公と私
まるで自制という概念が消えたように叫び声や大声を発していた子供連れの家族が消えたあとのテーブルや座席は、散らかし放題で食べ残しが山のようにあった。騒ぐことも食い散らかす事も当然の権利なのだろう。なにしろ金を払っているのだから。
ファミリーレストランや居酒屋に使いかたのマニュアルや特別のマナーがあるとは思えないが、複数の家族連れが利用する飲食店は、この国の今を象徴した風景だ。消費される食材の農薬、食品添加物、ホルモン剤、抗生物質などのすべてが不問にされ、本来不可能な値頃感の実現のため、廃鶏ミンチや化学物質など、およそ安全な食品とは言えない低品質のものを特殊加工したさまざまなメニューがある。客は自由に選び、自由に食べることができる。誰にも指示も規制もされない時間と空間ではあるが、カプセル状の監視カメラで24時間録画され、どのような客がどのような購買傾向を持っているのかレジで記録され、飲食業の致命傷である食中毒などを回避するためHACCP(米国政府と多国籍企業が推進する食品衛生管理システム。徹底的な殺菌が施され、長期的には耐性菌や化学物質による被害が防げない)を実施、その場限りの食の安心(安全ではない)を実現している。公が限りなく後退し、私が席巻する空間だ。しかし利用者はそれを気にすることもなく疑問さえ持たない。それぞれの家族は自由にふるまえる。金を払っているのだから。
「私は、私が食べたものである」という言葉を敷衍して、ものを情報に置き換えよう。食べものが擬装されるように情報も擬装され、それらを取り込んだ結果として身もこころも歪んだ日本人が存在するわけだ。皮肉にも正反対の状況にありながら「健康幻想」に囚われているのは、いかに現実を理解しないかということだ。この国の安心、安全はすべて幻想にすぎず、主権者の自覚のなさがその幻想を支えている。
給食費を払っているのだから、給食の始まりに「いただきます」などと、うちの子に言わせるな、と学校に文句を言う母親の話が話題になったそうだが、(金を払っている)事がすべてに優先する社会になってしまった。当然のように、金が無くて医療保険が失効して医療を受けられず死亡する人が増えているという。(金を払っている)事が私的なものを拡大し、その分もしくはそれ以上に公的なものが失われてゆく。すでにこの国は生存権さえ保障しない。肥大化した私は、当然干渉し合いぶつかり合う。利己の衝突があちこちで発生し醜い光景が展開する。かって公と思われていたものが何時の間にか私に変わっている。他人を気にせずケータイで大声で会話するその内容は、全くのプライバシーだ。ここは私であるという思い込みがそれを可能にするのだが、決して場(空間)が変わったわけではない。公への無関心と、異常なまでの私の拡大は相関している。公・私の撹乱は、支配する側に都合よく作用しているはずだ。部分への集中が全体を不可視にするからだ。
近代は他者どうしがそれぞれの違いを認め合うことを前提にして民主主義の実現にむけて憲法が具体的に国を拘束するために存在するのだが、そんなことを考えたこともない、もしくは考えずに済んできた圧倒的多数の人々によってこの国は公のありかたを変質させてきた。結果として外部から見ればたとえば「談合は日本の文化」というような不文律の横行を招いている。
「近代国家を我々が生きる以上、国との関係性のなかで私を定義せざるをえない側面がある。/一人の有権者として国家とどういう関係性をとるかという問題。/国が好きであろうが嫌いであろうが国家の運用とその暴走に対して責任を負わなくてはいけない」(「この国はいま自分達の憲法を新しく作れる状況にない」大塚英志インパクション150号)
