自作自演

 

「イラク、バグダッドで起きた自動車爆発テロが米国による『自作自演』だった、と現場を目撃した人々が証言している。アラブ系メディアは米軍の関与を伝えた。BBCなど西側メディアは米兵に関して報道せず、治安の悪さを強調した」(DAYS JAPAN 04.9

美浜原発事故で初めて4人の死者を出し、事故原因とされる配管の「減肉」があちこちの発電所で見つかっている。「減肉」をなくすには配管を曲げないことだ。そして内側に突起物をなくすことだ。もっとも、これで原発は完全に否定される。

建材納入業者がコンクリート材の不良品で浜岡原発4号機が亀裂だらけになる可能性を内部告発した。この意味がわからない人だけが幸せということだろう。沖縄では米軍ヘリが大学構内に墜落、日本側を完全に無視して機体を引きあげ、県民の抗議にもかかわらず同型ヘリコプターの飛行を再開した。イラク、サマワでは砲弾が飛び交い、派兵の前提である「非戦闘地域」が崩壊している。そもそも自衛隊が一日150トンの水を生産しても、半分は自分たちが使い、残り70トンが住民に提供されるという。駐留のための年間予算350億円も考えるとNGOにくらべてあまりにも不合理だ。しかも死傷者が出るのも時間の問題としたら…。こうした国家的緊急事態が連続しているのに(だからこそか?)、マスコミは総力を挙げて「金!」「金!」「やったあ」と五輪洗脳に終始している。

米軍空母やイージス艦が、そんな日本を嘲笑うかのように寄港する。考えてみれば、オリンピックというものの利用価値は(熱狂させながら思考停止させる)という効果にある。一生に一度だからと派手な結婚式に高額を惜しまず、年に一度だからと祭りやクリスマスにさわぎ、4年に一度だからとすべてを忘れてオリンピックに浸りきる。そのガス抜き効果で思考停止している事も完全に忘却できるというわけだ。もしかしたら、日常に充満した得体の知れない巨大な不安にどう対応してよいか解らないまま、ひたすら熱狂に逃げ込むという動物的反応かもしれない。

揺さ振っても、ひっぱたいても、覚醒しないかのこの国で、確実に警告音が鳴り続けているのだが…。ともかく、少数でも(聞く耳)を期待して、マスコミが報じない情報を共有したい。

『華氏911』が封切られた。米大統領選前のタイムリーかつ、エポック・メーキングな作品だ。過去に学ばず、それゆえ嘘っぱちマル出しの大本営発表が堂々とまかり通るこの国では「日本版華氏911」は、実現不可能だろう。あえて過去の作品から「日本版華氏911」を探せば、奥崎謙三の『行き行きて神軍』だろうか。だが案の定この作品はその存在すら知られていない。タブーに触れるからだ。

米国大統領選挙はブッシュか、ケリーかと米国内も世界も注目している。しかし、日本のマスコミが触れようとしなかった「骸骨団」(Skull & Bones)という秘密結社を知って暗澹たる思いになった。

「骸骨団」は政権を握り、あえて「敵」を捏造して政治的危機を生み出し、支配権を強めてゆく戦略を用い続けてきた。

ヒトラー(なんとブッシュ家はヒトラーと関係があったそうだ)を育て、第2次大戦後はソ連を「敵性国家」として冷戦体制をうみだした。そして冷戦崩壊で、地球規模のヘゲモニーを確立。ブッシュが「テロ」と呼べば何でもOKの世界に成り果てた。

メンバーがイェール大学生に限られるという「骸骨団」にブッシュ親子が入っており、民主党ケリーもまたメンバーという。つまり選挙でどちらが勝っても「骸骨団」が政権をとるということになる。

「骸骨団」の過剰・過激な「自作自演」の陰謀は過去から続いているという。最近暴露された「ノースウッズ作戦」とは、1962年に米政府がフロリダやワシントンで米国の市民や軍人にテロを仕掛け、それを(カストロの陰謀)として国民の恐怖心を煽り、キューバにインチキな報復攻撃を行なうという計画であり、自作自演の米国同時多発テロ計画だった。911のモデルとさえ言えるこの最高機密文書が暴露され、あらためて米国の政策に疑惑がもたれている。

「徹底暴露!イラク侵略の本音と嘘もうひとつの反戦読本2」(鹿砦社04.8.15)は米国防省の1962年における最高機密だった資料全文を掲載した。同書によると「骸骨団」の暴露は、米国の報道機関が無視してきた。日本の主要新聞社、出版社にも拒否され続けたという。マスコミが嫌う情報は必ず価値がある。すべてが五輪ファシズムの喚声にかき消されかねない現在、、一読の価値はあるだろう。数少ない、しかも、にわかに信じ難い情報はそれだけでも貴重だ。なにしろ常軌を逸した、あまりにもくだらないマスコミ情報が蔓延した日本なのだ。異論、反論は非国民とされかねない時代を私たちは生きている。こんな社会では「当り前」と思われているものこそ疑ってかかるべきだろう。

