107人の死者が何だ

 

 批判を承知で書く。JR史上最悪とされるJR福知山線脱線事故は、107人の死者と数百人の負傷者を出した。原型をとどめぬ程の惨状を呈して列車がマンションに巻き付いた。その内側の駐車場には、乗客ごと3分の1に圧縮された列車がはまり込む。引火の2次災害を避けて手作業の救出となり、連日、死者・負傷者が運び出される様子が詳しく報じられた。泣き崩れる遺族たち。大量死の現場から慟哭、呻吟、鳴咽が臨場感とともに茶の間に届く。あったはずの笑顔、二度と聞けない声、なぜ人生が奪われなければならなかったのか....死者は正当に扱われるべきだ。

当然、JRの責任が問われる。利益優先体質、事故後の対応がつぎつぎと明らかにされる。

事故車両に乗り合わせたにもかかわらずそのまま出勤したり、事故を知りつつボーリング大会や飲み会に興じたJR社員たちには人権無視の厳罰主義の日常があった。たとえばホームに立たされ、来る電車すべてに「私はミスを犯しました」と言わせるなどだ。

事故が大きければ大きいほど、その罰を社会が要請するかのように、スケープゴートの如く糾弾する報道が過熱する。自分を正義と勘違いするマスコミが口角泡を飛ばしながら。

だが、少し視点を変えて考えてほしい。JRを日本に置き換えて。いったい糾弾する当の日本社会は無罪だろうか?

イラクに大量破壊兵器があるという大嘘の理由で米英が国連も無視して先制攻撃した。すでに10年以上の軍事、経済制裁や劣化ウラン弾の放射能汚染により、武力どころか薬品や水さえも無いボロボロのイラクが反撃出来るはずが無く、一方的に殺された人々はすでに10万人を超える。誰が考えても大量虐殺でしかないその攻撃は完全に報道管制され、茶の間に鮮度の良い死体が届く事はなかった。その非人道的侵略を日本政府は真っ先に支持、さらに経済的、軍事的に、憲法違反さえ堂々と行いながら嘘がばれた後も支持し続けている。10万人以上のイラク人を殺した戦争当事国という加害者の自覚を日本人は持っているだろうか?イラクとは正反対に克明に報道される列車事故の107人の死者は10万人以上のイラク人の死者と対等、平等だろうか?戦争国家が要求する死者の非対称な価値を自覚のないまま日本人がすでに共有している現実がある。

これは偏向したマスコミのせいだけではない。それを考えて行動すると自分の日常が崩れるために本能的に想像力をOFFにする習性をもつ身勝手な日本人だからだ。こうしてファシズムが跋扈して銃後を守るわけだ。

JR福知山線事故は、日本というシステムの歪みが限界に来ていることを示すほんのひとつのモデルにすぎない。ピラミッド型の日本の権力構造は、言うまでもなく上意下達の階級社会だ。市場原理で利益優先を極め、責任は下層ほど重くなる。本来はトップの責任とその構造自体が問われる局面になっても、問題のすり替えと、蜥蜴の尻尾切りで構造は維持され続ける。言うなれば、リスクのモラトリアム社会だ。こうしてリスクという負債が日本中いたる所にたまり続けている。

歴史の事実として、国家一丸となって侵略戦争、植民地帝国主義を敢行してきたが、最大の戦争犯罪が問われなかったことにより加害者意識が生ずる事無く、被害者意識のみの歪んだ記憶を持つに至った。A級戦犯であろうと、それを祀る神社や思想であろうと加害という視点が無ければ罪の意識など生じない。何よりも戦前・戦後を貫くアジア蔑視、脱亜入欧の不変と連続性において、そのような歴史的存在としての日本国民に誇りを覚える全体主義の繭に包まれた人々にとって、続発する事故、災害は、それを必然とする構造を維持するために、時折のセレモニーとしてスケープゴート探しに躍起となる。自らの加害の歴史も、現在、侵略加害者であるという事実も忘却したまま。たとえば、利害関係で優位なサマーワなどでなく、大虐殺のあったファルージャで生き残った人たちの中に入って、自分が日本人であることを伝えられるだろうか?肉親を目の前で虐殺された人々にとって米国の同盟国でしかない日本人がのこのこと現われたら何が起こるだろうか。

