「ピエタ」に会いに行く

 

「平和?」「平和なんてあったっけ?」

敗戦60年目の夏、八ヶ岳山麓小淵沢の小さな美術館にケーテ・コルヴィッツを見に行った。彼女の没後60年でもある。

ラジオを聞き流していた際、ケーテの作品が展示されている事を知って、疎覚えのまま、小淵沢駅で「平和美術館はどこですか?」と聞いた。駅長や助役と思しき3人が冒頭の会話に至ったわけである。不明のまま観光案内所を紹介され、そこで私の思い込みが判明した。受付の女性が「多分、お探しの美術館は、平和でなくフィリア美術館です」なんだ、そうだっかのか。

正確な文字情報でなく、たまたま耳にしたラジオの案内で「ケーテ・コルヴィッツ」だから平和と聞こえたのは、あながち誤りであったなどと思いたくない。まあ、いいか。

ケーテ・コルヴィッツは1867年、東プロイセンに生まれた。感受性豊かな彼女は社会の上層でなく下層に「人間」を見出した。そこに虚飾のない真実が息づいていたからだ。早くからゲーテやシラーの文学に親しみ、絵画を志してルーベンスやマックス・クリンガーに出会って途方もなく感動する。1891年、医師カール・コルヴィッツと結婚、ベルリンに住む。労働者街の診療所という夫の職場は、人間と触れ合う格好の場だった。1892年長男ハンス、1896年次男ペエタアが産まれる。この頃、中世ドイツの農民一揆をテーマに「農民戦争」を描く。

「死」はケーテにとって生涯の重要なテーマだった。女として母親として、生命を育む者の立場から「死」と向き合っていった。1914年、第一次世界大戦が始まる。その年10月、次男ぺエタア戦死の知らせが届く。

「ぺェタアよ!私がいま戦争を狂気の沙汰とみることは、貴方に対して誠意を欠いたことでしょうか?」(1916 日記)

「私の胸は、騙されたという想いでいっぱいだ。この恐ろしい欺瞞にひっかからなかったら、おそらくぺェタアは生きていたことだろう。ぺエタアとそして幾百万の若者たち、みんなが欺かれたのだ」(1918 日記)

愛するぺェタアの死に打ちのめされながら、ケーテは戦争の本質を見抜いてゆく。

「いのりは、断じて嘆願ではない…」(1915 日記)

母親が戦死した息子の亡骸を掻き抱くブロンズ像。有名な「ピエタ」である。ここにケーテの反戦思想が結実する。言葉を超越した情念の塊として。

ドイツでは戦後、戦争とナチズムの犠牲者を記念する国の施設を設けるために、激しい賛否両論が起こった。論争の末造られたのが「ノイエ・ヴァッヘ」である。戦争と暴力支配の犠牲者を追悼し、記念する場所だ。あらゆる民族、迫害され殺された市民、兵士、ユダヤ人、シンテイ、ロマ、同性愛者、病弱あるいは身体障害者ゆえ殺されたひとびと、宗教や政治思想で殺されたひとびと、良心を曲げるより死を受け入れたひとびと、全体主義に抵抗、迫害され殺されたひとびと……国籍も死に方も異なる死者たちを等しく追悼している。

もともと、プロイセン王宮近衛兵詰所だった建物は、白い石の壁と床の空間で、天井の真ん中が直径数メートル丸く、くり抜かれ、そこから外光が射す。その直下、床の中央にケーテ・コルヴィッツ「ピエタ」の拡大複製像が置かれている。「DEN OPFERN VON KREIG UND GEWALTHERRSCHAFT」(戦争と暴力支配の犠牲者たちに)という金色の文字とともに。

戦争を「死」の側から暴き出し、否定も反論も許さない絶対的なコア(核)として死せる息子を抱く母親の鈍く光る黒いブロンズの塊は圧倒的な存在感を放っていた。

ケーテは第一次世界大戦で次男ペェタアを、第二次世界大戦で孫を失っている。愛する者を殺された女という存在から戦争の欺瞞を打ち砕く。人間が人間であろうとする渾身の叫びだ。

