使い捨てペットブーム
日頃、ムカつく思いで使い捨てペットブームを呪ってきたが、その思いを代弁してくれる本に出会った。評論家内橋克人が「全身全霊をかけて推薦する」のは九州福岡毎日新聞に籍を置く福岡賢正著『隠された風景−その現場を歩く』(南方新社2004)である。
内橋は書評において、「いまに生きる日本人は(見えないものは存在しない)と錯覚している。暗い現実、陰湿な人権無視、汚れた廃棄物など、見たくないものを隠し、人工の美と善で周囲を飾ろうとする」と書く。
思い起こせば私が脱サラで一念発起、無農薬野菜のやおやをはじめたのはもう16年も前のことだ。無一文で闇雲に活動しはじめたその頃、お母さんと子供たちを集めて、生きたニワトリを殺して解体し料理するプロセスを子供たちと共同作業することで、パックされた肉しか知らない子供や大人と「いのち」を食べるという実感を共有しようとした。やはり「殺すこと」の現実は重く大きい。特に子供たちの反応は期待以上で時が経った現在でも鮮明に覚えている。母親の何人かはニワトリを殺す光景に耐え切れず、遠くから両手のひらの隙間ごしにこわごわと覗き、反対に小さな子供ほど近くで見たがり、中には首のないニワトリに触れてみる子さえいた。死をどうとらえるかという社会への適応度がパースペクティブとなったわけだ。
たしか同じ頃、鳥山敏子著『いのちに触れる−生と性と死の授業』を知った。どちらが先かの問題でなく、現代日本で、巧妙に隠蔽された「死」を、現実に扱うことによってそれが隠された社会がいかにリアリティの無いものであるか、つまり「いいとこどり」の欺瞞性を考察するための問題提起だった。デッチ上げの幻想によって構築された都市神話の解体だ。
『隠された風景』で、福岡の久留米筑水高校の女生徒が、それぞれ自分で卵から孵化させたブロイラーを育て、それを屠鳥、解体、調理して食べるまでの実習を紹介している。ほとんどの女生徒が泣きながら屠鳥し、なかにはうまくゆかず教師に手伝ってもらったりする。他のいのちを奪うことの違和感や抵抗感を味わわせるためという授業の目的は、「いただきます、の本当の意味がわかった」「命の重さを実感した」などの感想文に成果となっている。
福岡の生命観に触れよう。「犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐかわいそうを口にして、すぐ涙を流す子供たちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べ物を捨てるということが、わたしには納得いかないのだ。わたしには、(生きているものを殺すことはいけないこと)という単純な考えが、しかし、他人の殺したものは平気で食べられるという行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」
「人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは殺すことでは決してない。自分の中で生かすことなのだ。いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。なのにそれが混同されている。その混同が差別や偏見を育て、混同に基づく死の隠蔽が食べ物を粗末にし、いのちをないがしろにする今の風潮や自然破壊的な文化を助長してきた」
食べられたいのちが、食べたもののいのちにつながることでいのちは連綿と連なってきた。その昔、生きることが食べることと同義であった頃、人間は、誕生から死に至るまでの過程を各個人が全面的に認識していた。しかし「分業」が始まり、生活の場からいのちを奪う痛みを排除可能になり隠蔽してしまった。いのちを奪う行動を見なくてすむということは実際にいのちを奪っている人の存在をどうとらえるかという問題に直面する。動物のいのちを奪うことは「悪」でありその行為を人任せにした上で飽食と快適を貪りながら実際にいのちを奪っている人々に偏見をむける社会。「いいとこどり」の社会が「生」と「死」のリアリティを失うのは必然だ。