目先のものにすぎない私の安心安全を最優先にし、便利と得と楽を信条にしている間に、この国は狡猾にも平和憲法下で参戦、海外派兵を実現した。侵略戦争加担でなく「人道復興支援」であり派兵でなく派遣だと本気で思うなら立派な加害者側だ。それでも自信をもってそう語れるならイラクでイラク人の死者を前に大声で宣言すればいい。すかさず日本人の公としての立場が明確になるだろう。帰国は棺に収まり貨物室だ。本来言葉はそれほど重いものだ。つまり「人道復興支援」はこの国だけに通用する私的なものでしかない。
「日米防衛首脳会談でラムズフェルド米国防長官が額賀防衛庁長官にイラクの治安維持やイラク人部隊の訓練に自衛隊の参加を打診。治安の安定なしに経済発展は有り得ないことは日本も十分理解しているはずだと中長期的にイラクに限らず幅広い地域での協力を求めた」(06.1.30中日)
要するに「早く実戦という殺人に慣れろ!おまえら抜きで世界戦略を展開するつもりはないんだ」ということだ。戦慄すべき状況がほとんどの日本人に理解されていない。だからこそ翼賛ジャーナリズムが伝えない現実を確認する必要がある。
武藤一羊と小倉利丸の対談(インパクション150号)を参照する。
冷戦後、米国は政治、経済面の劣化により、唯一得意な軍事にいっそう依存することになり無限定、天井無しの軍事支配を目指し(再編成)とはその具体化である。占領下同然の日本全土を、世界中で展開する反テロ戦争とよぶ侵略に利用するために組み替える。全土基地化だ。9.11以後、アフガン沖派兵、イラク派兵の実現。つぎつぎと有事立法を成立。2005年10月「日米同盟−未来のための変革と再編」を結んだ。実質的60年安保条約を改定したに等しい内容であり「自衛隊のほぼ完全な米軍体系への統合」である。米軍と自衛隊の区別を無くし、行動を始めたら自動的に米軍の決定どうりに実行する。相談、検討、決定などのプロセスはない。これを米側は「シームレス」と表現する。自衛隊はどこにいようと米軍と同じ位相で、米軍に補完的に存在することになる。資金、資源、施設でこの軍事統合は米国に重要なものになる。日本全土が米国の軍事利用が可能になる合意で、小泉政権の進めた有事法制はその準備だった。
やっと、AWACSの存在理由がよくわかる状況になったわけだ。もちろん北朝鮮の有事で済む話ではありえず、世界中に展開する米軍と自衛隊の戦闘を上空から管制するものであり、同型(E―767)の空中給油機とセットされることがすでに10年も前の商社のPRイラストに堂々と描かれていたことだ。それほど日本人はバカにされてきた。黙って金(税金)だけ出してろ、と。
軍事独裁や全体主義が姿を現わしはじめ、民主主義が消えようとしている。自由な生き方が失われようとしている。「自然と人間」(2006.FEB.VOL.116)によれば2005年の公安警察による市民運動への介入と弾圧はすさまじいものがあり、何よりもそれを主要マスコミが沈黙したままの状況がある。
AWACS導入の話が伝わった頃から現在に至るまで、AWACSが現代戦の重要な兵器であることを明確に報じたマスコミはない。結果として浜松に住んでいても今だにAWACSが何であるのか知らない人がたくさんいる。ましてや日本全体では…。農薬や食品添加物まみれの食品も情報が無ければわからない。すごい兵器であることを知らせなければ、AWACSも購入できるように。公であるはずの情報が私物化され、憲法第9条下で数千億円の兵器が購入され、実戦に向けて牙を研いでいる。
主権者としての自覚が何よりも必要だ。殺すことも殺されることも拒絶するそのスタンスによってしか兵器を兵器と見抜けない。その位置でしか大きな流れが自由の弾圧をうみ出していることを実感出来ない。 2006.2.2 高木
フランス暴動
