アレン・ネルソンもしくは第9

 

「民度以上の政治は現われないと言われていますが、民度以上のマスコミも現われないのです」(「斎藤貴男対談集 みんなで一緒に貧しくなろう」かもがわ出版2006

この数年間で、浜松市内から何件もの書店が消えていった。インターネット普及などに原因を求める前に、本が売れない。「活字離れ」と言われて久しいが、続く不況下で生活の苦しさを構造的に問い、原因を糾弾するという回路が無い。デモや集会という具体的表現に至るはずの精神的活動が停滞、表出して当然のルサンチマンが姿を見せない。日本中が圧殺された状態において、量はあっても質において貧しい出版状況にめげず小さな出版社が必死で頑張っている。いや言論の危機に際して声を振り絞っているといったほうが正しい。社会を正確に読み解くものは何時の時代も正当な評価を得ていたはずだが、最近そんな常識が変わってしまったらしい。まるで社会全体が本当の自分を知ることを避けているかのように。もともと浜松は、人文系の本など売れなかったが、それにしても、である。消えていった書店が、開店当初から閑古鳥が鳴いていたわけではなかった。需要と供給が見合っていたから商売になったわけだ。思考停止は、目の前のエサをついばむだけのブロイラーを量産している。

喫茶店、映画館、書店はその街の性格を知る指標だろう。初めて訪れた街の片隅にその街独自の店を見つける楽しみは格別だ。挽きたてのコーヒーの香りと静かに本を読む常連客の姿に何か安堵感を覚えたものだ。サルトル、ボーヴォワールを引き合いに出すまでもなくカフェが思想の発信地だった時代もあった。流行に頑と背を向けて、自分の選択に自信をみせるオヤジのいる古書店などは、たとえ胡散臭そうに睨まれたとしても寛容な気分になれるもの。「いやなら帰れ!」「他とは違うぞ」という自己主張こそまぎれもない文化と思える。表通りから外れた小路に古い名画座が元気にやっている風景は、たとえ時間がなくて観れなくてもうれしいものだ。街を歩くたのしみが「お買い得さがし」と思わされている昨今だが、そんな消費誘導に乗せられてたまるか!本来、複雑系である街を「買う」「買わない」の二分法で評価するなど街という共同体の解体にほかならない。さまざまな未知のものが混在していることこそ魅力ではないか。異物の出会いが新しいコミュニケーションを生んできたのではなかったか。そんな街の個性や文化を「構造改革」が完膚なきまで破壊してしまった。日本中どこへ行っても同じ(荒涼とした)風景だけになった。個人商店は軒並み潰され、シャッター通りと化してゆく。中心市街地の空洞化はとどまるところを知らない。浜松には「さかな町」という場所があったが、もはやさかな屋はなく町名が、かえって虚しさをつのらせる。危機感を持った商店主たちが知恵を出し合うが決め手を欠いたままだ。反対に郊外の大型店はますます活況を呈してゆく。あえてこれも文化といえばそうには違いない。ただし人間不在という但し書き付きだ。

ところで斎藤貴男が孤軍奮闘している。住基ネット決定前に静岡市の弁護士会館に足を運び講演を聞いたが、1995年「機会不平等」の頃から階層(格差)社会を見据え一貫したスタンスで発言を続けている。少し前まで辺見庸なども読んでいたのだが、なぜか急に嫌気が差して著作を全部捨てた。