日本人が食べる牛は年間400万頭、豚は2700万頭、鶏は10億羽である。これらの圧倒的総計の「死」によって私たちの「生」が支えられているのだ。そのいのちを奪う行程をおそらくほとんどの日本人が忘却したか、あえて無視して平然と食い続けているわけだ。
そんな飽食を自覚出来ない社会で、「どうして人間を殺してはいけないのか」という恐るべき問いが少年たちから発せられ、大人たちが答えられない状況がうまれている。
「子供たちに生きているというヒリヒリした実感がないことがそれらの背景にあるのではないか。ではなぜ、生の実感がないのか。それは死が隠されているからではないか」(隠された風景)
イラク戦争において米国は戦死した米兵や棺の映像を徹底的に隠した。同時にイラク人の死者数も無視し続けた。戦時国家が「死」を隠蔽し、その上で利用する構造は高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)や『国家と犠牲』(NHKブックス)に詳しい。
遠隔操作として日本の政治がイラク侵略に関与し続けるが、日本社会もイラク人の死体も米兵の死体も見ないままだ。大量殺戮は「死」を隠すことで可能になる。日本の小学生から大学生まで(死んでもリセットできる)と本気で信じている子供が少なくないという。「死」を隠した社会でゲームに熱中すれば必然だろう。何よりも外で遊ばなくなれば、ケガもせず血を見る事も痛みも知らずに育つことが可能だ。新保守主義で勝ち組、負け組が峻別され、下層のストレスが出口を失ったまま限界を迎える。大人たちが負け組のシンボルと教え込む公園の野宿者たちは、きっと殺してもいいのだと思うことを止める決定的な理由を誰も教えてくれない。ふつうの大人が、嫌がって差別し、おまわりさんだって追い出すぐらいだ。かくして襲撃のターゲットとなる野宿者の被害が後をたたない。寝ている無抵抗な弱者に金属バットがふりおろされ、熱湯をあびせ、花火を大量に投げつけ、直接火を放ち、TVやコミックで浴びる程知っている「暴力」をことごとく実行する。相手の痛みを知らなければ、何でも可能だ。アフガン空爆、イラク侵略戦争とどこが違う?
福岡は森岡正博の『無痛文明論』に言及する。「あらゆる心身の痛みを伴う行為を極力回避する方向にこの文明は進んできた。だが、痛みを感じるということは生の証しであり、痛みを感じないというのは、生の実感がないというに等しい。痛みを感じなくても生きられる社会は、生を実感しにくい社会でもある」
家にひきこもり、ケータイとネットによってしか世界と対峙しない人々が増殖し続ける。しかしコミュニケーションがどのように進化しても、残念ながら個人の身体は旧態依然としている。この関係を正確に認識しないかぎり齟齬から発生するトラブルは絶えるはずはない。試しに針で指先を突いてみればいい。それが世界だ。多くの日本人が無関心なままのこの国の行く方は(遠隔操作の殺人)である戦争に向かっている。その遠い場所に何が起こっているかを指先の血が教えてくれる。大丈夫、解かるまで傷口を大きくすればいいだけの話だ。
「人は殺される動物たちを見て痛みを感じる。なぜなら人間には、相手の身に自分を置き換えて考える想像力があるからだ」『隠された風景』
「分業」という概念によれば、政治もそうだ。日本人が政治家に委託した結果が、米軍によるイラク侵略戦争ならば、分業の連鎖は、日本人ひとりひとりがイラク人殺害に責任を負うことだ。さて、米兵が殺したたくさんのイラク人を私たちは食べることが出来るだろうか?
「いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮」である戦争の正当性は虚構にすぎない。ましてや大嘘によって始められ、だからこそ必然的に泥沼にはまりこんだイラク戦争である。「人道復興支援」というまやかしが通用する日本以外では、イラクの自衛隊はまぎれもなく「分業」としての侵略にほかならない。
2005.10.2 高木
「ホームレスなら殺しても構わないと思った」
「『むしゃくしゃしていたのでホームレスを狙った。ホームレスなら殺しても構わないと思った
「小泉政権は、この4年で170兆円もの国債をジャブジャブ発行、郵貯・簡保に大量に押しつけてきた」「郵政民営化は12年先、その間に国債発行が天文学的数字で増え続け、民営化会社は抱えた国債処分もできず大赤字で失敗する」(日刊ゲンダイ05.9.15)
いまさら説明も必要ないと思うが、この国の行方は極端な格差社会だ。セーフネットが機能しない格差社会で、人権、民主主義を期待するのは不可能だ。不況に陥るとき、その社会がそれまで人権をどのように捉えてきたかにより、天と地の差が現われるだろう。
名古屋の野宿者支援団体が発行する「ささじま」No.69は「野宿者の追い立て・排除を許さない4.23全国集会」における都留民子さんの講演「社会的排除と野宿者」を掲載している。ヨーロッパ、特にフランスと日本のホームレスの違いを指摘、「人権」の社会的理解により両国の正反対の結果があり、日本社会の異常さを浮き彫りにする重要な資料であるため、以下、要点を記す。
日本のホームレスは、失業者のことを指している。フランスでは、薬物依存症、家出人(10〜20代)、DVによる障害者など。
戦後、ヨーロッパの多くの国で日雇を禁じた。移民も正規労働であり、労働者は(フルタイム労働、社会保険、失業保険、年金、健康保健)が保障される。誰でも失業したら失業保険があるので(失業→野宿)にはならない。ヨーロッパでは6ヵ月加入すれば失業保険は無期限。
フランスでは55才以上は求職活動しなくても無条件で失業保険が出る。失業保険が切れたら年金が受給できるまで無条件で生活保護が出る。そして60才になれば年金が出て自動的にずっと社会保障で生活できる。
日本では、高度成長期に経済成長を支えた多くの建設労働者を(仕事があるときだけ使う)という不公平な雇用を労働行政が放置してきた。本来なら、景気後退期こそ配慮すべき社会保障(生活保護)をしないままだった。
日本では年金をもらうため25年間掛ける必要がある(仏は3ヵ月)。さらに、満額受給するためには40年間掛けなければならない。ヨーロッパでは、日本のように常時野宿する人はいない。日本の野宿者は高齢で援助を求めても拒否される実態があるが、ヨーロッパでは考えられない。ましてや野宿者への暴力、襲撃はほとんどない。それどころか非常に連帯意識をもっている。つまり、失業問題は社会の問題であり、自分たちの問題であるという意識だ。すなわち、社会保障制度が充実している状況とは、どんな人でも働けなくなったら社会全体で援助するという連帯感をうみ出している。(まず、社会保障。そこから就労支援が出てくる)
フランスでは高齢者はいつまでも働きたくないというのが彼らの要求であり、そのかわり、社会活動することで自分の尊厳を守れるだけの活動を保障しなければならない。
日本では、現実に「自立支援」という名目で生活保護から追い出そうとしている。まず、権利としての生活保護を確立すべきだ。現在、失業者は300万人。派遣やパート、アルバイトという非正規社員が異常に増加する状況で生活保護から遠ざけようという方向はおかしい。野宿者、失業者、高齢者などに、本来なら受けられるべき生活保護から漏れている人たちが、現在の受給者の10倍はいるばず。
なるほど、そういうことだったのか。私事だが、フランスに30年以上住む妹の夫が、少し前、勤めていた広告代理店をやめた。娘が大学生なので「大丈夫か?」と聞くと、「大学はタダだもん、続けるよ」の返事。日本では考えられない。失業率も10%というが、さほど暗いムードでなく、むしろ日本の身内のほうが落ち込んだのは、同じ失業でも国が違えば意味が違うということか。ホームレスが話題になっても、「みんな小銭あげたりしてるよ。当り前じゃない」と若者による「襲撃」の話題など出すのも恥ずかしくなる始末だ。もっとも不況がさらに深刻になったらいくらフランスでも人権・民主主義を持ちこたえることができるかわからない。不況+石油(エネルギー)ショックは予想以上の地獄をうみ出すはず。あまりにも石油に依存した分だけ、脱出法が少なすぎるからだ。
日本の話に戻ろう。「生活保護は憲法25条に定められた『国民の生きる権利』を保障している。その制度の責任が国にあるのは明らか。ところが、三位一体改革論議で生活保護財源を国から地方に転嫁する動きが出てきた。制度の趣旨も国の責任も度外視している。こんな論法で生活保護受給率を引き下げようなど本末転倒だ」(
末期癌患者の、藁をも掴む思いを食い物にした「アガリクス本商法」の完治体験記が、実はすべて捏造だったことが判明した。監修者の名誉教授は、薬事法違反と知ったうえだった。儲かれば人の命など構ったことはないというわけか。名誉教授って何だ?