ケーテの木版の人物は眼窩の窪みが大きく印象的だ。下層の抑圧された人々の苦悩の大きさであり、死との距離の近さだろうか。このような見ていて楽しくなることは決してない一連の作品をナチスは当然の如く「頽廃芸術」として弾圧する。ファシズム体制からの拒絶はしかし彼女の思想をますます強固なものにしてゆく。

「人は自分を脅かすもののまん前に立ち、そのものの大きさで見ることをしなければ相手をますます怖いものに感じる」(1934日記)

ケーテ・コルヴィッツの作品を見ていると、ベンツS600に乗った中年夫婦が入ってきた。八ヶ岳山麓には、バブル期にいくつもの美術館が建った。有名な避暑地でもあるこの一帯は、別荘やリゾートホテルがたくさんある。唖然とするような金額の高級スポーツカーが走りまわっている。さて敗戦60年の日本。どのような文化が育っただろう?

バブルが終わっても中流幻想や勝ち組思考が消えたわけではない。経済的余裕にもかかわらず、せいぜいブランド品の消費くらいしか見出せなかったおおかたの日本人が、美術を介して思想に触れたり、自分たちの生き方に客観性を持たせるほどの寛容を残念ながら持ち得なかったように思う。固く閉じた社会で要求されるのは、自分たちの生活に影響や衝撃を与えない程度の「美しいもの」たちだ。それこそが勝ち組幻想を維持するためのアートということだ。

毎年毎年、60回も侵略戦争を反省しながら堂々と海外派兵可能な国、もっとも肝心な教科書を戦前の、そして新たなる戦争のためのイデオロギー育成の手段とする社会では、反戦という表現など、もってのほかなのだ。聞こえないか?「おまえら、アカか?」

敗戦60年において「今日の平和があるのは尊い犠牲のうえに…」などと軽薄な言葉が飛び交うのは、前の戦争にも今の戦争にも自覚が無いのを自ら暴露するものでしかない。思考停止だけがそのような言葉を許容する。

さて、先程の中年夫婦は、まさにこうした日本人を代表していた。ケーテ・コルヴィッツの作品群をわずか数分でまわり、私が涙をこらえ切れなかった「ピエタ」には、苦虫を噛みつぶしたような表情で一瞥しただけで足早に去っていった。ベンツの後塵が薄れてゆくなかで確信した。彼らがファシストであることを。彼らは「頽廃芸術」に出会ってしまったのだ。高級リゾート地にある、美しいものを展示してある他の美術館と、てっきり同じように自分達の文化を愛でようという意向に反して。そういえば、美術館のそこかしこに、「静かにゆっくり観賞して下さい」とあった。そんな注意書きを必要とする土地柄なのだ。翼賛文化の場所に正反対の表現を配置すること。これはまさしくシュールレアリスムのディペイズマンだ。

「熊に注意」というたくさんの看板と、数えきれないほどの日本ザルに迎えられて、テント担いでキャンプまでして見に来たかいがあったケーテ・コルヴィッツ。戦時下の日本が、60回目の「815日」を迎えるという本末転倒、現在進行形のファシズム社会は、アート・シーンにおいても(だからこそ、と言うべきか)確実に階級社会があることを実感させられた。下からの、民衆からのまなざしだけが反戦の意志を表現可能であり、感受もまた可能なのだ。

「平和?」「平和なんてあったっけ?」

2005.815 高木

モニュメントの破壊

 

最近、3ヶ所のモニュメントが破壊された。2ヶ所は戦争に関するもので、戦没画学生の作品を収蔵する無言館の石碑と、広島平和祈念公園の原爆慰霊碑だ。

無言館の石碑は赤ペンキが大量にかけられた。少し前に私は無言館と靖国神社の機能を対比させ、正反対の位置づけをした。すなわち高橋哲哉の指摘「靖国神社が感情の錬金術によって戦死の悲哀を幸福に転化する装置であり、戦死者の追悼でなく顕彰こそが本質」とすれば、無言館は「一民間人が極私的に、国家によって夭折させられた青年たちの生きた証しを回収し、展示することで、天皇の戦争に絡めとられた兵士をふたたび人間に戻し、(国家と個人)を考察する情念の空間」(「今あなたはなんと言ったか」05527)ということだ。

皮肉にも、無言館入場者低迷(なんと米国における原爆展と似ていることか!)という情況において右翼がその機能を認めて反発し、行動に出たということだろう。

原爆慰霊碑の件は、726日夜、右翼が「過ちは繰り返しません」の部分をノミやハンマーで削り取ったものだ。「過ちとは何だ!」という罵声が聞こえる。そもそも、敗戦60年にしてイラク派兵継続中、国内は「テロ警戒中」とまるで火事場に油を注ぐような浮足立った好戦国が「86日」を迎えるということは一体どうゆうことだろう?