そういえば、「自作自演」の実態が本当なら気になることがある。

最近、あの日航ジャンボ機JAL123便墜落事故に関して元警察関係者が「実は…」という調子の本を出版している。JAL123便に関しては米軍関与説、自衛隊関与説など複数の疑惑がくすぶってきた。

今回出版された本では、すでに充分時間が経ったからこの辺で幕引きをしよう、というニュアンスが感じられる。「ミサイル誤射説」など荒唐無稽だと一笑に付している。ともかく、たとえどのような重大事件が起きても真相は闇のまま、何も考えずに、慰霊のセレモニーだけを毎年繰り返すこの国特有の在り方が何の批判もされないままだ。

それにしてもいったいどれほど「自作自演」が行われてきたのだろう?ためしに一連の「オウム事件」を捏造自作自演の視点で検証したらどうだろう?おそらくゾクゾクする程のおもしろさと同時に、ゾッとするストーリーが現われるはずだ。この社会の常識とタブーは悪用する立場にとっては最高の武器であり、民衆にとっては「トロイの木馬」や感染力の強いウイルスのようなものかもしれない。ともあれ、悪夢のごとき「まさか!」が現実となる昨今、演出される阿鼻叫喚に見合うだけの想像力が求められているということだ。

2004.8.23 高木


「テロ警戒中」もしくはアルカリ骨材反応

国道153号線。岡崎から信州飯田に至る道路で、そのほとんどが山の風景を貫いている。とくに赤坂、治部坂以北は標高1000mに及ぶためにカラマツなどの新緑や紅葉の景観がすばらしい。領家変成帯の花崗岩地帯であるため付近の沢は水が濁ることが無い。

 20年ほど前には、車一台分の巾で小さなカーブの連続する田舎道だったために、遠州、三河地方から南信州に行くため利用する車はほとんどなかったが、拡幅整備工事により一気に主要道に昇格した。全山黄色に染まったカラマツの山を赤い橋脚のアーチが跨ぎ、ひっきりなしに車が行き交う光景は以前には想像も出来なかった。ゴミが増え空気が汚れ、交通事故が増えても、地元にとっては交通の便を選ぶほかなかっただろう。そんな選択の閉ざされた社会に私たちは生きている。

 153号線が阿智川を越えて清内路、木曽方向と飯田方向の分岐点ちかくの中央道恵那山トンネルは象徴的だ。計画が地学関係者に反対されたにもかかわらず、政治家が開通させた。トンネルの断面図は何本もの断層によって切断されているのだ。この国では政治は科学の上位にあるということだ。

 最近、153号線を通る機会があり、ゆるやかなS字カーブを快適に飛ばしながら以前から気になっていた道路のコンクリート材を思い出した。何年も前から道路端のコンクリート部分があきらかにアルカリ骨材反応によってボロボロに崩れていたのだ。それも1ヶ所や2ヶ所でなく数え切れない程の部分で。そしてある時期に一斉に補修された。しかしその後も何ヶ所もの再発を目撃している。だいたいコンクリート材はその部分だけでなく高架橋全体のはずだ。見える部分の補修だけで済むわけがない。アルカリ骨材反応は、コンクリート中の砂や砂利の骨材に含まれる石英などの成分が、セメントに含まれるナトリウムやカリウムのアルカリと反応して強度が劣化する現象だ。海砂を使ったり、凍結防止剤散布によりリスクが高くなる。この付近はスキー場が何ヵ所かある積雪地帯だ。

「中部電力浜岡原発タービン建屋建設に使ったコンクリート骨材の安全データを捏造した、と納入会社元従業員が内部告発した。中部電力は、安全性に問題はない、との見解」(0487中日)

元従業員は原発以外にも20年近く擬装表示した砂利を売りつづけたという。山陽新幹線や阪神淡路大震災でもアルカリ骨材反応が問題になっている。

「福井県美浜原発3号機タービン建屋で140℃、9.2気圧の熱水が配管を破って噴出し、作業員4人が死亡、7人がやけどを負った。運転開始の76年以降、配管の厚さの検査を一度もしていなかった」(04.8.10毎日)

その後の報道で10mmの厚さの配管が「減肉」により0.6mmしかなかったことがわかった。

 以前から指摘するように、世界的な地震多発地帯である日本列島に、絶対にミスの許されない(つまりミスのない人間などいないから成立しないわけだ)原発を立地させることは愚行でしかないという前提を(辟易しながら)繰り返したい。だからこそ加圧水型原発と沸騰水型原発の違いを云々するような愚をしてはならない。沈み始めた泥船の上であちらが安全、いや、こちらだとさわぐに等しいからだ。