レッテル貼りが安易に行なわれる社会は、「現場」から遠い社会ということだろう。たとえばイラクに被曝しに行くことを「人道復興支援」と言い換えることも同じだ。遠い「現場」が、偏見や捏造を可能にし、現場とまったく異なる言説が一人歩きを始める。教わらなかった歴史について、これが正しいと嘘が示されても疑いも無く事実となって居座るように。現場から離れれば簡単に無関係にすることも都合のよい解釈も可能で、どのようなレッテル貼りも抵抗がない。だが、「現場」と「私」の関係が変わるわけではない。野宿者を一方的に自業自得と片付けても、そして目の前から消しても、野宿者を生み出す構造が変化するはずは無く「私」の生きる社会に野宿者が生きる事実は変わらない。好きなものとだけ生きることは不可能だ。
ましてや、華やかなイベントのために野宿者を強制排除して野宿者なぞ存在しないことにしたり、福祉が機能するように見せるという発想は愚かでしかない。
2005年10月27日、仏パリ郊外で3人の少年が警官に追われ、逃げ込んだ変電所で感電死し、一人は生き残ったが重症を負った。仏は死刑を廃止した国なのに、である。警察による弾圧や手落ちによる死亡、傷害事件が後を断たず、25年以上前から反復してその度ごとに叛乱が起こっている。この事件がきっかけで暴動が発生、仏以外にも飛び火した。
少年たちが連日、車に放火し、投石をくりかえす姿が報道されたが、背景が不明なまま、燃える車の映像ばかりが報じられ、「フランスの移民の悪ガキ共の凶悪ぶり」程度に印象が残されて、せいぜいサルコジ内相に肩を持つ日本人を増やしただけに終わった。「現場」の声は少なくとも一般の日本人には届かなかった。
『フランス暴動−階級社会の行方』(現代思想2月臨時増刊 青土社2006)が出版され、やっと2005年末に仏で何が起きたかを知ることができた。少なくともサルコジ内相に味方する情報でないことは確かだ。誇らしげな自由、平等、友愛のシンボルは搾取、差別、抑圧の現実を隠すように貼りつけたレッテルにすぎなかった。日本人が欲しがる高級ブランドの数々は植民地主義の未解決(むしろ解決不能)な残渣を陽のあたらない郊外に隠して、取りつくろったヤバくてケバイ品々なのだ。
今回の暴動は自由や平等を、そして寛容を歴史的に勝ち取ったはずの仏が、実は抑圧的な警察国家の論理が息づく、植民地主義の流れを現在も変えていない、もしくは変えられない実態であることを知る大きな契機となるだろう。高尚な仏哲学が、自らの植民地主義、人種差別を放置してきた皮肉は、アカデミズムが現実と虚構にどうかかわるか考える上で重要だ。コリン・コバヤシの報告によれば、仏の中心に華麗に咲くパリの周辺には、奴隷制、植民地主義とその戦争、アルジェリア戦争、インドシナ戦争の記憶が差別となって刻印された移民二世から四世が、1970年代に既成左翼や労組との接点を失い、政治的言説から排除された郊外住民としてゲットーを形成している。仏の失業率は10%とされるが、郊外では3〜4倍近い。名前、肌の色、住所だけで差別を受ける。ゲットーが構造的に維持される政策により、日常的な暴力的差別の対象となる。ここには(郊外の若者=不良)のレッテル貼りがある。
60年代〜80年代の景気の良い時期に労働者用に建てられた郊外の大団地が不況でそのままゲットー化した。差別と失業の常態化が長い間蓄積したうえ、警察や政府の不誠実な対応が、いつ爆発してもおかしくない状況を招いた。証拠固めもせず、冤罪を捏造され『こんなデマがまかり通っていることに対して、はっきりノンを叩きつける方法はこれしかなかった』と車に火が放たれた。暴動は当局が予想したうえで煽動され、当然のように鎮圧されてゆく。すべて当局の想定通りに。礼拝の真っ最中に機動隊が催涙弾を撃ち込み、失神寸前の女性信者に『淫売婦!』