マスメディア
マスメディアの影響はいまさら指摘する必要もないが、はかり知れないものがある。良い結果も悪い結果も爆発的という形容が加わるのだ。
米国不法移民規制強化反対のデモは50万人という近年まれに見る動員を果たしたが、それを大規模なものに導いたのがスペイン語FM局のD・Jだった。彼は、白のTシャツで非暴力を、星条旗持参で「この国を愛している」ことを表現しようと訴えた。「主催者の一人ナティボ・ロペスさんは、スペイン語ポップカルチャーが大勢の目を覚ましてくれた、と感涙を落とした」(06.3.31中日)英語が不得意だったり、まったく話せない不法移民にとって理解可能な耳からの情報は大きな力を生むことになった。
もうひとつラジオのエピソードがある。1994年、ルワンダでわずか10週間のうちに80万人から100万人が虐殺された。ナチのホロコーストにも匹敵するものだ。多くはナタなどで手足を切断したり首を切断するものだった。政権側のフツ族と反政府側のツチ族の抗争で、主にフツがツチを虐殺したものだ。フツはラジオで「ツチを殺せ」と煽動放送を流し、多くの一般人が鎌、斧、ナタを使って殺害した。当時、国連ルワンダ監視団(UNAMIR)が展開していたが小人数であり、貧しく資源もないルワンダを世界中が無視した。UNAMIRのロメオ・ダレール司令官の援軍要請も安保理はほとんど受けつけなかった。この過程を描いたのが「ホテル・ルワンダ」だ。映画はホテル支配人を主人公に虐殺から逃れようとホテルにたてもこるツチの人々がかろうじて国外脱出するまでの話だが、つい最近このようなジェノサイドがあったこと、世界の無関心が大量殺戮を可能にしたこと、という二重のショックに襲われる。私たちがいかにメディアに依存しているかということだ。メディアが無視すれば世界が無視することになる。民放TV局が時折り繰りひろげる「愛の○○キャンペーン」などという偽善的イベントで呆れるほどの巨額を集めるが、民主主義や人権の犠牲者を対象から除外して行われている事がこの国の「善意」の質を象徴している。こうした構造は主要メディア以外の視点を持つフリージャーナリストの重要性を確認することでもある。そもそもイラクのエンベッドジャーナリズムや防衛庁という大本営発表などで何がわかるものか。
ロメオ・ダレール司令官は、2002年のインタビューに答える。
「事件から8年たっても、まだ傷ついた子供たちの叫び声や、死を免れた人々の泣き声が耳の奥で響きます。死臭からも逃れられません。最悪なのは暗闇の中に数万人もの人間の目が浮かび、怒りと非難のこもった、そしていつまでも救いを求めるまなざしを私に向けてくることです」(『いま平和とは』最上敏樹 岩波新書2006)
人間はいとも簡単に煽動され、ごく普通の人々による大量虐殺を可能にする。異論、反論を圧殺する日本のように北朝鮮憎悪、中国敵視が簡単に延焼する社会はこうした危険性がかなり大きい。なにしろ過去の侵略による大量虐殺を反省することもなく、現役の首相が靖国参拝を繰り返し、意味不明の「テロとの戦い」を何の疑問も抱くことなく受け入れ、人権を軽蔑しながら防犯パトロールにこぞって参加し、管理や監視の強化を当然とするのだ。街頭に増加する蛍光カラーのジャンパーで武装する民間パトロールは、関東大震災で朝鮮人虐殺を平然とやってのけた「日本人」を彷彿させる。全体の流れに迎合しない者を「敵」視する傾向はこの国の伝統だ。弱者を生み出し、排除している構造に無関心なまま、「幼児(決してイラクや北朝鮮の子供ではない)を守れ」という誰の目にも正当なスローガンを掲げるのが矛盾することに気付かない。人道でも正義でも善意でもなく、同じ原理を他国には適用しないただのエゴイズムだ。米国が中東の弱小国家を攻撃するように、それを日本が無条件で支持するように、あからさまな弱い者いじめが、日本国内でも行われている。力のある者には抗わず、弱い者を徹底的に傷めつける。最下層の弱者である野宿者を守らない民間防衛が反民主的であるのは言うまでもない。状況を読み解く論理力が欠落した分、煽動され易いこと、そして主権者意識が無いために上意下達を何とも思わないこと、そのような社会でエゴイズムだけが共有されていることなどにより、異物排除である不審者さがしや、民間防衛としての防犯パトロールが堂々と広がってゆく。