危機管理
「『自衛隊をイラクに送るな!もどせ!練馬集会』のデモに参加していて、デモ隊を非難している右翼の主張を聞いて驚いた。『自衛隊ガンバレ!このエセ平和主義者のアカども、自衛隊はイラクの平和のための復興支援に行くのだ!バカヤロー!』」(反安保実NEWS第7号 2006.2.23)
宇宙飛行士、毛利衛が地球を大切にしようと日本の大人と子供たちに語りかけているが、毛利のスペースシャトルにおけるミッションとは米軍の空爆のための地形図作成の一環だったという。
日本ではこうしたレトリックが呆れるほどくりかえされてきた。マスコミはもちろん検証などしない。場当たりな言説がまかり通るのは、どうせすぐ忘れ去られるからだ。扇情的な報道が次々とまるで空爆のようにくり返され、都市の機能がマヒしてしまうように、何が起きても感じない、他人事の世界がここにある。被害者だけが当事者であり、はじめて主権者となるかのような(薬害エイズ事件、阪神淡路大地震など)。
大船渡の津波危険地域に住む人々は、かっては地震を感じたら何をおいても高台に逃げる習慣があったが、2003年5月震度6弱の地震が襲った時には多くの人がまずテレビをつけたという。多くの日本人が身の危険を感知する能力を失いつつある。生存に関わる判断を白紙委任してしまったのだ。
「メダルが獲れない」。鳥の(失礼)、トリノオリンピックで、もともとスキーもスノボも興味なく、カーリングなんて知りもしなかったたくさんの日本人が真剣に悩んだ。古生物なんてまるきり関心が無くても、毎日数十万人の人が炎天下、何時間も行列つくって腐りかけのマンモスを拝みに行ったように。そして「金メダル」の一報で一挙に沸いた。「ニッポン!」「ニッポン!」即座に起こった現象はクラシック音楽なんてまるで興味無い人々が「トゥーランドット」(プッチーニ)のCDを買いに走ったという。フィギュアスケートで金メダルの際に使われたというだけで。
抑圧に満ちた日常を自らの思考や行動で変えようという意志を捨ててしまえば、頭の中を真っ白にして熱狂することが麻薬のような習慣性のある快楽になるにちがいない。定期的に与えられる麻薬(イベント)に全身をわななかせて浸り、けだるい弛緩の先に、もう次の麻薬を求めてしまうように。目的はすなわち熱狂そのものにある。オリンピックだろうと万博だろうとそんなもの本当は興味など無いし、対象は何でもいい。だから、いつかイベントが戦争になっても同じ効果が得られるかもしれない。
それにしても危機を察知してすぐにTVのスイッチに向かう行動は世界が画面の向こうにあるという錯覚を少しも疑わない状態に他ならない。アンプラグドで完全に無防備ということだ。自らの思考や行動を失ったら、押せば税金を分泌するだけのただの有機体に過ぎないはずだが。これほどマスコミに依存した生き方が何を招いているかを、これから起こるいくつものカタストロフィーに翻弄され、思い知らされることになるだろう。
「安心だけをもとめる姿勢が卓越する日本人は、危険を告げるシグナルを知覚する閾値が高く、なかなか危険を感じない。/表面上見えない危険は存在しないのと同じである。そして存在しないから安心なのだ。もう少し極端な言い方をすれば、安心するために見ないという奇妙な行動をとる傾向がある」(「無防備な日本人」広瀬弘忠 ちくま新書2006)
広瀬は同書において「国民保護法」をその主旨に沿って各地で調査したところ、テロなど新たなリスクについてまったくの素人集団であり、これらの部局が何かあった時、実質的に機能するとは考えられないとしている。世界一の地震多発地域に原発を50基以上稼動させ、民主主義を標榜し、裁判所が公園も住所だ、と判決を下した直後に野宿者を公園からたたき出し、何よりも平和憲法下で海外派兵を強行する国である。主権者の自覚を失い、あらゆる判断を白紙委任した結果、晴れてこの国は論理から自由になった。ようするに責任を問われない何でもありの社会ということだ。無知と無関心がリスクの増大を招き、直感力を失ったため取り返しがつかない災害や被害に突然襲われるのは個人でも国家でも同じだ。長い時間を費やして育んだ無知と無関心を利用する政治は自らを検証する機会を持たないまま腐敗にまかせてきたため、危機管理能力がまるで無い。野放し同然の自己中心主義、利己主義は対等な関係における民主政治や平和外交とは正反対にある。内側、そして弱い部分や遠い部分への視点を欠けば、バランスなどあるはずがなく「力」や「金」だけが原理となるのは必然だ。その上、「力」と「金」の原理は歯止めのないままマッチポンプ状態をつくり出した。わざわざ敵をつくり出して危機を煽る体制だ。憲政記念会館という本来ならば金もうけや殺人とは対極の価値観であるはずの建物において軍需産業関係者と政治家が利権交渉するという本末転倒が堂々と行われた。ミサイル防衛(MD)である。しかし現実化する可能性のあるリスクは圧倒的に自然のものだ。それ自体をコントロール出来ない地震、津波、火山噴火などは最大のリスク管理が求められる。一昨年のスマトラ沖地震による津波災害は圧倒的なものだった。そしてそれに迫る規模と言われる東海、東南海地震が近いとされる。ならば備えは大丈夫だろうか?双子の赤字を抱え、自然災害であるカトリーナに直撃された米国が、それにもめげずにMDに固執するように、日本の政治家と軍需産業も軍拡路線を踏襲している。いったいリスクの優先順位はどうなっているのだろう?
