「完全に訓練どおり。考える間もなかった」
同類である人間を殺すことに、本来人間は強烈な抵抗感を持っている。言うまでもなく(殺人)は最悪の犯罪として社会的に糾弾されるのだ。ところが戦場で兵士が敵を殺すことをほとんどの人間が当然と考えている。誰もが見逃しがちなこの矛盾を元米陸軍中佐、陸軍士官学校教官、アーカンソー州立大軍事学教授などを歴任したデーヴ・グロスマンが詳細に分析・研究した。(『戦場における(人殺し)の心理学』ちくま学芸文庫2004)
「戦時下国家の基本的目的は、敵のイメージをはっきりさせ、敵を殺すことと、たんなる人殺しとを峻別することである。」(グレン・グレイ)
軍事訓練がどれほど重要かは、人間を殺すことの強烈な抵抗感をなくし、思考する間も無く反射的に殺人を可能にすることにある。「完全に訓練どおり。考える間もなかった」(ベトナム帰還兵)
第二次大戦における兵士の発砲率(銃を撃てない兵士が多かったという)は新しい訓練法により朝鮮戦争では55%に上昇し、さらに新しい訓練法でベトナム戦争では95%に昇ったという。この殺傷率の上昇をもたらしたのは(脱感作、条件づけ、否認防衛機制)の三つの組合せだった。敵は自分とは違う人間だと差別、パフロフの犬がベルの音を聞くだけで餌がなくても唾液を分泌するように条件づける。そして戦場でのあらゆる殺人状況が練習され、視覚化され、条件づけられ、リアルで複雑な標的が使われる。殺人訓練をえきるだけ現実に近づけ、標的はできるだけ人間らしくする。さらに殺人のプロセスを何度もくりかえす(ルーティン化)結果として、たんにいつもの標的をとらえただけ、と思い込めるようになる。敵は撃たれて当然の無法者と思い込む(軽蔑の製造)ことで自責を感じないようにする。訓練、演習が殺人マシンをつくるわけだ。
こうした脱人間性プログラムともいうべき訓練をこなし戦争に勝利したところで兵士を待っているのは平和ではない。
「考えれば考えるほど、戦争とは人間が参加しうる最もトラウマ的行為のひとつと思わずにいられない。ある程度の期間それに参加すると、98%もの人間が精神に変調をきたす環境、それが戦争なのだ」
ベトナム戦争に従軍した280万人の兵士のうち18〜54%がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいるという。ベトナム帰還兵に恐るべき自殺の頻発、痛ましいほどのホームレス化、薬物乱用が起きている。離婚率が高く、何十万という不幸な家庭をうみ出し、崩壊家庭の子供は性的にも精神的にも虐待を受けやすく、両親が離婚した子供は自分も離婚する傾向が強く、児童虐待の犠牲者は児童を虐待するおとなになる傾向が強いという。
グロスマンは戦争の長期にわたる負の遺産・代償に気付くべきと警鐘を鳴らす。
以前、私も指摘したことだが(殺すこと)の抵抗感は相手との距離に比例する、とグロースマンも語っている。物理的、心理的、文化的、倫理的な距離が罪悪感を薄め、無くすために働く。現代戦がTVゲーム化する必然性がここにある。湾岸戦争以後のピンポイント爆撃の映像には死体のかけらも見出せないし、悲鳴も聞こえないのだ。
殺人という事実は堂々と、そして巧妙に否認されてしまう。ブッシュやラムズフェルドのスーツやワイシャツに血が飛ばない事は重要だ。戦場の兵士も、本国で偉そうに命令を下す者も、そして銃後の国民も、爆撃され、銃撃されて皮膚が裂け、肉がえぐられ大量の血液とともに内臓が飛び出し、うめき、痙攣しながら絶命するまでの地獄絵を見ずに済むことが(人間を兵士が殺すことは当り前だ)という感覚を支えている。話がそれるが、なんと、屠殺場の家畜と似ていることだろう。誰も現場を考えないが肉食とはこういう事だ。現代戦では戦闘は基本的に夜間に行なわれる。赤外線暗視装置のゴーグルを使うと、標的が人間らしさを失う。「テレビを見ているみたいなんです。人間を見なくてすむのがあれのいいところだな」