悪質住宅リフォーム業者「サムニングループ」による詐欺事件では、たくさんの無知な高齢者が高額を騙し取られていた。このグループは靖国神社で宣誓式を行っている。全員黒のスーツ姿で立ち、大声で「人にたいして鬼になることを誓います」「人にも自分にも厳しくすることを誓います」などと絶叫していた。キリスト教の教会や仏教の寺でなく、ましてやイスラム教のモスクでは絶対になく、彼らが靖国神社を選んだことを忘れてはならない。その本質が、いかなる美辞麗句を並べようと「命を弄ぶための装置」であることを知っているからだ。
失業、貧困、野宿、絶望的高齢者、福祉切り捨て、「いのち」にとって負の作用がこれから急加速する。しかし痛みや苦しさのリアリティを失った社会では、当事者になるまで問題を認識できない。やかましいテレビ番組にのめり込めばすべて他人事だ。
「この体制はまだまだ続きますよ。100年か200年。そして日本は滅びる。私はそう思ってるんだ」「(改憲の)国民投票なんてやるならやって、惨憺たる負けになったらそれでいいじゃないか。それを世界にさらすんだ。日本国民とはこういうものなんだ、おもしろいだろって」(哲学者 鶴見俊輔 05.10.7 毎日)
「日本人なら殺しても構わないと思った」近い将来こんな言葉が聞こえるかもしれない。自国民を食い物にする社会が「平和」や「人権」を口にするのはおこがましい。国内外に敵を創り出す政治が、同時にルサンチマンを育んでいることを多くの日本人が忘れている。「国益」をかざして命を弄び「人権」を嘲笑うなかで、ゆっくりと、しかし確実に下層の呻吟が醸成してゆくだろう。
2005.10.10 高木
世界は嘘で出来ている
世界は嘘で出来ている。うなずく人もいれば怪訝な顔を見せる人もいるだろう。はっきりしていることは、嘘を信じている人にとっては嘘が真実でしかないということだ。きっと、そのほうが身体に良いはず。アメリカンコミックの映画化、ロバート・ロドリゲスとフランク・ミラーによる「シン・シティ」に流れる言葉が本質を突く。いわく「支配するのは力ではない。嘘は人々をコントロールする最良の方法だ」
先日、究極の偽ユーロ札(20ユーロ)が摘発された。なんとホログラムまで完璧で、本物と見分けがつかなくなってしまったためにわざわざ差異を施す必要が生じたという。どちらが本物か分らなくなること、現実と虚構の境がゆらぐ。そんなことが急増している。
大阪の夜の高速道路で、銃撃された車の弾痕は実物の銃によるものと変わらない。限りなく本物に近いモデルガンは、限りなく偽物に近い実物の銃に遭遇してしまったのだ。
インターネット「ヤフー」のサイトを装ったホームページに、共同通信の記事として「中国軍、沖縄に侵攻」「小泉内閣は内閣安全保障委員会を緊急招集した」などと書かれており、問題が報道された19日、共同通信とヤフーに「自分がやった」と
「テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない−アメリカによるテロの歴史」(桜井春彦 三一書房2005)が「本書を、アメリカによるテロの犠牲となった人々に捧げる」と言う言葉とともに9月11日に出版された。ポスト・チョムスキーとも言える労作であり、本来の意味が失われつつあるこの国のジャーナリズムにとってカンフル剤の作用を期待したい。
2005年7月7日、G8サミット開催中のロンドンで、地下鉄が爆破される数分前、ロンドン警視庁はイスラエル大使館に「テロ攻撃」の警告を行った。(AP)米国では、事件直後フォックス・ニュースが事件を歓迎していると受け取れる発言をしたという。
「降伏後の日本を支配したのは、D・マッカーサー元帥が率いるGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)で、ホワイトハウスから独立した存在。総司令部は女性参政権賦与、労働組合結成の奨励、教育制度の民主化を打ち出し、治安維持法など基本的人権を否定し言論、出版、集会の自由を抑圧する法律を次々と廃止。経済面では財閥の解体を実行した。また、憲法問題調査委員会の憲法案が旧憲法の手直しにすぎないと批判。GHQ/SCAPはC・ケーディスを中心に草案を作成。これに基ずき日本国憲法が作成され、施行された。だが、SCAPの民主化政策に異を唱える勢力がワシントンにも存在。SCAP内部の民主化否定派と組み、A級戦犯釈放に結びついた」(テロ帝国アメリカは…)
