人災と天災

 

2004年、NASAの実験機が音速の9倍を達成した。人と物の移動はますます高速化してゆく。人間の歴史は技術の歴史でもある。

大移動時代とも言われる現在、輸送・通信の発達は世界を洗濯機の内部状態にしている。生産国も生産方法も流通経路も不明なものを食べ、消費し続ける現実がある。トレーサビリティーの表示も恣意的なものにすぎない。その社会が信頼に足るものか否かということだ。

意図されたもの、目的以外の、望まないものまでが高速移動する時代だ。たとえばハッカーの情報であり、さまざまな病原菌であり、エイリアン的生物の場合もある。核物質や有害化学物質も忘れてはならない。

技術の進歩には、必ず最下層の人々の苦しみがともなう。富者は技術の恩恵を被り、貧者は生きる手段からさえ見放される。ITにより万能の幻想さえ抱く富者の影で、一生、電話を使うこともなく終わる人々がいる。富者はますます便利になり、貧者はその逆というわけだ。自然災害は富者と貧者の格差を更に拡大する。2004年末、時速700キロでインド洋各地を襲った津波は報道のたびに被害が拡大している。津波が襲ったのは、まさに米軍の新たなフィクションである「不安定の弧」だった。それゆえに米国は災害救援の主導権を握ろうとし、小泉政権は500億円拠出と自衛隊派兵を即断した。最大のイスラム国インドネシア、アチェが空爆なしで侵攻可能なのだ。だが、欧州など各国の反発で、国連主導の援助に変更することになった。

フィクションをノンフィクションと言いくるめた911以降の米国の侵略を考えるなら、未曾有の災害である今回の津波で、国連が救援をリードすべきなのは当然だ。緊急の救援に下心や利害、思惑を挟むべきでないのは言うまでもない。まして貧者を直撃した災害で、救済が格差を生む事は許されない。それにしても国内経済破綻状態にあって、なりふり構わぬ増税しか道が無いというのに、中国を意識し、常任理事国入りを意識した500億円拠出と派兵の即断は立派としか言いようが無い。対米追従なら人災でも天災でも利用するというわけだ。もちろん国会というプロセスを無視したまま。

誰が考えても世界一の温暖化促進国である米国では、21世紀に入っても進化論を否定する教育がおこなわれているという。まさにキリスト教原理主義国家だ。その世界観が地球規模で進行する事態を平然と否定し、科学的事実を一蹴するのは、一極支配が可能という強者の論理にほかならない。だが、さまざまなデータが示すように、現在地球規模で進行する事態は、過去6億年に起こった最大規模の大量絶滅に匹敵するというものだ。その原因が人類にあり、とりわけ米国社会の世界観・生活観にあるとしたら、たとえば米国人およびその価値観を共有する人々が「エコロジー」などと口にすることは、まるで生えるはずのない育毛剤や、さかんにクリーンを強調する電力会社、毎日食べたら「スーパーサイズミー」みたいにドクターストップがかかるマクドナルドのような大嘘を真実と錯覚するにも等しい。世界中を民主主義社会にするための使命を負う米国ならでは、である。

世界を正確かつ公平に認識せず、脅威や災禍が誇張されて、防衛や防災というフィクションの囲いの内側で生きる事が強いられる。フィクションを信じない人々を排除しながら。

自然を正確に認識することを防災の原則とするなら、戦争など人災は、コミュニケーションの問題だろう。津波や地震をコントロールするのは不可能だ。正確に認識して有効な対策を講ずるほかない。だが人災である戦争の予防は、コミュニケーション破綻後の戦闘能力ばかり強調して語られる。そうではなくコミュニケーションにこそ戦争予防、回避の道があるはずだ。

今回の津波で15万人が死亡、500万人が被災した。一刻も早い救援が遅れれば、感染症などによりさらに15万人死亡という可能性も指摘されている。ところで忘れてならない数字は、米軍が殺した10万人以上のイラク人だ。さらに放置された劣化ウラン弾で何人死ぬだろう?どちらも進行中で解決の目処が立たない。日本人は侵略者側であることから発想しなくてはならない。