想像力の欠如は、当事者以外はすべて他人事という感覚を生む。戦争国家が罪の自覚を排除するにはまことに都合がいい。

命、人権、民主主義といった概念を蔑視する社会で反民主的ピラミッド構造の、顔の無い構成要素である個人は、チップのように交換可能な部品にすぎない。日々、その原理が叩き込まれ、ペナルティを課され続けることによって人間としての自由度が失われてゆく。ある日、突然人間を要求されても対応できるはずがない。人間でないことでしか生きてゆけない社会だからだ。殺人が目的の戦争国家が、たとえば事故を起こしたJRを非難するのは自己否定も同然だ。安全を無視しなければ戦争は不可能なのだ。むしろ戦争国家においてJRは賞賛されるべき組織に他ならない。

反人間的システムの典型はいくつもある。たとえば原発や軍隊、そして銃後の教育現場だ。そのような組織を維持することは、いかに人間を消滅させるかにかかっている。もちろん市場原理で外部にはセールスとして人間を謳うのだが。ともあれ無数の反人間的システムの結合で構成される戦争国家は、その要素である一個人の想像力如何で機能が決まる。だからこそ戦争への抵抗は、そこにこそ集約されるべきだ。

改憲とは、想像力とその行使を決定的に奪うことにほかならない。

2005.5.6 高木

メメントモリ

 

 個人的な事を書く。5年、いや10年ぶりか。渋谷に来た。東急プラネタリウムのビルが壊されて更地になっていた。「星にのばされたザイル」や「エクソシスト」をここで観た記憶がある。街の様相は激変したが、以前此処が私の日常空間だった頃のゆるやかな坂の街の地形が蘇る。巨大なビル壁面のデジタルスクリーンがさまざまな映像を流し、圧倒的に若者ばかりが目立つ雑踏だが、ここはたしかに渋谷だ。

その昔、ジョンとヨーコが歩いた坂をなぞって百軒店に足を向けた。カレー屋ムルギーと名曲喫茶ライオンは、そうとう痛んでいたが健在だった。今、思えばレコードの醸し出すアナログ空間は想像力のオアシスだった。足繁く通ったあの豊饒さを今はただなつかしく想う。やはり過剰とは欠乏なのだ。ゆっくりと考える時間を失って久しい。

20才ほど年下の従妹が、癌であることを知ったのは、一ヶ月前だった。苦労のすえやっとビジネス・チャンスを掴み、順調に事が運んでいた矢先に突然わかったという。広尾の閑静な高級住宅街にある日赤を訪ね、病室で数年ぶりに再会した従妹は抗がん剤のために髪の毛が一本もなかった。抗がん剤投与の5段階のうち4段階を終えたところで、次が始まる直前だが、その日は体調も良く話が弾んだ。ふとベッドの横の棚に目をやると「リトル・ダンサー」のDVDがあるので聞くと、大好きな映画だという。4月に映画のラストシーンに登場する男性だけのバレーチームが来日して「白鳥の湖」の公演があったのだが、従妹は医師に頼み込み特別許可をもらってマスクなどで完全装備で見に行ったという。感激して帰った様子をみて医師が「こんな治療もあるのかもしれない」と呆れたそうだ。その病院でも過去10年間でわずか3例しかない癌ということで経過を注目しているようだ。それにしても、あるとき抗がん剤を注射する際、一滴の液が医師と従妹の腕に落ちたため大至急投与が中止され、2人の腕を徹底的に洗ったという。

従妹はあらためてそれほど危険なものを身体に注入されていることにショックをうけたそうだ。

ところで「リトルダンサー」は、英国の貧しい労働者の家庭で少年がバレーに魅惑されて、親の反対も乗り越えてデビューするまでのストーリーだ。背景は1980年代サッチャー政権下の英国。福祉国家をやめて自由主義経済国家に移行する社会では自助努力、自己責任が押し付けられる。要するに民営化の嵐だ。度重なる労組への攻撃は、し烈を極め失業者があふれた。構造改革下の日本社会も同じパターンを踏襲している。もっとも、抵抗ははるかに少ないかわりに自殺者が激増したのが特徴だ。

