PKF画策

 

「この国の司法は腐っている」青色LEDの開発研究者が特許問題で裁判の末、意にそぐわない和解を強いられ記者会見で語った言葉だ。司法がおかしいのはこの問題ばかりではない。加速する軍事化において司法はすでに暴走状態と言ってもよい。

128日、小泉首相の靖国参拝は違憲として訴えていた沖縄戦争体験者や遺族ら94人に対して那覇地裁は憲法判断もしないまま退けた。原告側は沖縄戦では、住民を虐殺した旧日本軍を英霊として祭る靖国神社は許せない存在であり首相の参拝は犠牲者を冒涜すると訴えていた。

判決後、原告の金城さんは「沖縄戦の現場を見た裁判官はピクニック気分だったのか」「司法の誇りはないのか、バカにしている」と声を荒げ、ひめゆり学徒隊で戦死した姉をもつ仲里さんは「姉は名誉の戦死でも英霊でもない。洗礼を受けたキリスト教信者で、勝手に靖国に祭られては浮かばれない」と語った。(毎日・05128

この国の軍事化の加速を黙認し続ける司法と歩を揃えるかのように、政府は、スーダンでのPKOに自衛隊が参加可能か検討を始めた。現在までの自衛隊によるPKO参加は、カンボジア、モザンビーク、東ティモール、ゴラン高原に派兵されてきたが、スーダンではPKF(国連平和維持軍)本隊業務への初参加となり文字どうり、殺し、殺される可能性が浮上する。スーダンは国を南北に分断して20年以上内戦が続き、死者200万人にものぼる。最近やっと和平合意が出来たが、西部ダルフール地方では新たな内戦が起きて20万人の命が危険にさらされている。イスラムの政府と、南部のキリスト教徒の対立に、南部の石油利権が絡み内戦が泥沼化してきた。ダルフールでは政府がアラブ民兵を支援して黒人を迫害しているという。そのような宗教、人種、政治、経済が複雑に絡み合った内戦状態の国に、平和憲法を持った日本の自衛隊が専守防衛でなく戦闘を前提に派兵されようとしている。

なぜ、危険を承知で?これまで解釈改憲による海外派兵の既成事実を蓄積してきたが、明文改憲で集団的自衛権行使可能にして実質的軍隊に劇的変貌をとげるために、触媒として「英霊」が欲しいのだ。思考停止した国民を煽動するための情動誘発剤として。

経済同友会をはじめ、政財界の強い要求である「戦争可能な国」が、大義名分として、人間以上の価値を捏造するために英霊が必要とされるのだろう。平和憲法下の派兵ですでに論理を失っているから戦争を精神的に可能にするものがほしいということか。死者の沈黙が利用されようとしている。

ふりかえれば、1992年、PKO違憲訴訟の原告となり、10数回の審理が行われ、私自身も名古屋高等裁判所において意見陳述をした。海外派兵は違憲であり、国内におけるたとえば野宿問題の放置による棄民政策など緊急を要するものを忘れるな、という内容だった。最終的に棄却、却下と言う結果になったが、この国の派兵の意志はすでに熟成し、湾岸戦争を突破口としただけのはなしだった。かくして90年代から現在に至るまで平和憲法下、PKOという名目でなしくずしに派兵が実行され、911を奇貨として派兵国家への加速が続く。歴代首相でもっとも論理力に劣り、国民の命にかかわる問題を他人事のように冷笑する米国の忠犬、小泉純一郎首相が初めて戦闘地域に派兵させたことは、じつはこの国の民度を表わす象徴的なことだった。

後方支援、補給、輸送などの兵站を戦争と見なさない事は、喩えてみれば、銃身、引き金、撃鉄、銃床などそれぞれを無害で平和な部分と見るに等しい。殺される側にとってどう映るかを想像出来ない程、この国は貧しいということだ。いずれにせよ、現場の当事者、つまり戦場の自衛官のリスクを、他人事として考える人々によって戦争が可能になる。その証拠が政府、経済界が使う「人的資源」という考え方だ。言うまでもなくそれは戦前の国家総動員法に通底している。ここにおいて自衛官は人間を否定され単なる数字と化す。たとえばイラクでの米兵死者は1400人を超えたが、イラク人死者は公表さえされない。すでに100000人を超えているというのに。同じ人間という視点がないからだ。もちろん、だからこそ戦争可能ということだ。

家族や恋人が戦場に送られている銃後としての現在、「物言えば唇さむし」という雰囲気が生まれつつある。古田敏浩著「ルポ戦争協力拒否」(岩波新書)が決して報道されない貴重な現場の声を伝えている。