阪神淡路大震災から10年。橋脚は鉄板で巻かれ補強された。高架橋のつなぎ目には巨大なチェーンがつけられ大きく揺れても落下しないように加工された。防災意識は伝わらないわけではない。だが地震には非力すぎる。地震を無視してきた「現在」をそのまま補強する発想は巨大地震には無効でしかない。初めに地震列島がある。揺れる大地でも私たちは生きてゆこうということだ。地震について真摯に考えてない決定的な証拠は52基の稼働中の原発であることは言うまでもない。インド洋に原発が無かった事は、核災害という人災が先送りされたにすぎない。このような事が理解出来ないなら、すでにBSEが発症したのかもしれない。最近あなたはめまいを感じたことはなかっただろうか?巨大地震、巨大津波で原始にリセットされる現代文明では束の間の夢にすぎない。目前の利益追求という政治手法で構築された都市空間が脆弱なのはあたりまえだ。要するに、天災も人災も起こるという前提で500年、1000年というスパンが求められているわけだ。その意味で阪神淡路大震災の教訓はまったく生かされていない。

災害が直接自分に及ばないと理解出来なくなってしまった人間が多い。技術の進歩はリアリティを無くす。さまざまな経験が技術の進歩で間接的になり、仮想空間におけるシミュレーションだけになってゆく。そこでは人を殺しても血は流れない。単なる数字の変化だけが起こる。もっとも経験したくないこと、悲惨で、苦しくて、逃れる事の出来ない嫌な経験から解放されるのだ。だからこそ富める者ほど現場から遠ざかり、臭いも、悲鳴も、痛みも感じなくなる。(ゴミ捨て場から防弾ガラスや鉄板を探して車の装甲を強化しなければ戦えないと言う

イラクの米軍兵士の訴えを、今あるもので闘え、と冷たく突き放すラムズフェルドは、その意味において正しい)そんなカプセル状態の人間、すなわち政治家によって、新しい戦争というフィクションが語られようとしている。

200517高木

 

時折吹き荒ぶ寒風に少しためらいながら一羽の鴉が灰色のアスファルトに降り立つ。軽々と23回跳ねた先に、おそらく酔客の嘔吐物らしきものが朝日に鈍く光っている。鴉は無表情にそれを啄ばみはじめた。半ば消化しかけた麺のようなものがツーっと糸を引く。たとえ抑圧されたサラリーマンの呻きだとしてもそれは飽食、過剰を生態系が始末する風景だ。

誰もが感じているのに言葉にしない事態が、ひとびとの無表情、無関心を糧に進行してゆく。全体主義化、軍事社会化のことだ。

60年を数える民主主義が砂上の楼閣にすぎなかったのは改めて言うまでもない。それゆえにあらゆる場面で加害者意識の欠落と被害者意識の過剰が席巻している。戦前が延命し、ピラミッド型階級社会が堂々と、しかもセーフネットがないまま横たわっている。腐敗したジャーナリズムに自浄作用は無く、権力擁護の翼賛機能を果たすにすぎない。ニュースは死んだ。

世界の趨勢が、ぎこちなさをともないつつも人権意識の高まりを目指すのに、この国独特の閉鎖社会は、人権を蔑み、ひたすら忌み嫌うばかりだ。生物や自然とは相容れない閉鎖系を生きるには、反自然を強要され大きな抑圧を生む。暴力が支配する世界。ここでは世界が共有する歴史認識はタブーだ。思考停止が奨励され、時間の脈絡を消滅させて「現在」だけが重要になる。暴力を内包した上意下達がスムースに行なわれるために、だ。上部の失敗はまかり通り責任も問われないが、下部だけが自己責任を問われる。かくして歴史そのものが無罪となる。人間性否定社会を生き延びるため、無関心で武装する多くのひとびとのおかげで、異論・反論の表現が奪われ、実質的な政治批判が封殺される。つまり生活能力としての無関心が全体主義を保証するわけだ。