「人間は機械でなく生き物だというだけでなく、資本主義そのものが『妄想する猿』としての人間の突然変異性に依拠しているからである。動物は妄想せず、交換価値や付加価値になど鼻も動かさない。/突然変異した霊長類の末裔だけが貨幣や不要な商品という妄想上の価値に熱狂するのである」(「ミッキーマウスのプロレタリア宣言」平井玄 太田出版2005)最も価値があると信じる妄想や幻想に振り回されるのは人間の業かもしれない。しかし破滅的自然災害を、所詮人為に過ぎない戦争よりも低いリスクと見積もることは、生物の最低限の本能を無視することにほかならない。ノンフィクションである種としてのヒトの存亡を超えるフィクション(妄想)が米国のMD(ミサイル防衛)ということだ。
2005年10月、米国MDの一環として、全国各地へのPAC3配備が報道された。浜松基地には24発(1発5億円)が配備される。イージス艦から発射される迎撃ミサイルSM3は1発20億円だ。PAC3を日本でライセンス生産するのは三菱重工。石破茂、額賀福志郎、久間章生、前原誠司など国防族が揉み手の笑顔で歓迎する。「北朝鮮のミサイルから日本を守る」という危機を誇張した世論誘導はMD計画の生涯コストとして見積られる300億ドルから500億ドルの税金投入のための口実だった。兵器メーカーと米政権と日本の受益者にとって天文学的資金と実現不可能な目標を正当化するためには永遠に敵をつくり出す他ない。それは地震や津波よりも優先するというわけだ。仕方ないから津波に備えて浮き輪くらい買っとこう、という話ではあるまい。
硬直した核保有による不安定な均衡に業を煮やした米国がブレイクスルーとして登場させたのが米国による宇宙独占の覇権であり、その一端を担うのがMDだ。要するに戦場の概念はすでに空間的飛躍を遂げ宇宙にも及んでいる。地球上の富の独占にとどまらず将来的には宇宙の富をも視野に置いた構想だ。これを荒唐無稽と笑うのは米国史への無理解に他ならず、暴力のあらゆる可能性を実現してきた過去を考えれば、MDについて無知、無理解のまま税金を払うことが何に加担するかを思い知るだろう。気付かぬうちに私たちは自分自身の危機を作っているということだ。
2006.3.3 高木
ダイヨウカンゴク
「捜査官が好きな時に好きなように被疑者を連れ出して取調べが出来る、それを確保するための『人間の物置』」(「なぜ、いま代用監獄か」小池振一郎、青木和子編 岩波ブックレットNo・669 2006)冤罪当事者の弁護士が代用監獄をこう表現した。安田好弘弁護士は1998年、オウム真理教教祖松本智津夫被告主任弁護人として弁護活動中、強制執行妨害を指示したとして逮捕、代用監獄に拘留された。起訴後1999年9月27日保釈まで拘置所に拘留され、身体拘束は計296日に及んだ。2003年、東京地裁が完全無罪判決を言い渡し検察側を「アンフェア」と厳しく批判。しかし、検察は控訴した。拘留中、友人弁護士らが、有罪を認め弁護士を辞めるようにアドバイスしたが従わなかったため、10ヵ月も拘留され、5000万円もの保釈金を払わされ、5年後の一審判決まで行動を制限され、月2回の裁判を強いられた。
「逮捕、拘留に対する恐怖は、死刑に対する恐怖と同じく、被疑者をして、やっていないことをやったと認めさせるに十分」と安田弁護士は訴える。その上で、代用監獄は冤罪を生む装置であり問題の核心は、未決拘禁を当然のごとく認めている日本の刑事司法にあるとする。
「連日の取調べはひどいものだった。毎日、椅子にしばりつけられて全く同じ姿勢で6〜8時間座り続けさせられる。これだけでほとんど拷問だ。生理中に留置場の警官から『あんた、どうせトイレ行けないから』と言われて生理用品をとりあげられた」(「立川反戦ビラ入れ事件」立川反戦ビラ弾圧救援会編 明石書店2005)
「北方事件」は2005年5月、佐賀地裁で三件の連続殺人事件の被告人に無罪判決が言い渡された(検察側は控訴)。佐賀地裁は限度を越えた調べと取調官の誘導を指摘した。この事件で被告人は別件で起訴され、代用監獄に拘留。連日深夜まで平均12時間以上取調べを受けたため罪を認めてしまう。その後否認するが、2002年、時効のわずか6時間前に殺人罪で起訴された。