テレビやラジオで絶叫型コマーシャルが増えたように感じる。久し振りの渋谷も耐え難い喧騒だ。こうしたものが断絶や孤独のもうひとつの顔に思えてならない。ここには進行する危機を本能的に無視したり避けようとする人たちの姿がある。だが危機は募るばかりだ。コミニュケーションの道具ばかりが増えるなか、皮肉にもコミュニケーション不全がそれをはるかに凌駕しているのだ。耐えられなくなったひとびとの言葉を失った叫びが充満している。

病院を後にして再び渋谷に戻る。駅前で「ビッグイシュー」を買う。これはホームレスに収入を得る機会を提供する事業として1991年英国ロンドンで始まった雑誌の日本語版で、200円のうち110円が販売するホームレスの収入になるものだ。日本社会で福祉後退はこれからますます加速する。「ありがとうございます」の真剣な言葉が痛い。懸命に頑張っている人に「がんばって」など言えない。

駅近くの路上に、チョークで人のかたちが描かれていた。頭部のあたりに血痕がある。障害事件だろうか。つくづく、渋谷だなーとため息がでる。

遠くのサイレンがだんだんと近づいてきた。大音量に群衆が振り向くと、灰色の右翼街宣車だ。堂々とハチ公前に止まりスピーカーで「自主憲法制定」などと絶叫しだした。すぐ目の前の交番の警察官5人は、にこにこしながら眺めている。

何年か後にこの風景を思い起こすことがあるとしたら、いったいどのような心境としてだろうか?居たたまれなくなって乗車券売り場に向かった。圧倒される人ごみのなか、行列最後尾につく。ふと見ると1台の自動券売機の前に86才になる父とおなじ年格好の老人が画面操作出来ずにオロオロしている。まわりのひとたちは自分のことで精一杯の様子、だれひとり手を貸そうとしない。スピードや効率についてゆけない弱者を切り捨てる社会の姿だ。そういえば東京生まれの父は、渋谷駅で生きたハチ公をよく見かけたという。その父も癌を告知されて2年だが老人ということなのか、進行が遅く自宅でなんとか生活出来ている。今日の新聞に「日本人に大腸癌が急増」とあったが、親戚や知人に癌が多くなった。

言うまでもなく誰でも死ぬ。だからこそ貴重な人生だ。他人にとやかくされる理由もない。命が平等でなかったら、その社会は間違っている。ましてや国のために死ぬなんてことがまかり通っていいはずがない。命ずる者は安全圏に身を置いて、殺すこと、殺されることが強要される社会が「改憲」によって実現しようとしている。

「日本人は武力を持つことによって他者を傷つけただけでなく、自分をも傷つけ、自らの自由をも率先して投げだしてしまう情けない人間である、との反省のうえに憲法第9条が設けられたのである」(「改憲という名のクーデター」基本的人権をめぐる改憲論とその問題点 笹沼弘志 ピープルズプラン編2005

命は、きわめて個人的な問題だ。立憲主義は国家権力を縛り勝手な事をさせない事だ。国家に義務を課す憲法が、反対に国民に義務を強いるものに変えられようとしている。自由かつ、平等であるはずの命が恣意的に変質されようとしているのだ。

バージニア・リーバートンの「ちいさなお家」のように、名曲喫茶ライオンだけ残して周りはすっかり変わってしまった。渋谷という空間がさまざまに変容してゆくように日本も変化を逃れられない。しかし、あえて考えもせずに来れた憲法によって、個別の自由な生き方が保証されてきたわけだ。人権は失って初めて気がつくものと言われるが、憲法は、それでは手遅れなのだ。標的とされる第9条こそ「ちいさなお家」かもしれない。無くなったら暗い悲劇が待っているだけだ。

2005.513 高木

馴れれば平気

 

 「近代社会は、他者の意思を自由にする資本と国家による支配の欲望がその駆動力となっている。人々の思想、感情、欲望などに根ざした、現にある社会の支配的な秩序への無条件の同意が欲しいわけだ。監視社会が、人々の感情を動員させるためのテクノロジーを発達させること、したがって感情や実感それ自体がもはや私たちのものではないということはこのような文脈からすれば明らかである」(「グローバル化と監視警察国家への抵抗」小倉利丸 樹花舎2005

「おれを好きになれ。好きにならなければ殺してしまうぞ」女子高生を監禁した事件で、男が強要したセリフだ。呆れたりせずにメタファーとして考えよう。

教育基本法改悪によって「国を愛する事」が盛り込まれようとしている。私たちは監禁されている事を自覚すべきなのだ。あなたはこのまま凌辱され続けたいのか?