この国がダメになってゆく様子にリアルにそして愚直に関与するというただそれだけの理由で斎藤貴男の腹のくくり方を評価したい。持って回った言い方や難解さを装っている時勢じゃない。これほどの危機にあってアカデミズムや文壇は一体どう機能しているのか?物書き、表現者、何でもいい。人間として言葉を発する大前提が「戦時下にあることの自覚」であることは明確だ。その自覚をバイパスする精神構造こそファシズムではないか。なにやら聞こえて来る、またぞろ「ニッポン!チャチャチャ」の気配に虫酸が走る。よくもこんな国になったものだ。世界史に残る侵略戦争、被曝、必然的に導かれた敗戦、占領と激動の歴史を経験したにもかかわらず、まるで何事も無かったかのふるまい。さらに最悪の体制への回帰をどう表現すればよいのか。何よりも想像力の貧しさがこの国の象徴であることに腹が立つ。人間、国家、戦争について考察する最良の機会とテキスト(憲法第9条、21条)を与えられながら(勝ち取ったわけではない)、意味を理解もしないまま葬ろうとしている。どのような過程をたどればそんな傲慢な社会が実現するのか?単純明解な答えがある。「死」の隠蔽だ。

自らの歴史が生み出した死屍累々を意図的に消し去り、何事もなかったかの虚構を演出してきたということだ。しかも60年の永きにわたって、である。戦争が殺人であるという原理を、だから日本人は忘れたり、知らないままで過ごしてきた。あえて言うならば、憲法第9条の負の作用かもしれない。「死」をタブーとする文化がこうして根づくことになった。だが、タブーを明確にすることは脆弱ということでもある。

アレン・ネルソンという米国人が日本各地で講演している。ニューヨークのスラムに生まれ育ち、貧困から必然的に兵役に就くことになる。海兵隊の最後の訓練は沖縄だった。1819歳の若者が、ひたすら「殺し」を学ぶ。教官が聞く。「おまえらは何をしたいのか?」若者たちが叫ぶ。「殺し!」「聞こえないぞ」「殺し!」「まだ聞こえん」「殺し!」

戦争は映画とはまったく別物。銃は頭など狙わず、必ず腹を狙う。56発が腹に当たる。「このような負傷では兵士は即死しないのです。激痛に苦しみ、泣き叫びながら何時間も死ねないのです」

沖縄では夜の街に出かける。酒、女、喧嘩のために。「私たちは暴力性を身につける訓練を受けている。街に出かけるとき暴力性を基地に置いて行かない」そしてヴェトナムにおける戦闘。「本当の戦争の臭いとは、腐敗、腐乱死体の臭い・焼け焦げる死体の臭い・血の臭い・火薬の臭いです」

アレン・ネルソンの人生を永久に変えるひとつの出来事があった。戦闘で、ある村で壕に逃げ込んだ途端、1516 歳くらいのヴェトナム人の少女が居ることに気づく。どういうわけか逃げずに激しい息づかいをしている。やっと訳がわかったのは、彼女は赤ん坊を産んでいたのだ。(海兵隊では殺ししか教わらなかったから)どうしてよいかわからないまま手を差し出すと赤ん坊が手の上に生まれ落ちた。衝撃が走った。彼女は赤ん坊を取り上げて、歯で臍の緒を噛み切ってジャングルに逃げ去った。赤ん坊を見てベトナム人も人間であることに気づいた。戦争とはテロ行為なのだと悟った。米国で受けた教育がプロパガンダと嘘だらけだったと認識した。帰国後ホームレスだったが、あるきっかけで教室の子供たちに戦争について話すことになる。「ネルソンさんは人殺しをしたのですか?」目をつぶって「イェース」と答えた。

「小さな子供たちは全身で戦争を理解しようとするが、私たち大人は頭で戦争を理解しおうとする。しかし戦争の恐さは知的に理解できるものではないのだ」(『アレン・ネルソンの戦争論』かもがわ出版2006

アレン・ネルソンは1996年来日した際、日本国憲法第9条に出会う。「わたしは自分が読んでいるものが信じられない思いでした。/第9条は単に日本人民のために大切なのではありません。この地球に生きるすべての人民のために大切なのです。/平和はアメリカや国連からやってくるものではありません」

