国境無きアーティスト
FM放送、特に民放の外国人DJによる英語訛りの日本語で出来損ないの発音を治すどころか、未熟さで英語圏出身の優越感さえ漂わせながら恥じない様子に腹の底からむかついている。それは米国文化なら無条件で受け入れる日本人(特に若者)に支えられている。異様なまでに保守化、右傾化する社会が米国に偏向することには何の抵抗も無いという日本独特のものだ。この国はプロパガンダの失敗を知らない。たとえば気が付くとオートバイがほとんどアメリカンタイプになっている。前輪を支えるフロントフォークの傾き(キャスター角)が不必要なほど寝ているそのバイクの性格はひたすら直進するだけが得意なナマケモノの道具だ。重心の低さは下手でも乗れるオートバイを意味する。60年代後半の「イージーライダー」をイメージしたいのだろうが、当時の反逆のエネルギーなど微塵もない。もとよりバイクは積極的、攻撃的なものだが、その性格を決めるのは「キャスター角」だ。直角に近いほど旋回性能に富み、反対に、寝ているアメリカンタイプはとことん鈍い。そもそもオートバイは、接地点に明白なように2次元の乗物だ。それ自体(スタンドを外せば)、自立さえ不可能なものが人間が関わることで3次元の移動が可能になり、技術さえあれば静止も可能だ。300km/hから0km/hを最小限度の道具で実現する。しかしアメリカンタイプは多くの可能性を放棄している。トライアルやオフロードの経験者なら階段の登、下降や、玉子大の石が連続する河原などで100km/hくらいで走行するのは快感だが、アメリカンのライダーはスタイルでそれを選択し、スタイル以外は基本的な技術でさえ排除してきたから舗装道路以外決して走れない。危機感、緊張感の欠如、そして思考停止がのけぞったライディングスタイルを可能にする。排気量、排気音の大きさとファッションだけが売りなのだ。日本のオートバイの主流がアメリカンタイプなのは「形から」を優先する文化の必然だった。もちろん私はオフロードが大好きでアメリカンは大嫌いだ。
「日本は(感覚の帝国)だろうか?逆に感覚を控えているように私には思える。あいまいさを好み、自己表現を抑える。/表徴の(表出)や(内容)よりも(形式)にこそ日本の本質があるのではないか。/また、ナンセンスというジャンルが日本では他の国よりも普及している。ナンセンスとは意味つまり内容が無いことだ。/私にとって日本は(形の帝国)なのである」(「国境無きアーティスト」エクトル・シエラ 寺子屋新書2005)
エクトル・シエラは1964年コロンビア生まれ。旧ソ連キエフ大学映画監督学科卒。94年に来日、日大芸術学部修士、博士課程で研究を続けている。コソヴォへのNATO空爆をきっかけにNGO「国境無きアーティストたち」を設立。戦争被災地での活動を続ける。
ソ連での寮生活でさまざまな国の学生と交流、自分の国だけを誇ることがいかに狭い考えであるかを実感したエクトルは、自分の国が一番すばらしいと思うのは、他の国を知らず、見ようとしないからだ、と語る。旧ソ連の天才映画監督パラジャーノフに師事、影響を受けている。パラジャーノフがある民族文化の特徴を用いながらも、それとはまったく異なる新しい文化を創造していったように、そしてパラジャーノフが身近なさまざまなものをコラージュして楽しんだように、国境も民族も宗教も超えて、戦争という最大の悲劇で破壊された土地の子供たちと「絵を描く」ワークショップを実施する。
「多民族への非寛容性、無理解、憎悪を無くさないかぎり戦争は終わらないだろう。子供たちは未来を担う存在だ。子供たちに調和、共存、多様性、普遍性という概念を国境を超える芸術をとうして伝えてゆく活動は重要な意味をもつはずだ」(「国境無き…」)