この流れが戦時体制であることに気付かぬまま。こうした社会は情動が変化の大きな契機となる。前述の民放TV局のキャンペーンは「かわいそう」がキーワードだ。何とかしてあげたいから金を送る。肝心の弱者が生まれる構造を変えること無しに。結果として弱者は弱者のまま。こうして毎年恒例の煽情的キャンペーンが繰り返される。体制温存のうえ、参加者の満足(偽善にすぎないのだが)が達成される。こうしたキャンペーンが「人権」を掲げた例が絶対に無いのは、体制批判を回避するからだ。「為ニスル行為」を見抜けない社会は全体主義の大きなリスクを抱えている。
米軍再編というこの国を左右する政治的変化が進行し、基地のある土地で圧倒的な拒絶の声があがるなか、そして耐震強度擬装、食の安全、アスベスト、裏金、談合・天下り、冤罪、背任など、失政の結果がとめどなく露呈するにもかかわらず、政権支持率が安定していること自体、メディアと政治の異常な癒着の証しなのだが、気にかける人はあまりに少ない。メディアの在りようが問われないままだ。ジャーナリズムの貧困が政治腐敗と同衾している。でっち上げによる侵略の結果、未曾有の犠牲者を生み出し、出口無き混乱に陥ったイラクにとって日本はまぎれもなく侵略者だ。主権者意識の欠落は、加害者の自覚を忘れた社会を実現している。サブカルチャーには「他人事」という視点が現われている。人気タレントが世界や社会の見方を伝授するが、常に愚直を嘲笑うのだ。現に暴力が行使され、しかも主体として関係しているのに、一切のためらいや疑問を捨てて問題を遠ざけ、ひたすら嘲笑う社会がある。そんな日本が隠したかった情報が出版された。
(「ユーゴ空爆で使われた劣化ウラン弾が人々を苦しめている」STOP!劣化ウラン弾キャンペーン編 実践社2006)
イラク派兵の英国兵士は「劣化ウラン情報カード」が発行され「あなたは劣化ウランの使用された戦場にいる。任務中劣化ウランの塵に晒される危険がある。尿検査を受ける資格がある。軍医や国防省ホームページに情報がある」と書かれている。先日の報道によれば、英国王子も一兵卒としてイラクに派兵されるという。侵略側であることはもちろん糾弾すべきだが、国内で王室を巻き込んで公正を保とうという姿勢は米国と一線を画している。さて、被曝大好きの日本はどうだろう?
2005年11月劣化ウラン弾被曝イラク帰還兵として米国人ジェラルド・マシュー夫婦が来日、「NO・DU国際行動」で被害を訴え、米政府に対する訴訟の報告をした。激しい頭痛や視覚障害でドイツの病院にまわされ、サマワから帰還した兵士レイモン・ラモスと出会う。二人ともまったく同じ症状だった。まもなくマシュー夫婦に娘が生まれたが、指が無かった。ジェラルドは顔が腫れ、目が見えなくなったり頭痛が続き脳下垂体に腫瘍ができた。マシューによると「ピッツ・パトリックというペンタゴン職員が米下院議会でサマワは劣化ウランで汚染されていると証言した」メインストリームを疑うことなしに世界や自分を知る事が不可能な時代と社会に私たちが生きていることを自覚しよう。因みに「ユーゴ…苦しめている」によれば、インターネットでは自衛官にも放射能被曝による障害児が産まれているとの情報が流れているという。
2006.4.6高木
ストックホルム症候群
「ストックホルム症候群」とは、人質が、自分を捕らえた者に一体感を持つことであり、エンベッド(従軍)取材に参加したジャーナリストが、自分の命が軍に依存することから、軍が戦争に勝つことを願い、軍の批判もしたくない状態に置かれる場合にも当てはまる、と米独立ラジオ・テレビで反戦を訴える「デモクラシー・ナウ」主宰者エイミー・グッドマンが指摘する。戦時下ジャーナリズムの典型的な陥穽だ。そもそもジャーナリズムが機能していればイラク派兵はなかった可能性もある。
生活費を切り詰める現実にあって、それでも今日はなにかマシな記事はないかと新聞を買うのだが、まるで宝くじのごとく「外れ」の連続だ。この国の危機を正確に表現したものに出会ったためしがない。最悪が朝日新聞だ。高齢者なら、かってのリベラル幻想を引きずって疑わぬまま読み続けることで知らぬ間に右翼になる構図だ。