貧困な環境に生まれたがゆえに兵役に就くしか道が無く、戦闘で殺し殺される状況から奇跡的に生還するが、ホームレスになる他なかったネルソンが、戦争がテロであること、殺人であることを自らの体験から訴えるのは、特異な例でしかない。多くは戦場で命を落とし、負傷して、帰国してもホームレスで終ることになるだろう。米国の階層社会は現在も激しい格差の現実がある。そしてそれを模倣する日本社会が。アレン・ネルソンは日本国憲法を理解するために、生命がどれほど大切なものであるかを悟るためにわざわざ戦争を経験しなければならなかった。日本人の想像力はアレン・ネルソンの言葉に到達できるだろうか?それとも自らは決して戦場に行く事のないこの国の為政者の言葉を信用するのか?ともあれ危機を危機と感じない感性を為政者が大歓迎することは間違いない。

2006.6.9 高木

渦巻きを忘れるな

私の知っているほんの少しのものと、圧倒的な未知のものによって世界が成り立っている。日常とは未知のものの存在を忘れた時間のことかもしれない。アパートのドア近くのコンクリート壁に去年から10cmほどの土の塊に気づいていた。きっと蜂だろうと思っていたが、2日前に直径1cmほどの穴が開き、息を呑むほどきれいな金属的青藍色のセイボウ(青蜂)が出てきた。美しいものは危険であるのが世の常で、セイボウはトックリバチ類の巣に産卵し、幼虫は宿主を食べて成長する。数年前、佐鳴湖岸で採ってきたトックリバチの巣からオオセイボウが羽化するのを初めて観察した。きっとこの付近で世代を継続してきたその家族にちがいない。異様に美しい青色としてチェレンコフ光、カワセミ、セイボウを以前にも書いたが、何かを選択する時、青色を選んだことはない。青色に馴染めず今に至っているのはこの色の非日常的印象のせいかもしれない。エイズで死んだ鬼才デレク・ジャーマンの遺作「ブルー」は全編青一色の画面で死の予感のうちに流れる遺言のようなナレーションが鮮烈だった。セイボウに戻ろう。帰巣性のメカニズムはわからない部分もあるが、視覚、嗅覚、地磁気、太陽などが関与するらしい。いずれにしても生物はそうした行動を「アンプラグド」で行う。パソコンやカーナビは不要なのだ。「丸腰」の人間がいかに無力であるか、それも現代に近づくほど貧弱な存在になることは科学技術の進歩と相関する。無力を技術が補うと言えば済む話ではない。人間が生物をやめるわけにはいかないからだ。視点を変えると、内面の退化が技術の暴走に加担しているとも言えよう。
 業界の構造、ずさんで異常な保守管理が見えなかったために事故を招いたシンドラー・エレベーターのように、事故が起きないかぎり多くの人が勝手に安全と思い込む技術に囲まれて私たちの生活がある。たとえば原発のような。それにしても政治のリーダーとされる人間の質が劣化するばかりだ。「見える世界」が重視される時代、即物的価値観は拝金主義を招く。そんな日常は植物や昆虫の控えめな行動に気付く余裕など持たない。幸か不幸か下層に在り、なんとか食いつなぐだけの生活を送る私が、拝金主義的才能の無さという反発もあって、毎朝タイワンリスの鳴き声に目覚め、たまにハクビシンやタヌキの後姿をながめ、けたたましいヒヨドリやムクドリの叫び声のほうが、銃後の守りに昂ぶるT−4のジェット音より価値があるとするのは、世間から見れば負け犬の遠吠えにすぎないかもしれないがかまうものか。そんなことより毎年、むかごを落としては再生する山芋のつるが、毎日ゆっくりと回転して螺旋を描きながら支持体になるものを探す様子や、モウセンゴケが好環境の指標である昆虫を捕獲するための透明な分泌液を腺毛にいっぱいつけている姿に無上の喜びを感じるのは、可視の世界を表出させている不可視の部分への確信にほかならない。熱烈なファンとして精読したわけでは決してないがゲーテ、シュタイナー、T・シュベンクなどに共感を見出すのはそんな理由だ。
 