「小泉首相も石破防衛庁長官(当時)も自衛隊幹部も、海外で一度は自衛官に血を流させたいんじゃないですか」(40代陸曹長)

「自衛隊はサマワで歓迎されても、イラク全体でみれば、米軍占領に加担する軍隊とみなされるでしょう」(302等海曹)

「なぜ危険を冒してまで派遣すべきなのか。小泉さんの考え方がわからない。それなら自分も行くべきだ」(自衛官ホットライン)

「小泉はおかしいと思います。彼は現状を知らない。戦地に行って危険な事になってないから。アメリカと約束を果たしたいだけのよう」(同上)

元衆議院議員(自民党)、防衛政務次官などを歴任した箕輪登証人は立川・反戦ビラ訴訟第5回公判で「政府はこれまで、自衛隊が違憲でない事の説明として、専守防衛、集団的自衛権の否定、非核三原則という三つの条件をあげた。しかしイラク派遣はこの約束と違う」と証言した。

「最近残酷な事件が多い」と思うあなたはすでにミスを犯している。煽情的に報道される個別、具体的な犯罪よりも、報道されてこなかった日本の近・現代史とそれに起因する国家的犯罪から見事に視線がそらされているからだ。昨今の残虐な事件の何倍もひどい事件が闇に葬られてきた。どれほど日本人が醜いか、アジアの犠牲者、被害者に聞くほかない。加害者側の論理で世界を公平に読むことはできない。憲法を堂々と無視する国家が正しいとされるなら、その社会自体が欺瞞なのだ。

国家として戦争する意志が露わになった現在こそ、ひとりひとりの正確な歴史認識

に依拠した世界観が問われている。それこそが世代と国境を超えて共有されるべきもののはずだから。

200524

民営軍事請負業(PMF)

 

「公共」が蝕まれて久しい。かって考えられなかった分野が次々と民営化されてゆく。刑務所、水、サービス、情報から、老いや死まで商品化される時代だ。世界を席巻する民営化の嵐は、ロックグループのクラッシュが名曲「ロンドンコーリング」を炸裂させた1979年頃から、英国サッチャー政権により始まった。当時の英国社会を知るには、気骨ある労働者たちが描かれた映画「リトルダンサー」や「ブラス」をお勧めする。サッチャー政権下の強権的な弱者切り捨てに通底する小泉改革を読む事ができるはずだ。民営化はソ連崩壊で爆発的に進み、その後グローバリゼーションと呼応した。さまざまな分野が金もうけの対象にされ、ほとんど飽和状態のなか貪欲にニッチを求めた結果ついに、戦争までが儲けの対象に浮上したのだ。

「戦争請負会社」(PW・シンガー NHK出版2004)はほとんど知られていない戦争の民営化の実態を詳細にレポートする。

イラク侵略戦争においてファルージャで義憤に駆られたイラク民衆により殺害され手足を切断されて引きずり回され、吊し上げられた米国人こそ、民営軍事請負業のひとつブラックウオーター社の社員だった。この映像がきっかけとなって米軍によるファルージャ壊滅作戦が行われた。またアブグレイブ刑務所の拷問にCACI社とタイタン社が関わった。ディック・チェイニーのハリバートン社をはじめ、イラク侵略には民営軍事請負業PMFPrivatized Military Firm)が欠かせなかった。

PMFは冷戦後、爆発的に出現した。軍事費削減の裏面がPMF急増であり、表向きの軍縮は戦争のアウトソーシングで支えられるということだ。

PMFは、南米、アフリカ、中東などで悪名を馳せた軍人が迎えられたケースが少なくない。一口に戦争といっても、警備、軍事的助言、訓練、兵站支援、治安維持、専門技術、情報収集、武器整備、そして地雷除去から実戦まで幅広い。その全てがPMFの業務だ。

多くの人が気付かぬうちに出現し、戦争の構造に組み込まれ重要な機能を果たしている。しかも世界はPMFにますます依存するようになっている。すでに国連、UNHCR、さまざまなNPOPMF無しで活動出来なくなってさえいる。

いまやPMF市場は年間1000億ドルという。要するに市場原理であり金さえあれば誰でも雇うことが可能なのだ。しかし、プロとして戦うが、その忠誠心は疑問で、さらに金を積まれたら寝返りさえ起こる。