その後、日本を(反共の防波堤)にする政策に方向転換。マッカーサーは消えてゆく。
1966年、ABN(反ボルシェビキ国家連合)は、アジア人民反共連盟(後のAPACLアジア太平洋反共連盟)と合体、WACL(世界反共連盟)を組織。CIAが深く関与した。APACLは1954年、蒋介石政権と韓国情報機関が創設。児玉誉士夫、笹川良一、岸信介らが関わる。
1962年、CIAを中心にキューバ、カストロ政権打倒を謀ったマングース作戦、ノースウッズ作戦があり、ノースウッズ作戦では、キューバへの軍事侵攻を正当化するために、キューバ政府によるテロをでっち上げる。具体的には、米国の舩を爆破してキューバを非難し、フロリダやワシントンで爆弾テロを実行。最終的には、自動操縦の民間旅客機と、その同型機(クローン)を用意。遭難信号(メイデイ)を発したうえで自爆。キューバ機が撃墜したことにするシナリオだ。
週刊金曜日No.575まで成澤宗男が連載した(「9.11」事件の謎)は、多くの脳天気な日本人が信じる米国大本営発表のシナリオを疑う視点だ。ツインタワー内部にいたウイリアム・ロドリゲスは飛行機が衝突したのが93階から98階なのに地下でものすごい爆発音を聞いている。(だから全壊したわけだ)
しかし、マスコミに話しても放映されず、彼と接触したマスコミ関係者から「黙ってないと命が危ない」など脅された。また30km離れた地質観測所で南棟崩壊直前にM2..1、北棟崩壊直前にM2.3の説明不能な地震波を記録した。また元陸軍伍長マック・ニーブンは、1976年に世界貿易センタービルを標的にして、アラブの過激派が民間機を使って攻撃したと見せかける偽のテロ計画を考案するように命じられた。CIAや上司に、絶対口外するなと厳命されたという。「9.11」後、議員やマスコミに証言しようとしたが、相手にされないどころかFBIの監視が始まった。
極東アジアのキー・パーソンとして活動してきたリチャード・アーミテージは女性問題などでスキャンダル発覚のため2回陸軍長官の座を逃している。CIAは世界各地で麻薬密輸に関係している。アーミテージは犯罪組織と米国政府をつなぐ役目を果たしてきた。ヘロインの取引で儲けた資金はインドシナやイランでの暗殺工作に使われたと言われる。アーミテージは一連の秘密工作で中心的役割を果たしたという証言がある。
1992年、米国防総省が、リチャード・チェイニー国防長官の下、ポール・ウォルフォウィッツが中心となり、世界制覇を目指す国防計画試案(DPG)を作成。この指針をもとにネオコンのシンクタンクPNACが「アメリカ国防の再建」報告書を作成。イラク攻撃が示唆された。アーミテージも名を連ねている。
「ネオコンにとって日米同盟などありえない。米、イスラエルのエリートにとって(都合の良い国であるかどうか)が問題なのである。彼らが最も警戒している東アジアをにらむ不沈空母として日本を使いたいのだ。そこから自衛隊海外派兵や憲法第9条の問題が出てくる」(テロ帝国アメリカは…)
米国防総省は、TIA(総合情報探知プロジェクト)を開発、全世界の人間の監視をめざす。後継のMATRIX、PROMISなどのシステムも同じ内容だ。
マイクロソフトのウィンドウズ2000のセキュリティ機能をコントロールするソフトウェアに3種類のカギが発見されている。第1のカギはマイクロソフト用、第2のカギは米政府の「合法的合いカギ」の可能性、第3のカギは説明不能という。
2001年、ドイツ政府は軍や外交関係に対し、トラップ・ドア疑惑のためウィンドウズをOSとして使用することを禁止した。
「結局、テロ対策を口実として進められる監視システムの矛先は一般の国民に向くだけである」(テロ国家アメリカは…)
「10月17日、