拘置所では防音具(猿ぐつわ)を使用しないが、代用監獄では未だに使用され、死亡事故も発生(2004)している。取調べ中の暴行は後をたたず、女性に対するわいせつ行為も続発している。「日本弁護士連合会が2005年12月にまとめた代用監獄弊害事例集には代用監獄で虚偽の自白を強要された例が紹介されている。94年以降だけで42件あり、このうち20件が無罪や不処分になった」(06.2.25毎日)
代用監獄で厳しい取調べを受け、虚偽の自白を強要されたため有罪となり、死刑判決を言い渡されてしまうという悪夢としか言いようのない現実がこの国で頻発している。最高裁で死刑確定の末、再審で無罪となった免田栄さんは34年6ヵ月、谷口重義さんは28年6ヵ月、斎藤幸夫さんは28年7ヵ月、赤堀政夫さんは34年8ヵ月の間死刑に脅えながら無実を訴え拘禁され続けた。無実で人生の半分以上を失うことを、おそらく大半の日本人は実感出来ない。なんとなく「お上」に間違いはない程度に納得するのかもしれない。民主主義、主権者の意味を深く認識しなかった社会は、人権に関して絶望的に無知のままだ。そんな無自覚がこの国の「ダイヨウカンゴク」を支えてきた。
「法務省の04年の統計によると、拘置中の容疑者の収容場所は、警察留置場98.3%、拘置所1.7%にすぎない」(05.2.25毎日)なんとしても代用監獄に固執する権力の実態がそのままこの国の異常を表わしている。この国では犯罪捜査に求められる公正と厳格よりも権力の恣意が優先されている。世界の非常識である「ダイヨウカンゴク」は国際語であり、人権後進国としての日本を広くアピールしている。流行り言葉にまでされた「普通の国」を指向すると胸を張るにもかかわらず、刑事司法が近代以前の「自白」に依拠し、あろうことか事実よりも重いとされる「自白」を引き出すために、本来なら拘置所に収容すべき未決拘禁者を代用監獄という日本独自の拷問施設に収容して罪人化させるプロセスは、言うまでもなく国際的非常識に他ならない。そもそも逮捕されたら23日拘置は当たり前、場合によっては何ヵ月も拘置される国など日本以外にはない。
「国際人権(自由権)規約委員会は、日本政府報告書に対する第3回(1993年)及び第4回(1998年)審査で代用監獄制度が規約(第9条、10条、14条)に適合しないことを明らかにした」(青木和子 岩波ブックレットNo669)
アムネスティ・インターナショナルも2005年6月に代用監獄制度を批判した。何彼につけ、北朝鮮や中国の人権状況を批判的に論じる人々も、自国の、世界に名立たる代用監獄には、知ってか知らずか言及しない。触れないことによって反人権状況を支えているとさえ言える。フィクションとノンフィクションを自由に横断するはずの「まんが」や「コミック」の世界で扱われたという話も聞かない。上意下達の原理が貫く社会において、サブカルチュアさえもタブーとする領域が堂々と息づいている。あたかも鮫の歯の如く一方向の流れしか許さないような、やり直しのきかない社会。地獄の経験者がその印象を軽はずみに口にしないとしても、野宿を強いられた人たちと話をしていて一度だけ代用監獄の話を聞いたことがある。40代後半の男性は微罪で逮捕され拘留された。野宿者であることで差別的扱いを受けたという。水を飲ませてもらえず、気が狂いそうになって便器の水を飲んだと話していた。自分の立場が優位であることを利用して、逆らえない者をいじめる構造は、本来恥ずかしいものであるはずだが、それが恥ずかしくない社会であるということだ。戦前の特高や憲兵をさらに遡って近代以前の、民主主義や人権という概念が確立する前の世界だ。映画やドラマの、フィクションにおいては、非日常によって日常を暴くケースがよくある。平凡な毎日、表面では何も起きない世界が、視点を変えるとすさまじい変化が起きていたりする話だ。知らないのか、知ろうとしないのかに関わらず、本当はとんでもない事が進行中というのがおそらく現実なのだろう。
ジョージ・クルーニー主演の「シリアナ」は、中東、石油、CIA、テロといったモチーフでタイムリーに政治を描いたが、ハリウッドのセレブがこうした表現(陰謀とテロの連鎖を、非米国的視点で覚めたまなざしを向けている)が可能になったという意味で興味深い。ジョウジ・クルーニーが拉致され、拷問されるシーンがある。椅子に縛り付けられて生爪を剥がされるのだが、撮影中本当に後方にひっくり返って頭部を損傷して意識を失い、手術を受けたという。拷問の場面を撮影中、拷問が現実になるという予測不能が起きた。スクリーン上の出来事が私たちの現実と交錯、転倒しないという保証など無い。閑話休題、私たちは笑えない現実を生きている。
