、軍が殺す時は対話無しで一方的に勝手な意味付けをするだけど。しかも多くは非武装の民衆である。相手を人間と認識したら決して出来ない行為を演習を繰り返すことで可能にする。演習とはそのような目的をもつからこそ反対すべきなのだ。
2003.1.13高木
上越、有間川河口。豪雪地帯のはずだが、それ程雪は多くなかった。強風のためか、付近の山には大量に積もっているのに、海岸付近には少ない。それでも雪と雨の混じった冷たい風が鉛色の空の下を吹き荒れている。ほんの2〜3度下がれば雪になるだろう。分厚い雲が日光をさえぎっているため風景はモノクロームの世界だ。日本の産業構造が太平洋ベルト地帯に集中したために、差別的に「裏日本」と呼ばれてきた日本海側は、その産業が落日を迎えた現在であれば化粧の落ちた日本の本当の姿が見える気がする。貧困国の風景に差別的まなざしを注ぐ多くの日本人が、自らの半世紀の砂上の楼閣を取り払えば、何の差異も残らないどころか、幻想に入れ込んだ分だけ精神的にはるかに貧困であることを思い知るにちがいない。荒涼とした虚飾の無い風景を前にして、かえって安心感さえ抱くことができるのは、ある意味でこの国の終わりの始まりを実感するようでもあるからか・・・。
人気のない冬の海岸をしばらく歩くと妙な腐敗臭が鼻をついた。先方の岩の上に大きな海鳥が数羽、こちらをうかがっている。よく見ると何羽ものトビやサシバだろうか小型の猛禽類が何かを漁っている。近づいてゆくと次々と飛び立ってゆき、あとには食い散らかした大きな魚のようなものが残されていた。よく見ると、予想もしなかった大きな鮭だ。河口の岩浜のあちこちにたくさんの死骸が散らばっている。さらにおどろいたのは、何気なく川の水面に目をやった時だった。なんと数十匹の鮭が水流に逆らって泳いでいる。70cm〜1mくらいの大きさだが、体の表面はところどころ白斑が生じている。おそらく産卵を終えて死を待つばかりなのだろう。力尽きたものから海鳥やトビの餌になるわけだ。プログラムされた自然とはいえ、絶命するまでの時間のなんと耐え難い苦役だろう。もっともそれは人間が考えるからであって、彼らは何の葛藤も無いのかもしれない。何より忘れてならないのは、彼らはすでに産卵という(再生産)を終えていることだ。固体と種の連綿たる営みには何の疑問もはさむ余地はない。それは人間の感情に過ぎない産後の充実感さえも無効にするだろう。生き物の生には、いかなる他者も介入しようがない。まさにあるがままなのだ。何事にも意味を見い出したがる人間はそれだけ世界を歪めているのかもしれない。
鉛色の空の下、厳冬の日本海を望む賽の河原のような光景に必要以上に感情移入することもないが、それにしても、腐臭と寒さとさえぎられた陽ざし、大量の鮭の死体と、死を待つだけの鮭たちは、滅多に訪れることのない日本海の印象を強烈すぎる程焼き付けた。荒れた冬の海の向こうに朝鮮半島がある。
もしかしたらと思いながら海岸を歩くとやはりあった。さまざまな漂着物にハングル語が書かれている。なかにはロシア語のものまであり、日本海であること
を実感した。それにしても漂着物のほとんどがプラスチックだ。あらためてなんと石油に依存した世界だと思う。
米国のイラク攻撃の可能性は日増しに高まり、一触即発状態だ。もしイラクに石油が無ければこのような展開にはならなかったかもしれない。同じように「悪の枢軸」と名指された北朝鮮が後まわしになったのは石油資源が無いからだろう。しかし北朝鮮はもうひとつの、そして禁断のエネルギーである「核」を外交カードにしてしまった。米国を振り向かせるには、極寒の不毛の土地である北朝鮮においてはそれしかないと思い込んだからだ。
ともあれ、さまざまなものさしによって恣意的に対象が悪魔になったり、取るに足らない存在になったりするのはなんともおかしな話だ。戦争が最大の環境問題であると言われながら、何ら解決策を見い出せずにいるのはきっと人間というとんでもない存在が、発見した解決策を片っ端からブチ壊すというマッチポンプ的な本能を持っているからかもしれない。崇高と己惚れる思想も哲学も芸術も目前の戦争になすすべがないとしたら、一体人間というものは何のための存在だろう?これ程、同種内における破滅的な殺し合いを続ける生物がいただろうか?その上でまるで知性を根本から捨て去ったようなこの国の政治が米国の戦争にだけは赤字承知で嬉々として請け負う姿にはもはや言うべき言葉が見つからない。
ところで日本は一年間に3万2千人の自殺者が出る。未遂も含めると30万人が自ら死を選ぶというわけだ。そこまで絶望する人々が存在しながら抗議行動がほとんどないという異常な国である。
白斑化し、腐敗さえ始まりながら厳冬の川の流れに逆らう鮭たち。個体の死が迫りつつありながら、それでも彼らには未来がある。彼らはおそらくこれからも冬の風景であり続けるだろう。厳冬の日本海の風景が語りかける。「最も破壊と殺戮を好むおまえら人間は、生の意味はもちろん、死の意味さえ理解不能なままではないか」と。振りかえれば私たちの、ほんの一年先さえ説明不能な社会、文化とは一体何だろう?
2003.1.6高木