コロンビアの首都ボゴダでは毎晩30人が殺され、数十人が路上で暴徒に襲われ、100人が強盗に遭う。失業率が高く貧富の差が激しい。1948年からの長い内戦状態にあり、そこに麻薬カルテルと無差別テロがからむ。2002年一年間だけで約26,000人が殺されている。そんな故郷を持ちながらエクトルは、空爆下のコソヴォ、東ティモール、ユーゴ、カフカス、アルメニアなどで子供たちと絵を描くワークショップを続けてきた。そしてスリランカに行くつもりでいた2001年、「9.11」を受けて急遽ニューヨークに向かった。マンハッタン、ハーレム、ブルックリンなどの学校でワークショップを行う。子供たちは「2番目の飛行機が突っ込んでゆくところも窓から人が飛び降りてゆくことも」見ていた。
「戦争の被害、自然災害、いじめ、虐待などによるPTSDで苦しんだことがあるこどもの絵は、構成や色使いがどこか似ている。世界で起きているさまざまな悲劇、戦争や対立…。それらを目撃した子供たちが描いた絵は、後世に残すべき(心の映像記録)でもある」(「国境なき…」)
「形を重んじること」が日本で果たす役割をエクトルは、対立や反目を招かないための(儀式)や(形式)に見出す。規律をつくりだし、一定の手順を踏むことで争いや対立を避ける。「根回し」しながら擬似的民主主義の形式を作り出す。「和の重視は個人主義抑制、つまり組織が個人より重視される。/和を求め、求められる関係のなかで争いはなくなる。表面上には…。」そのうえで日本の社会が「個人の不幸をうみだすシステムとして機能する」ことを指摘する。
「だが、私の見るところ(遠慮)はむしろinhibition(抑圧)に近い」日本の平和が(平和の犠牲者)と呼ぶべき個人の犠牲のうえに成り立っている事を暴く。
「耐震強度偽造」の業者が「お客様は見えない部分は気にしません」と話す。そして業界全体に疑惑が向けられ、消費が冷え込むのを懸念した自民党幹事長「能無し武部(BSEさわぎで放置された牛の腹に書かれていた)」が、あまり騒ぐと業界が困る、というニュアンスの発言で火に油を注いでいる。「命」より「金」が優先する国で起こるべくして起こった恥ずかしい風景だ。
11月27日、福井県美浜原発付近で国民保護法に基づく全国初の実動訓練が行われた。原発がテロリストに攻撃され、放射能洩れの危険が高まったという想定だ。
「攻撃から避難まで5時間も時間差があり、政府の指示で住民が整然と避難する有事法制に、突発するテロ攻撃を無理矢理組み込んだ現実には起こり得ないシナリオ」「防災訓練でなく軍事訓練そのもの」(11.28中日)「原発が攻撃されたら舩を待つ時間はなく皆が車で逃げる。現実味がない」(11.28朝日)
本気で国民を保護する覚悟があるなら最もリスクの高い原発を稼動させるだろうか?腹にこれ見よがしに爆弾巻いて、はやく狙撃してくれ、と叫ぶ姿が安全とどれほどかけ離れているか考えよう。国民の命などはなから無視する国でなにが「国民保護」だ。アメリカ化してゆく風景が、実は日の丸掲げた有事体制という「形」への変容であることを忘れてはいけない。海外派兵国家という「形」の実現が、思考停止のまま行われているのだ。
2,005.12.1高木
テロ死/戦争死
「それらの死は、私たちと直接つながっている死であるのに、気付かない。(イラク北部で55人死亡)とのみある記事は、55の死体を想起させない。日本が、私たち自身が“参戦中”の戦争の実態も、見ようとはしていない」(『テロ死/戦争死』第三書館編集部編2005)
イラクの、毎日殺戮されてゆく人々を中心に死体映像のドキュメントが刊行された。