日弁連に某県警の看守が内部告発した。「留置場の規則は厳しいものだが、破られているのが現状。時計を無くして被疑者が何時まで取調べられたか解らなくしている。午後11時まで調べても午後9時に入房したことにする。午前1時、2時までの取調べが少なくなく、それが連日、拘留期間いっぱい続く」
(小池振一郎 岩波ブックレットNo・669)
日本の現状を聞いたローマ市警察の捜査部長は「それは拷問だ!」と驚いたという。
2006.3.9 高木
弄ばれる命
「石綿(アスベスト)健康被害者及びご遺族への大切なお知らせです。石綿による健康被害の救済に関する法律が施行されます。医療費等の救済給付が支給されます。特別遺族年金が支給されます。まずは、早めにご相談を。環境省・厚生労働省」
最近、新聞に掲載された政府広報だ。昨年指摘したように、アスベスト問題は国の不作為によるにもかかわらず、ここには一切の謝罪もない。「金払うんだからいいだろう」という姿勢だ。被害者の苦しみ、怨念さえも金で買おうという傲慢な表現だ。薬害、原発災害、地震、津波災害、そして迫り来る新型鳥インフルエンザのパンデミックにしても、きっと事後処理として同様の政府広報が掲載されるにちがいない。下層の現実、弱者の苦しさを知らず思い描くことも出来ない2世、3世の世襲議員は「金」と「力」がすべて、としか考えないだろう。将来何になりたいか、の質問に多くの子供たちがホリエモンと答えたが、当人が逮捕されたからといって価値観が変わるわけではない。事件として表面化する、しないにかかわらず「天下り」や「裏金」が堂々と継続する現実に、ポストホリエモンをめざして目を輝かせる子供たちがいるのは当然だ。権力に擦り寄るマスコミもすでに下層からの視点はない。そんな環境で育まれる感性に、民主主義や人権を期待することは無理だ。決してすべてではないが多くの大人が実現出来ず、その努力さえ放棄したのだから。こうして下層、弱者がますます「死」や「痛み」に近づき、上層(支配層)は遠ざかってゆく。
小泉政権下で上昇の一途をたどる自殺者30000人超の現実は、その10倍とされる未遂者の存在を無視出来ない。数日前、NHKラジオの教育相談で電話してきた父親が、娘が突然不登校になり、マンションの6階から飛び降り自殺の未遂を起こしたと、涙乍らに訴えた。娘にどう接したらよいかわからない、と。娘が登校を拒否するほど悩んでいるのにその父親はなんとか学校に行かせたいと語る。学校に行くことが娘の命より優先してしまう悲劇を父親が気づかないという喜劇だ。弱者である娘の立場を実の親でさえ理解できないという不条理は、決してこのケースだけではない。そもそも派兵下において「死んではいけない」という言葉はどれほどの説得力をもつのだろう?
「イラクに派遣された陸上自衛隊員のうち、幹部ら3人が帰国後に自殺していた。/自殺だけでなく強いストレスから職場に順応出来なかったり、自殺を図るケースも報告されている。/自衛官全体の自殺者は約24万人のうち04年度は過去最高の94人、今年度は70人、派遣隊員は2倍近い」(06.3.10朝日) 志願にせよ強制にせよ命に関わる現場の存在があるにもかかわらず、真剣に「命」を考える機会を失った社会がある。巧妙かつ意図的に使われる美辞麗句は、現実とは正反対の表現でしかない。たとえば「人道復興支援」や「命のリレー」というものだ。命の哲学の不在として考えると、使い捨てペットブーム、脳死臓器移殖、死刑制度、野宿者襲撃、海外派兵などがリンクする。それらをバックアップする人権意識の低さも見えて来る。連日、報じられる数十人ものイラク人死者を「人間の死」として関心を持てないからこそ侵略加担に心を痛めることもなく加害の自覚も実感も湧かない。他者の命に言及せず、関心も持たなければ、脳死臓器移殖も何ら抵抗はない。それは他者の死を前提にするからだ。20年も前の読書新聞における西村享の指摘は現在も有効である。
