翼賛報道
ジャーナリズムの最大の機能もしくは存在意義が権力批判にあるとしたら、すでにこの国のマスコミは「翼賛報道」と呼ぶのがふさわしい。中日、朝日、毎日の3紙には目を通すように心がけてきたが、気がつくと読売、サンケイに他ならない内容にすり変わっていた。現実の日本の危機が危機として報道されていない。
「教育基本法」が生体解剖されるために手術室に入ろうとしている。後には麻酔の効いた「日本国憲法」が控えている。
派兵が日常化し、誰の目にも論理破綻が明らかである傲慢な米国の侵略戦争への加担が続いている。
国内政治の失敗を海外侵略戦争にすり変える、姑息だが伝統的な常套手段が、懲りる事無く繰り返される。
小泉政権下で見事に加速した新自由主義は弱肉強食の論理に他ならない。自由競争の結果、勝ち組と負け組に選別されるが、自己責任だから淘汰されてもかまわない。負け組、弱者を差別して何が悪いのだ?とばかりに。
社会ダーウィニズムとも呼ばれるそれはネオコンの論理と共通だ。ほんの一部の勝ち組が富を独占する構造。日本人の多くが圧倒的多数の負け組を自覚しながらも批判の声を挙げることが出来ずに体制にしがみつくしかない弱さを、自分よりも弱い者を差別することで埋め合わせている。流れに逆らって波風をたてるよりも全体の構造を真似るのが楽なのだ。しかし染みついたその体質ゆえに、わかりやすい言葉で強者の論理を振りかざす者に共感してしまうことになる。こうしてファシズムの構図が強化されてゆく。
異論を口にする少数者を許さない社会。たとえば自衛隊派兵について一緒に考えようという主旨のビラをポストに入れただけで逮捕される社会。
また、
中村候補とマッド・アマノが主張するように表現の自由は何よりも尊重されるべきだし、事実を的確に表現しているポスターは多くの人々に公開されるべきではないか。問答無用の批判封じは独裁国家の手法ではなかったのか。日本はいつ北朝鮮になったのだろう?
ところで、以前「刀剣友の会」について触れたが、斉藤貴男と高橋哲哉共著の「平和と平等をあきらめない」(晶文社)で、あらためて翼賛報道の現実を思い知らされた。
朝鮮総連系の金融機関や広島の教職員組合などに銃弾を撃ち込み、土井たか子や野中広務など戦争に反対する政治家に銃弾を送りつけて逮捕された「建国義勇軍」の母体、「刀剣友の会」の最高顧問は民主党の西村真悟衆議院議員だという。西村議員が石原慎太郎の盟友であって誰も何も言えないらしい。まさに総右翼化の為せるワザである。
2004年2月、自民党と民主党の保守派が「教育基本法改正促進委員会」という超党派議連をつくった。その設立総会で西村議員はこう語った。
「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命を捧げた人があって、今ここに祖国があるということを子供たちに教える。これに尽きる」「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり、国民の軍隊が明確に意識されてなければならない。この中で国民教育が復活していく」(04.2.26朝日)
敗戦後、半世紀の歴史とは一体何だったのだろう?
1945年以後、日本では時間も、記憶も、思考も停止したままだったのか。巧妙な米軍占領が意識されず、自覚無いまま継続してきたが、今まさに沈黙が破られようとしている。日本をコントロールする米軍が姿を見せはじめた。冷戦後の世界戦略として米国防省が進めるトランスフォーメーション(変革・再編)により、米海軍第7艦隊を含め、陸海空軍ともに太平洋全域をカバーする指令塔を日本に置くというものだ。米国が日本をアジア太平洋の軍事作戦上の基軸(ハブ)と位置づける思惑である。地球上のどこへも部隊を急派できるために補給能力、機動力を高めた体制づくりを目指す。
平和憲法下で海外派兵を実現した日本は、その戦略上国際的に孤立せざるを得ない米国にとっては、何を押しつけても許されるかけがえの無い存在であり、自己主張を欠いたまことに都合の良い属国である。
有事法制も海外派兵も、そして改憲さえも「私とは関係無い」とうそぶく多くの日本人。歴史の欠落がどのような悲劇をうみだすかを身を持って味わう事になるのか…。
2004.7.16高木
わかりやすさ、もしくは「戦争のつくりかた」