戦争がどのような実態であり、人間がどうなったかを考え、現在を戦争という視点で検証し、そのうえで将来を見据える場の象徴として2つのモニュメントは建てられたはずだ。それらを生み出した情念はたとえようもなく真摯で、重く、深いものだったにもかかわらず、「論争という無血闘争を拒絶したまま破壊する人々」の前にはあまりにも非力だった。戦争を考察することより、戦争に参加するほうがはるかに容易ということだ。二つの事件で、象徴性を考慮して破壊行為の等価を求めるなら、さしずめ全国に散在する忠魂碑が候補になるだろうが、それでは解決になるどころか暴力の連鎖を招くことになる。

やはり戦争の実態を知るほかないだろう。米国で原爆実験の出発点となったネバダ実験場でスポンジ製のキノコ雲の帽子を被って原爆60周年を祝う米国人が原爆の実態について何も知らない、知ろうとしないという事実が、それを示唆する。もちろん劣化ウラン被害を隠蔽して保有と使用を正当化する自衛隊も同じことだ。「知らない事」は大量、残虐な殺人を合法化し、その手段による正義さえ捏造可能だ。見ないこと、聞く耳を持たないことは人間を非人間にする。

出版されたばかりの徐京植の言葉が激しく胸をしめつけた。(「ディアスポラ紀行」追放された者のまなざし 徐京植 岩波新書961 2005

出自の共同体から追い立てられ、離散を余儀なくされたディアスポラ。在日朝鮮人二世の著者が韓国、ヨーロッパの旅において文学やアートに、暴力と離散の痕跡を探す。ディアスポラ、近代とは何か?人間はどこに向かうのかを問い掛ける。

「近代ナショナリズムが創り出した国民という観念、国土や血縁の連続性、言語や文化の固有性といった幻想によって構成されるこの手強い観念は、人間の死へのおそれ、不死の欲望によってささえられている。自らの財産、血統、文化を永久に残したいという欲望がナショナリズムの土台にある。この観念に打ち勝つには、結局、死の宿命性と生の偶然性をありのまま受け入れる以外ない。自分はたまたま生まれ、たまたま死ぬのだ、ひとりで生き、ひとりで死ぬ。死んだあとは無だ−そういう考えに立つことが出来るかどうかに、ナショナリズムへの眩暈から立ち直ることができるかどうかがかかっている」

徐京植は、事あるたびに日本人アーティストの政治意識の無さ、低さを指摘してきた。そのような視点を欠いた日本のアートシーンのレベルの低さにおいて彼の言葉に共感を持つ度に(表現とは何か?)が気になってきた。教養が、他者のあらゆる感性に共感可能な知であるとすれば、無知、無教養が、経済力と権力だけで大手を振るうことが可能なこの国には、本当の意味で文化を育む素地が無いということだ。だからこそ国内専用ローカルアートシーンが成り立つわけだ。

抑圧された者、社会的弱者の声を無視する社会は傲慢だ。戦争を遂行する国家はいつもそうだった。

光州市立美術館で「文承根展」を観た徐京植は、球体に7600字の活字を埋めた「活字球」について書く。「小さな金属球の表面に、一分の狂いもなく整然と活字を植え付けてゆく作業。驚嘆すべき忍耐力と集中力によって完成したその小さな物体には、根がなく、土台もない。外的な力によって恣意的に転がされる存在。−これはディアスポラ的生の暗喩だろうか」