『あばずれ!』と罵声を浴びせた。サルコジ内相が暴動にたいして『寛容度ゼロで挑む』と言明。サルコジはこれまでも『このシテをカルシェール(高圧放水銃)で掃除する』『あなたがたの前からラカイユ(クズども)を一掃する』などと発言している。何やら石原都知事に似てないか?9.11以来、イスラム嫌いは仏社会でもかなり浸透している。1954年から1962年までのアルジェリア独立戦争が、植民地主義に対する独立戦争として公式に認められたのは、なんと1999年になってからだ。旧植民地出身の移民は2世、3世に至るまで差別され続けている。仏は現在もアフリカや第3世界に対して搾取、差別、抑圧を続ける。若者たちは、爆発するか自滅するしかないとアルジェリア系社会学者サイード・ブーアママは語る。
在日コリアン作家梁石日(やんそぎる)が、日本はフランスの暴動を他人事のように受け止めている、として日本が植民地政策を精算せず、その意志すらない現実があり、日本で生まれ69年生きて、未だに選挙権すらない自身を訴える。「これは政治的選択を持つ者と持たざる者との隔離政策である。市民権を与えないことによって政治的意志を封じ込めている。私にとってフランスの暴動は他人事ではない」(梁石日)
社会学者森千香子は「国家を脅かし移民の若者に悪影響を与え暴動を促す」とされるラップの「暴力」を読み解く。80年代末に郊外に浸透したラップは、表現の可能性で郊外の若者たちを駆り立てた。自らの言葉で怒りや困難が表現できるのだ。激しい政治への不信感の表現は当然政治家の不快感を募らせる。極右もラップ批判を過激化せさる。「ラップ=郊外の音楽=暴力」というレッテル貼りだ。「こんな窮屈な世の中ぶっ壊すぞ」「このままじゃマジでやばい」「おまえらが望んだ戦争だ」「とっとと火をつけようぜ」ラップの表現は悪化する一方の日常を反映してますます過激になってゆく。「話を聞いてもらう唯一の方法は火をつけることらしい」「弾圧なんて気にすんな」20世紀にジョルジュ・ブラッサンスらが警察批判を歌ったが、大衆音楽を通して体制批判する精神は極めてフランス的アプローチだと森はいう。郊外蜂起直後に政治家がラップを非難した行為はロス暴動とギャングスタ・ラップ、コロンバイン高校乱射事件とマリリン・マンソンを想起させる。ラップ批判がエリート文化による大衆文化への偏見であり、知的レイシズムと植民地主義の眼差しが交錯する、と指摘した。
野宿者支援のなすびは「自分達が現に受けている社会的排除であったり、そのプロセスみたいなものについて、他者を見るなかで自分達の在り様が見えて来る」という。2003年、ポルトアレグレの世界社会フォーラムで「本当に社会的排除を受けている者がとにかく声を出そう」と提起。世界中で「持たざる者」の行動が始まりつつある。
仏文学者鵜飼哲は「体制に対する反逆は一部の者の仕業だ、という言い方が植民地支配のなかで常にされてきた」とする。2006年1月27日大阪地裁で「公園は住民登録できる『住所』にあたる」という画期的な判決が出された。そして全国で喜びに沸く野宿者たちに冷水を浴びせるように1月30日
2006.2.9 高木
ダンス・マカーブル
「あとは発症を待つばかり」と突然、降って沸いたように宣告された「アスベスト渦」が、全国民に発癌宝くじ抽選参加を強制したのが2005年だったが、それをはるかに超える当選率の極めつけが現われた。米国の傲慢に何をさて置いても付き合う日本政府が、またもや米国に急かされた形で何が起こるか理解しないまま鈍重な腰を上げ始めた。いつもの後手に廻るパターンの政治だ。2005年11月14日政府は、新型インフルエンザ行動計画を発表した。しかし専門家は、とても充分とは言えず危機管理の視点が無く具体性に欠け、現実の有効な行動をとることは不可能と指摘する。