「九年前に朝日新聞を定年退職したジャーナリスト二人は、私に『今の朝日の幹部は元社長の鞄持ちをやった人間ばかりだ。出直し的改革など無理。記者が政府や大企業におもねていてどうするのか。記者の生きがいは権力批判だ』と語った」(「戦争報道の犯罪」浅野健一 社会評論社2006)
どの新聞も似たり寄ったりだが、新聞をまるで読まない人が増えているという。では他メディアによる積極的な情報収集をするかといえばそうではない。要するにこの国の現実なんかに興味がないのだろう。知性も教養もそしてまともな感性もない首相の人気が、それにもかかわらず高いということから考えられるのは、そんな首相とバランスのとれる完全にコントロールされた国民という集団のイメージだ。大本営発表がまかり通る社会がここにある。「これが正しい」と情報が流れれば、ブロイラーの餌みたいに少しも疑わず聞き入れる。イラク派兵のすべての前提が崩れてなぜ問題にならないのか?侵略戦争で連日犠牲者を出していることがまるで他人事の社会。憲法など読んだこともまともに考えたこともないくせに、流行り言葉みたいに時代が変わったから、憲法を時代に合わせるべきなどと嘯く。拡大解釈の限界が来たということではないか。戦争したいから平和憲法なんか邪魔と正直に言えばいい。
論理が無視される社会であればこそ「ニセ科学」が蔓延する。日本物理学会は「ニセ科学に関するシンポジウム」を開いた。「水をコップに入れ、いろんな音を聞かせてから凍らせる。『ありがとう』やモーツァルトの曲では美しい結晶になり、『ばか』やハードロックではきれいな結晶は出来ないという。そんな写真集を複数の小学校が道徳の授業できれいなことばを使おうという教訓として教えたという。また、社会では血液型性格診断が差別を生み、科学的効能を謳う水や家電が高額で売られている。科学的考え方よりも、知識として理科が教えられニセ科学を見極める判断力や批判精神が育ちにくい」(06.4.12毎日)
フィクションとノンフィクションの境界が曖昧になっている。そんな社会につぎつぎと「物語」が与えられる。疑問も持たず、批判もしない高学歴のバカが多いから「見切り発車」が可能になる。
原発、核燃サイクル、プルサーマル、ミサイル防衛、脳死臓器移植…。厳密に議論され、公正な情報の共有が何一つ無い。そもそも自国の近現代史を知らない社会だ。論理的説得力など全くない反民主的政治言説が無抵抗のまま受け入れられてゆく。2006年4月14日中日新聞に全面広告が掲載された。広告主は社団法人日本臓器移植ネットワークだ。曰く「あなたの意思で救える命があります」
ちっとも普及しない臓器提供意思表示カードのPRだ。そもそも脳死臓器移殖は殺人である。移殖を受けたレシピエントは、生物本来の免疫機能を弱めるため免疫抑制剤を使用しなければならない。自己と非自己の判断を停止しないと他人の臓器を拒絶してしまうからだ。そんな反自然的行為が正当化されてしまう。「命のリレー」などと人道を装うが、現実はナマの臓器のバケツリレーという非人道であり、貧乏人のドナーと金持ちのレシピエントという構図が逆転することはない。「金儲け話」だからだ。莫大な経済的利益を前提にした移殖産業の話が美談にすりかわるのは、ドナーからの臓器摘出にかんする恐怖の実態が隠蔽されてはじめて可能なのだ。「原発は地球にやさしい」「プルサーマルはリサイクルだからエコロジー」などの話も、ネガティブな情報が隠されているからまかり通るわけだ。ミサイル防衛も、イラクに民主主義をもたらすための侵略も同じ話だ。都合の良い面だけが強調される。どれも政治家の子供は関わらない。
「イラク戦争で『明確な国連決議の無いまま先制攻撃を行った』と書くのは不可。『自衛隊は憲法上許されないとされてきた多国籍軍にも参加』と書くのは不可。復興支援のためと明示しないと不可」(06.3.30中日)高校教科書検定は、戦時下を反映した検閲となった。
疑問を持たず、批判もしない大人たちの社会は、次世代を戦争肯定に導く。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の影」が身につき、やがて「物言えば唇寒し」に…。もちろん「バレなきゃ何でもOK」の処世術を忘れることはない。ジャーナリズムが機能しなくなった社会は嘘が可能になる。