慧眼である。在日という存在の言葉が、日本人の、まるで無垢、無実であるかのような日常の欺瞞性を剥ぎ取る。の戦争も、の戦争も自覚出来ない社会の、である。

イラク人少年ムハマド君が来日、「フライデー」だけがムハマド君と父親の(言いたい事)を載せた。「日本のマスコミは(目はどうか?)と(何処を観光したか?)しか聞かない。本当に聞いて欲しいのはイラクやファルージャのこと。米兵がどんな酷いことをしているかなのに」

夫をイラクで殺された橋田夫人は「米兵が憎いのはわかるけど、憎しみを持ってはいけない」と諭すが、ちょっと待て!故郷ファルージャを破壊され、友人、知人を殺された少年に日本人が語るべき言葉だろうか?そもそもイラク侵略戦争の加害者側にある日本人が、ジェノサイドの記憶も生々しい少年になにを話すことが可能だろう?

さて、3ヶ所目のモニュメント破壊は、JR藤枝駅前にあるサッカーをする3匹の犬の像だ。藤枝市は以前からサッカーの町を標榜してきた。それにしてもなぜ犬なのか?

擬人化された犬が二本足で立ち、ユニフォーム姿でサッカーに興じている。そのうちの一匹の腕が酒に酔った市立病院の30代の医師によってもぎ取られた。取れた腕をくっつける職業なのに、逆をやったために各方面から糾弾されている。市は告訴する方針だ。

ともあれ、事ほど左様にモニュメントの象徴作用は大きなものだ。前出の2件は、反戦平和の祈りを表現したものであり、その破壊行為は言うまでもなく戦争肯定に他ならない。多くの日本人がその行為に対して常識をわきまえて否定的反応を示すかもしれない。だが、もし表現行為としてならばどう思うだろう?あなたは批判する資格があるだろうか?繰り返すが、日本はイラク派兵の最中にある。臨戦態勢、銃後にあることを忘れるわけにはいかない。あなたは具体的に反戦を表現しただろうか?たとえ心の中で思っていても表現しなければ戦争肯定に他ならない。戦時体制はそのように成立する。せっかく築き上げてきた自らの内なるモニュメントをノミとハンマーで破壊しているわけだ。

「サッカー犬」の藤枝市は、以前公共施設として、不要になった犬をガス殺するため、市民が便利なように「ドッグポスト」を設置して話題になった。ポストの穴にただ投げ込めばいいというものだ。知識人が多いなどと言われ、小さな書店でも浜松の最も大きな書店よりも人文関係などが充実しているなど、それらしい雰囲気を漂わせるが、具体的表現は雰囲気を超える。他に藤枝の情報が無い中で、いまのところ腕をもぎとられたサッカー犬という珍妙奇天烈がその大役を担っている。あの街は反戦平和主義だという噂ぐらい聞きたいものだが。

2005.86 高木


「反戦なんてダサいじゃん?」

 

2003年、イラク攻撃後しばらくして、と記憶するが定かではない。毎日新聞販売店主催でジャーナリスト(記者)の講演会があった。

静岡県西部が対象だったのか、約150名くらいの参加者のほとんどが中高年の男性だった。テーマが「イラク問題」とあったので興味を持ち参加したのだが、講演内容には唖然とした。

政治的スタンスを、あきれる程、曖昧にしたままイラク問題が語られ、しかも立派なホールで多人数を動員しているのだ。

世界を二分し、国論を二分して、その上この国にとっては憲法判断という最高度に民主主義に関わるテーマであるにもかかわらず、政治的立場が一切明確にされないまま粛々と講演が進行した。何度も質問しようと躊躇したが、結局主体的に関与出来ないまま閉会してしまった。屈辱感とも無力感ともつかぬ思いを抱きながら会場から参加者が去ってゆく様子をながめ、参加者の大半が新聞販売店主であることで妙に納得させられた。

伸び悩む購読者数という情況のなか、特にマイナーな毎日新聞が、超のつく保守的な浜松という地方都市で、画期的な拡販など望めるものでもない。ましてや「思想を問う」ことでもあるイラク攻撃について、あからさまな判断が下されては、たとえ結果が賛成であっても反対であても、毎日新聞販売店の立場に寄与するものではない。この国の世相とは、すでに戦時下にあることを暗黙のうちに前提しているが、決してそれを表現しないという、まさにファシズムの容認にある、ということだろう。