ここまで読んで危機感を抱く読者はおそらくまだいない。日本では毎年流行するインフルエンザのようなものという感覚で受け取られているからだ。以下は(「感染症は世界史を動かす」岡田晴恵 ちくま新書2006)に拠る。この新型インフルエンザの死亡者を国連やWHOの試算が1億5000万人とし、米ミネソタ大感染症疫学専門家は1億8000万人〜3億6000万人と推定している。わかりやすく言うと新型インフルエンザは、いわゆるカゼではなく、毎年流行するインフルエンザでもまったくないのだ。現在流行中のH−5N−1型高病原性鳥インフルエンザウイルスがヒトの新型インフルエンザに変身した場合、全身感染と強い病原性、高い致死率が予想されている。通常の弱毒ウイルスのインフルエンザでは呼吸器と消化器に対する局所感染にとどまるが、高病原性ウイルスはすべての細胞に対して感染可能であり、全身感染をおこす。H−5N−1型高病原性鳥インフルエンザはすでにヒト型にかなり近づいている。WHOのイ・ジョンウク事務総長は「もはや新型インフルエンザの出現は避けられない。もしも、ではなく時間の問題である」と危惧している。
「呼吸器感染に限定するインフルエンザの疾患概念をはるかに超えており、ウイルスは血流を介して全身にひろがる。肺、脳、腸管、肝臓、腎臓などにもウイルス感染が起こる。さらに生体防御機能の過剰反応であるサイトカイン・ストームという病態が生じ、急性呼吸器促迫症候群や多臓器不全という回復不能な状態に陥る重症の全身感染症であり、致死律50%〜75%にもおよぶ。/もはやインフルエンザではなく、人類がこれまで経験したことのない新たな全身性の重症感染症であることを認識する必要がある。/新型インフルエンザ問題はまさに人類の存亡に関わる地球レベルの危機管理問題である」(岡田晴恵)。このような重大な問題について日本政府代表がWHO総会、G7、APECなどに参加、議論と決議に加わっているにもかかわらず、国内において具体的対応がほとんど進められてこなかったし、厚労省専門家委員会が不十分ながらも一応の対策指針をまとめても、具体的行動計画の策定と実施はほとんどなされず、政府の統一的施策も実行されず、政府全体の横断的準備対応、行動計画とその実施に関する議論の場が2005年10月末まで存在しなかった。こうした「遅れ」の背景に高病原性鳥インフルエンザの本質を理解せず、弱毒型ウイルスに由来した従来のインフルエンザの延長線上での対策を発言してきた一部の専門家の責任が大きいと指摘する。
「この分野での行政当局のリーダーシップの欠如と、政策担当部局の怠慢を非難されても弁解の余地はないだろう」(岡田晴恵)
「郵政民営化!」「国際貢献!」「人道復興支援!」「対テロ戦争!」「改革をとめるな!」口角泡を飛ばしておきながら本当の危機が何もわかっていないこの国は、中世ヨーロッパで黒死病(ペスト)の蔓延で深い絶望感に覆われ、無為と倦怠感が精神を蝕んだ民衆が集団発作のごとく踊るダンス・マカーブル(死の舞踏)そのものと言える。なにしろ政治家も国民も何がおきているのか知らないのだ。しかしポチが主人である米国が何を考えているか解らなくても、米国はブッシュが2005年夏期休暇に読んだ「THE GREAT INFLUENZA」(JOHN.BARRY)がきっかけで突き動かされたように対策に乗り出した。1918年世界中で猛威を振るったスペインかぜという新型インフルエンザに米国の医師、や医学者がどのように行動したか描いたものだ。当時の世界人口20億人のうち5億人が発症、4000万人〜8000万人が死んだ。第一次世界大戦の死者の8割がスペインかぜの犠牲者だ。