航空祭の当日、自衛隊浜松基地に米空軍サンダーバーズ・アクロバットチームの飛行中止、イラク派兵撤退要請の抗議・申し入れに参加した。基地近くのスナックに「イラク復興支援自衛官の無事帰還を祈る」という文章が貼り出されていた。横には黄色いハンカチもセットされている。常連客の自衛官が派兵されたのだろうか、それともオーナーの「思い」なのかはわからない。しかし、まぎれもない「銃後の風景」がここにある。そこにイラクの人々の無事を祈る言葉は無かった。ブッシュ政権が公式に「大量破壊兵器は無かった」と開戦の大義を自己否定したにもかかわらず、侵略戦争は継続している。すでにイラクの人々15,000人が殺された。何をどう取り繕ったところでこの事実は変わらない。この大量虐殺の加害者側として私たちが有形無形の代償を支払うことになるわけだ。言葉遣いに客観性を持たせるならば、イラク大量虐殺支援ではないだろうか?
どう考えてもイラクから撤退すべきだ。
そもそも経済破綻国家が巨費を軍事に使うなど根本的におかしい話ではないか。たとえば食べてゆくのがやっとの私が、勝手にオートバイの新車を買ったら、その日のうちに妻に殺されるだろう。それも消費者金融だったりしたら。
グロスマンの言葉に戻ろう。「すべての人間は分かちがたく相互に依存しあっており、一部を傷つけることは全体を傷つけることだと理解する力が、個々の人間のうちに本能的に備わっているとしたら」
「殺人への抵抗の大きさを正しく理解することは、人間の人間に対する非人間性のすさまじさを理解することにほかならないのかもしれない」
ところが、米国とその文化的影響を受けた社会では「ランボー、インディージョーンズ、ルーク・スカイウォーカー、ジェームズ・ボンドのうえに築かれた文化は戦闘や殺人は平気でできると信じたがる」
50年代から60年代にかけてアメリカのハイスクールの生徒たちは学校にナイフを持ってきたが、今日では22口径を持ってくるという。(貧困、差別、銃)は昔からあったが、人間のほうがエスカレートした。同種の生物に暴力を及ぼすことへの抑制が、社会に蔓延する体系的プロセスによって破壊されつつあるとグロスマンは指摘する。「第二次大戦の兵士の発砲率が15〜20%だったのにベトナムでは脱感作、条件づけ、訓練の体系的プロセスによって95%を維持」
これとよく似た事が一般社会で現われはじめた。子供たちはこのプロセスに無差別、無防備、無制限にさらされているわけだ。子供たちがむさぼるように読むマンガには、セックスと暴力のなんでも可能な世界があり、子供たちは未体験の領域をまるで充分知り尽くしたかのように、現実と仮想の境界を自由に往来しながら楽しんでいる。その分だけコミユニケーション能力を犠牲にしながら。ゲーム脳の研究は重大な問題の入口だ。
「どんな社会にも盲点がある。直視することが非常にむずかしい側面と言い変えてもよい。今日の盲点は殺人であり、一世紀前には性だった」
この国の老人以外のほとんどが(しかも今のところ兵士も含めて)殺人を経験していないという事実がある。あたかも童貞がセックスについて語る如き情況において、戦争が殺人であるというまぎれもない事実をもう一度思い起こすべきではないだろうか?