●自爆攻撃直後の実行者の炭化した死体。クズ鉄と化したカラシニコフが転がり、原型を止めない車のわきに横たわるが、爆発が風景全体を変化させすべてが同系色に変わり、道路・死体・車などが一体化した様子を見せている。まるで以前からずっとこの風景が存在していたかのような…。しかし言うまでもなく瞬間が風景の意味を変えたのであり、ふとよぎった既視感は私たち自身の創造より破壊の方が楽という暴力性に由来するのかもしれない。非日常の光景が、いつも都合良く無意識に自分が正義の側、道徳的存在と錯覚することを告発する。偽善に満ちた日常を。
●路上にプラスティック製の水筒のようなものが転がっている。散乱する白い壁材のような破片はまるで落雁みたいだ。水筒のようなものとほぼ同じ大きさの「顔」が落ちている。頭部ではなく「顔」のみ、つまり「面」ということだ。歯も残り、眼球は見開いたまま。強烈な爆発が身体を考えられないほどに引き裂いた。路上に置かれたその「面」は最小限の存在になってまだまなざしをもつ。誰かに似ているが誰かわからない。ただイラクの青い空を見つづけている。(2004.2.1 イラク)
●気温の高さをうかがわせる土の上に頭部が破裂し両腕がもげ、片方の足しか付いていない胴体が横たわる。背中はいくつもの爆弾の破片が深く貫いている。影は昼頃らしく短い。容赦なく照りつける陽射しが腕・背中などに当たり、汗ばんだ皮膚が鈍く光っている。身体に残る水分があるうちは光りつづけるだろう。だが、わき腹から少しはみ出た腸が早くも腐敗のきざしをみせている。軍司令部にとって無機的な数字にすぎないその死体は、さっきまで彼独自の人生を綴ってきた人間であり、まぎれもない有機体である。彼の家族、友人という複数以上の憎しみのネットワークにおいてこの固まりこそが核となる。(2005.6.15 イラク)
●ひたいから上方、後頭部にかけて欠落した眠るような少年らしき横顔。もう逃げ無くていい。もう米軍ヘリはやって来ない。好きなだけ眠っていい。明日の食べ物や水を心配する必要もない。屋根がなくても暑くないし、一方的な殺戮がいつ終わるか不安になる必要もない。すべて「さっき」終わったのだ。僕の人生も…。(2004 イラク)
●奇妙なイメージだ。アスファルトの路上を斜めから俯瞰している。画面右端に立ち去る寸前のイスラエル兵士。がらんとした灰色の路上に目を見開いてその兵士を見送るかのような頭部が転がる。首にはグシャグシャになった胸部らしき血だらけの肉がつらなる。静止した写真なのに頭部の後方にある白い布がかすかに風にゆらぐのを感じる。路上の長い影は朝か夕方のようだ。(2004 イスラエル)
● 10人程のイラク人が、ワイヤーをかけた黒いかたまりに罵声をあびせているようだ。スコップをふりあげたり、突きさしている者もいる。群衆のすぐ後ろに黒っぽい煙が立ち上る。塊をよく見ると手足、首をもがれた胴体であることがかろうじて判る。それほど焼かれ、いたぶられ、変形している。相手が死んでもまだ執拗に傷つけるほどの憎悪がみちている。限界を越えた憎しみが秩序や道徳を放棄させるのだ。戦争が狂気であるなら被害者の憎しみも狂気に対等となる。それほどの憎悪を生む「何か」があった。ここはファルージャだ。(2004.3 イラク)
● 夜の暗闇にフラッシュで浮かび上がったドライバーの死体。車の窓越しに撮影されたそれは鼻より上の頭部が、最も環境が好ましい状態のラフレシアの花弁のように開いている。滴り落ちる血の滴が生々しく光る。高性能の狙撃銃が後頭部を撃ち抜いて、唖然とする花を開花させた。いちごジャムのような血のりが肩から胸にかけて付着している。手前の半開きのドアガラスには、血ではなく何か白っぽい飛沫が細かくついている。陽の光を好まないラフレシアは、朝がもう二度と来ないことを知っているかのようにみずみずしく咲く。(2005.5.27 イラク)