移動の自由の制限は、ごく一部の反体制者以外には自覚されない。無限増殖する監視カメラに気付くこともなく、逆に自由さえ錯覚するほどだ。だが個人のトレーサビリティを確保した完璧な管理社会が実現している。だれが、いつ、何処で、何をしたか、本人よりはるかに詳細な情報が把握されている。なんなら身に覚えの無い捏造さえ可能だ。すなわち全体主義下において個人の物語は必要とされず、恣意的に操作された全体の物語だけが存在することになる。全体の物語を逸脱した者は排除、もしくは拘禁されその間の虐待や拷問は日常的に行なわれる。生活能力としての無関心が関心に転じた時、権力が牙をむくわけだ。自立した関心や疑問は許されない。暴力と情報統制が体制維持の手段だ。いったいこれはどの国のことだろうか?北朝鮮?それとも日本?

「憲法では、市民の権利は平等と認められているが、政府は教育機会、仕事、居住許可、配給の物を貰う権利などの優先順位(3つの階層−核心動揺敵対)を未だに使用している」(朝鮮民主主義人民共和国の人権と食糧危機 アムネスティ・インターナショナル 現代人文社2004

「政府の行動を監視したり、飢饉や食糧危機によってもっとも被害を被る社会的弱者の立場を代弁する独立した非政府組織は存在しない。このため市民にとって信用できる情報が不足している」(同上)

アムネスティ・インターナショナルによれば、正確な情報が得られないが、北朝鮮の1995年以来の飢饉と食糧危機の結果、22万人から350万人が死亡したという。悲劇を招いた理由は(経済システムの制約、旧ソ連との経済関係の崩壊、自然災害)であり批判の許されない金正日一極支配体制にある。

それにしても隣国で、スマトラ沖地震による大津波の犠牲者をはるかに越える餓死者が出ているにもかかわらず、情報が伝わって来ない。では日本の情報は健全に機能しているだろうか?

NHK従軍慰安婦特集番組(20011)「裁かれた戦時性暴力」はNGO女性国際戦犯法廷のドキュメントだ。放送前に自民党議員安倍晋三と中川昭一がNHK幹部に圧力をかけ変更や中止を求めた結果、従軍慰安婦問題の本質が隠されてしまったと20051月、番組のチーフプロデューサーが内部告発、記者会見で政治的圧力があった事実、海老沢体制になって放送中止など現場への政治介入が盛んに起きるようになったと証言。しかし、細田官房長官は調査に乗り出す考えはないと言明した。4年前、この問題を追及するマスコミはほとんど無かった。歴史に関するたくさんのタブーが封殺されたままだ。いったい北朝鮮とどこが違うのだろう?

日本と北朝鮮に通底するのは反人権だ。たまに貴重な北朝鮮の映像が報道されるたび、その前近代性を笑い、蔑むのがこの社会の反応だが、じつは「もの」の欠乏過剰の違いだけが両国の外見上の差であり、ピラミッド型管理社会、軍拡志向、情報操作などたいした違いはないのだ。なによりも体制批判の異常な少なさがある。両国民は同じ言葉を口にしているはずだ。「大きな声では言えないが…」と。

日本は先進国では珍しく死刑制度があるが、その実態を徹底的に隠蔽することで機能させるのに対し、北朝鮮では公開処刑が行われ、処刑を見せるために教師が学校の子どもたちを引率してゆく。繰り返すが、両国に通底するのは、反人権である。

歴史を封殺し、加害者意識を欠落させ、被害者意識を煽ることでいとも簡単に「敵」が生み出される。制裁の始まりだ。

鴉の眼球に荒涼とした風景が映る。無表情に頭を動かす夥しい鴉たち。ここには、あらゆる欠乏が横たわっている。自己完結の破綻、閉鎖社会の末路だ。過剰の国の物語が、欠乏の国に終末の風景を現出させる。罪の意識はもちろん無い。鴉が啄ばみつづける無数の餓死者たちを世界が知るのはずっと後だろう。

2005114高木

ホロコースト

 