「脳死論争は、自衛隊の認知をめぐる議論のプロセスに似ている。今日なされている議論は民主的手続きとは全く逆の発想から出ている。結論が先に決められていて、困難を社会に受け入れさせる下地づくりとして論争がなされているにすぎない」(読書新聞第1616号)
「交通戦争と保険制度の不備を前提としたシステムとして臓器提供が発展した。人種差別の問題もある。世界初の心臓移殖がアパルトヘイトの南アフリカで行われた背景に人種問題があるのは衆目の一致するところ。黒人の心臓を切り取って白人に移殖。逆だったらバーナード博士はリンチにあっていたはず。米国社会でこうした背景で貧困層が臓器提供を受け入れざるをえなかった」(「脳死Q&A」東大PRC企画委員会、森野一樹著 風涛社1986)
貧乏人はドナーにはなれても、金持ちしかレシピエントになれないという原則は、脳死臓器移殖が、民主主義とは相容れないことの証しだ。信濃毎日、朝日、毎日、日刊ゲンダイなどが日本人が中国で死刑囚から臓器提供を受けて移殖手術するケースが増えていることを報じている。アムネスティによると04年、中国の死刑執行は少なくとも3400件という。日本のマスコミが相次いで中国の臓器移植を報じたためか、「中国は臓器移殖の管理強化のため、初の法律策定の方針を示した。脳死を人の死とする初の脳死基準が導入される」(06.3.4毎日)
滋賀県内の全市町は、国民健康保険証に臓器提供の意思表示欄を設けることになった。ドナーカードが普及しないことに業を煮やしたのだろう。最近、身近で臓器移植で渡航する話を耳にした。なんと費用は1億円らしい。日常化しはじめた臓器移植は、「命の価値」すなわち、優生思想や社会ダーウィニズムの具体化だ。「命のリレー」などと表現されるが、現実には脳死が人の死と言えないことを示すデータがどんどん出てきている。「脳死判定後4日経っても、4割の症例で視床下部の神経細胞が生きていたとの知見がある。4割の人が生きていたことになる。欧米では判定後14年以上生きている慢性脳死者の例も。その他、脳死者の妊娠継続、脳死の子供の性的成熟など」
(「人体ビジネス」瀧井宏臣 岩波書店2005)
兵庫県姫路市で2005年10月、足が不自由な野宿者の男性が、中高生や無職の少年ら4人に火炎瓶で襲われ焼死した。少年らは橋の下の狭い空間で逃げ場がないこと、雨堤さん(60才)が足に障害があったことを認識しており殺意があったとして殺人および火炎瓶処罰法違反容疑で逮捕された。
「臭い」と言われ、ロケット花火や石を投げられた末、火炎瓶にエスカレートした。(06.3.17毎日)。命を否定するような少年たちの行為について彼らだけに答えを求めるのは不可能だ。大人たちが狡猾、巧妙に制度を操り、差別、排除し、知らぬ顔をしながら、自らの手を汚さずに殺している現実がある。犯罪的と言えるその現実を正当化する言葉が、「勝ち組」「負け組」だ。
日本の命の現場、アカデミズムの臨床において何が起きているか。瀧井は「人体ビジネス」において再生医療や中絶胎児利用の現場におけるレベルの低さを指摘する。各大学や研究機関のIRB(倫理審査委員会)の質がまちまちで、倫理委員がどういう手順で何を議論すればよいのかわかっていないため、場当りな審査がまかり通っているという。20年も前に的確に指摘された臓器移植の問題点や60年代に形成されたバイオエシックス(生命倫理)を糧に命の哲学の構築に至らないどころか迷走したままなのである。そこに居るのは熱心な技術者、だが、人間からは遠ざかる医師と医療ということだ。
京大探索医療センターの福島教授は、「医療技術革新がビジネスとして進行し、獰猛なキャピタリズム、リバタリアニズムの奴隷になりつつある。自由を享受しているのは金持ちだけ、市場原理の中で強い者しか勝てない状況。自由主義という名の全体主義になりつつある」と警告する(人体ビジネス)。
06年3月16日朝日新聞が「チェルノブイリ事故20年」として、放射性燃料150トンが再飛散の恐れがあると報じている。「石棺」が老朽化し、亀裂から雨水などが毎年4千立方メートルも内部に入り込んでいる。「石棺」をさらに覆う「第2石棺」プロジェクトが始まった。
技術と人間のバランスを崩した教訓を忘れるわけにはいかない。たった一基の原発事故が地球規模の地獄を生むことを。
えっ「プルサーマル」だって?お前脳死したのか!