「戦争の実態はまさしく殺人であり、戦闘での殺人は、まさにその本質によって、苦痛と罪悪感という深い傷をもたらす」実戦の経験者、戦闘訓練の心理学者としてのグロスマンの言葉は重い。
2004.10.8 高木
齟齬
「プーチン大統領になってから、チェチェンでは約20万人が殺された」10月10日、SBSラジオで何気なく耳にしたものだ。それにしても小学校体育館の人質事件のみが強調されたが、ロシアがチェチェンで何をやっているかを日本人のほとんどが知らない。報道されないからだ。SBSラジオの言葉はチェチェンに詳しい女性が語ったものだが、インタビューしていたパーソナリティーは愕然としていた。
「9.11に世界貿易センタービルで犠牲になった人々のほぼ同数が、毎週ダルフール(スーダン)で亡くなっていることを忘れないでほしい。人権監視団体によると、8月にイスラエルは戦闘員を含めて42人のパレスチナ人を殺した。世界保健機構(WHO)によると、同じ間にダルフールではイスラム教徒の1万人以上が死んでいる」(04.9.28朝日)
私たちに届く情報はきわめて限定的で、しかも各々の恣意的な選択によってさらに少なくなってしまう。たとえば、(私とは関係無い)などという理由によって。だが多くの人々がその極端に少ない情報によって世界を(平気で)語るのだ。かくして事実から程遠い情報の偏向が悲劇を生みつづける。巧妙に仕組まれたアンフェアを暗示するかのような小さな記事があった。
「米大統領選第一回政策検討会で、ブッシュ大統領の上着の背中に長方形のふくらみが見つかり、無線受信機とイヤホンで選挙参謀のカール・ローブ大統領顧問の助言を受けているのではないか、とのうわさが流れた」(04.10.10朝日)
本来は平坦な背中に角ばったふくらみがあるのは不自然だ。まるで9.11のWTCに突っ込んだ旅客機の腹に異様なふくらみが映っていたのと同じではないか。どちらのふくらみも悲劇をもたらすことにおいて同じ機能を果たしている。16000人ものイラクの人々を虐殺したイラク侵略戦争の大義が失われても平然と大統領を続けられる国と、論理破綻などおかまいなしに追従する忠犬国家にはすでにつける薬は無いのかもしれない。
「自衛隊は人作りの場。日本人としての基本的な考え方を教えるのが務め」「イラクで活動する後輩を見ると、自衛隊の教育は間違っていなかったと思う。見ず知らずの土地に溶け込み、各国の軍隊と対等に立派に任務を果たしている」(04.10.14静岡)共に退職した元・自衛官の言葉だが実態を反映しているだろうか?
「サマワは、もともとセメント採掘を産業として発展してきた。2003年のイラク戦争で操業停止。日本の援助でなんとか工場を再建したいと言っているが、オランダ軍、自衛隊も何も手をつけていなかった。やはり、政府がサマワに自衛隊を送った本当の理由は他にあるとしか思えない」(『自衛隊のイラク派兵』渡辺修孝、小西誠、矢吹隆史 04 社会評論社)
同書において渡辺は、サマワ市民は一日に一人コップ1杯分の水しか自衛隊から供給されないこと。フランスのNGOが現地でイラク人を雇ってムサンナ州全域に水を供給。自衛隊がイギリスの警備会社のガードマンに警護されている、など貴重な現地報告をしている。そのうえで「別に支援するのは自衛隊でなくても問題ない」と論理破綻を指摘する。憲法を無視して強行された人道復興支援が名ばかりで国民を愚弄するものだったら…
報道規制をしてまでイラクにおける自衛隊の活動を国民に知らせずにおくことは渡辺の見解を裏づけるものでしかない。すなわち「自衛隊はそもそも組織的には戦闘集団である。現地の派兵部隊が、どんなに住民と有効な交流を築いても、日本政府は初めから自衛隊を(軍隊)としてイラクで展開させ、その実績を(復興支援)の内容にすりかえる認識だったのだろう」