一日中どこへ行っても監視され、幾重もの欲望のコントロールにより、パターン化した消費者に仕立て上げられる。逸脱は許されないために異なる視点を持つ事は難しい。異論、反論の存在しない社会では、生の目的も自由の意味も理解せずに生きてゆける。多様性を欠いた貧しい世界ということだ。与えられた規格のどれかに強制的に適合させられるので、自主性、独自性そして創造性に乏しい。合理性を欠いた社会で不安は漠然としか理解出来ず、それゆえ周囲の流れに合わせることでしか安心出来ない。自分の座標も社会全体の流れも認識不能なまま、ひたすら消費し続けるしかない。こうして信じ込まされた仮想と現実のギャップが決定的となる。たとえば、国際的にはイラク侵略戦争参戦以外の何ものでもない現実において「銃後のリアリティ」を意識する日本人はきわめて少ない。

自衛官の自殺が過去最高になっている。2004年度は計94人が自殺している。年齢別では2529才がもっとも多く18人にのぼる。こうして銃後の現実が露呈する。

イラク参戦の現実をもっとも直接反映する職場であること、青年たちの予想した生活と現実があまりにも違いすぎることなどが窺い知れる。

米軍イラク帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が報じられている。戦闘経験豊富な軍歴の長い者やプロの傭兵ではなく、米国下層社会の若者たちが、他の選択肢のない状態で兵役に就くのだから当然だろう。

「路上のゴミを装って置かれた爆発物も怖かった。もし、じゃなく、問題は何時やられるかと思っていた、と帰国しても毎夜悪夢にうなされるグレイグ・スミス(23)は、孤独感、不安、怒り、恐怖、感情の制御が出来ず、医師からPTSDと診断された。ウエストバージニア州退役軍人センターのカウンセラーはイラク派遣の2人に1人がうつ病やPTSDという。多くの兵士が不当な理由で死んでゆくのが悲しい。この政府の事をもっと知っていたら、イラクに志願などしなかった、とスミスは語った」(05321中日)

殺し慣れていないことは軍にとっては致命的だ。消費者コントロールの手法を使わない手はないとばかりに米国防省は、操縦士教育に用いるフライト・シミユレータならぬ戦闘シミユレータをロッキード・マーチン社と開発した。軍用車両ハマーや装甲車のコックピットを再現。被験者が乗り込んで銃を構える。まわりのスクリーンに実際のイラクの風景が映し出され、敵がさまざまな場所から襲ってくる。銃は実物で発射音や振動が伝わってくる。限りなく現実に近いゲームセンターのようなものだ。このゲームを繰り返すことで、射撃精度が確実に向上し、実際イラクで20人の米兵が、その何倍もの敵兵を倒したという。軍事演習のルーチン化。韓国や沖縄の激しい抗議にあっても訓練を止めない理由がわかる。とにかく場数をふむことで戦闘能力が高まるのだ。なによりも人間を殺すことに動揺しなくなる。つまり、シミユレーションはできるだけリアルに近づけるが、現実の戦闘では出来るだけゲームに近づけるということだ。

こうした原理を、訓練兵に初めて教え込むよりもっと効率化することを国防省が編み出した。戦闘ゲームのソフトを少年たちに無料で配るのだ。少年たちはゲームに夢中になっているという。戦争は常に効率を求める。やがて入隊後すぐに名スナイパーとなる米兵が増えるだろう。もちろんイラク人の憎悪も底無しになることは間違いない。