流水により「減肉」するなら配管を厚くすればいいという単純な話では断じてない。政治家や社長が被曝しないシステムは欠陥なのだ。これが本質だ。

リスクの高いシステムを強引に運営して、リスクは弱者にのみ押しつける例をこの国のいたる所に見出せる。リスクに曝された弱者の姿や声が報じられることはほとんどない。一方通行だからだ。今回の美浜原発事故の犠牲者の一人高鳥裕也さん(29)宅で、父親が、土下座する関電の社長に「やけどした息子の顔をしっかり見てくれ」と詰め寄った。言われるままに棺をのぞきこ込み、声を失う社長。こんな時こそ何とか言ったらどうだ。日頃、原発は安全とあれほど言ってきたのに。本当はこの時こそ社長にポリグラフをかけるべきだろう。

事故の報道の貴重なシーンのひとつを民放が流し、やはりNHKは流さなかった。原発が国策であることが、いかに犠牲者を無視した報道に傾くかが如実に現われた。犠牲者を詳しく報道することもできないほど擬装が必要なのが原発ということだ。

それにしても現在の大規模建造物で強度が要求されるもののほとんどがコンクリート製である。たしかに明治期に建造され現在でもびくともしない(手抜きでないだけの話)建造物も存在するが、実証期間はたかだか百年にすぎない。数万年数十万年を刻んだであろう山塊を切り開き、渓谷を埋めて自然を改変した保証にしては貧弱すぎはしないか。現在建設中の第二東名の、山の中に並ぶ巨大な橋脚など、たとえば現代美術のコンセプトとして図上の展開ならいざ知らず、間近に見たら恐らく多くの人が言葉を失うに違いない。それは常識を超えているからだ。もちろん良識も。政治家以外にその風景を正当化できない。ともあれ日本の風景は日本人自身によって無責任という空間に変換され続けている。大人は子供にこう説明することになるだろう。「ごらん、あれが無責任だ」「じゃあ、これは?」「もちろんそれも無責任だよ」

治部坂峠を越えてしばらく走った頃、重要な施設も人家もない山の中、突然現われた非日常的な標識に目を疑った。「テロ警戒中」である。今を盛りの夏の山、青い空、一本の道路.・・・この設定で何がおこる?このあたりで最強はツキノワグマのはずでは…

まさかと思うが、この橋脚のアルカリ骨材反応による崩壊が起こったらテロだろうか?それにしても誰が何を警戒するのだろう?

2004817高木

差別と嘘の59

 

「遺伝子組み替え大豆は使用しておりません」と表示された市販の豆腐のうち約6割から、組み換え大豆の遺伝子が検出されたと国民生活センターが発表した。

 車、食品に限らず、官・民問わずに、嘘がまるで震災後の壁土のようにはがれ落ちる。連日、何かについての嘘がバレた報道ばかりだ。

イラク侵略戦争が嘘によって始められ、嘘がバレたにもかかわらずに、10,000人以上の無辜のイラク人を殺戮したことも糾弾されぬまま、チャンスとばかりに派兵し、あろうことか多国籍軍に参加した日本が、嘘でかためた社会であるこのは必然かもしれない。

ほんの2ヵ月程前、この国は「自己責任」という言葉が喧しく飛び交っていた。言うまでもなくイラク人質事件だ。政府発の「自己責任」というキーワードが読売新聞・産経新聞をはじめ週刊誌やテレビで増幅され、政府に逆らう非国民としての人質3人(なにしろ反戦なのだから)は、完膚無きまで叩かれた。

この国の閉鎖社会だけで考えれば3人は再起不能に等しかった。しかし圧倒的多数の付和雷同全体主義者ばかりではなかった。地道に民主活動を続ける個人やグループと海外を結ぶネットワークの連携や、海外のメディアが伝える「人質事件」の国際的視点が3人の客観的立場を明確にした。なんとあのパウェルでさえも。

日本における非国民は、国際的には善良なる市民であり、むしろ日本人が誇るべき人たちだった事を、多くの日本人は海外から知らされるまで気付くことさえなかった。人質事件発生直後にインターネット掲示板には、3人とその家族の誹謗中傷が激しかったという。

「生きたまま火あぶりだ」「チーン」「バーベキューが楽しみ」「費用を払え」など。

あれ程、「自己責任」と騒いだ連中はいったいどこに消えたのか?この国特有の健忘症だろうか。そもそもイラク侵略の支持と参加を続ける政府の自己責任はどうなった?