冷戦後、大量の武器が民間市場に出回った。アフリカではT55戦車がSUVよりも安い。ウガンダではAK47(カラシニコフ)が鶏一羽の値、ケニヤではヤギ一頭で買える。世界には55000万挺の小火器が出回っている。そして紛争の種には事欠かない。南北をはじめ格差は深まるばかり。何の罪も無いひとびとが毎日殺されて憎悪は消えることがない。かくして戦争が商売になるというわけだ。すでにナパーム弾、クラスター爆弾、燃料気化爆弾、最新鋭戦闘機などがPMFによって使われ、核の分野にさえPMFが介入しはじめたという。軍事力のヒエラルキーが超国家的かつ経済的に再編される。かって政府の独占だった戦争が、不透明性を保ったまま民営化されてゆく。経済力がすべての世界。グローバリゼーションで国境をこえて企業が活動可能になり、そこにPMFが結びつくことで、帝国主義の新しい姿が具体化する。

P・W・シンガーは「戦争請負会社」において、PMFの肯定的側面と否定的側面をいくつも例証しているが、理念や原理を置き去りにして、すでにここまで民営化された戦争を認知させ、民営化は仕方の無いことにしてしまう意図さえ感じられる。なによりも戦争被害者の視点が無いのだ。階層化された社会の上部における身勝手な論理とさえ受けとれる。しかし、いみじくもシンガー自身が言い当てているように「永続する平和へのカギは正当性の復活であり、とりわけ公的権威に組織暴力を抑止する力をふたたび委任すること」にほかならない。

民主主義、自由、平等など戦争が真っ先に否定するものから発想しなければ、勝ち誇ったように先行する悲観的な状況の追認を繰り返すばかりになってしまう。 

歯止めない戦争の民営化を無防備に受容してしまうことは、致命的な陥穽となるだろう。直接、自分に災難が起きるまで想像力をOFFにしたままの日本人は、民営化がどれほどのリスクを抱えているか認識出来ていない。

「テロとの戦い」などと、世界を引きずり込む米国が底無しの民営化志向であることは間違いない。世界が金に還元されようとしているのだ。安心や安全が無限大の疑心暗鬼で保証されるはずがない。最強のセキュリティを誇る米国のゲーテッド・コミユニティーが、外部に貧困と不安を追いやって、安全を金で買えたと錯覚する金持ちは、はたして人間的だろうか?それを万人が享受できるだろうか?とんでもない。民営化は差別が前提なのだ。PMFが戦争の民営化である以上、戦争に依存するのは当然だ。戦争の根絶は業界の災難であり、反戦平和は禁句なのだ。ゆえにPMFの意表を突いた登場と急成長が意味するものは、間違っても明るい話題にはならない。たとえ、国連やNPOPMFに依存している、としてもである。

冷戦体制が終わり、国家がゆらぎ、国連の存在でさえ強固でない今こそPMFのデビューが可能だった。戦争の継続を前提にするPMFは平和構築の間隙を突いたわけだ。現在、世界は死にもの狂いで平和を希求するのでなく、そのエネルギーが経済にのみ注がれているようだ。

2005216高木

生活安全条例が銃後を築く

 

「県警は、緊急配備支援システム運用を開始する。新システムは主要道路や橋など県内百数十ヵ所にカメラを設置。事件発生時に逃走車両のナンバーをデータ入力、カメラにそのナンバーが映ると電話回線で通報され逃走車両の居場所や逃走方向が分かる。設置、運用に10数億円かかる」(05217毎日)

いまさら監視カメラに言及するのも飽きたが、いたるところに増え続けるカメラを少しも気にしない多くの人たちのほうが気になる。いずれは米軍、自衛隊、警察の3者で堂々と活用されるはずの監視カメラは、防犯カメラと名付けられ、だからこそ増え続けてゆく。翼賛メディアにより煽動される治安悪化などの不安によってソフトが、ハードのカメラと一体化して監視が正当化するわけだ。

しかし実は「治安悪化」はトリックであることを犯罪白書の元執筆者浜井浩一が

(世界20053)において暴いている。詳しくは立ち入らないが、実際には多くの人の身の回りで犯罪は増えていないにもかかわらず、マスコミにより「体感治安の悪化」が刷り込まれているのだ。統計の取り方によって犯罪が増減するのを利用して、いっそう治安が悪化してゆく。科学的思考、論理的思考が苦手な日本社会ならでは、である。では何のために?危機を煽り、管理、監視が当然とされ不審者を排除する。その流れがグローバリゼーション、新自由主義改革と整合していることを忘れてはいけない。行き着く先は?もちろん米国とともに戦争が可能な国ということだ。