英国王室のヘンリー王子(20)が、パーティでナチスのカギ十字Tシャツを着たことで、若者の歴史認識をめぐって論争が起こった。127日のアウシュビッツ解放60周年記念行事を欧州各地が予定するなか、アウシュビッツを知らない人が増えている現実がある。BBC調査では16才以上の4000人のうちアウシュビッツを知らない人が45%、聞いたことがある人の70%も、何が起きたか知らない、という。

1993年、浜松でアウシュビッツ展が開催され、この種のイヴェントとしては(浜松としては)異例の盛況となった。思い起こせば、ナチ・ホロコーストは「遠い国」の「古い」話として、どのような人々にも都合良く共有可能な話題だったのだ。「他人事」は悲惨で残酷なほど面白いエンターテインメントになるというわけか。物言わぬ展示物は多くのひとびとの日常とは切り離されていた。ホロコーストの証拠たちの沈黙は、日本人自身の記憶による応答をこそ求めていたのに虚しく沈黙し続けるしかなかった。それぞれの記憶が交わる事は無かったわけだ。その証左が、憲法第9条下の堂々たる海外派兵であり、そこまでの過程で反戦平和行動参加者の呆れるほどの少なさがある。なによりも同展のスタッフでさえ、反戦意志表明する者が少ないのは、沈黙は金なりということだろうか。戦争に対する個人の思いや考えが総体としての「銃後」を支えている。平静を装い、善人面したところでまぎれもない侵略者の一員なのだ。記憶の危うさと無批判が無自覚を育み、暴走するフィクションすなわちファシズムに至る、ということだろう。

仮に旧日本軍ホロコースト展があっても、60年前に何があったかを知るひとが少なくなり、それを伝える教育が機能してこなかった社会は、他人事としか捉える事は出来ないだろう。もしくはでっち上げと非難するかもしれない。知らなければそれも可能なことだ。

季刊誌「前夜」20052号が「グアテマラ ある天使の記憶」(影書房)という写真集を紹介している。グアテマラ人写真家ダニエル・エルナンデス・サラサールの作品集だ。グアテマラは、36年の内戦を経て96年に和平協定を結んだ。そこで横行した人権侵害を写真とインスタレーションで告発する。虐殺された人たちを記憶として留めるため、発掘された遺骨(女性の左右の肩甲骨)を天使の羽に見立てて男性の裸の肉体にコラージュする。男性は目、耳、口をそれぞれ塞いでいる。「みんなが歴史の声を聞いていれば、内戦は起こらなかったのではないか」内戦中グアテマラのほとんどの人々は、つらい記憶、残虐な行為に目を塞ぎ、口を閉じ、耳を塞いできた。しかも自発的に。人々の沈黙が内戦を継続させたとダニエルは告発する。さらに「前夜」2号において徐京植(ソ・キョンシク)が「虐殺とアート」と題して講演録を載せている。90年代は全世界的な「記憶の闘い」の時代だった。しかし日本だけが特殊、例外的だった。死者を適切に葬らなければ平和を得ることは出来ない。従軍慰安婦や戦争被害者の告発があったにもかかわらず、歴史を否定しようとする日本社会がある。(アートと闘い)が無縁な社会が日本であり、日本のアーティストはほとんど闘いとは無縁だ。闘いに関与するとアートの質が下がるとか、無縁だと思われているこの日本の状況こそが特殊なのだ。記憶というものにすら関心を持たないこの社会のありようは間違っているということを、日本人のあなたが突き詰めるべき立場にある、と迫る。

徐京植の、日本社会のマイノリティとマジョリティを逆転させる衝動とも呼べる直言は言葉の力そのものだ。久しく論理の途絶えた社会でも、正当を回復するには言葉によるしかないということか。それにしても周りは偽物ばかりの風景になった。

「ナチ・ホロコースト」の記憶が歪められている。いまや米国ユダヤ人エリートのためのイデオロギー兵器であり、政治的、経済的資産と化したホロコースト産業について、両親がナチ強制収容所生還者であるノーマン・G・フィンケルスタインが「ホロコースト産業」(三交社2004)で告発する。