あらためて確認したい。日本は「テロとの戦い」という米国とその属国だけに都合の良い、しかし正確に定義さえできない戦争のための体制に変貌しつつある。そこでは戦争という目的以外のものは排除される。恣意的な戦争のためのフィクションが語られ、それに沿った構造がつくられる。民主主義、平和憲法は形骸化されてゆく。国家の暴走を縛るべきものが、国民を戦争動員に規定する縛りに変わる。

仮想と現実のへだたりはますます大きくなる。憲法のリアリティをなんとか取り戻したい。反戦は想像力だ。侵略戦争、植民地統治など最悪の災禍を生み出した歴史を持ちながら、自由を公権力との闘いで勝ち取った歴史を持たない国であればこそ「国家の物語」を疑う義務があるのではないか。

60年間、非軍事、非暴力を非現実と揶揄し続けたこの国の保守勢力にとって平和憲法とは、ドラキュラにとっての十字架やニンニクのような存在だった。しかしそれは平和憲法によって参戦できないことではじめて誹謗中傷が可能という逆説的な意味でもあり実際に参戦して大量の犠牲者を前にしても強弁可能か疑問が残る。なにしろ60年間、日本人は身内の血も死体も見ずに済んできた事実がある。国民から想像力を奪い続けてきた結果が「国家の物語」の受容を可能にするばかりでなく、逆に、考えもしなかった、想像も出来なかった悲劇や苦痛に覚醒する可能性も併せ持つはずだ。ともあれ日本国憲法の意味もろくに知らず、参戦せずに60年を享受してきた事実がある。あえて表現するなら、その大いなる無知が改憲に利用されようとしているのだ。ならば無知を改変すること、戦争の現実に気づくことこそが改憲に対抗可能な力となるのではないか。すなおに考えればいい。殺されたくない。殺したくない、と。改憲派の本音は、自分は死なないということだ。公正でも平等でもない。

2005.520 高木

「今あなたは何と言ったか!」

 

 「今あなたは何と言ったか!一般の日本人ならいざ知らず、あなたは与党幹事長だろう。信じられない発言だ」その瞬間、中国の王家瑞・対外連絡部長がバーンと机を叩き、こう詰め寄った。王氏の剣幕に冬柴(公明)があわてて「不穏当だった」と認め、武部(自民)はその場で「撤回する」と言ったという。(05526日刊ゲンダイ)

訪中し北京で会談中、小泉首相の靖国参拝問題で武部が、日中平和友好条約には内政に関する相互不干渉の原則が明記されているので首相の参拝を批判するのは中国の内政干渉、との見方をしたことに強く反発。発言を事実上撤回させた。(05526中日)

靖国参拝、竹島、歴史教科書などについての齟齬が、60年間のかろうじての休戦状態(歴史認識のモラトリアム)を水泡に帰そうとしている。大東亜共栄圏の見果てぬ夢と米国的視点という珍妙なアナクロニズムでしか思考してこなかったマスコミも、東アジア共同体という発想が出来ないゆえに暴走する右派政策を批判する能力も無かった。

なぜ反日なのか?を論じないまま侵略被害国を挑発し続けて、当然のように起きた物理的被害を暴力と非難する姿は、そういえば、転び公妨に似ている。自らが、あえて導いた外交危機の原因をすべて中国に転嫁することで、東アジア共同体や東アジアにおける歴史認識の共有などと正反対を目指す日本だが、そんななかで国連安保理常任理事国入りを目指すという身の程知らずが本末転倒してなお自覚出来ないでいるということだ。どう考えても日本が墓穴を掘っているとしか考えられない。日本中をおおうコミュニケーション不全の象徴かもしれない。そもそも外交が否定されている。度重なる侵略戦争正当化、アジアにおける歴史共有を拒否しながら国内問題だから内政干渉するなというわけだ。自覚無き加害者の論理でしかない。靖国のA級戦犯について小泉は「罪を憎んで、人を憎まず」といってのけた。森岡厚生労働政務官は「A級戦犯は罪人ではない」と発言。なぜ歴史共有を避けるのか?それは「差別」を継続したいからだ。

対等、平等という民主主義を忌み嫌うこの国の保守支配層にとって大東亜共栄圏は天皇制ピラミッドの拡大であり、敗戦にも国際的批判を受けずに生き延びたと信じて疑わない。日本の敗戦とは戦争の原因がペナルティ無いまま継続することだった。