ところで圧倒的無関心を糧に米軍再編が日米両政府の思惑どうりに進行する。530日閣議決定した内容は、辺野古基地建設、座間・横田の司令部統合、そしてグァム基地新設、米軍と自衛隊の連携強化が行なわれる。さらに無期限、無限定の「対テロ戦争」が、わかりやすい「北朝鮮が攻めて来る不安」と、実態の不明な「体感治安の悪化」の巧妙な操作によって現実的な「災害」をテコに、民間防衛として日本列島全体を戦時体制に構築することだ。無理矢理奪われたのか、知らぬ間に差し出したのかに関わらず、国民主権放棄が最悪の結果を招きつつある。

610日、NHKが額賀防衛庁長官、小林よしのり、斎藤貴男、反戦平和運動活動家、沖縄市民、学生などを登場させて長時間の討論番組を特集した。「米軍再編」についてということで沖縄市民をはじめ基地周辺住民から切実な訴えが挙がった反面、女子学生がそのような厳しい現実を初めて聞いたらしく「知りませんでした」と真顔で答えていた。額賀防衛庁長官はありきたりの自衛隊のイラクにおける「人道復興支援」をしきりに強調していた。基地問題に日常を破壊される人々、反戦平和運動に尽力する人、右派論客、現状に危機感を募らせる評論家、そしてノンポリの普通の日本人など、思想も生き方も境遇も異なる人々が一堂に会して論じ合う機会が、一体なぜ米軍再編閣議決定後に行なわれるのか?水と油のごとく噛合うはずのない再編容認と否定の立場を、防衛庁長官まで担ぎ出して演出したのは、「既成事実」としての再編に民主主義を偽装するだけの目論見が透けて見える。なんのことはない、国営プロパガンダ専門局としてのNHKの本質をさらけ出したわけだ。交わされた多くの切実な意見を「知りませんでした」という一言でチャラにした女子学生が、他の誰よりも日本人のマジョリティを表現していた。言うまでもなく戦争体制への国家改造である「米軍再編」はすべての国民が主権者、当事者として情報を共有して当初から論議すべき問題だったはずだ。このNHKプロパガンダ番組にサブタイトルをつけるべきだ。「後の祭り」と。

「見えるもの」ばかりが強調される社会では「見せること」でどんなコントロールも可能になる。真実である必要は全くない。さまざまな虚構によって現在に至るこの国の民主主義が主権者不在の結果を生んでいるのも当然ということだ。どうやらゲッペルスは時空を超えてこの地に永住を決めたようだ。嘘も百回繰り返せえば真実になる。

 世界は「既知のもの」と「未知のもの」、もしくは「見えるもの」と「見えないもの」で成り立つ。日常で、知っている(と思い込む)もの、目に見える(錯覚も含めて)ものがすべてではない。

「勝てもしない戦争を煽った大新聞は性懲りもなくジーコ・ジャパンは必ず勝つなどとデカデカと流したがでたらめだ。まだ次がある、クロアチアには勝つなどと根拠のない希望的観測があふれているが、なにも知らない庶民を煽るだけ。真相を伝えるマスコミは一体どこにあるのか?」(日刊ゲンダイ2006615

サッカーを知っている者なら、日本の実力を客観的に評価して決勝トーナメントに残るなど誰も思っていないのに、マスコミの煽動で簡単に火がつくこの国は、自国のことも世界のことも何も知らぬまま唯我独尊をはしゃぐ。全体の流れが米国だけに都合よく変えられているというのに。あろうことか、「日本対オーストラリア戦」中継後、「日本が負けたのに笑っているのか」と殴られる暴力事件が起きたという。なんともはや臆面の無いナショナリズムが闊歩している。
 人々が「知っていること」と「知らないこと」の確執がさまざまな現象を生んでいる。以前からそうであったし、これからも変わらない。それにしてもあまりにも一面的な社会ではないだろうか?この単純さはきっと破滅を招くだろう。人間は今だに世界を詳細に語る言葉を持たないままだ。科学が確実に未知の世界を発見しつづけているからだ。であるならば、見えないもの、未知のものとの折り合いをつけて共生してゆく発想こそ現実的ではないか。説明不能でも存在するものは無数にあるのだから。