ベトナム戦争中、C・C・R(クリーデンス・クリア・ウォーター・リバイバル)というロックグループが(金持ちのために貧乏人が戦争に行く)という内容の歌を歌っていた記憶がある。米国はベトナム戦争に学ばず、属国日本も然り、ということだ。1970年頃と比較して世界は良くなっただろうか?複雑な問いに答えは「ひとつ」ではない。だが確実に言えることは自由が消えたということだ。もちろん、そうとは思えないと感じる人間が激増したことでもある。それだけ管理が進んだということに他ならない。
「自衛隊のイラク派兵」において、一般にほとんど聞こえてこない自衛官の本音が語られている。
「おおっぴらには言うなよ。絶対反対だな」「首相が言ってる事があからさまに矛盾」「今の出兵なんてアメリカの飼い犬状態」「俺は反対」「本当にイラク国民のこと考えている人が何人いるんですかね」「アメリカの尻拭いだな」「どう思うって?…反対。イラクの写真集見たことある?ひどいよ」「戦争自体がくだらないって思う」
そして何よりも自衛隊内で詭弁がまかり通っているのが劣化ウラン弾についてである。
「劣化ウラン弾ですか。日本は使わないはずですが」「劣化ウランさわるの。えっ」「放射線濃度だかなんだかが低いんだそうです、サマワは」「劣化ウランは全然大丈夫っていう教育ありましたよ(笑)。あれはちょっとウソくさかった。じゃ湾岸戦争のあれはどう説明するのかなって思いました」
市民の反戦の声に神経質、過剰に反応し、よりいっそう自衛隊を閉鎖系に固め、都合良い情報で隊員を教育して派兵を強行する。では自衛官の生命に責任を持てるのか?無事帰国を果たしたとしても被曝を免れる保証は無い。原発の炉心近くの作業を電力会社社員がやらずに下請作業員が使い捨てにされるのと同じ構造だ。10月14日、この国がいかに被曝者に残酷かを示す判決が出た。ブラジル在住の日本人被曝者3人が時効を理由に被曝者援護法に基づく健康管理手当を支払わないのは不当として、広島県に約290万円の支払いを求めた訴訟に対して、地裁は請求権は消滅していると棄却した。時効制度の趣旨に反し、法的安定性を欠くからだそうだ。この国の裁判が国家より人間を大切にしたケースはほとんど無い。ましてや世界一の核大国の属国であることにより、被曝認定に関してはなおさらである。
劣化ウラン弾について情報を持つ立場からみたら恐ろしい程の無知を強要されながら被爆地に赴かされる隊員たち。「教育」とは人間をいかなるものにも変容させる力をもっているということだ。閉鎖的かつ偏狭な日本の教育と、同心円を描くが故に質的には同じでありながら軍というものが要求する反生命的な教育がうみ出したのは、はるかにレベルの高い無知による無謀きわまりない超克だった。命に影響を及ぼす可能性のある場合こそ公正公平な、そして多様な情報があって然るべきだ。それが満たされないならば教育でなく洗脳と言い換えるべきだろう。差別し、嘲笑している北朝鮮と変わらないではないか。
現職自衛官矢吹隆史の悲痛な言葉に耳を傾けよう。
「自衛隊の問題、隊員個人の問題を我が事のように考えてくれる市民団体があったとしても、肝心の接点がないということです。おこがましいようですが、お願いはこれです。接点を増やしてほしい。別に隊員がみな反戦と平和を願うひょうになればいいなどと考えているのではありません。情報だけは、平等に与えられ、考える余地を手にしなければと思うのです」
2004.10.14 高木
「前夜」
戦争が殺人であることは自明である。殺人が社会的に非難され糾弾されるものであるにもかかわらず、戦争という大量殺人が同一の社会において肯定されてしまうためには集団的な幻想の共有があるはずだ。(すり変えと言ってもよい)
戦争の歴史とも言える人類史とは、本来不可能な殺人を肯定するための言説の羅列だったのかもしれない。そのためには特定の人間を人間と認めないためのキーワードが必要であり、すべての人間が共有する「人権」を恣意的に適用することで実現される。恣意性を社会に増殖するための培地として「差別」が用いられるのだろう。