最近、浜松市の中心街で高層ビル外壁に設置された清掃用のゴンドラが故障して、作業員2名を乗せたまま宙吊りになる事故があった。高所における作業は確実な安全策と器具の正常な作動によってはじめて可能なことは言うまでもない。作業員はいつもと変わらぬ作業に取り組んでいた。それが突然止まり、高所作業の危険性を思い知らされることになった。信頼していたロープがもし切断したら…救助されるまでに彼らは生きた心地もしなかったろう。あらためてゴンドラを支えるロープの(信頼性)と(頼り無さ)という二面性を意識せざるを得なかった。何も起きない日常においては考えもしなかったことを。
“憲法第9条”という最後のロープによって、日本の平穏(平和ではない)が建て前として続いてきたはずだったが、故障により機能しなくなりはじめた。しかもロープが少しずつ破断してゆく音が聞こえてくる。あらためて私たちの位置を確認すると、まさに危険極まりない。恐るべきは故障に気付かず破断も意に介さない圧倒的多数の同乗者たちの存在だ。あろうことか、切断を早めようと刃物をちらつかせるやからまで見え隠れする。決定的な事は外部から救助は来ないという事実だ。
アーミテージ米国務副長官が「日本が国連常任理事国になれば軍事力を展開しなければならない」「憲法9条は日米同盟関係の妨げのひとつ」と訪米中の中川自民党国対委員長に語った。また「サンフランシスコ講和条約と国連憲章に集団的自衛権は入っているので日本はすでに集団的自衛権の行使を承認していると思う」と語り、憲法が集団的自衛権の行使を禁じているという解釈には問題があるとの認識を示唆(7.22毎日)、日本国内の(九条改正論活発化という危機)とはまさに米国にとっての(英国型同盟軍待望論)なのだ。国会議員の8割が改憲指向といわれる現在、「ショー・ザ・フラッグ」「ブーツ・オン・ザ・グランド」という要求(命令)が、米国からでなく、むしろ国内から喚声とともにあがるかもしれない。「殺っちまえ!」「ブッ殺せ!」と。子供たちばかりか、大人もむさぼり読むマンガの世界では、すでにそれが先取りされている。マンガには臭いと体温が無いから本能的な歯止めが効かずエスカレートするばかりだ。残忍な事件がことさら強調され、至る所で増殖する監視カメラ群。真偽のほどがわからないまま外国人による犯罪が急増とされ、公的機関の不祥事はウヤムヤのまま、社会一丸となってのスケープゴート探し。結局、ピラミッド構造の階級社会は強化される一方で金持ちと貧乏人の極端な2分化にもかかわることなく、そんな構造を糾弾する声など露いささかも挙がらず、弱者の怒りがさらに弱い立場の人々に仕向けられている。
韓流、とかで小泉首相が“ヨン様”に会いたがっているなどという愚にも付かないニュースが流れる。そもそも湯水の如く宣伝費を使い放題のNHKとはまぎれもない国営放送であり、従軍慰安婦問題を告発した女性国際戦犯法廷のドキュメンタリーを無意味なものに改竄した過去の反省もないメディアが、平和憲法の最大の危機に及んであえて非政治的恋愛ドラマで大衆動員と煽動を図る様は、まるで大量飼育の家畜に抗生物質入りのエサをやっているようにしか思えない。結果として最も政治から遠いはずの主婦層が、朝鮮半島の歴史も現実も無視したまま「ヨン様」「ヨン様」と疼き、ヨガる姿は「理由なんかどうだっていい。気持ち良ければ」の世界そのものだ。小泉首相が欲しがるのはまさに、その程度の欲望に君臨することに他ならない。
ところで、不況の直撃で生活が苦しくなった上に一体何だ?この暑さは!文字通り息をするのが精一杯の毎日だ。それにしてもこの暑さが来年の杉花粉の爆発をもたらすと思うと地獄の招待状をもらった気分だ。おまけに、国民なら好きで当然と思われている大きらいな野球のシーズンだ。
「スポーツ観戦は人びとを受け身にする。なぜなら、自分がそのスポーツをしているのでなく、ただ観戦するだけだからだ。それは好戦的態度と排他主義とを、ときには過激なまでに助長する」(N・チョムスキー:秘密と嘘と民主主義2004成甲書房)
全体主義社会において「わかりやすさ」が受けているという。たとえば石原慎太郎のような。しかし石原の一見、小気味良い語り口や強弁が何を説くかを理解しているとは思えない。一歩、さがってみれば「差別」そのものでしかないのに石原支持層はどちらかというと差別される側、つまり弱い立場の人々が多い。すなわち、この「わかりやすさ」が巧妙な2極分化を目くらましにして被害者たちに正当化させる、という倒錯を生み出すムードに他ならない。