インフルエンザはA,B,C,のタイプがあり、ヒトに毎年流行するのはA型、B型である。新型インフルエンザはA型から発生する。インフルエンザウイルスは遺伝子情報としてRNAしか持たないのでエネルギー生産や蛋白合成もできず、自分だけでは遺伝子情報を読み取り蛋白質を合成して子孫ウイルスを残すことが出来ない。そこで他の生物に寄生し、その細胞機能を借用して蛋白質やエネルギーをつくり、ウイルス自身を複製しなければならない。それで相性のよい生物の細胞に潜り込み、その機能を乗っ取る。これが「感染」である。その結果、入り込まれた細胞は死んでしまう。インフルエンザにかかると喉が痛み、激しい咳と高熱が出る。これはインフルエンザウイルスに感染した喉の細胞がダメージを受けて引き起こされる生体反応である。
インフルエンザウイルスは1個が1日で100万個以上に増殖する。インフルエンザウイルス遺伝子はRNAで、RNAは遺伝子の読み替え、塩基の付加、欠損にたいして修復機構を持たない。増殖スピードが速いということは、それに連動して遺伝子複製も行われ、結果として遺伝子変異を起こしや
すく、哺乳類が100万年かけて行う進化をたった1年で成し遂げてしまう。こうして毎年少しずつ進化するため毎年違ったワクチンが必要となるわけだ。以上が車に喩えると「マイナーチェンジ」にあたる「小変異」というもので、毎年流行するインフルエンザのしくみだ。
これに対して、まったく異なるインフルエンザに変わることを「不連続抗原変異」もしくは「大変異」という。つまり「フルモデルチェンジ」ということだ。こうしてまったく別のものになった新しい抗原性をもつウイルスの中でヒトの間で大流行するものを「新型インフルエンザ」という。この新型インフルエンザを出現させる犯人が鳥インフルエンザである。新型インフルエンザが潜り込む生物(宿主)は非常に多い。鴨、白鳥など水鳥、鶏、七面鳥など家禽、豚、ヒト、アザラシ、クジラなどで、地球最大規模の人獣共通感染症である。鳥インフルエンザの流行は、ヒトの新型インフルエンザ流行の前兆である。2003年、東アジアを中心としたH−5N−1型鳥インフルエンザ流行は初期封じ込めに失敗。根絶に至っていない。すでにヨーロッパ各国に拡大しつづけている。「数時間で他国に到着できれば、本人が感染を知らず、まだ発症しない潜伏期に到着し、その後発症することも起こりうる。こうして確実に他国に運ばれる。そして1ヵ月以内に世界同時に流行が始まり、その後2〜4ヵ月にわたってパンデミック(世界的大流行)を引き起こす」(岡田晴恵)。前述のとおり、中世のペストや20世紀のスペインかぜがパンデミックだ。
新型インフルエンザのワクチンは、その発生から最短約半年かかるため、まず医療関係者の多くが一斉に感染・発症する。流通がマヒし始め、エネルギー供給も止まることになる。
新型インフルエンザ大流行の重要なポイントは、地球全体で同時に起こることである。そのため他からの支援はない。抗インフルエンザ薬も特効薬ではなく、ワクチンも有効か否かは保証されない。2003年東アジア中心に始まった高病原性H5N1型鳥インフルエンザ流行は、初動対策を怠り、もはや制圧は困難との見方が強い。「最初の1年で世界全体のGDPは8000億ドル(世銀試算)、国内GDPは20兆円(4.1%)以上の減少(第一生命総研試算)が予測されている。/1930年の世界恐慌以上の経済崩壊が生じる可能性(カナダ経済団体試算)も指摘されている」(岡田)
新型インフルエンザに対してはすべてのヒトが免疫をもたない。ケータイやネットでつながりっぱなしになっているのに生命の危険に関する情報から多くの人が断たれている社会。政治も制度も機能せず対テロ戦争や治安崩壊などと虚言に終始する始末。