彼は、シオニズムとイスラエル、それを支援する米国ユダヤ人エリートへの敵意を明確にする。同書は国際的に大反響を呼んだ。仏ル・モンド紙は丸2ページと社説でも論じ、英主要紙も1ページ以上割いて、ラジオ、テレビでも取り上げられドキュメンタリーも作られた。もっとも強い反応はドイツだった。正反対に米国では主要メディアは、まったく触れようとしなかった。ノーム・チョムスキーを除いて。著者自身も、執筆にあたりチョムスキーにあらゆる段階で援助を受けた、としている。

「ザ・ホロコースト」を武器として利用することで、世界一の軍事大国が、その恐るべき人権蹂躙の歴史にもかかわらず、犠牲者面をすることが可能になる。

1990年代になり突然、ホロコースト補償の話が広がった。ホロコーストの誇張により、米国の公的なゆすりが始まったのだ。特にクリントン政権期がホロコースト補償キャンペーンと重なる。スイス、オーストリア、ドイツ、そして旧ソ連という後ろ盾を失った貧乏な東欧がつぎつぎと標的になってゆく。スイスはホロコースト産業の脅しに97年だけで5億ドル払い、98年、125000万ドルの支払いに同意した。ホロコーストを絶対化した言説が米国を神聖化し、際限の無い補償金がゆすられていく。終戦時10万人だったホロコースト生還者(今も存命中はこの4分の1を超えない)だが、最近イスラエル首相府は、存命中のホロコースト生還者を100万人近く、とした。新たな賠償金をせしめる圧力にするためだ。

ドイツは50年代以降、生還者に600億ドル以上支払っていたにもかかわらず、クリントンの圧力でふたたび効果的にゆすられた。ドイツとの交渉に入ると存命ユダヤ人元収容者数が10倍近く増加した。なんとユダヤ人元収容者は50年前よりも今のほうが多いことになるのだ。そして、皮肉にもホロコースト産業の出す数字が(死亡率が異常に少ないと考えるしかない)ことによって「ホロコースト否定論者」に近づいてゆくのだ。

「継続的批判にさらされない真実は、最後には誇張されることにより真実の効力を停止し、誤りとなる」(N・G・フィンケルスタイン)

この言葉によれば、日本には真実など存在しないに等しい。個人の物語が沈黙を強いられ、全体の恣意的な物語だけがまかり通る。

たとえば、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民と認めたクルド人親子を難民と認めずトルコに強制送還した。トルコでクルド人自治運動をしたため戻ったら殺されると主張したが法務省は3回の申請をすべて退けた。「人道」という概念が無いのに「人道復興支援」などと声高に叫ぶ愚かな国がここにある。

2005121高木

「哀れな国ですね」

 

韓国人の父、日本人の母のもとに生まれた在日韓国人女性鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さん(54)は東京都の保健師として働いてきたが、管理職試験で都側が日本国籍でないことを理由に拒否したのは憲法違反として訴えていた。最高裁は126日、「公権力の行使や公の意思決定に携わる公務員は日本国籍であることが(当然の法理)であるとして都の決定を合憲と判断した。

「少女時代、差別に苦しみ何度も自殺を考えたが、中学2年のとき、日本国憲法前文を読み、基本的人権と、ふたたび戦争の惨禍が起こることのないようにするという宣言に感動。高校卒業後本名を名乗った。1988年東京都初の外国人保健師に採用された」(中日127)判決後、鄭香均さんは「哀れな国ですね」「これは日本国民の問題です。判決には涙よりむしろ笑いが先に出た。戦後民主主義の何たるかを大法廷は分っていない。世界中に言いたい。日本には来るなと」と厳しい口調で語った。

「国籍条項」撤廃要求は70年代、在日韓国、朝鮮人を中心に盛り上がった。73年阪神地区の7市が撤廃、その後動きが鈍ったが96年川崎市が、原則として全職種解放という川崎方式を示すと、その後政令市全13市、110県が一般職でも撤廃している。

「日本一、日系ブラジル人が多く、国際都市を目指す浜松市は、公務員の外国人採用を認めない。国籍条項のため外国人は一般事務職になれない。静岡市は97年に撤廃。同市人事課は、外国人も住民税を払うなど義務を遂行しているのだから行政に携わる権利はある、との見解。」(中日05128