2006.3.17 高木
「ある子供」
「『米国は移民でできている』『我々はテロリストではない』などのプラカードを手に米国各地で不法移民取締法案反対の抗議デモが拡大している。/推計1200万人の不法移民は、建設、農業、清掃、調理などで安価な労働力として組み込まれている。/9.11以降、保守中間層を中心に反移民感情が高まっている。/移民擁護団体は、秋の中間選挙でいい材料がない共和党右派が票固めに移民問題を利用していると話す」(06.3.27朝日)ロスでは50万人以上動員したという。一方、仏でもパリを中心に高校生、大学生による「26才未満を雇えば、2年は理由なく解雇できる新雇用制度」に反対する抗議デモが300万人を動員した。仏の若者の失業率は23%。
もし私たちの社会が矛盾、差別、排除そして絶望的な格差といったものを抱えながらそれを自覚もせず、修正する努力もなされていないとしたら私たちは主権者として社会と政治を糾弾し、抗議する義務がある。デモや集会という民主主義において当然の権利でさえ異様な視線を浴びるこの国は、どう考えても「普通の国」ではない。その意味では北朝鮮とまったく変わりない。自覚が無く、自由を錯覚するほど闇も病も深いのだ。特権階級や勝ち組、負け組という発想の一方的付与を抵抗もせずに受け入れる多くの日本人が、民主主義とはほど遠い場所にいる事は論を俟たない。そんなこともあって下層の現実を鮮烈に描いた作品が欧米では評価されながら、この国ではミニシアターでほそぼそと上映されて終ってしまうのだろう。主体性を欠き、受動に徹した生き方が、権利の主張と能動を放棄する結果、政治に全く影響を与えない(実は、その事がきわめて政治的なのだが)スポーツイベントなどに熱狂するだけの「国民」を生んでいる。そんな風景が示唆するのは過去のファシズムが断絶せずに脈打つ社会であり、それゆえ過去をはるかに上まわる癌のように再発する可能性としての現在がある。
以前も書いたが、静かな空間が豊穣なことを事あるごとに痛感する。四六時中ケータイでつながり、ヘッドホンで外界を遮断して移動する若者たち。ではいったい何を話し、どんな音楽を聞いているのかと言えば、ほとんど「喧騒」にすぎない。常に喧騒状態に身を置くことで不安から逃れようとしているようにさえ思える。現実を正面から見据えるにはあまりに酷く、抵抗するには強大すぎるということか。そして大人たちの背中からは何も学ぶべきものが無いという断絶。若者を取り巻く状況は世界中で共通かもしれない。だがこの国では抵抗の表現がさっぱり見えない。
名作「息子のまなざし」のダルデンヌ兄弟が2005年カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した「ある子供」は、BGMが全く無い。私たちの日常、現実がBGM抜きで進行しているという当たり前のことをダルデンヌ兄弟は、映画が当然のごとくBGM付きで表現し続けてきたことを否定することによって気付かせてくれた。そしてそれが「ある子供」の独自のリアリズムを止揚する効果となった。サウンドトラックは街の風景のありきたりの音を再現する。何も付け加えることなく、何も差し引くことなしに。「ある子供」はこうして私たちの日常に違和感なくワープする。20才前後の、ガキのカップルが無邪気にいちゃつく描写は映画を観ていることを忘れるほどイライラさせる。それほどリアルということだ。
ブリュノは盗みでその日暮らしを送っている。避妊なんてしなかったのだろう。恋人ソニアはそんなブリュノの子供を産んだ。ソニアは母になるが、ブリュノはガキのまま。相変らず手当たり次第に盗んでは売り捌く。なにしろ子供が生まれたばかりのソニアのアパートを無断で他人に貸してしまうほどだ。挙げ句の果てに生まれたばかりの子供まで売り飛ばしてしまった。大金をソニアに見せながら子供を売ったと事も無げに話すと、ソニアは気を失ってしまう。病院に運ばれたソニアの姿に、自分のした事の重大さに少しだけ気づいたかのように子供を取り返しに行くブリュノ。なんとか子供をソニアのもとに連れ帰るが、人身売買のブローカーは、儲け損ねた腹いせにブリュノに暴行を加える。一文無しのままソニアのもとに帰るが、彼女は拒絶する。仲間の少年とひったくりを試みるが、車で追われ、警察が追跡するはめになってしまう。捜索をかわそうと冷たい運河に身を潜めるが少年は身体が凍えて泣きだしてしまう。隠れ場所に移動して少年から離れたすきに少年が警察に逮捕された。まったくついてない。唯一の仲間がパクられた。それまでのブリュノは、あらゆる常識や道徳から自由だった。そんなもの犬にでも食われろとばかりにイノセントでアナーキーだった。若年層の失業率が20%というベルギーの現実は、いまや世界が共有する。今日、帰る家がなく、パンを買う金が無ければ文字通りホームレスなのだ。ブリュノも臆面無く「小銭をくれませんか?」と行き交う車に声をかける日常だ。金が底をつけば段ボールにくるまって寒さを凌ぐ他ない。