「箕輪氏(元自民党衆院議員、元郵政相)は小泉純一郎首相の自衛隊イラク派兵を厳しく批判、『報道機関の本業は政府のやっていることの監視なのに、現在の日本メディアは小泉政権のチェックを全くといっていいほどしていない』と述べた。『日本の市民の力で、劣化ウラン弾の調査団をイラクに派遣すべきだと強く訴えている。これこそが真の人道支援だということを国民と国際社会に見せたい』」(「戦争報道の犯罪」)
箕輪氏は、2004年イラクでの日本人拘束事件では、アルジャジーラに「人質の身代わりになる覚悟がある」と意向を伝えている。日本政府は「自己責任」の言説をバラまき、自衛隊の撤退要求にも応じないと即答している。小泉首相を筆頭に世襲議員が何ひとつ不自由なく育ち、弱者の立場など理解不能であり、国民、自衛官の命など全く気にしないのと比較すると、身代わりを買って出る箕輪氏との、あまりの差がわかるだろう。政治家を選ぶことの重要性をこんな場面で記憶する必要がある。
おそらく20代後半から40才くらいが多いと思われる現役のマスコミジャーナリストたちは、保身にかけてはエリートであっても、権力批判というジャーナリズム本来の仕事においては門外漢なのだろう。書いたところでデスクでつぶされるにしても抵抗の話は聞こえてこない。大政翼賛の流れにあって「異議申し立て」だけが希望であるのは明白だ。単独が困難でも方法が消えたわけではない。大手出版社が軒並み右傾化しても、赤字にめげず良心を曲げない小さな出版社もある。活字メディアの危機が聞こえるが、たとえ少数でも「良心」は消えたわけではない。
「ジャーナリストは、常に政府と対立関係にあるべきです。なぜなら、すべての政府は、たとえその政治色が右派であれ、左派であれ、事実を歪めてしまうからです。それがすべての政府のしていることです。その嘘を暴くのがジャーナリストの仕事です。そして戦争とは最大級の嘘なのです。」(ニューヨークタイムズ記者クリス・ヘッジス『戦争報道の犯罪』)
最強の軍事大国の好戦派と良心的ジャーナリズムの対決は、イラク侵略の誤算と莫大な犠牲者たちを決定的要素として論理的攻勢に転じつつある。この機会にこそ対米従属を拒絶し、あらゆる軍事的解決の虚構を暴いて良心のネットワークを構築しなければならない。命を使い捨てるこの上なく下品な社会を変えるのは「反戦」の意思のみだ。言葉は正しく使用すべきである。「あなたの意思で救える命があります」
2006.4.15 高木
「眼の誕生」
「For the future of Iraq」「UNDER THE SAME SKY」前の言葉は、誰が見ても子供向けとしか思えない(携帯のストラップ、キーホルダー、メモパッド、クリアファイル、ノートなど)が入ったマンガキャラクターグッズのタイトル、後の言葉は、「イラク人道復興支援活動」の広報のために防衛庁が作成したビデオのタイトルである。両方の制作費は約3600万円。もちろん税金だ。
「イラクについて最近、国民の関心が薄れてきているので、自衛隊の活動を忘れないでほしい、という意味を込めてグッズを作りました」防衛庁広報課( FRIDAY 06.4.28)ビデオは現地の人を参加させ「砂漠の廃虚のようだった学校が今では見違えるように奇麗になりました」などと言わせている。パンフレットには「日本人らしさを活かした誠実な活動と技術力が、イラク復興のために大きな成果を挙げています」として「給水活動」や「輸送支援」が紹介されるが、当然ながらイラク人負傷者、死者、破壊された家屋、使用された弾薬、残留放射能、被曝者の実態などの情報のかけらも無い。(イラクの未来のために)米英軍が大量の劣化ウラン弾を使用したジェノサイドを強行し、(同じ空の下で)米国側であるため、いつ、どこで襲撃されるかわからないのでひたすら宿営地に閉じこもるしかない自衛隊の現実を、大本営発表は決して伝えない。