 嘘が構造的に組み込まれた社会は検証を不能にする。それゆえ反省の機会は欠落したままだ。

新自由主義の原理として「自己責任」が弱者・敗者に強要される。文字通りの上意下達だ。この一方通行の不条理のなかでは上に向かう「自己責任」の追求はない。弱者が社会全体を告発する機会を奪われ、かわりに、ひたすら自分よりも弱い者を探してスケープゴートにする。「2ちゃんねる」がなぜ異様に人気があるのかは、この国の現実のありようが決めているのだろう。個人でなく国民を強要され、匿名で、数字でしか、生きられない社会。

弱者であるのに、強い者権力側に立った物言いを良く聞く。徹底的に管理されているのに、すっかり管理する側になり変わり、権力と一体化した幻想さえ抱く場合もある。さらに昂じた末、巷に飛び交うようになるのが「国益」なる言葉だ。こうなれば全体主義も完成だ。

「甘えるな、もっとがんばれ」という声が、すでにがんばりようが無いところまで追いつめられた人々に浴びせられる。

「住基ネット」稼動後、システムに侵入され「部落」に関するデータが盗み出されてネットに流されているという。圧倒的非対称を実行する米国の属国が非対称を共有するのは必然なのか。勝ち組と負け組の極端な格差がまるで問題にならないという異常がここにある。この国では年間34000人以上が自殺に追い込まれている。

大人の社会をモデルとする子供たちに例外は許されない。さまざまな「普通の子供たちによる残虐な事件」のなかでも象徴的なのが野宿者襲撃だろう。起こるたびにアフガンの米軍、イラクの米軍を想起するのは共有する原理がそうさせるに違いない。すなわち「圧倒的非対称」だ。奇才ポール・バーホーベン監督の「スターシップ・トゥルパー」が描く世界。戦う相手はまさに昆虫以下。ここでは戦うという感覚はすでに失われて、「駆除」という感覚だ。相手は対等の立場には無い。とにかく圧倒的な差別がある。

埼玉新聞記者吉田俊一が「ホームレス暴行死事件」(新風舎2004)で20021125埼玉県熊谷市で起きた事件をルポルタージュした。あとがきによると、事件後に全国紙の支局に匿名の電話が相次いだという。「よくやってくれた」「新聞やテレビはなぜ少年たちを悪く言うのか」複数の中学生が無防備なひとりの野宿者をなぐり殺した事件に対して、である。

この国を貫通する排除の論理は殺人をも許容している。消えないようにしっかり守ってきたのは平和の灯などでは決してなく、まぎれもない差別だった。全体のゆがみを糾弾するかわりに、常に弱者を探して、自分が受け、感じている以上にイジメ抜くこと。これ程、米国主導の戦争に整合する社会があるだろうか。しかもそれぞれの無残なイジメの事件が構造的に解明され反省されることがないために懲りることなく繰り返される。

戦争肯定の流れが密かにバイパスしているのは、(負けること、傷つくこと、死ぬこと)だ。それゆえこれを暴露する事は決定的に重要だ。無言のまま負けてはいけない。無言のまま傷ついても、死んでもいけない。非対称、アンフェアで一方通行の社会は、隠され、否定された価値観で逆流する可能性がある。弱者が弱者であることを胸を張って宣言すべきだ。下層にこそ希望がある。身ひとつで可能なこと、命ドウ宝。

サッカーのアジア・カップで日本代表が中国人観衆から激しいやじを浴びた。国内問題で片付けられてきた歴史問題が、中国の国内問題との格差ゆえに激しい反発を起こした。中国の反日教育のせいばかりではない。小泉首相の靖国問題をはじめ起こるべくして起きた、あるいは根本的にさかのぼれば、日本が引き起こした問題といえる。

「スポーツに政治を持ち込むな」という言葉がどこからともなく聞こえてくるが、「政治にスポーツを持ち込むな」の間違いではないか。アンフェアな政治を続行させながらフェアを説く資格はないだろう。

だいたい、五輪招致で買収疑惑がばれたばかりだ。オリンピックがフェアだなんて誰が信じるものか。しょせん金の世界にすぎない。スポーツ云々の前にフェアな世界をつくるのが先決ではないか。日常のストレスやルサンチマンをスポーツという代理戦争で発散させるガス抜き効果を権力者、勝ち組がせせら笑っているのが見えないだろうか。彼らにとっては本物の戦争も代理戦争も変わりはない。人が死ぬのもゲームにすぎない。彼らの血も汗も涙も流れないのだ。

ともあれ、「戦争放棄をうたう平和憲法」の表示にもかかわらず遺伝子組み換えにより確実に戦争国家に変貌し続ける日本がある。これでは安全な売り物になんかなるわけがない。まるきり詐欺ではないか。

2004.8.6高木