全体主義的傾向、弱肉強食の公認、漠然とした不安感など最近の日本社会が醸し出す空気が、戦争の前夜を想わせる事は言を俟たない。
右傾化した社会には差別発言が抵抗なく浸透する。そこにおいて思考停止は、きっと善よりも悪に親しみを覚えるのだろう。困難に遭遇した時のパスワードは「私とは関係無い」だ。これで個別の関係が消滅する。責任を負わなくてもいい、と錯覚するわけだ。
日本で最もブラジル人、日系ブラジル人の多い浜松で、外国人労働者との共生を目指して活動する「へるすの会」が定期的にニュースレターを発行している。(No.141)におけるテーマは外国人差別だ。巻頭言として粟倉代表が「管理社会への警鐘」と題して、バブル崩壊後の経済不況において管理が強化されていること、入管の(通報メール)が市民による密告の助長であること、厚労省の介護保健制度と支援費制度の統合により、社会的弱者への負担増、切り捨てと管理強化という、福祉の否定ともとれる公的動きが危機感を持って指摘された。
また、へるすの会14周年記念講演として自由人権協会の旗手 明氏の話を紹介している。
石原都知事をはじめとする高位公務員のゼノフォビア(外国人排斥)の動き、マスコミ・警察による動きについて、実際の凶悪犯の増加傾向の分析では、外国人の犯罪増加が治安強化の原因とは考えられないこと、報道のあり方と公権力の人権感覚に問題があること、など。
「外国人差別ウォッチ・ネットワーク」が(「外国人包囲網」治安悪化のスケープゴート 現代人文社ブックレット44)を出版した。前出の旗手 明をはじめ、アムネスティ、研究者、弁護士など多彩な顔ぶれが最近の日本の外国人差別について詳細に論じている。不況下の日本社会では治安悪化が強調される。特に少年犯罪と外国人犯罪だ。だが実態と報道に乖離はないだろうか?外国人犯罪の報道が90年代前半から目立つようになる。これはバブル期に円高と労働力不足を背景に来日した外国人労働者を、景気後退で労働力不足解消期に日本から排除しようとした政府のキャンペーン時期と一致する。それが警察などの公的発表の検証も無いまま、たれ流すメディアにより「外国人=犯罪予備軍」というイメージ増殖を果たした。
「中国から就学とか学生とかいって入ってくるけれども、実際はみんなこそ泥。みんな悪いことやって帰るんです」(松沢神奈川県知事)
「不法滞在者など、泥棒や人殺しやらしているやつらが100万人いる。内部で騒乱を起こす。歌舞伎町は第三国人が支配する無法地帯」(江藤衆議院議員)
「日本人ならこうした手口の犯行はしないものです」(石原都知事)
浜井龍谷大法学部教授によれば、戦後日本で現在ほど犯罪や治安が大きな社会問題となったことはないという。しかし、治安悪化を謳う政府の文書も、その根拠は何も示されていない。さらに世論調査では回答者の多くが自分のまわりではそれほど悪化していないが、日本のどこかで治安が悪化している、と感じ、報道によって不安を感じている者が最も多いという結果だ。あきらかに情報操作と煽動ということだ。
また樋口徳島大講師によれば、外国人とつきあいがまったくない場合、外国人の増加に反対となる傾向が強く、少しでもつきあいのある場合は逆転するという。これは外国人ばかりでなく野宿者についても同じことが言えることだろう。
接触がなく、外国人が匿名の存在の場合、多くの人が排斥派になる。(共生よりも排斥に流れやすい構造がはじめから存在している)未知の者が最悪の敵に容易に変化するということだ。知らない事、知ろうとしない事は無実の相手を凶悪犯にしてしまう。日本人が陥り易いことは言うまでもない。
樋口のつぎの指摘は、現在日本人が避けて通ることが出来ないものだ。
「国際的に見れば、日本は極右に寛容な国として映るだろうが、それを自覚している人はどれほどいるだろうか。排斥の社会心理をこれ以上ひろげないためにも、極右を極右として捉える視点を持ち、その危険性を認識しなければならない」