● 手足を切断した者が、失ったはずの手足の痛みを感じることがあるという。切断された手や足が自分の目の前に転がっていたらどんな感覚だろう?プラナリアなどの扁形動物は再生能力が高く、身体半分を失っても両方が再生して2個体となる。もちろん人間には不可能だ。両腕が無く、片方の足がつけ根からちぎれて1m離れて転がっている死体がある。ほとんど人間の身体を感じさせないのは、激しい変形と血液でなく黒い液体が流れているからか。転がった足は、きっと爆発の威力をはるかにしのぐ思いでもとの位置に帰りたがっているにちがいない。なにしろ、たった1mなのだから。(2005.3.7 イラク)
● 雨のようだ。アスファルトの路上に焼けこげた肉塊がある。濡れた路上の左側に米兵のブーツとゴム手袋をつけた手が写り込んでいる。肉塊はよく見ないと判別不能なほど破壊され焼けこげている。それでも突き出したものが足であることからたどってゆけば、おおよその判断が可能だ。真黒にこげた中心に小腸がとぐろを巻いている。炭化したそれは、「生きることは食べること」で、おおざっぱには生物が口から肛門に至る筒であることをあらためて思い起こさせる。私たちの日常が見馴れたものによって成り立つことは言うまでもないが、では一体、この見馴れないものをどう扱えばいいのだろう?(2003.12.26 イラク)
「戦争とテロという区別を別の面から見ると、戦争というのはある意味で正当化される面がある。(正しい戦争)をする(正しい軍隊)があるかのように語られる。/一方、テロは残酷で無法な行為だとだれもが非難する。つまりテロリストは絶対的悪なのである。しかし、ことは本当にそのとおりだろうか。(正しい)軍隊と(悪い)テロリストという単純な二分法で世界を見ていいのだろうか」(『テロ死/戦争死』湯川武)
「理不尽な死の恨みをぶつけあうことから抜け出すには、理不尽な死をもたらした政策の問題を正確に見抜くことしか、解決はない」(『テロ死/戦争死』酒井啓子)
「○○ちゃん殺人事件」という見出しが連日大きく扱われている。人気司会者が涙を見せながら糾弾し、罪もない少女を殺す犯人への「全国民の怒り」を煽動する。悲しみに包まれた式場から遺体を乗せた車がクラクションを響かせながらゆっくりと出てゆく。「大人が守ってやれなかった」と母親のひとりが声を詰まらせる。一体化した「全国民の怒り」が「犯人には極刑を!」の世論に集約されてゆく。死刑が国家による殺人であることを理解しないまま。ついでに言っておくが「裁判員制度」などより「死刑執行員制度」をやるべきだ。そして公開処刑と生中継をするべきだ。ボタンは複数でなく必ず一人が押す。死亡確認まで目を背けないこと。「処刑」と「死体」が隠蔽されたまま死刑制度が成り立っていることを考えよう。「犯人に極刑を!」という言葉の責任を曖昧にすべきではない。幼児殺人犯を擁護する気は毛頭無い。確実に殺人犯なら罰せられるべきだ。しかし、この空気に偏向を感じないか?イラクやパレスチナの子供も日本人の子供も同じはず。死体を隠す社会がこの偏向を可能にする。イラクから毎日のように伝わる「数字」たちにも胸が張り裂けんばかりの悲惨、苦しみを共有する家族や友人がいるのだ。「数字」がどのように生じているかこの写真集が明確にした。視覚情報が異常に偏重されながら死体だけが隠される巧妙な陥穽に騙されてはいけない。大量のイラク情報が伝えなかったものを「おまえにこれを受容する覚悟があるか?」と挑発する。何が起こるか知らぬまま戦争可能な国を目指す社会がもっともタブーとする一冊だ。日本国憲法第9条の本能的解釈でもある。
防衛庁長官の4時間にもおよぶサマワ訪問で自衛隊派兵延長が決まった。今週、日本は「人権週間」でもある。まてよ、「人権」ってなんだっけ?