 たとえば、指紋は警察のためにあるわけではない。数え切れないほどの人間において同じ物が存在しないこと、しかも同心円や渦巻き模様でなければならない必然性は説明不能だ。

「多くの芸術家やナチュラリストが、渦は水の流れの形のもっとも強力なものであり、大宇宙的出来事と小宇宙的出来事をつなぐと考えていた」(「水の神秘」ウェスト・マリン 河出書房新社2006

私たちの日常が危機を招いているとしたら、「知っていること」や「当然であること」の信頼性にゆらぎが生じていることになる。人も社会も、そして世界はまだ未知のものばかりだ。多様性を確保し、異なる視点を持たない限り破局を迎えることになる。     2006616高木

改憲催促

 

残虐性の品評会が続いている。親が子を殺し、子が親を殺す。そのような個別のエピソードを書割にしながら、強者が弱者を殺すことがまるで原理のようになってしまった社会がある。「まさかあのひとが」というお決まりのセリフを施しながら、巷の殺人事件をマスコミが連日のように過剰報道することが、この国のはるかに巨大な暴力を隠蔽する効果を生んでいる。「戦争は殺人である」ことをすっかり忘れた社会は、その鈍感な感性ゆえに被害者意識しか持たない傲慢に気付かない。

イラクに派兵された陸上自衛隊の撤退が決まった。

「支援の大半はイラク人にも出来る内容だった。/日本の軍隊は宿営地から出て来ず、臆病な印象を受けた。/まだ支援を必要としているのになぜ帰ってしまうのか?」(06623毎日)

「すべてのイラク人は、自衛隊も占領軍の一部だと理解している。/自衛隊の最優先事項は自らの安全だった。そのために日本が支払った金の3分の2以上は不正に横流しされた」(621中日)

いずれもイラク人の声だ。大本営発表しか知らない、そして「人道復興支援」を頑なに信じる日本人はこうした言葉に耳を傾けるべきだ。

日本人人質事件被害者の高遠菜穂子さんは「人間も建物も生き残った人の心も、とことん破壊されてしまった」(06621毎日)とブログに記している。同じく人質だった郡山総一郎さんは「NGOなどの活動のほうが国際貢献には有効。自衛隊派遣は、他のイスラム諸国でも理解は得られていない」と話す。(621毎日)

「有事に近い体験をしないとモノにならない。(制服組トップ先崎統合幕僚長)、米軍から見れば、小学生と思っていた自衛隊に中学生の仕事が出来たという話。(外務省幹部)」(622毎日)

陸自撤退という報道は、空自の活動継続および範囲拡大、インド洋上無料給油継続という対米貢献とともにあった。この度し難い驕りは一体なんだ?図に乗る政権を無条件に放任する日本人には、自国に何が起きているのか理解する能力も無いのか。侵略が継続され、これからも加担し続ける宣言だというのに。国内の殺人事件へのあれほどの関心とは正反対に、イラクの連日の虐殺に対する無関心は、戦争が殺人であることなどすっかり忘れた証拠だ。だからこそ女性や子供の内臓の飛び出した死体映像が、この国の公共放送や公正なジャーナリズムのために必要なのだ。実際には行われている暴力行使を無視する暴力社会にはリアルな暴力の結果を突き付けるほかない。