人類史だけで考えれば、高度な技術進化を遂げたにちがいない。しかし数億年以上のウイルス進化の前に、アンプラグド状態の人間(爆発的感染は必ずその状態をうみ出す)はなすすべがない。金持ちも権力者も貧乏人もウイルスの前では平等だ。国防だって?笑止千万である。パンデミックは戦争を凌駕して歴史を変えてきた。太古からそうであり、これからも変わらない。愚か者が些末な国防ごときにうつつを抜かして完全に無防備な社会をつくってしまった。 2006.2.17高木
「クラッシュ」
予想しなかったトラブルに遭遇し、それまで一方的に決めつけていた他者の在りようが激変、同時に、自分とは何かという問題を突きつけられる、そんないくつものケースを連鎖させて、多くの人々が思い込む「変わりばえのない日常」が、実は歪曲のため脆弱な緊張によってかろうじて保たれているひりひりするような関係であることに気づかせてくれる作品が公開された。「ミリオンダラーベイビー」の製作・脚本によって衝撃を与えたポール・ハギスの監督デビュー作「クラッシュ」だ。タイトルにあるようにいくつものエピソードは交通事故や強盗、喧嘩などに遭遇した人間の、それまでの在りようを変えてゆく。それぞれの人間は善人であり悪人、差別主義者であり被差別者というような両犠牲を持っている。誰もが加害者であり被害者でもあるということだ。典型的な善悪の二項対立を描く、いわゆるハリウッド映画とは正反対のパターンは、だからこそインディーズプロダクションによってのみ可能だった。偏見や憎悪に満ちた多民族社会、しかも極端な格差社会である米国。本来なら、そのようにとらえた途端、絶望に陥ってしまうのだが、人間はそんなに単純な存在ではないとハギスがささやきかけてくる。いつもの風景を違った視点で見ることの重要性を。人間にはコントロール願望がある。世界や人を自分に都合良く判断し、自分が操作・支配しようとする。多くの場合、たいして深く考えずに他者の人格や価値を勝手に決めつけている。そのうえで自分の日常はなるべく変化しないで欲しいと願う。だが、世界は予測不能性に満ちている。安定や不変でなく変化がこの世で勝利をおさめているのは自明だ。そして人間はそれぞれが多様な価値観をもっている。軽率で安易な意味づけや分類は現実を歪めてしまう。予測可能と思い込む世界を変えるのは予測不能を介するしかない。すなわち「クラッシュ」である。衝突することによって人々が傷つき、偽りのないむき出しの存在が露呈する。はじめて本音で語るのだ。ハギスは、まったく異なる境遇の人々を意表を突いて「クラッシュ」させる。ストーリーは、予測不能を駆使しながら展開する。それでも次第にそれぞれのストーリーが連鎖していることが読めてくる。「クラッシュ」によって変容した人々が円環を形成してゆく。
ロスアンジェルスという米国の差別と偏見と憎しみを象徴したような街で起こる、とりたてて大きなものでもないいくつもの「クラッシュ」が、閉塞していた人間の可能性を見出すのだ。差別や偏見、そして格差をも乗り越えた、しなやかさを。「クラッシュ」に登場する人物はさまざまな人種、社会的地位、思想の持ち主だが「クラッシュ」がそれまでのキャラクターを剥奪して建て前や肩書き無しの本音で語り合う関係をうみ出す。それがハッピーエンドであることも、思わぬ悲劇であることも決定的ではないがその両義性にこそかすかな希望をうむチャンスがあるとハギスが示唆しているようだ。「クラッシュ」で生まれた変化を祝福するかのように夜のロスアンジェルスに珍しく雪が降ってくる。今もどこかで「クラッシュ」がドラマをうみ出しているはずの街の灯が漆黒の闇に瞬く。生命系としての惑星が無数のクラッシュにより「生きている」ことを証明するかのように。