こんな生活を好き好んで選んだわけじゃない。そもそも金持ちがこだわるマナーやモラルってなんだ?金持ちが気分良く過ごすための勝手なルールじゃないのか?悪い事をするなって?じゃあ良い事ってなんだ。きっと金持ちが金持ちのままでいられることだろう。排除される者を散々生み出しておいて、平然と人生や世界を語るのが欺瞞でなくてなんだ?見える範囲で苦しむ犠牲者がいないからって、あんたが加害者でないという証明にはならないぜ。何事も直接関わらないのが金持ちの特権だったな。なんでも都合よく他人事にしてしまう。おいしいとこだけ食らいつくくせに。見たくないもの、聞きたくないもの、触れたくないものから出来るだけ遠ざかった生き方じゃあ、人間鈍っちまうよなあ。だから格好つけてるあんたらの言葉が、本音で生きるしかないおれたちに通じないんだよ。おれたちとあんたらは同じ星でまったく違う哲学で生きてるんだ。教養がご自慢なら、マクベスの「きれいはきたない。きたないはきれい」ってセリフ覚えてんだろ。えっ、盗んじゃいけないって?搾取は盗みじゃないのか。弱いものいじめしながら説教する資格があるのか。そうか、いじめてる自覚さえないんだな。そもそもスーツにネクタイって格好は「私には関係ありません」っていうセリフみたいで、反現場主義そのものだぜ。いつも小奇麗にしている奴が一番汚い儲け方してるんだ。ともかく、おまえら金持ちのためのモラルやマナーをおれたちが守る気がないってわかっただろう。
ブリュノが母親に会いに行くと見知らぬ男を銜え込んでいる。当然父親なんか知らない。教育もはなから関係ない。今日食べる事、今日寝る事という最低限の生活には選択の余地はなかった。当然、腐った金持ちどものモラルが入り込む余地も。世間並みの人生を誰からも教わらず、最も野生動物に近いブリュノの、唯一の仲間がパクられた。ブリュノは決心して警察に向かう。それがブリュノのモラルであり哲学だからだ。
刑務所の面会室。たくさんのテーブルで受刑者と家族や恋人が話し込んでいる。ブリュノにソニアが面会に来た。久し振りの再会。「ジミーは?」ブリュノが息子の様子を聞く。「元気よ」テーブルごしに互いの頭を抱き合う二人。言葉にならない時間がすぎてゆく。ブリュノが大粒の涙を流す。ソニアも…。感極まった二人が顔を歪めて抱き合う。誰も二人に何もしてこなかったように、今の二人に誰も干渉出来ない。ブリュノはイノセントでアナーキーなままだが、今は愛がある。ソニアとジミーの存在しかない。それだけが唯一の、そして最大の希望だった。
BGMの無いことがラストシーンを圧倒的なものにした。しゃくりあげ、鳴咽する二人は確実に生きる存在になっていた。
ベルギーの工業地帯、労働闘争のメッカに生まれ、原発で働いた資金で映画機材を買い、労働者階級の団地に住んでドキュメンタリー映画から始めたダルデンヌ兄弟だからこそ下層の現実を描くことが可能であり、下層の人々に希望を持たせたいという彼らの努力も結実したのだろう。カンヌという金持ちのメッカで最下層のろくでなしを描き、彼らが人間であることを認めさせる、世界が欺瞞に満ちたものであることを金持ちにこそ認めさせる、そんな抗議の表現だ。小気味いいじゃないか。
2006.3.28高木
ダンスマカーブルU
公衆電話をほとんど見かけなくなった。ケータイを持って当たり前の時代、それ無しの生活、つまり不便を生き様と秤にかけながらの毎日だが、べつにケータイ無くて死ぬわけではない(いまのところ)。ガラス張りのボックスに、息をはずませて駆け込んでコインを投げ込みもどかしくダイヤルを回したのは、実はそれほど昔のことではない。技術の進歩は、ほんの20年前の風景がセピア色に映るほど大きな変化をもたらし、20年後の世界を思い描くことさえ困難だ。まだ見ぬ世界を美化する傾向を否定するわけではないが、いつもメリットはデメリットと対であり、ハイテクはハイリスクとともにある。ファイル交換ソフト「ウイニー」による情報流出が止まらない。これまでも住基ネットを閲覧して探し出した母子家庭の少女をレイプする事件さえ起きている。あとで謝れば済むはなしではない。ウイニー関連では「愛媛県警でNシステムのデータが流出したことで10万台を超える車のナンバーが記録されていることがわかった。/企業が顧客情報流出で被害者に支払う見舞金はわずか5000円。/岡山、愛媛県警の流出情報には、性犯罪被害者や少年事件容疑者の住所、氏名、年令、生年月日も。この情報はネットから永久に消せない」(06.3.22毎日)この国でプライバシーがどれほど軽視されているかわかるだろう。当然、これは人権の扱われ方でもある。