2005.12.7高木
共謀罪は権力には適用せず
「密告社会になると騒いでいるが、内部告発が増えてどうして悪い?/欧米には犯罪防止のためにある程度人権が制限されてもやむを得ないという考え方がある。/人権だけで社会は守れない。/警察にある程度の権限を与えることは今の治安情勢をみれば絶対必要。つまるところ共謀罪の問題は、捜査当局を信用するかどうかということだ」(平沢勝栄 自民党「週間金曜日」No・585)
2003年、日本が批准した「国際組織犯罪防止条約」の発効に国内法整備が必要とされ、「共謀罪」が新設されようとしている。戦時における人権侵害を戦争犯罪とみなすICC(国際刑事裁判所)に関するローマ条約、死刑廃止条約、子供の権利条約などには一貫して背を向けてきた日本政府が「異議申立て」を封じ込めるため、都合良く新設を急ぐものだ。権力の腐敗、暴走を許し、市民の自由を奪う「共謀罪」は権力そのものの「警察の裏金問題」など対象にするはずもなく、管理、監視に都合の悪い市民を予防的に拘束が可能な法律だ。司法における「推定無罪の原則」が消滅する。今までの犯罪と決定的に異なるのは、(話し合っただけで犯罪になる)という点だ。その判断が一方的に警察、検察、裁判所にあるため、どのような場合に共謀罪が成立するか不明だ。今までは犯罪が発生してはじめて処罰という考え方だったが、現在の刑法原則から見てもきわめて異例となる。さらに共謀罪成立には、話し合うことすら不要になってしまう。共謀すなわち意思の伝達は明示に限らず黙示で足りるとされているからだ。(会話でなく目くばせでもOK)
「2005年12月9日、自衛隊イラク派兵反対のビラ入れで、昨年1〜2月、立川の自衛隊官舎に立ち入ったとして住居侵入罪に問われた「立川自衛隊監視テント村」メンバー3人の控訴審で、東京高裁は一審の無罪(04年12月)を破棄、罰金10万〜20万円の逆転有罪判決を言い渡した。中川裁判長は「ビラによる政治的意見の表明が言論の自由で保障されても、投函のため管理者の意志に反し建造物等に立ち入ってよいということにならない」と述べた。弁護団は即日上告。1審判決は「憲法の保障する政治的表現活動で、住民のプライバシーを侵害する程度も相当低い」と判断。
法廷の外では「ヤミ金やピンクチラシはどうなる」など、怒りの声が上がった」(05.12.9毎日)
世界中で「人権」を監視するアムネスティ・インターナショナルは「立川反戦ビラ事件」で75日間も長期拘束された被告らに日本初の「良心の囚人」として認定した。
この事件も含め、同様の「微罪逮捕」がまかり通る日本だが、メディアは「警察発表」を鵜呑みのまま。「体制批判」排除の社会づくりが進む。立川テント村メンバーによれば70年代〜90年代に同様のチラシ投函を行なってきたが、抗議も弾圧も一切無かったという。21世紀に入って弾圧が始まったことの意味は大きい。
ブッシュの昏迷が続く。9.11以後の勢いを考えると信じ難い脆弱さだ。いままでまったく無視してきたイラク人死者について質問され、「3万人くらい」と答えざるをえず、イラク開戦の根拠とした情報が間違いで開戦決定の責任は自分にある、と認めた。当てにならない世論調査でも人気が低迷する。だが、ブッシュイコール米国ではない。世界最大、最強の帝国の「米軍再編」の前に、使い捨てにすぎない一個人の事情など取るに足らない要素だ。今はイラクでもがき苦しむ米軍に決定的な打開策はなく、ラムズフェルドが、立場上文句を言えない日本に向かって皮肉たっぷりに「ボーイスカウトみたいな存在にすぎない自衛隊」をなんとしても戦闘部隊に参入させたい思いをあからさまにする。金も人も文句を言わず差し出すのは日本政府だけだ。死体を見たことも人を殺したこともない日本人、自衛隊が幸いにも「戦争が出来る国」に急速に変わりつつある。