多くの二世議員の語り口も大して変わりはない。自分で人生の苦労を重ねて、弱者の立場を通過しながら、ものを言っていないから、とにかく重みがない。ほとんどの日本のTVコマーシャルと同じで、この国でしか通用しないものだ。カンヌ映画祭のコマーシャル部門に毎年参加するフランス人のディレクターに言わせると「バカじゃないか」。要するに知性も教養もセンスも無いし、あったとしても二流以下なのだ。後世に残る弁舌を、国会においてこの何年もの間、あなたは聞いた記憶があるだろうか?日本はその程度の国でしかないことを確認しよう。
だが民間の弱者の立場では感動すべき言葉が消えたわけでは決して無い。
「公および官」のわかりやすさが弱者に味方することなく唾棄すべきものにすぎないとしたら、「民」のわかりやすさを胸を張って対抗させよう。
(「戦争のつくりかた」りぼん・ぷろじぇくと2004タペンス)はベストセラーになった「もし世界が100人の村だったら」の池田香代子らのグループによるものだ。内容は2004年6月14日成立した有事関連法をはじめ、すでに施行されている法律や政令、審議中の法案(2004.6.28現在)、国会答弁の内容などを踏まえて書かれた物語だ。
「わたしたちの国を守るだけだった自衛隊が、武器を持ってよその国にでかけるようになります」
「せめられそうだと思ったら、先にこっちからせめる、と言うようになります」
「政府につごうのわるいことは言わない、というきまりも作ります」
「みんなで、ふだんから、戦争のときのための練習をします」
「人のいのちが世の中で一番たいせつだと今までおそわったのは間違いになりました。一番たいせつなのは『国』になったのです」
とっつき難い、となんとなく黙認してきた99年以後次々と成立した法律は「わかりやすい」文になると戦慄を覚える程の内容だった。わかりやすいと言われてきた小泉政権の結果もまた戦慄するものだ。昨年の自殺者は3万4427人で過去最高だった。働き盛りの40〜50代を中心に「経済・生活問題」による自殺が急増している。景気が回復してきたなどと誰が信じるものか。どの政党が勝つか、という参院選トトカルチョで「1,000円負けた」とグチをこぼした麻生太郎総務大臣の例を持ち出すまでもなく、勝ち組が、来年は何人自殺するか賭けているにちがいない。
4.7.23高木
沢登り
流動する世界、翻弄される人間という視点にずっと捕獲され固定されて、いささか感覚が麻痺していたことに気が付いた。
高桑信一の新刊「渓をわたる風」(平凡社)に久しく忘れていた身体感覚を呼び戻された。
高桑は、私と同年代の1949年生まれで浦和浪漫山岳会代表であり、フリーライター、カメラマン、山岳ガイドだが、何よりも「沢登り」のベテランであり、渓(たに)の語り部として、その世界の孤高の座をゆずらない。
とりたてて山岳文学などに興味があるわけではなかった(他人の文で山を想うより自分で歩く方が好きだ)が、以前何気なく高桑の文に触れて、沢を表現する話法の魅力にひかれた。「渓をわたる風」は沢登りの楽しさ、奥深い日本の自然、西洋に無い変化に富む季節、風景、焚火について、陸封された巨大な岩魚や尺山女魚の話、仲間の死などで織り成すエッセイ集だ。誤解を恐れずに表現するとそれは壮大なスケールの「酒」のコマーシャルなのだ。
酒を飲む楽しみとは、酒そのものの優劣よりもその酒の背景、つまり物語りにあるはずだ。そこにはフィクションとノンフィクションの交じり合う豊饒の時が在る。
酒と恋を人生の至上のものと称えた「ルバイヤート」はペルシャの詩人オマル・ハイヤームの珠玉の銘品である。この、数百年を経てなお世界の人々に愛される詩をうみ出したペルシャの精神性の高さを、空爆や銃撃で破壊した者たちはおそらく知らないはずだ。しかし、勝ち組負け組の差異ゆえの無教養が、この殺戮の報酬で奨学金として補完される(イラク戦の米兵の大半は、兵役と引き換えの大学進学や米国籍取得の餌にありつく貧困層だ)としたら、虚しさも極まることになる。
かたちあるもの、金で買えるものが全盛である昨今、銘酒のランキングなどという意味の無い空騒ぎで「通」を気取る阿呆がどんなに勝ち誇っても、酒の味を知り尽くした、旨い酒はこれだよ、などと言わせるものか。願わくば、情念無くして酒を語るなかれ。