日米安保も集団的自衛権も論外の既成事実が積み重ねられてゆく。折も折、「テポドン発射危機」が喧しい。

「米軍再編は、地域的ではなくグローバルに迅速対応するためであると米軍は強調してきた。にもかかわらず、日米安保条約を基礎にする限り、近隣脅威論によって米軍プレゼンスを合理化する以外に道がないのである。/できるだけ有利な形で日本の基地を再編するために『中国カード』と『北朝鮮カード』が使われていると考えられるのである」(『米運再編』梅林宏道 岩波ブックレット2006

ニュースのたびに北朝鮮のミサイル映像とともに発射寸前と煽られるが、この国は何も学ぼうとしない。「9.11」の真偽さえ定かでないことを踏まえ「北朝鮮ミサイル危機」そのものの捏造も可能だという視点を捨てるべきではないだろう。さらに北朝鮮と米国の密約の可能性もゼロではないだろう。それほど米国は敵が欲しいし、北朝鮮の退路は絶たれているはずだ。なにしろ大本営発表なのだから。

「ニッポン!チャチャチャ」と「ミサイル」と「殺人事件」が巧妙にブレンドされ、国家改造が強行されようとしている「米軍再編」の進行などまるで他人事のようだ。きっと沖縄以外の子供たちは「平和な日本に生まれてよかった」と真顔で話すにちがいない。なにしろ親が知らないのだから。

「犯人には極刑を」という言いまわしが、平和な日本で頻繁に使われるが、戦争犯罪への適用を留保したままなのは一体なぜだろう?あらゆる犯罪を憎む社会が最悪の犯罪を見逃すのだ。

「北朝鮮ミサイル発射危機」の報道において、迂遠な言いまわしでミサイル防衛(MD)が軍事的実用レベルに達していないということがまるで言い逃れのごとくかすかに聞こえてくる。それはそうだろう。弾丸を弾丸で射ち落とす、と揶揄されるMDは、実験が失敗の連続という経過がある。そして一度に多数のミサイルに対応出来ないこと、「おとり弾頭」の見分け不能などの問題を抱えたままだ。それでもMDを推進するかぎり軍需産業が天文学的に儲かることは確実なのだ。

かってクリントン時代にNational Missile Defenseと呼ばれていたが、Nが米国防衛という排他的ニュアンスにより欧州が他人事と考えるためNを無くしたという。さまざまな相手に手八丁口八丁の虚言で自らを正当化する米国が口にする「民主主義」がどのようなものであるのかを思い起こそう。MDは米本土防衛のためのものであり、在日米軍がそのために日本の資金と基地を使用するということだ。米国の軍事的優位は圧倒的であり、米英という同盟関係を日米にも実現することで世界支配が可能とするのが米の戦略だが、こうした本音をストレートに口に出来ずにいるのは、(つまり「北朝鮮、中国脅威論」を利用することで国民を説得すること)言うまでもなくドラキュラにとってのニンニクや朝日のように「邪魔な平和憲法」があるからだ。

6月下旬、米のMDにおける海上配備型迎撃ミサイルSM−3による迎撃実験に海自のイージス艦「きりしま」が参加するが、軍事通信衛星の使用を認めていないため情報交換できないまま終わることになる。実験参加は多額な費用がかかるため各国が消極的だが、日本は参加をアピールするつもりだ。/MD関連で、米が夏までに青森県航空自衛隊車力分屯基地に設置するXバンドレーダーの情報もどんな形で提供されるか不透明。米本土を守るための便利な出城として日本を利用する可能性も」(06618中日)

「Xバンドレーダー」は、たとえば米国東海岸のワシントンの湾に設置すると、西海岸のサンフランシスコ上空の宇宙空間に飛来する野球ボール大の物体を感知する能力がある。(「アメリカの宇宙戦略」明石和康 岩波新書2006