憲法第9条があるにもかかわらず、派兵を実現出来た国だ。あと一押しだ。日本人は何事も当事者にならないと理解出来ない劣等だから、戦争も地獄ではないという雰囲気を作ってやればなんとかなる。「オウム」で監視カメラの増殖が可能になり、時折発生する猟奇事件を大きく扱えば煽動は容易い。国家ぐるみの有事体制も中国、北朝鮮を危険視するだけでうまくゆく。何よりもバブル期の後遺症(慣性)がいまだに残るほど中流幻想が浸透し、弱者急増の変化に気付かない。明日は昨日と同じだと思っている。下層を見る習慣を持たなかった日本人が下層にならなければ実感出来ないのは仕方のないことだ。そんな救いようのない保守社会が、煽られるままに防犯パトロールを立ち上げてゆく。全国一の愛知県についで2番目の静岡県は、青色パトロールカーがついに500台を越えた。60年目の「隣組」は防犯ブザー、マイカーと携帯電話、インターネットで連携する。あとは「上」から「敵」が名指されるだけだ。いまのところ不審者と呼ばれているが「テロとの戦争が何にも通用するように「名指し」は恣意的に行なわれる。要するに「反体制」が敵ということだ。
国民総背番号制(住基ネット)、盗聴法、生活安全条例、監視カメラ網、防犯組織が連動する。戦前から「上意下達」を何の抵抗もなく受け入れてきた日本社会は、異物排除が得意だ。それがどんな社会を形成するか、これからゆっくりと理解することになるだろう。
政権が明確な国家像を示さないまま軍事化を進め「後は野となれ」とばかりに場当り的な方策で右往左往するのは1000兆円とも言われる借金の返済の目処もたたず、かといって急激な増税にも踏み切れないなかで米国の圧力だけが明確だからだろう。非国民排除を謳うナショナリストが実は売国奴そのものというブラックユーモアだ。
「危機を煽ることによって、実際の危機になってしまうということも考えなければならん。過去の歴史から、今の指導者は本当に学んで反省し、考えているのだろうか疑問に思う。/今の状況では危ないよ。要するに戦争というものがどういうものか、一般の日本人にわかってないからね。テレビでも撃っているほうの場面しか出ない。やられているほうの悲惨な状況というのは映らんのですよ」(「後藤田正晴、語り残したいこと」岩波ブックレットNo・667 2005)
改憲派は戦争体験者が残らず死んでゆくのを心待ちにしている。捏造した歴史を看破する人々が邪魔だからだ。ましてや戦前、戦中の人権侵害の実態を陽の目に晒すことなく隠蔽し葬り去ろうという社会だ。
「この野郎、髪の毛を一本一本引き抜いてやる、と言い、私の髪を握って打ち付け、靴で腰を蹴るのです。木刀でがんがん背中を打ち、おまえらの一人や二人殺すのは朝飯前だ、と絶叫しながら1時間にわたって袋叩きにし、私はとうとう気絶してしまいました。/正座した母が言いました。戦争とはそういうもの。人間は時代の流れの中では太刀打ちできないのです。狂気の時代には一人の人間にはなにもできない。/戦争という異常時に人間が変わってしまう恐ろしさを心底感じ、人間不信になりました」(「遺族に聞いた横浜事件」05.12.13毎日)
太平洋戦争中1942年、雑誌「改造」に論文を書いた政治評論家を治安維持法違反容疑で逮捕。また同人物が富山の旅館で宿泊した雑誌関係者らと一緒に撮った写真を特高が「共産党再建謀議の証拠」として、その後60人もが逮捕、拷問された。横浜事件は60年以上たった現在も警察、司法のでっち上げの全容が明らかにされていない。肝心の裁判記録が焼却され、内務省や軍部による国家ぐるみの隠蔽が行われた。横浜事件を60年以上放置してきた社会に何が可能か。そして何が不可能か…。今まで見てきた以上の醜い日本がこれから姿を現わすにちがいない。