ところでルバイヤートという甲州産のワインがある。甲府の友人Kに教えてもらい、20年来のファンだ。Kは沢登りからフリー・クライム、アイス・クライムまでこなすクライマーだ。ザイル仲間とともに遭難者救助の経験まで持っている。そんなベテランのKが最近、岩壁から墜ちたという。相棒の確保で事無きを得たが、数ヶ月前に氷壁で10m墜ちたばかりだ。だから山はおもしろい。完成が無いのだ。哲学者鶴見俊輔が説く「ジャコメッティの肖像」そのものだ。
「渓をわたる風」を2日で読み終え、Kに電話すると、山仲間のひとりが犬とともに南アルプス北部を下山中に熊に襲われたと言う。犬が吠えて熊が追いかけて助かったが、手や足を噛まれ、かなり負傷した。犬は2日後に痩せて帰ってきたらしい。
なんとも等身大の世界の話である。ベンツに美人を乗っける話なんかじゃないのだ。身体と頭を思い切り使って生きる事が羨望の的になる程アンバランスな世界に私たちは生きている。欠落した部分をパソコンやケータイで補完していることの自覚さえ無いまま。
「山頂は結果として踏めればよく、むしろ自然のなかにみずからを解き放ち、同化することを求めたのである。(中略)それは私たちが振り返りもせず壊しつづけた自然への、あくなき希求であった。それほど自然は文明から隔絶されてしまっていた」(渓をわたる風)
山の空間に身を置くことそのものの素朴な喜びを、そして大切さを高桑は絶妙に表現している。
思い起こせば、30年程前、私は週末の度に単独で奥多摩に入っていた。同じ頃、Kは山には登らず、行きつけのオバチャンの居酒屋で「つけ」でひたすら飲んでいた。酒量も多く、味覚も肥えていたはずのKだが、だからといって美酒を飲んでいたはずはない。日常と日常のツナギはそれ自体で楽しいわけがないからだ。それがいつの間にやら逆転してKがクライマーになり、私は…くそっ!こんなはずじゃなかった。
沢で飲むビール、焚火をかこんで飲むワインや日本酒は経験者でなければ絶対にわからない旨さだ。身の程をわきまえた等身大の、それでも目いっぱいの報酬なのだ。
アコースティック、もしくはアンプラグドという意味で、日常の便利なものすべてを排して最低限の道具で、言い方を変えると「身ひとつ」で行動することは身体の限界を自覚するまたとない機会でもある。失敗すればケガをするその世界は他人を傷つけることの意味も本能的に理解することができる。そして人間が生き抜くための「食べる」という行動を理解することも。
全身で自然と関わり、最低限の道具しか持たず、食べる事、飲む事に特化した生活が、その対極にある(私たちの日常)という異常を告発する。ああ腰が痛い。疲れた。身体がナマってしまった。でも、山行きたい。旨い酒が飲みたい。
過剰は、それだけで罪ということだろう。
小学生の一割が「鬱症状」というニュースが流れた。そらみたことか!大人の責任だ。
2004.7.2高木
鹿の骨
異なる地点から出発した2本の波動が申し合わせたように接近して合流する。1本になった波動は新たな方向を見出して延びてゆく。
南アルプス南部、奈良代山付近で白骨化したニホンジカの頭蓋骨を拾った。他の骨が散逸した末に、鋸歯状の縫合線部分だけが残された。森の中の緑色の苔の上に転がった白い骨に「Y」字形の波動で描かれた最後の象徴的な表現。
鹿の一生は、地球史にとって一瞬にも満たないが、まぎれもなく40億年の生命進化に連なる。生物は、たとえば陸上生物の7割、海生生物の9割という史上最大の絶滅(P/T境界事件)をはじめ5回もの大量絶滅と他にも数えきれない絶滅を経験している。
この鹿も人間もそんな壮絶な事件の奇跡的な末裔ということだ。
あえて人間の特性を挙げるなら「歴史認識」ではないか。それはたかだか数百万年の人類史を含む、46億年に及ぶ全地球史の認識だ。だが、あまりに凄惨かつ不条理な人類史の当事者である我々が、自己を評価するのはおこがましい。進化の頂点を自負しながら破滅を実行する皮肉がここにある。
人間に出来る事は「地球を救うこと」では決してない。うぬぼれもはなはだしいし、そんな事は不可能だ。それぞれの人生を精一杯生きることだけだ。
生は死に縁どられている。誰も死から逃れられない。
死んで骨となった存在(鹿)は、それが反転した。すなわち南アルプス山中の緑に萌える苔に縁どられた「Y」記号として… 2004.7.30高木