「オウム」と「911」は戦争国家のピラミッド再構築のまたとない奇貨とされたわけだ。安全のためには民主主義が犠牲になってもしかたがない、とばかりに。

巷では商店主や年寄りが不況を嘆いている。「どうなってしまうのか」「先が不安」

奇妙な話だが、なぜか、ぼやきが政治に行き着かない。これだけ失政に翻弄されながらただ政治を黙認するだけなのだ。ここにピラミッドがある。「物言えば唇寒し」。上意下達の社会において、個人として発言するためにカムアウトすることの難しさを言い当てた言葉だ。世界的に異常な年間35000人の自殺者とは、それゆえ沈黙の抗議と読み替えるべきなのだろう。それにしてもあまりに酷い話が続出している。警察の裏金問題はまだ氷山の一角にすぎない。

鋼鉄橋梁談合が明るみに出た。40年以上続いてきたという。14年前には擬装解散まで演出する手の込みようだ。受注規模は年間3500億円。このうち1000億円ちかい税金が横取りされた。大企業と役人が組んでボロ儲けする。役人の天下りでその構造が続くために、いつも公共事業は適正価格より23割高いままだ。コンクリート橋梁談合もあるという。

赤字国債発行残高は538兆円。ここまで借金を膨らませたのは、むだな公共事業を続けて儲けた政治家、官僚、財界だ。挙げ句の果てツケは国民が支払わされる。

不安が煽られ、管理が厳しくなるばかりの日常にしがみつくだけでは何も変わらない。巨大な不正を黙認することで我々の未来が奪われるのだ。

ところで長野県上田市の「信濃デッサン館」が閉鎖されるという。79年に開館。戦前に活躍した薄命の画家たちのデッサンを展示してある。作家窪島誠一郎氏の私財を投じて集めたものだ。資金難でコレクションの7分の1を売却したが足りなかった。

「出征前に家族や身近な風景を描いた戦没画学生の絵は、なぜ人間は絵を描くのかという創作の根源を教えてくれる」と窪島氏が語る。

高橋哲哉は「靖国問題」(ちくま新書2005)において、「靖国神社が感情の錬金術によって戦死の悲哀を幸福に転化してゆく装置にほかならないこと。戦死者の追悼でなく顕彰こそが本質的役割であること」を論じている。そうであるならば、一民間人である作家が極私的に、国家による戦争で夭折させられた青年たちの生きた証しを回収し展示することは、天皇の戦争に絡めとられた兵士たちをふたたび人間に戻し、国家と個人を考察する情念の空間として機能するはずだ。侵略戦争の反省とは、被害者たちにどれだけ近づけるか、とともに加害者であることを強いられたうえ死を強要された者を人間として再確認し、人間が人間を殺すことの意味を問い続けることでもある。

旧日本軍兵士というひとくくりを解き放ち、一人の人間の、彼でしか成し得なかった表現を視ることとは言葉を失うほど重い。戦争システムに奪われた個別の命を復権させること。戦後責任とは、まさにその作業を続けることにほかならない。

静かな空間で出会った村山塊多がたまらなく好きだ。時代や風潮に左右されることなく、湧き起こる情熱を衒うことなく表現した。生きる事に迷いがない。媚びずに生きる不思議な男にジェラシーを感じた。村山槐多はアナーキストだ。

それにしても、涙が止まらないほどの圧倒的存在感の作品たちは、人生のもっとも輝かしい季節を国家によって断絶させられて出現した。ひとつひとつの絵と対峙することで心臓をわし掴みされるような呪縛に陥るのは、感動などというなまやさしいものではない。彼らの呻き、叫びにシンクロするといったほうが正しい。それは観た者、感じ取った者に問い掛ける。国家に奪われた人生をひとまとめにすべきでないことを。彼らは人間としてそれぞれの人生を生きた。そして意に反して死ななければならなかった。国家によって。呻き、叫びを感じ取った者の反戦の意思だけが死者に応答できるはずだ。

靖国問題の対極として信濃デッサン館、無言館を再認識したい。これこそが人間の文化と言うべきものであり、まさに今それが危機に瀕しているということを知ってほしい。

2005.527