政治的スタンスを明確にしないことで生き延びるという処世術は、この国の伝統だが、それこそが国家の暴走を最大限に保障してしまうことを、すでに日本人の多くが忘却している。

こうして、出兵の続く基地の街で「公」のリード無しに民意が表現される機会が失われてゆくわけだ。ああ胸糞悪い。

200111月、内閣府主催の「タウンミーティングイン東京」の会場で「参戦反対」「憲法改悪反対」と意思表示した東大生が「建造物侵入」で逮捕された。10日間拘留され、連日57時間の取り調べを受けた。「お前は犯罪者なんだ」「親を悲しませるな」などと繰り返され、20代の検察官は「反戦なんてダサいじゃん?」と話したという。(『不屈のために』斎藤貴男 ちくま文庫2005

「ビラまきで逮捕されたら問題、大きなニュースだ、と思われなくなっている。そういうことを書いてもボツになるから。最近、全国紙でサツ回りしている若い記者たち、偏差値の高い有名大学を出た、人権侵害を受けた経験なんてないような坊ちゃんお嬢ちゃんが多い」(月刊『創』2005.9.10

『創』は「権力監視を忘れたマスメディアのここが問題」という座談会を開催した。裏金問題内部告発者の警察官、フリージャーナリストなど多数が参加。

警察批判をすると、情報がもらえないという報道機関と警察の馴れ合い。新聞社の「会社化」が経営優先体質を強めている。地方紙ががんばって、全国紙がだめなのは、読者との距離。北海道新聞など裏金問題に取り組む新聞は、憲法改悪反対の姿勢で重なっている。反対に裏金問題をつぶしにかかる読売や産経は改悪路線で重なる。その中で朝日、毎日がだんだんものを言わなくなってきている。

「アルカイダ関係者として在日外国人が逮捕された事件に異論を持った現職記者が、自分の新聞では書けないから、と週刊金曜日に持ち込んだ。またイラクで自衛隊が何をしているかといったら訓練をしている。それを自分のところでは書けないから、と金曜日に持ち込む。植草秀一氏の手鏡事件は、金曜日では冤罪事件とした。現場の記者は冤罪と言っている。ビラまき逮捕事件も全部そう。現場の記者はみんなわかっているけど書かない。書けば(とんがり過ぎ)と見られる雰囲気がつくられつつある。その場、その場できちんとものを言ってゆかないと突破できない構造。それを、言わないのをいいことに権力が肥大化してゆく構造」(創9.10

記者が、自分たちを勝ち組だと思っている。負け組の人なんかどうでもいいと思っている新聞記者や放送記者がどんどん増えている。20代、30代の自立生活者のほとんどが新聞を購読せず、ニュースなどはテレビやネットで充分という。一口に新聞といっても朝日、毎日、読売、産経など全国紙から、地方紙は数えきれないほどある。それぞれの政治的スタンスも千差万別だ。何を情報源にするかで、その人の思想形成のかなりの部分に影響するといっても過言ではないはずだ。

新聞の勧誘は、ティッシュや洗剤で行なわれる。情報源の選択がティッシュと等価とは情けない話だが、それが現実だろう。9.11直後、「よし、戦おうじゃないか」と政治姿勢を表わした朝日新聞が、帝国主義的侵略国家米国とその属国に何の抵抗も無く理論整合する姿に、世界を民主主義の視点で読み解く鋭さなど微塵も無くなっているのは言を俟たない。

かってリベラルとされた新聞も、生活者、それも失政のツケを押しつけられた者の視点を失なえば、形骸化したブランドにすぎない。そもそも、ジャーナリズムが権力の監視にこそ機能と使命を帯びるはずなのに、弱者を忘れ、権力と一体化したメディアのどこに価値を見出せというのか。

警察の裏金問題は1952年から延々と続いている構造全体の問題だ。連続殺人事件や性犯罪などは過剰かつ最大に扱いながら、連日、死者を出しているイラク問題に関しては大本営発表そのもので恥じる事がない。そもそもウソで始めた侵略戦争の当事国、加害者側であるという自覚のかけらもない。