出口無き“内戦状態”をひた隠したうえ、日本国内で大嘘キャンペーンに税金が使われている。戦争の現実感を伝えないようにマンガ化したり、デフォルメしてしまう。公的にマンガのキャラクターを登場させるしかなくなっていることが重要だ。イラクの現実が伝わっては政治危機を招きかねないからだ。技術的にはリアルタイムでイラクの砂漠からハイビジョン中継も可能な時代にありながら、あえて戦争がマンガのキャラクターによって伝えられていることにこそ、派兵の本質が露呈している。可能なかぎりの情報操作によってイラクを可視と不可視に分割すること。日本人にとってマンガ化された明るいイラクという可視部分が、おびただしい死体や破壊された建物、そしてそこから発生する底無しの憎悪という不可視の裏面を表現することを許さない歪曲がまかり通る。こうして嘘も反復により真実に置き換わる。戦争が視覚のコントロールに依拠している。敵よりも先に視ること。そして国民には現実を見せないこと。
戦火こそ無くても、日本中に増殖する監視カメラは、その意味で戦時下にあると言える。イラク侵略において米軍はイラク上空に偵察衛星を集中配置した。圧倒的な視覚が軍事的優勢を保証したわけだ。日本中に増殖する監視カメラで「テロとの戦い」における「不審者」探しが
可能になるように。
生命は40億年前に誕生し、34億年もかけてやっとクラゲやカイメンに進化した。そして5億4300万年前に突然爆発的に進化、たった500万年という短期間で驚異的に多様化した。いったい何が変化のきっかけを造ったのか?英国自然史物館動物学研究リーダーであるアンドリュー・パーカーは、S・J・グールドが、名著「ワンダフルライフ」によって世界のひとびとにカンブリア紀に爆発的進化があったことを知らしめた業績を引き継いで「爆発的進化」の原因を詳細に検討、生物学、地質学、物理学、化学などを駆使して、多くの研究者を納得させる新説を提唱した。「光スイッチ説」がそれだ。
生物はそれまでも太陽光線の恩恵を受けていたが、カンブリア紀初頭に本格的な「眼」を獲得したことで世界が変わる。視覚を獲得した結果、食う、食われるという関係が激化。それがカンブリア紀の爆発的進化を引き起こした。「眼」の獲得が武器や装甲を生んだわけだ。歯や触手、爪、顎、厚い殻をそなえた動物が突如としてその頃の地層から化石として現われる。バージェス動物群と呼ばれる奇妙奇天烈な動物たちは、海綿動物、刺胞動物、有櫛動物、腕足動物、軟体動物、ヒオリテス、鰓曳動物、環形動物、有爪動物、節足動物、棘皮動物、そして脊索動物(ヒトはここに入る)で、5億4300万年前から5億3800万年前に、現生するすべての動物門(海綿、有櫛、刺胞は例外)が、体を覆う硬い殻を突如として獲得したのがカンブリア紀の爆発だ。それまでの世界は、触覚や臭覚に依存し、直接接触したり間近に来なければ相手を感知しなかっただろう。文字通り「スロー」な時間が流れていたはずだ。視覚の獲得は、過剰と速度をともなう。すべての過程が加速され、大量に処理されてゆく。生命系全体の代謝率が昂進した。能動的な捕食が可能になる。
「カンブリア紀の爆発は、ことごとく視覚に頼る捕食者から身を護るための進化だった」(『眼の誕生』アンドリュー・パーカー 草思者2006)攻撃的な生物ほど視覚が発達していることは衆知の話だ。そして最も攻撃的とさえ言える人間も、自身の視覚とそれを驚異的に性能を向上させる技術によって宇宙空間からの監視や攻撃さえも可能にしてしまった。
「米国の宇宙支配の展開は『宇宙の兵器化』と呼ばれる『X線レーザー衛星』や『神の棒』兵器(劣化ウランやタングステン製の長さ数mの棒状の兵器)を衛星から地上や地下の敵に放つ構想が進む」(米国の宇宙支配と軍需産業)藤岡惇季刊軍縮地球市民No.4西田書店2006)
人間が自らを神格化するほど傲慢で自己陶酔するその在りようは視覚に依存している。不可視を補うため仮想現実さえ駆使しながら。だが、それは目を閉じる恐怖の裏返しではないだろうか?永久に戦い続けるため目を閉じることが許されない状態だ。人間の知は宇宙や生命の創造から現在に至る時空をかなりの部分まで理解する段階だ。それは世界を隈なく見つめた結果であると同時に、眼を閉じて内宇宙を育み現実と融合させてきた結果でもあるはずだ。
地球史、生命史という視点を持つに至った人間は本来、今ほど下品な存在ではなかったと思いたい。眼は世界の入口であると同時に人間らしさの証しとして(悲しさ、怒り、愛)によって溢れ出す涙の出口でもある。視神経が壊れ、長い期間にゆっくりと視覚を失ってゆく緑内障と診断されて3年経つ。視覚偏重の文化を我が身をもって問いなおす試練は相当こたえるが、意味の深いものであることは間違いない。
2006.4.20高木