何はともあれ、日本は金を出して、基地を提供し、自衛隊を戦闘可能にして使わせろ、反対する奴は非国民、不審者、テロリストなど、なんとでも名付けてしょっぴけ。そのために早く改憲しろ、ということだ。何度も言うが、軍事には人権も民主主義も存在しない。そこには建て前としての「平和」「民主主義」「正義」が胸を張っているが、画餅にすぎない。公正、平等、は死語であり、絶対の命令系統による閉鎖社会が大量殺戮に特化して存在するだけだ。日本が「米軍再編」を受け入れ、MDに参加し、米国世界支配のための参戦を継続することが、圧倒的軍事力を誇る米国と対等になることでは絶対にないことを肝に命じるべきだ。米国型社会が極端な格差社会で、貧困が選択肢を無くして徴兵制をしかなくても兵役志願者を生み出すことを、身を持って知るはめになるだろう。死ぬまでとことん税金を絞られ、弱者は野垂れ死ぬしかなく、圧倒的なストレス社会が自殺や犯罪を育み、先の見えない戦争体制が続く。こういう状態を「普通の国」と呼ぶそうだが、そんな国を愛することが強要されようとしているのだ。              2006622高木

オプション

東京都が91日(防災の日)の災害訓練において初めて米軍参加を計画している、との報道があった。米軍再編という日本改造を踏まえた上での堂々たる展開だ。かって石原都知事の要請により自衛隊の装甲車両が参加、災害とのあからさまな違和感が論議を呼んだが、その流れが戦時体制構築の目論見通りに進んでいる。そのうち(防衛の日)に変わるかもしれない。

新自由主義と新国家主義の歯止め無き膨脹において、単純明快な「勝ち組、負け組」選別によって自分が切り捨てられる側、使い捨てられる側であるにもかかわらず、訳が分らないままその流れを容認し、なおかつ小泉や石原という権力者に(中身が無いにもかかわらず)同調するという倒錯がおきている。しかも(異議申立て)を不審者、非国民に位置づけながら。そんな流れの日本を、右傾化した保守であるはずの政府が、米軍にまるごと指揮権をゆだねたのが米軍再編だ。早い話が売国ということだ。

武藤一羊によれば、「米韓同盟の再定義」により、防衛型同盟から攻撃型同盟に転換、日米韓の「三国軍事協力」により、米軍の先制的、予防的介入のバックアップを韓・日が担うという。

「米太平洋司令部長官W・ファロンが想定しているのが、2000年以来韓国政府が追求している北朝鮮への太陽政策でなく、体制崩壊による統一であることに注目しよう。/第2の朝鮮戦争において、この線に沿って迅速な軍事行動がとられる可能性があり、『在沖米軍海兵隊がたった一日で韓国上陸を果たす』ようになると警告している。/米国は北朝鮮への先制攻撃のオプションをけっして手放そうとはしない」(『米軍再編と反基地運動』武藤一羊 ピープルズプラン34

真偽不明の「9.11」を奇貨とした世界規模の反動期という災禍に見舞われた、平和と自由を希求する民衆のグローバルネットワークの端末として日常をとらえよう。もちろん押しつけられた階層(上下構造)ではなく、階調(同一地平におけるグラデーション)に依拠して。つまり、世界大の底辺の地図上における災禍の濃淡を認識し、全体が共有し合うことだ。個別に闘われてきた世界の反基地運動が世界的ネットワーク構築に向けて始動しはじめた。アジア平和連合(APA)ジャパンの笠原 光が「ピープルズ・プラン34」で報告している。
 2001年、世界経済フォーラム(ダボス会議)は「北」の一部のトップが世界の方針を「北」の密室で取り決めたが、これに対抗して「南」で世界中のひとびとが世界のことを決めようという理念で世界社会フォーラム「もうひとつの世界は可能だ」のスローガンの下、世界から2万人が参加。20026万人、200310万人、200412万人と参加者の飛躍的増大が続いている。「WSFで特筆すべきは、軍事基地問題もまた個別課題ではなく、経済と軍事が一体化したグローバル化のなかで(もうひとつの世界)を希求するその世界に向けた大きな障害として位置づけられたことである」(「世界反基地ネットワーク次の一歩へ」笠原 光 ピープルズ・プラン34