複雑系としての社会は、予測不能なリスクを孕んでいる。何がきっかけで致命的災害が起きるかわからない。要するに都市文明は見た目よりはるかに脆弱ということだ。堤防の小さな穴がやがて大洪水を招くように、さまざまな技術に依存した便利な社会は、暴走の可能性のあるさまざまなリスクを抱える。それなのに「9.11」は世界を「テロとの戦い」に単純化してしまった。まるでリスクはテロだけであるかのように。何時襲われるか、いつまで続くかも不明なまま(だからこそ軍需産業にとっては都合がいい)「テロとの戦い」は、テロよりも事故の可能性のほうがはるかに高い原発に、某国工作員が攻撃するという信じ難い想定のもとにサブマシンガンで武装する警官を配置するに至った。そもそも発砲による施設破壊のほうがはるかにこわいはずだが…。MD(ミサイル防衛)も同じだ。何としても敵の存在を永続させ、敵によるミサイル攻撃を前提にしなければ成立しないものを、先にあるべき外交を無視して恒久化するという本末転倒だ。天文学的数字の借金国家が費用対効果を無視することが可能なのか?こうした旧態依然の対応を正面切って批判する声は残念ながら少ない。
社会システムを生命体に喩えるなら、血液や神経系の信号が頻繁に漏洩しているわけだ。生命維持活動そのものの危機に見舞われながら、それでもまだ外敵への備えとして武装強化につとめ、筋力トレーニングに励む様は、滑稽としか表現出来ない。腹筋や腕立て伏せのたびに血がぴゅうぴゅう吹き出るわけだ。煽動を解き放ち本当の危機を見据えるべきだろう。
グローバリゼーションの流れは多くの災厄を伴なっている。一方で国境に固執しながら、都合よく国境を越えて利潤追求に走るというエゴイズムだ。世界市場という発想は、富める者と貧困層の格差を極端に拡大した。ますます便利になる大都市は、世界中に散在する死と隣り合わせの巨大スラムと対になる。この気の遠くなるような格差を無視して押し付けられる「テロとの戦い」は事実無根、荒唐無稽のでっちあげにほかならない。10平方メートル四方当たりに数十人がひしめくスラムの人々と、私たちが共有すべき問題が「テロとの戦い」でないことは自明だ。そんなスラムの人々の存在を自分の問題として考えざるを得ない問題こそ新型インフルエンザ問題だ。
家禽、畜産業の大規模な大量生産、すなわち工業化は、世界中で多国籍企業によって巨大化を果してきた。単位面積当たりの生産量、そして効率という発想が「密飼い」というおよそ生き物にふさわしくない環境を作り出す。あってはならない感染症予防のために抗生物質漬けにされ、必然的に耐性菌を生み出す。もっとも恐ろしいのは、スラムのように圧縮された環境での感染症の発生だ。その頂点に新型インフルエンザがある。生産段階の飼育棟が言わばコンデンサーの役目を果たすことになるわけだ。WHOが最も恐れるのがアフリカだ。ひと、ものの流通が高速化した現在、世界のどこで起きたことも全体の問題と言って過言ではないだろう。金持ち、貧乏人を問わず、パンデミックに関しては地球は冷酷に閉鎖系を決め込む。
「アジアでも各国政府が感染爆発の発生を隠し、国際機関に嘘をつき、密告者を脅してきた。ことによると発症例や死亡例も隠蔽しているかもしれない。家禽畜産業界の巨大多国籍企業は、タイや中国では古くから政府と手を結んでおり、この危機を利用して家禽の生産体系を自らに有利な形に変えてきた」(「感染爆発」マイク・デイビス 紀伊国屋書店2006)
前述のような「家畜革命」と巨大スラムによりインフルエンザウイルスの生態環境が根本的に変わり、新種のウイルス進化が加速しているとマイク・デイビスが指摘する。これを書いている最中に新型鳥インフルエンザの死者が世界で100人を越えたとニュースが報じた。2004年タイ、バンコクの動物園で80頭以上のトラがウイルス性肺炎で痙攣を起こして死んだニュースなど覚えている人はいないだろう。ゲノタイプZ(10以上のH5N1型ウイルスで最強に進化したもの)とよばれるウイルスは、大小のネコ科の類いばかりでなくワシなど広範囲に拡大していった。ゲノタイプZは生態系を破壊すると言われている。WHOの推定では1918年(スペイン風邪)の数値にもとづく推定死者は3億2500万人だが、ゲノタイプZの現在の致死律から推定すると死者は10億人前後になるという。
出口の無い地球に閉じ込められた人類を含む生態系が、新型インフルエンザを混入して攪拌されるわけだ。「テロとの戦い」に特化した米国で、まず有り得ない生物学的脅威(炭そ菌、ボツリヌス菌など)に多額の予算を向け、現実的な抗ウイルス薬、新抗生物質をおろそかにした失態について、米政府ワクチン接種諮問委員会で、反体制派のポール・オフィット博士は「サダム・フセインがインフルエンザの黒幕でないのが実に残念だ。そうしたらわれわれももっと良い仕事をしたろうに」と語った。(「感染爆発」)
「厚労省は新型インフルエンザが国内発生した際、強制入院や就業制限などの措置がとれる(指定感染症)に指定するかどうかの基準をつくる方針。厚労省は新型の国内被害について、死亡は約17万人〜64万人と推計」(06.3.22中日)鈍感とはこのような対応を言うのだろう。
かすかに、しかし確実に伝わって来るパンデミックの予兆と、外交を機能させることで充分回避可能な戦争のための「国民保護法(実態は戦争協力・動員法)」などの、どちらにリアリティを見いだせるのか?
2006.3.24高木