全頁カラー印刷の4500円もする自衛隊派兵賛美の写真集も出版された。ちぎれた肉片などまちがっても写らないその写真集には、どんなに取り繕っても「孤立した日本」が象徴的に表現されている。その妙に礼儀正しさを感じる写真は、国内で(季節の話題)になっている靖国問題、いわゆる「英霊」についてなぜか無視を決めこんでいるように思える。現実にはサマワは一触即発であるのに。

事実を報道するかを装って虚構が語られるならば、文字通り、大本営発表だ。最も死に近い場所に自衛官を追いやり、その命も、また彼らが殺しかねないイラク人の命もこの国では話題にされない。命令を下した者にとって他人事だからだ。要するに現場主義ではないのだ。

対米追従に胸を張り、属国であることが国益であると錯覚する能天気な勝ち組志向が、どれ程貧しい精神であるか、いずれ現役ジャーナリストたちは思い知ることになるだろう。

2005.826 高木

見えないものを見い出せ!

 

ドイツで放射線が癌を引き起こす危険性が認識されたのは1910年代である。1920年代末には胸部レントゲン検査が癌の異常な増加の原因ではないかと考えられていた。

「ナチス親衛隊准将ヴィクトール・ブラックがヒムラー宛書簡で、X線使用によりヨーロッパ全土のユダヤ人を生殖不能にする提案をしている」「優生学者たちはX線による完全断種ということなら、倫理的、医学的、人種論的にも問題はないと考えた」(「健康帝国ナチス」ロバート・N・プロクター 草思社2003

「世界で唯一の被爆国」という言いまわしを、こよなく(本当は政治的に)愛する日本がヒロシマ、ナガサキから60年間、米国という観察者のもとで放射線被曝の人体実験場であった事実が国民に知らされないまま、現在いくつもある放射線源のひとつが、さしたる論争も起きぬまま一方的に消えようとしている。

少し前、日刊ゲンダイの記事を紹介したが、やっと毎日新聞が「健康診断の効果に疑問」という見出しで、自治体や企業に法律で義務づけられ成人の大半が受けている健康診断24項目のうち16項目が必要無いとされ制度の見直しが求められていることを報じた。

注目すべきは、胸部レントゲン検査は肺癌検診の有効性を支持する証拠はないとしていること。マイナス面として放射線による発癌増加などを挙げている。(05814毎日)

ここまで愚かで能天気な国と国民だからこそ、世界で唯一の被爆国が地震列島に世界一の高密度で原発を稼動することが可能なのだろう。毎年、我が子を真夏の駐車場に放置、パチンコに熱中して死なせてしまう事故が恒例化したが、そんな親を馬鹿呼ばわりする資格が日本人にあるわけがない。何も疑わない日本人はいつでも(みんなと同じ)だけで安心するため、リスクに対する想像力がまるで無い。自らに被害が起きるまでは。

ところで、アスベストの重大な危険性をドイツは1914年に認識していた。発ガン性は1930年代に疑われている。このころジーメンス社製の電子顕微鏡により、石綿症の発症が化学的刺激によるものか、物理的刺激によるものかが研究され、物理的なものである可能性を示していた。この頃、ドイツはアスベスト肺ガン関連研究では世界の最先端にいた。1940年には、ドイツは公式のガイドラインを発表している。1943年、ナチス政権は、世界に先駆けてアスベストに起因する中皮腫と肺ガンを労災と認定、補償対象にしている。(健康帝国ナチス)

皮肉なことに、ナチスのアスベスト研究成果が第二次大戦後の世界に生かされることはなかった。「ナチス」のものだったからだ。いわゆる「ブランド志向」の逆を考えればいい。何も考えずに「ナチス印」を排除すれば民主社会、というわけだ。

「ともかく患者は恐ろしい死に方をします。このガンは組織には入り込みません。そのかわり組織をとり囲んで大きくなっていきます。腸にも肝臓にもすべてのところに広がります。もし、患者の胸を真二つに切断したとすれば、胸の中はコンクリートを流し込まれたように見えるでしょう。悪性中皮腫には大別すると膜中皮腫と膜中皮腫があり、ともに手術による切除は治療上効果がありません。前者は、肺が圧迫され患者は呼吸困難で死亡します。後者では、胃が圧縮されて餓死します。死は多くの場合、診断後、18ヵ月以内に突然やってくることが多いようです」(『静かな時限爆弾』広瀬弘忠 新曜社1985