「平和」という言葉が虚しく響く昨今だが、世界各地の具体的な反基地闘争がネットワーク化することで全体の流れがよりいっそう現実感を獲得するだろう。20073月、エクアドルにおいて「すべての外国軍軍事基地撤廃のための国際集会」をめざしている。呼びかけ文の一部を紹介する。

「外国軍軍事基地、その他の形態の外国軍の存在、そして社会全体の軍事化が、世界のいたるところで、民主主義、正義、主権を犠牲にしつつ、いかに特定の国や企業の利益のために利用されているかを浮き彫りにしました。これらの基地を廃止し、地球社会と各国社会を非軍事化することなくして(もうひとつの世界)をつくることは出来ません」

訪米した小泉とブッシュが、傲慢な共同宣言を出したが、日米両国がいかに世界と乖離しているかを見せたものだ。嘘による侵略戦争の反省もなければ修正もなく、路線変更など何処吹く風という具合だ。イラク人だけでも12万人の死者がでているというのに。

小泉の笑顔に読めるのは「後は野となれ、山となれ」という主権放棄だが、振り返れば日本人の主権放棄の結果としてこの笑顔があるわけだから背筋が寒くなる。仮想現実に埋没した多くの日本人にとって戦争のリアリティは、突然具体化した米軍再編さえ理解不能のようだ。あらゆる現場から遠く離れた日常、すなわち「他人事」と「自己中心」から成る日本社会では、たとえば時給100万円の美容外科医の誘拐事件が話題になり「日本の警察のすばらしさに感謝しています」というセリフが余韻を残している。脂肪吸引したものをバストに入れて一石二鳥という商法で年間12億円稼げるのは「見た目がすべて」の価値観だ。このニュースの比重がそのまま民度を表わしている。脳のトレーニングなんかしたって変わるものか。テレビ見ていれば確実にバカになるということだ。売国も平気でこなす政権とツルむマスコミにもはや自浄作用などあるはずがない。ともあれ私たちには加害者として世界を知る義務がある。世界の戦争や貧困の現場からかすかに聞こえる声を逃してはならない。

「ドイツ国際平和村には、世界中から戦争で傷ついたり病気にかかった子供たちが来て、リハビリや治療を受けている。アフガニスタンの子供が多く、アフガン難民のボランティア、マスードが子供たちに言葉を教えたりしている。チャーター機が着いてアフガンに帰る子供たち、帰れない子供たちが別れに泣き出す。マスードが子供たちに苗を渡して、国に帰ったら木を植えなさいと言う。アフガニスタンは戦争で木も燃え尽くされた。食べ物も作れない。10年、20年で解決出来ないかもしれないけど、君たちの子供のまた子供のときには緑の国になるかもしれない。誰かが木を植えなければ甦らない。ぼくもいつかアフガニスタンに帰る。それまで一人一人がマスードという木をちゃんと育てておくれ」(「子供たちの命」チェルノブイリからイラクへ 鎌田 實、佐藤真紀 岩波ブックレット2006

アフガニスタン侵略、イラク侵略、どちらも日本は加害者だ。そこにはこんなエピソードが無数に連鎖している。こうした現実を「知らなかった」で済む話ではない。しかもこれから米軍と自衛隊がさらに殺人を継続しようというのだから。

21才の若者がグループで同世代の2人を生き埋めにしたらしい。いまのところ犯罪だが、戦場では賞賛される行為だ。湾岸戦争でもイラク戦争でも大規模に行われた作戦だった。命と戦争について真剣に考えない社会なら英雄になれる。民主主義を広げるためなら殺人も国益だ。テロリストを殺して何が悪い?人生いろいろ。改革には痛みが伴う。なぜ憲法違反なのかわからない。

2006.6.29高木