できるだけ新鮮な臓器が欲しい移殖医療産業は、「脳死=人の死」にしないと殺人になってしまうために「心臓死=自然死」であるのに人工呼吸器を与えることで「脳死=人の死」という虚構を宣伝する。移殖は金持ちしか可能性が無い。大金を必要とする移殖以外に助からない人だけが不幸なわけではない。1000円が無くて餓死する多くの野宿者が無視されている。決してレシピエントにはなれないのにドナーは貧乏人でもなれるという不公平を忘れてはいけない。大金が動かなければ産業は成り立たない。強調される善意の裏でほほえむ産業には「嘘」が不可欠なのだ。志織さん、騙されちゃだめだ。
「『臓器移殖でしか助からない子がいます。一方、脳死になったら臓器を提供してもいいと言う善意の人がいます。それでもあなたは臓器移殖に反対できますか』と言っている。『いまお国は存亡の危機にあります。自分の命を犠牲にしても国を救いたいと考える特攻隊の若者がいます。あなたはそれでも戦争に反対できますか』という言説とどこが違うのか」(『臓器移殖、我せずされず』池田清彦 小学館文庫2000)
乱交するプロパガンダと付和雷同の痴態から如何に覚醒するか.… 嘘は想像力の産物である。嘘を見抜くのも、また想像力だ。
2005.10.21 高木
わからん
国家破産、巨大地震、理由がなんであれ、きっとやって来るであろう「貧困」について考えてみる。元来、金儲けに縁が無いたちなので、より私的な話として。
現在56歳だから、ほぼ、敗戦後の日本を経験してきたといっても許されるはずだ。
三方原大地は天竜川による洪積台地だが、そのはずれ(外縁)のガケには無数の防空壕が残り、たまに中で遊んでいた子供が崩れた土砂でケガをしたりしていた。学校が「防空壕立入禁止」にするが、いつの時代も「禁じられた遊び」は大人の考えるリスクをはるかに超える魅力に満ちているものだ(おい大人、おまえだってやっただろう)。いつもと違うジェット音で異変に気づき、近所にF-86が墜落するのを目撃して真っ先に駆けつけて興奮したこともあった。あんな重いのが飛ぶなんておかしいと思ってたからだ。
現在の自衛隊浜松基地は広大だった旧陸軍基地のごく一部を使用している。基地からそんなに遠くない所に家があった。ようするに、ものごころつく頃の風景のいたる所に戦跡があり、当時はそれがどんなものか知らぬまま、あたかも書き割りのように日常の一部だったわけだ。すべてを戦争につぎ込んだ末の敗戦がうみだしたのは当然(貧乏があたりまえ)の社会だった。生きることが食べることに最も近く、皮肉にもその意味では自然な状態だったかもしれない。この頃、多くの人はものの過剰に縁遠く、その分だけ人と人のコミュニケーションが当り前に機能していた。たくさんつくったおかずはとなりに持っていったりした。
小学校時代、同級生には赤貧とも言える家庭がいくつもあった。いわゆる不登校に近い状態の友達の家に、朝呼びに行き木戸を開けたとたん煙で咳き込んだ。いつも魚屋でもらってきたアラを煮ていたからだ。製材所から廃棄された木くずが土間を埋めつくし、炭やマキを買えないのだと子供心に悟った。4〜5人の兄弟の一番上の姉は、出勤前あわただしく凸凹のアルミニウムの洗面器に安い化粧品を水で薄めて使っていた。「迎えに来てもらって悪いねえ」と母親が乳飲み子をあやしながら気を使うが、その奥の煙で良く見えない暗闇に咳をしながら寝ている父親の背中があった。それが私が見た友達の父親の最後の姿だった。しばらくしてその家族は夜逃げ同然に消えていった。
もうひとりの友達は身障者だった。貧しかったために、家は父親が自分で建てたそうだ。水道が無く、隣りの家にもらいに行き、家の中の大きなタンクに貯めて使っていた。飼っていた兎はもちろん食用だが寒い冬の防寒着の材料でもあった。冬が来ると家族皆が兎のチョッキを着ていた。身体が弱く色白で背が低い友達は「お父さんが作った」と言いながら家が倒れないように四方に張ってあるワイヤーにぶらさがるようにして自慢していた。当時、学校を休むと近所の子が給食のコッペパンを届けに行くきまりだった。その子が休みの日、紙袋に入れたコッペパンを届けに行くと、本人は出てこずにまだ小さい兄弟たちがもらったばかりのパンを奪い合った。今考えると、本人はそれを見られるのが嫌で出てこなかったのかもしれない。その後友達は医療施設に入ったという。「お父さんが建てた家」もいつのまにか消えてしまった。