帝国の要請と民衆の反発の絶対的距離が表面化した現在、政権が齟齬をどのように扱うかは再編で名指しされた現場の怒りを日本人ひとりひとりが共有できるかにかかっている。私たちが当事者だ。
2005.12.16 高木
野宿者襲撃
「ささしま」No・70(
日本で最も野宿者が多い釜ヶ崎に20年間関わってきた支援者、生田武志さんが(「(野宿者襲撃)論」人文書院)を著した。労作である。おそらく日本で最も困難な問題として「野宿者問題」がある。それを扱ったたくさんの論考が様々な人により発表されてきた。しかし、この国で「野宿者問題」が陽の目を見ることが難しいように、それらの著作は一般社会で認知されて来なかった。どう考えても「命の問題」であるというのに。だがそれは逆説として「野宿者問題」こそが日本社会を解読するキーワードであることを示している。現在、日本は「改憲」を目指して突き進んでいる。その向こうに何があるか、言うまでもなく「戦争可能な国」だ。平和憲法下でこのような動きがなぜ可能なのか?それはこの国が「命の問題」をリアルに捉えて来なかったこと、むしろ積極的に遠ざけてきたことによる。「戦争」が何であるか、「60年前の戦争」がどのように行われたか、ことごとく教育から遠ざけられた戦後生まれがほとんどだ。うわべの「民主主義」や「人権」は、だからこそリアルを獲得しなかった。あろうことか人権派などと揶揄冷笑される始末だ。「平和憲法」をあざわらう社会がここにある。「戦争さえ越えた(超極限状態=非日常)が少年たちの日常に存在している」(生田)とされながら多くの人たちが知らない野宿者の現実はこの国が敗戦後の過程において必然的に生み出したものだ。
「寝ているところをエアガンで撃つ、花火を打ち込む、体にガソリン類をかけて火を放つ、投石する、消化器を噴霧状態で投げ込む、眼球をナイフで刺す、ダンボールハウスへの放火、殴る蹴るの暴行といった襲撃が日常的に行われている。/奇妙なことに、野宿者襲撃を行う者はほとんどが若い男性なのだ」と実態を示し、殺人にまで至った襲撃事件に対して社会が示す典型的反応「いのちの大切さを訴えること」の欺瞞を指摘する。大人たちは「いのちの大切さ」などと抽象的美辞麗句で説得を試みるが決して成功しない。「いのちを大切にしない社会」をつくったのは大人たちだということを少年たちが知っているからだ。「社会的マジョリティが傍観にまかせて、あるいは公園整備とか、町内の環境保全とか、理由をつけて野宿者を駆除し、掃除しているところを、若者たちは直接暴力に訴えて駆除し、掃除しているだけ」(生田)襲撃する少年たちと大人たちは、排除の価値観を共有するが、その表現が異なるだけなのだ。言葉を変えれば、間接殺人と直接殺人であり、どちらも殺人であることに変わりはない。野宿者が、大阪だけでも年間200人以上路上死(餓死、凍死、病死)してゆく状況は、世界中で活躍する「国境なき医師団」により「日本の野宿者の置かれている医療状況は、難民キャンプのかなり悪い状況に相当する」と指摘されている。「先進国」の内部に「国内難民」が増加しつつあり、しかも放置され、多くの人々が知らないか、無視しているわけだ。「地球全体に拡大した近代の帝国主義的地理的変容と世界市場の実現が、第一世界のなかに第三世界が頻繁に見出される状態を生産し続けている」(生田)
「こんなことで逮捕されるの?」「骨が折れる時、ボキッと音がした。それを聴くと胸がスカッとした」「奴等は抵抗しないから、ケンカの訓練にもってこいだ」「コンクリートの塊を1メートルくらい上から頭の上に落とした奴がまだ生きているのを見て、アッタマにきてさー、また殴ってやった」「走ってベンチに飛び上がって胸とか腹にドンと乗るの」「靴の先がブシュって沈んだから、あ、骨もみんなグシャグシャになっているなって思った」