そういえば、ペルー政府からの再三の要求にもかかわらず、日本政府は国際指名手配されたフジモリ元ペルー大統領をかくまい続けている。
2004年6月、米国務省報告書で、日本人は人身売買に対する法整備や被害者保護が最低基準を満たしていない、として「監視対象国」とされた。あの米国に、である。
師岡弁護士によると、2002.9.17の日朝会談以降、全国で在日コリアンへの暴力・嫌がらせが激増した。関東地方の全朝鮮学校(初・中・高)で9月17日以降、5人に1人が被害を受け、とくに女子・低学年と、より弱い立場が狙われている。中級では女子の3人に1人が被害。
加害者は7割が男性。半数以上が中学生までの子供。日本人の若い世代に排外主義が浸透している。師岡弁護士もまた、歴史がくり返されることに危機感を募らせている。言うまでもないが、行政・軍隊・警察の一部の流言蜚語による、1923年9月の関東大震災における多数の日本の民間人による数千人以上の朝鮮人虐殺事件のことだ。
差別・排外主義が戦争を支える大きな要因であることは確かだ。そのことに無自覚な国が内部に差別を蔓延させたまま、声高に「人道復興支援」を叫ぶのは滑稽きわまりない。
10月8日、サマワ中心部で、日本が建てた友好記念碑が爆破された。記念碑はイスラムの象徴の星と日本をあらわす灯篭を組み合わせたデザインだが、爆破されて跡形もなくなったのは灯篭の部分だ。人道復興支援が国内で大合唱されるにもかかわらず、イラクの人々の回答は象徴の爆破だったということだ。素直に受け止めるべきだろう。
報道された映像では灯篭が消えて抜けるように拡がった青空が印象的だった。
冒頭で、戦争の前夜という言葉を使ったが、最近創刊された季刊誌「前夜」を拝借したものだ。編集呼びかけ人である哲学者高橋哲哉の言葉である。
「近代日本国家は、戦争と差別を通して造り上げられたのだ」
実態の無い不安をあおることで差別も戦争も可能となる。
2004.10.22 高木
安全保障と優先順位
一人の男の子の92時間ぶりの生還に日本中が沸いた。新潟県中越地震で皆川さん母子3人の乗った乗用車は道路の巨大な崩落により2〜3mもある無数の岩に埋没してしまった。捜索でなんとか発見されたが二次災害の恐れのため救出が難航。残念ながら母親と女児は死亡が確認された。
この地震で10万人をこえる避難者が発生。インフラも完全にストップした。近づく降雪期を前に厳寒生活を強いられている。それにしても6000人以上の犠牲者を出した阪神淡路大震災に、この国は一体なにを学んだのか?
「政府には自衛隊の偵察を通じて23日夜から被害状況が報告されていた。しかし非常災害対策本部を立ち上げたのは、ノンビリしたもので、翌24日朝になってから。それもテレビで被害状況が想像以上と判ってから。この10時間近い遅れが準備不足を招いてしまった」(軍事ジャーナリスト神浦元彰 日刊ゲンダイ04.10.27)
新潟はどう考えても「戦闘地域」じゃないはずだが・・・
同紙において地質学者生越 忠氏は政府のいくつもの失態を指摘。
「この地方はいつ大地震が起きても不思議でない。でも柏崎に原発があるので御用学者が警告を怠り、広報が足りなかった。もともと地盤が軟らかい。軟らかいと断層が一回目の地震で切れず、大きな余震が続くもの。それが判っていながら余震の警告が不十分だったし、地滑り対策も不十分だった」また、新幹線や高速道路優先の政策も批判する。
小泉政権は、憲法違反のイラク派兵に403億円を拠出している。派兵延長でさらに135億円投入するという。また、テロ特措法に基づくインド洋の自衛隊派兵を来年5月まで半年間延長することで40億円拠出を決めた。例の、米英戦艦などにタダで給油してあげるやつだ。あれやこれやの防衛費の物入りで、消費税値上げなど、増税の話が出てきた。そらみたことか!