大雑把な表現をするなら、戦争で無一文にされた民衆が必死に生き延びようとした末、セイフネットが機能しないために再びゼロに戻されるという話である。それは敗戦から60年後の現在、またもや性懲りも無く戦争準備が進む一方、先進国として異例な反民主的で穴だらけのセイフネットがこんどこそ致命的に引き裂かれてゆくメタファーでもある。スイッチを切られた想像力のために、被害の当事者になることでしか現実を理解出来ない、しかもそれはすべての選択肢が失われたことに気付く瞬間でもあるというこの国の戦慄すべき現実だ。右肩上がりの高度成長とバブル経済が育んだのは、何の事はない、戦前と変わらぬ「上に対する無条件の服従」と「下を見ないこと」だった。まるで時代がどんどん新しくなるかのごとく感じさせたゲーノージンとユーメージンを巧みにあやつったプロパガンダが功を奏したわけだ。「セレブ」と「ブランドもの」を神棚に供える社会に「人間」の出番は無い。アメリカン・サクセスストーリーは、実は幻想によって格差社会を保障するという意味で日本と通底するものがある。欠陥だらけの制度とその恣意的運用が、公的に差別を保障した。ゆえに野宿者という最下層に「人間」がいることさえ認識できない。政治家を筆頭に「バレなければ何でもOK」のモデルが提示され、忠実に従う建て前だけは善人である親の背中を読む子供に「人間」が見えなくなるのは当然だ。そうやって育まれた価値観で、貧困を社会構造の問題でなく、自己責任と決めつけることで罪悪感から逃れることができる。さらに、主権者として社会参加、政治参加していることから生ずる義務や責任を不問に付すことができる。何よりも立憲主義の何たるかも知らずに民主主義国家だから最も大事な(とされている)選挙に行けば、それ以外は政治に触れなくていい(むしろタブー)という奇妙な社会、そして、上層すなわち金持ちに都合の良い社会が60年かけて出来上がった。民主主義とは皆が「下を見ること」ではないか。「上で笑い声が聞こえる」のはおかしい。かくして戦争を知らない2世・3世議員が支配する稚拙で醜悪、独善かつ下品な社会が、アジアに位置しながらアジアの国々にきらわれ、崩壊しつつある帝国が、破綻にもかかわらず巨大であるゆえの慣性で横暴にふるまうさまを、潤んだまなざしで羨望するという低俗劇は、どう考えても悪夢の終幕を迎えそうだ。
敗戦後の過程を単純に「アメリカ化」とするわけにはいかない。隷属を大前提に、「民主主義」という言葉を都合よく、しかし実際には決して機能させることなく口にしながら、日米双方のあらゆる反民主主義的な交換、交流の末、アジアにおける橋頭堡として構築された米国専用の自家発電型侵略装置ではないか。
「米軍・自衛隊、軍事一体化を促進。MDシステムでの情報共有、共同対処能力向上化、日本が自衛隊、米軍を運ぶ高速輸送艦導入、日本のUAV(無人偵察機)導入、横田基地日米司令部同居、共同訓練充実」(05.10.28朝日)
一体どこから金を出すつもりだ?空母キティホークのかわりに原子力空母を横須賀に配備する話が出てきた。警察と自衛隊の対テロ共同訓練も始まった。「青パト」が民間による危機管理として各地で登場している。平時からの不審者さがしが始まった。核バンカーバスターを今回はあきらめたようだが米軍の予防先制攻撃が有事を誘発させる。日本全体が対テロ戦争にむけて再編されるいま、「国民保護法」が始動する。10月28日すべての自治体が図上訓練に参加、11月27日には福井の原発銀座で北朝鮮を仮想敵国とした軍、官、民一体の軍事訓練が行われ、以後全国各地で軍事訓練がはじまる予定だ。「国民保護」は災害訓練を装う軍事行動だ。なぜそんなことが急に可能なのか腑に落ちないって?何をいまさら…
「みんな見事にひっかかった。小泉さんによる報道規制が敷かれたようなものだよ」(05.9.13森喜朗元首相 産経) 05.10.28高木