この問題は姜尚中(カン・サンジュン)の指摘するように、国籍の異なる人を、社会を支える重要な役割における共同体構成メンバーとして受け入れるのか、それとも内なるアウトサイダーのままにするか、日本社会が問われたということだ。

欧米でアウシュビッツを知らない世代が増えているように、なぜ日本に在日韓国人、朝鮮人がいるのかさえ理解してない日本人が多くなっている。何よりもこの国の歴史認識が曖昧なまま推移してきた事実がある。日本人自身がアイデンティティを不透明にしてきたため在日であろうと来日であろうと日本社会における平等な位置を確立することが困難だった。

なんとなく日本で生まれ、育ち、仕事をしているが、この国の生い立ちを知るわけでなく、これからを真摯に考えることもない多くの日本人が、ある日突然、欠落していた主権者意識に目覚めることはありえない。今は、容易に煽動されて加害者になってゆく国民が必要とされる時代なのだ。共に生きる意識がなければ、差別される側の痛みなどわかるはずもない。在日の人々の苦難を他人事として切断してきた日本人は、おそらく、自らが取り返しのつかない状態に陥ってはじめて、もがこうとするが、道は閉ざされていることを知る羽目になるだろう。何が起きても共同体、公共の責任者が問われないまま、年間32000人の自殺者を出して平然と居直る社会がここにある。全体が問われているのに、自己責任という個別、私的な物語にすりかえられているのだ。

都国籍条項訴訟の最高裁判決が「50年前と何も変わらない」と批判されるように敗戦後60年、民主主義は機能停止という機能を果たしてきた。戦前の解体し得なかったもの、の堂々たる復活のための「書き割り」にすぎなかったのだ。

この国に何が起きているのか、を知るには、世界で日本がどのように存在しているか自覚することが先だ。大前提が憲法9条である。(建て前であったとしても)戦前と戦後は9条で切断されたはずだからだ。9条の現在、9条の現場でなにが起きているか、その答えこそ日本の現在の姿に他ならない。

「進行中のホロコースト」である米イラク侵略には、沖縄の米海兵隊が参加、横須賀からの米空母艦載機がイラクのひとびとを空爆、巡洋艦はミサイルを撃ち込んだ。在日米軍基地の維持のために日本人の税金が年間6600億円使われている。

また、200111月〜200412月までにインド洋、アラビア海に派兵された海上自衛隊により約384000キロリットル(約143億円以上)の燃料を無料で米英仏などの11ヶ国の海軍艦艇に給油している。また、航空自衛隊輸送機が、在日米軍基地間やグアム米軍基地間で物資輸送している。

自衛隊イラク派兵以前に日本は米国の侵略戦争に加担している。兵站支援は、憲法の禁じた武力行使との一体化に他ならない。輸送、補給、整備、そして戦闘はひとつの連続した作戦行動だ。占領への支援は、交戦権を否定した憲法第9条第2項に違反する。(資料;ルポ戦争協力拒否 吉田敏浩 岩波新書2005

イラク特措法は何重にも違憲であり、イラク派兵は自衛隊法にも違反している。

「画期的前進だ。これまで海外派兵を認めたことは無かったが、あれは戦時下だから海外派兵の範疇にはいる初めてのケースだ」(山崎自民党幹事長、朝日2003328)   

2ステージに突入したブッシュ政権は、パウエルが退きライスが登場した。双子の赤字をものともせずに強硬路線継続の構えだ。米軍再編(トランスフォーメーション)において、ラムズフェルドは「求められ、歓迎され、必要とされる場所に米軍を駐留させる」と語る。冷戦対応型のドイツなどをやめて、世界各地に迅速に展開可能なハブ基地としての機能を在日米軍基地に要求する。日米安保条約の劇的変貌が始まろうとしている。戦争可能にするためのさまざまな既成事実の積み重ねの先に「改憲」が見えてきた。国民保護法制などの法整備、国民監視網のいっそうの強化などが着実に進む中、もはや時間の問題とされる「新たな英霊」という悲劇が煽情的に強調されるのは間違いないだろう。

2005121高木