世界の自然災害による死者は03年度、計6万7827人で増加傾向にあるという。
何かおかしいと思えないだろうか?実態の無い不安が煽られ、(テロとの戦い)は永久に続くかの如く錯覚させられ、不況下でありながら低所得者が身ぐるみ剥がされて、医療や教育の機会を奪われてゆく。本来人為の世界はコントロール不可能ではないはず。だが自然は操作できない。
そもそも外交とは、戦争を回避するためのあらゆる努力のはずだが、対米追従以外において思考停止するのでは政府の存在価値が無い。日米関係が対称性を確立してこなかったことと、藤原帰一が指摘する、「日本の平和論は日本人が被害者になることをベースに作られた」「イラクで人がたくさん死のうが死ぬまいが、我々が死なないかぎりいいんじゃないの?」「よそが死ぬんだったら戦争はかまわない」(『不安の正体』金子勝、A・デヴィッド、藤原帰一、宮台真司:筑摩書房)という発想は相補性を持つはずだ。
テレビ画面の向こう側か、こちら側かが運を決める構図。15000人(じつは、10万人という説もある)ものイラクの人々が虐殺される場面に、いったいどれだけの日本人が皆川優太ちゃん程に感情移入しただろうか?その時に日米同盟として、加害者としての痛み、悔恨を覚えていただろうか?おそらく平均的日本人ならば、自覚無き加害者としての存在を共有していたに違いない。
(誰も責任をとらない社会)において信頼が失われるのは当り前の話だ。信頼は正当性の確保によってしか成立しない。監視社会において煽られるセキュリティの崩壊、監視装置の増殖などが相互不信を生み、すべての国民が犯罪予備軍とみなされている。一基1億円のNシステムが次々と設置され、増殖するあらゆるタイプの監視カメラがプライバシーを侵食する。唖然とするのは、ここまで進んだ監視社会を認識できない人々だ。
この歪みの中で育まれた若者たちの表現が稚拙・狭量であるのは、おそらく正当性を命懸けで確保出来なかった大人たちに責任があるはずだ。自由であるはず、自由であるべき若者の表現が、鼻につくほど保守的に思える。生の限界の表現や挑戦を、斜に構えて冷笑することしか出来ないでいる彼ら(と、ひと括りにしたくないのだが)マジョリティを説得、批判すべき立場の大人が、冷笑の仲間に連なることで場をとりつくろう姿は無残でさえある。正当な怒りを忘れた社会は無能な政府の暴政継続を保証する他ない。
大規模災害が発生するとボランティア要請と義援金募集が、官民双方ですっかりパターン化した。「参戦」と「人道」の矛盾も疑えない社会が、本来国家のするべき義務を平然と肩代わりする姿がここにある。
戦争という人災の解決は徹底的に外交努力によるべきだ。つまり言葉の世界で正当性の争いをするべきだ。もっとも現政権のディベート能力がどれ程国際性をもつかは言うまでもないが。
世界一の地震地帯である日本列島における防衛とは最重要課題として地震対策にあたるべきだ。そして増加する台風など。
地震地帯に原発列島という矛盾をまず解消、全国の防災対策を、なによりも利権を解消してゼロからスタートさせるべきだ。
イラクで、加害者側として、自衛官の死を待つだけの派兵をすぐにも撤退させるべきだ。600億円程の費用は、難民が続出している日本列島において国民の安全補償にこそ使うべきである。自衛官の使命は国民の生命と財産を守ることではなかったか。
考えてほしい。たとえば自衛隊が持っている2万発の非人道的なクラスター爆弾や1機550億円のAWACS―4機を保有すること、弾丸を弾丸で射落とす荒唐無稽であり、天文学的金額を投入するミサイル防衛と、現実に起き、これからも起こり続ける災害にかけるべき費用を。
2004.10.29高