湾岸戦争の米海兵隊員を描いた「ジャーヘッド」は、軍人の家系から成り行きで海兵隊に入隊した実在の兵士の映画だ。ジャーヘッドとは海兵隊員の刈り上げた頭の呼び名だが、少々侮蔑を込めて海兵隊員のことを指すようだ。「アメリカン・ビューティ」のサム・メンデス監督は、あえて戦闘シーンを無くして海兵隊員の訓練から中東湾岸に派兵され、実戦配置、そして終戦までを描いた。当然海兵隊員のルーティン化した激しい訓練と、その間の彼らの会話が中心となる。前線に送られる兵士は“使い捨て”のため米国社会の下層出身者が圧倒的で、アフリカン・アメリカンやヒスパニックに白人が混じる構成で、米社会における彼らの階層が反映される。
主人公たちが配属されたのは狙撃兵で、言わばアナログ的、旧型の軍事部門だ。衆知のごとく湾岸戦争はハイテク戦争と言われテレビゲーム的に攻撃が行われたが、殺される側にとってはハイテクもローテクもあるはずがなく、夥しい死体が隠されることによって(ハイテク=クリーン)という事実誤認がまかり通った。しかしラムゼイ・クラークらの「民衆法廷」の告発がさまざまなジェノサイドを暴き、ハイテク戦争の虚構を引き剥がした。
「ジャーヘッド」が戦闘シーンを無くした事は、戦争映画を去勢する事だ。屈強を誇る海兵隊が参戦し、米国が勝利するまでの過程において、もし、戦闘さえもコミュニケーションのひとつの形であるとするなら、それが成立しないという意味で完全に自己完結した閉鎖系が出来上がる。海兵隊という性と暴力のベテランが最も得意とする仕事を取り上げられたのだ。ここには「クラッシュ」が全く無い。組織そのものが殺人を目的とするため相手とのコミュニケーションは戦闘という形でのみ許されるのであって、人間的な関係はすべて排除される。その性と暴力の対象を奪われるということは海兵隊員それぞれの矛盾や葛藤を爆発させるほどの抑圧をうむ。海兵隊員たちはそれぞれ自己と「クラッシュ」するほかない。ローテクである狙撃兵が戦場の最前線に赴くが、戦争そのものは物量のごく一部にすぎない彼らの存在すら気にかけず、始めも終わりも曖昧なまま終結してしまう。戦争があったことの証しは、燃え上がる油田の炎と気化爆弾で炭化した死体たちだった。物言わぬ死体たちは、それゆえ海兵隊員たちに変化をもたらすこともなく現在のイラク侵略に至るコミュニケーションを欠落した一方的な思いあがりを胚胎させたわけだ。こうして偏見や差別がそのまま持ちこされた。
命令が絶対である軍事組織のエリートである「空っぽ頭」は人間的なコミュニケーションを欠いたまま現在も性と暴力のベテランであり続けるための訓練にはげんでいる。米国社会の差別と偏見の構造をあたかもマトリョーシカ(入れ子)のごとく共有し、殺人以外のコミュニケーションを拒絶した閉鎖社会ゆえに人間の問題の解決の方法を見い出せないまま、ひたすら抑圧のはけ口を敵を殺すことに特化して。戦争映画だから救いが無いというわけではない。たとえば古典である「西部戦線異常なし」は、現在も立派な反戦映画であり続けている。しかし「ジャーヘッド」には反抗や抵抗が無い。「命令は絶対」である組織(軍)がそれを完全に封殺するほど強大になり、兵士たちは、せいぜい斜に構えながら訓練に耐え忍ぶほかない。米国社会の差別と偏見、そして格差をそのまま温存して抑圧をため続けるのは、それが敵を殺すエネルギー(爆薬)だからだ。エピローグに登場するベトナム帰還兵が、湾岸から帰国した海兵隊員に海兵隊を賛美しながら近づいている。一見して過去の栄光だけが自慢の零落した姿に一同言葉が出ない。彼らの未来を見たのだ。米国における「ジャーヘッド」の評価は知らないが、我が世の春を謳歌する日本のミリタリー雑誌は、まってましたとばかりに頁を割いている。この国の戦争を知らぬゆえの好戦熱は昂ぶるばかりだ。ここにも空っぽ頭がある。
2006.2.22高木