20年も前の資料の、なんと新鮮なことか!原発事故が起きてもきっと高木仁三郎や広瀬隆などの古い資料が“採れたて”のごとく復活するだろう。これ程、日本人は何も知らされず、また知ろうとしないうえ、それが政治に利用されてきたわけだ。科学の進歩とは、数ある科学諸説から、政治が独善的に都合の良いものを選択することであり、科学が政治と切り離して成立出来ない事を楯に、異論反論を排除し、たとえその選択が全体のレベルの低下や後退を招いてもあえて断行する事を指す。つまり隠蔽された政治表現にほかならない。健全な政治情況がいかに大切か自明だろう。

肺ガンで死亡したアスベスト関連建設作業員の8割以上が石綿を吸引してできる胸膜肥厚斑がみられるという。ところが、多くはたばこが原因と誤診されてきた。胸膜肥厚斑は、胸膜にまだら状に厚い部分ができる場合が多く、見た目は白っぽい。石灰化すると針が通らないほど硬くなる。肺癌や中皮腫で胸膜肥厚斑が見られると労災が受けやすいが、業者も労働者も認識が低く、現場を渡り歩くため、石綿との関連を立証困難なケースが多いという。人権、民主主義を軽蔑した社会で弱者が虫けらの如く殺されてゆく。たとえばそんな国だから、戦場を平穏と誤認し、参戦を「人道復興支援」と言い替えてもまかり通るのかもしれない。

92年、旧社会党が「アスベスト規正法案」を議員立法で国会に提出したが、提出前に日本石綿協会が「健康被害は起こり得ないと確信できる」と文書で政党、省庁に配り、自民党などの反対で一度も審議されぬまま廃案になった。

20056月末、クボタで石綿被害発覚。患者団体が時効が過ぎても労災請求できる特例措置をもとめてメール、FAXを衆院議員約40人に送った。企業も国も責任を問われる問題、という返事に手応えを感じていたのに、衆院解散。各党とも、まずは選挙に勝ってから、という調子。患者の会世話人斉藤さんは、また、忘れ去られるのか、と不安を感じている」(05817毎日)

国会の議場にアスベストが舞わなければ真剣になれない議員たちには、まだ他人事なのだ。

もっとも、今度ばかりは国も業界も逃れようがない。アスベスト公害はすでに世界で認識されている。いつものように日本人が知らなかっただけの話だ。なにしろ、この国は想像力に欠けるので、国内で被害がでてもその問題が海外で騒がれないと認識出来ない(なにやら逆輸入車が最高級ブランドになるトヨタの新戦略に似てないか?)。そのうえ業界と政権与党はいつもとことん逃げまくる。米国では、被害者による巨額の損害賠償請求訴訟が相次ぎ、訴えられた企業の倒産が続出している。02年までに賠償金など約7兆円が費やされ75社が倒産している。

民間被害者支援団体「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」所長の医師名取雄司氏が語る。「命や安全が経済活動より優先という考え方が日本に無いからです」「どこにアスベストがあるのか知っている石綿企業はデータを公開せず、除去で商売できる。ほかの企業も製造や販売をやめてから情報公開する。何かおかしい」

日本はこれまでに約1000万トン(ミクロン単位で発ガンするというのに)の石綿が輸入されている。厚労省によると石綿を使った建築物の解体は20202040年にピークを迎える。今後35年間で死者は10万人といわれている。

アスベスト繊維は、タバコの煙の粒子やウィルスの大きさという細かいものから、一般的なもの(1〜5ミクロン)では、スモッグやバクテリアの大きさに相当する不可視の領域である。

要するに「見えないもの」は想像するしかないということだ。放射能も同じだ。その扱いを決定する政治にまで想像力を働かさない限り、被害が出るまで気づかないという最悪のケース(日本はこればかりだ)が待っている。アスベスト公害は自民党政治が仕掛けた「静かなる時限爆弾」というまぎれもない「テロ」だ。過去がそうであったように国家は国民を守らない。人間の安全保障について再考する最後の機会とすべきではないか。

2005.820 高木