グローバリゼーションが進み新自由主義(新保守主義)改革により、社会の階層化が明確になり、下層(貧困層)に集中する不安、不満がさまざまな形で噴出する。これが現在「治安の悪化」と表現されているものだ。

マクロな流れの結果として下流に生じた現象について、その部分にどのような強行措置を取ったところで問題解決に至らないのは火を見るよりも明らかだ。階層化した社会で救われるべきはあくまで下層である。言うまでもなく上層の安定、安全のためにあらゆるリスクが下層に押し付けられているからだ。ましてや下層の自覚さえ欠いた者が自分より弱いスケープゴートを探すなど本末転倒であり、問われるべきそして糾弾すべきは、階層化そのものである。自由も平等も奪われた多くのひとびとを尻目に、稚拙な保守反動政治家(その多くが裕福な2世、3世議員であり、さまざまな現場を知らずに育ったために、何を言ってもリアリティが無い。もちろん戦争についても)の妄想が具体化してゆく。最悪にも日本社会の曖昧さがそれを保証してしまうのだ。ところでこの曖昧さが、民主主義にとって致命的なもの、そして全体主義にとって不可欠なものを生んでしまった。人権の喪失だ。桶川ストーカー事件、新潟少女監禁事件、裏金づくりや不正経理の発覚など、警察の腐敗が著しい。決定的に不利を承知で立ち上がった内部告発者に社会が呼応できるかが問われている。

「裏金システム」と「検挙率至上主義」がまかり通る警察は、戦前から連綿と続く思想警察であることをすでに隠そうとしない。政治の流れがそれを容認し、むしろ強化さえしている。立川反戦ビラ事件、葛飾ビラ配り事件、杉並区公衆便所落書き事件などで(憲法と乖離した自衛隊)に見合った(憲法と乖離した警察)が露わになった。そのうえ権力のチェック機能を放棄したマスコミは、すでに権力側の視点でしか発想しなくなっている。総じて、この国のかなりの割合の改憲勢力が想像力をOFFにしたまま戦争を待ち望んでいるということだ。

94年以降の「生活安全条例」は、失業拡大、ホームレス激増、年間自殺者30000人突破などとの関連性抜きに語れないが、弱者救済のセーフネットが消滅したまま、犯罪の厳罰化がマスコミと一丸となって進められてゆく。今では容疑者の実名や顔写真が裁判前、逮捕前にさえ報道されている。人権という概念がまるで無いのだ。それにしても、さまざまな対策が喧伝されるにもかかわらずいっこうに治安が改善されたという報道がないことには注目すべきだろう。

「生活安全条例とは何か」(生活安全条例研究会 現代人文社2005)において

田中 隆(弁護士)は、戦争に出てゆく国の治安法制を論じている。

94年、北朝鮮核開発疑惑により米軍は、北朝鮮侵攻作戦計画(5027)の発動寸前までいった。兵站拠点の日本に1000項目を超える要求が突き付けられたにもかかわらず、対応不可能だったことがトラウマになり、かつエネルギーとなってその後、新ガイドラインや有事法制を生み出す。それからの10年はなりふりかまわぬ構造改革と軍事大国化であり、生活安全条例はグローバル化における治安戦略だった。戦争にまっしぐらということだ。

思い起こせば、国道1号線をはじめ監視カメラの激増はそうした流れと完全に一致している。山梨県韮崎と静岡県清水をむすぶ国道52号線などは「オウム」をきっかけに始まり、現在では100km100ヶ所のカメラが機能している。すでに「オウム」が無いにもかかわらず。憂うべきは、まるで嘲るかのように乱立する監視カメラ街道が話題にもされない社会だろう。英国はすでにサッチャー以来の階層化社会で管理が進み全国250万台以上の監視カメラ大国だが、日本が追い抜くのも時間の問題かもしれない。下層の放置が犯罪社会と管理強化を招くのは自明だ。

愛知万博のために排除されたホームレスが見えるか、それとも華やかな万博だけが見えるのか、想像力の問題だ。

有時法制が一段落して、地方自治体の問題に移行する。国民保護法制は、すべての地方自治体に住民避難などの国民保護計画作成を求めており、全自治体に国民保護協議会が設置される。そして2008年には全国で有事想定の避難演習などが行なわれる。

自警団という言葉が復活した。有事法制、国民保護法においては「自分たちの安全は自分たちで守る民間防衛」だ。自警団が非協力者を燻りだし、監視カメラが外国人や不審者を見つけ出す。銃後の社会がこうしてやってくる。

2005225高木