メディアが報じる「バーチャルと現実との区別がつかなくなった」という言説を否定し、「彼らはゲームと現実の違いを知っているからこそ襲撃したと言うべき」(生田)と反論する。大人たちが制度や偏見、差別を駆使して巧妙に野宿者を殺しているくせに「いのち」などときれいごとを口にする社会は「リアルの欠落」によって可能だからこそ、その構造を理解したうえで彼ら自身のリアルを求めたということだろう。
「野宿者は自業自得だ、と言う人は、憲法(生存権)や生活保護法(社会保障)についての知識をもっていないのだろうか?おそらくそうではなく、知識としては知っているが、それをもはや一種の(建て前)としか感じられず、特に野宿者についてその(最低限度の生活保障)に納得することができないのではないだろうか」(生田)
ポスト冷戦期、そして「9.11」以後、米国主導で日本が追従するソーシャル=(近代的公共空間)の崩壊により国家が生命や生活を保証しない領域が拡大する。「自己責任」が強調される一方で「国旗国歌法」「周辺事態法」「盗聴法」など政府による個人の自由への大幅な介入という、矛盾するかに見える流れが起きている。
社会人の若手エリートが、「『強い』『正しい』『稼ぐ』『有名になる』ことをあまりに屈託なく肯定しているのに驚かされる。彼らは『弱い』『正しくない』『稼がない』『無名のまま』が大きらいで、そういう状態の人を心底、軽蔑している。そういう人も自分と同じ人間だという意識が欠落している」(生田)
良い成績を取って、良い会社に入るというレールがゆらいでいる。労働者の全生活を拘束(24時間の忠誠)を強いる日本独特の会社文化、と会社人間が若者に見捨てられる。しかし親は学校は旧来の競争のレールに固執するという二極分化が進む。選択肢のほとんどない、そしてストレスに満ちた人生が「自分が駆除されるのではないか」という不安をつのらせる。
「いじめ、野宿者襲撃は、他者への攻撃による(生の実感)=(自己の存在確認)と、攻撃での一体的な(連帯)=(仲間関係への過剰適応)が対となって働く行為」(生田)
高度管理社会が自由を奪い多様性を奪うなかで、ストレスを充満させた人間が「野宿者に向かって自分の願望を投影した上で攻撃するというねじれた状況」(生田)は(攻撃する側)のナイーブすぎる姿をあらわにする。(居場所がない若者が居場所のない野宿者を襲う)という絶望的な世直しである野宿者襲撃は「1968年以来の世界的な社会変動の中で、『国家・家族・学校・社会』の空洞化が凝縮される二つのホームレスの最悪の出会いとして現れた」(生田)
バブル末期の1990年10月「釜ヶ崎暴動」は多くの人の記憶から消えかかっているが、そこに少年たちが自然に参加し「これは自分の問題だと思った」という事実に着目し、寄せ場・野宿者の運動を越えた可能性を見出す。野宿者襲撃が、日雇い労働者・野宿者と若者という二つのホームレス問題を凝縮する(ネガ)であり、1990年暴動は二つのホームレス問題の(ポジ)である、と語る。
20年の野宿者支援という経験と鋭い観察眼が、若者たちが野宿問題を理解する「ことば」を育んだ。そして高校で「野宿者問題の授業」により、生徒たちの(ショック)をうみ出した。ある女子高生は、世界で貧困に苦しむ人々に関心があったが、「今、考えると自分が恥ずかしい。とても多くの野宿者が横たわったり、絶望したように歩いていました。私はその悲惨な状況を見る機会がいっぱいあったのに、その人たちについて生田さんに会うまで何も考えていませんでした。/自分が何も知らず、社会がどれほど問題をもっているかにショックを受けました」
「自分の隣人としてある野宿者問題を発見することにより、(この社会の中での自分の存在とは何か)という問いが突きささるのである」(生田)
2005年9月、
2005.12.23 高木