平和利用と軍事利用
北朝鮮が地下核実験を強行か?と騒ぐ日本を尻目に米国は臨界前核実験を平然と行なった。傲慢な米国の行為に日本は特別な抗議もせず、いつものように看過するだけだ。核武装に関して「オレは良いけど、お前はダメだ」という米国の独善を、「世界で唯一の被爆国」と自認しながら肯定する矛盾を継続してきた日本で、公然と核武装論を口にする政治家がいること、軍事利用と平和利用という都合の良い言いまわしにより、国内に約150トンものプルトニウムを保有するに至っていること、核のリスクに国家としてあまりにも無防備であることなどを認識している日本人は、非常に少ない。核についてもっとも雄弁なはずなのに誤認や錯覚がまかり通っているのだ。
20年くらい前の話だ。動燃(当時)の東濃、
原子力発電(平和利用?)にしても原爆や劣化ウラン弾(軍事利用)にしても原料のウラン採掘、製錬、輸送、製造、発電(実験)、維持管理、廃棄の最終工程に至るまですべて被ばくのリスクがある。支配者、被支配者などという言いまわしを嫌う人もいるだろうか、決して被ばくしない立場と被ばくする立場を考えれば、原子力が絶対的な差別に貫かれていることが理解できるだろう。スリーマイル、チェルノブイリ、
プルトニウムは、アルファ核種で深刻な内部被曝をもたらす。プルトニウムはたった1gが1億4000万人分の接収限度だ。米国は、広島、長崎の原爆被害の実態を国内で公開してこなかった。核被害の実態を隠したまま核大国となった米国において戦術核や小型核の使用を容認する声が挙がるのは無知ゆえの自然な流れかもしれない。同様のことが北朝鮮について日本社会にも言えないだろうか。軍事独裁ゆえの貧困と飢餓の実態がリアルタイムで詳細に報じられた上で、敵地先制攻撃論などが巾を効かすとは思えない。人間は本能として他者の苦痛や苦悩に共感する。悲惨な情報を絶ち悪のイメージにすり替えることで情報操作が無知を育み、敵憎し、とばかりに昂ぶる世論形成が可能なら、それによって誰が利するかという疑問は、全体を読むうえで重要になるだろう。北朝鮮の7発のミサイル発射は、結局「MD前倒し」と「予算確保」に決定的貢献を果たした。日本の軍需産業とその利権に関与する政治家にとって、極端な話なら、金正日にちょっと発射してくれ、と密約すれば、効果に疑問のあるMDに堂々とゴーサインが出せるきっかけだったわけだ。そこまで国民を欺くのは不可能と思いたいのだが、ともあれ、始めから日本に核武装の下心があったのか、それとも原子力推進の流れにおいて成り行きでプルトニウムが貯まってしまったのかは定かでないが、核大国並みのプルトニウムを持つという事実がある。そして自他共にタカ派を任ずる安倍晋三次期首相候補は「改憲」を使命としている。
「被曝資料を米政府は軍事機密として核シェルターに厳重保管していた。/米政府が50年代に核実験の死の灰による日本人への影響を極秘に調査していた。/ブッシュ政権は、最近、核開発に関する機密文書公開を見合わせる内部決定をしていた」(06.8.31読売)
「グローバル被ばく者」をはじめ核のあらゆる被害実態を全世界が共有すること無く核廃絶は不可能だろう。懲りずに戦争を繰り返してきた人間が、その被害をひとつのこらず公開することで、つまり見たくないものを見ることによってしか自らの暴力性に鎖を巻くことはできないように思う。たとえばイスラエルとレバノンなど戦闘による死者の非対称が気になって仕方がない。死者を隠すべきではない。勝者も敗者も世界中の人々が死者を見つめるべきだ。エンバーミング(死化粧)無しの被害者を見ることが反戦の意志への道のような気がする。 2006.9.1高木
段ボールハウスカメラ
古紙業界で段ボールが高値という。活況を呈する中国の工業生産に伴うためだ。好景気が段ボールを必要とし、不況もまた、それを必要とする。前者が企業用で後者は仕事から排除された人たちの需要だから、その意味は正反対の関係にある。同じ世界の出来事なのに。
野宿を強いられる人々が、段ボールで居住空間を手作りしたのがいつ頃から、誰によるのか不明だ。当然、特許があるわけでもない。だが段ボールハウスとブルーシートが都市の最低辺に息づく人々の最少単位の私的空間であることは衆知となっている。もっとも弱い立場の人々が最も弱い素材を用いて都市の中枢に約3〜10立方mの箱型の空間を集合させることが、カタログに記載されない都市の本質を露呈させるばかりでなく、ひとりの野宿者の存在を超えた意味を生み出しているように思える。30年以上前に読んだ本のある言葉が思い起こされる。「虚ろなる空間には魂が宿る」というものだ。そういえば小学生の頃、何の理由もないまま小さな壷としゃれこうべを集めていた。楊枝入れや墨画用の水入れのようなものであったり、牛骨製の根付けみたいなもの、陶製、ガラス製のものなどがあった。気の赴くまま生きていた頃の話であり小難しい理屈にもとづくものではなかった。やがて、たくさんあったものも散逸して消えてゆき、ひたすら「もの」にこだわった時期があったという「記憶」だけが残っている。私の頭蓋骨の空間にたくさんある記憶の一部として。
話を戻そう。内部に空間があることで意味が生まれるということが、段ボールハウスを、ひとりの野宿者を超えたものに錯覚させるのは、空間が意識を拡張し、いわば変圧器の機能を備えたアイソレーション・タンクのように見えるからかもしれない。小さな空間であっても内部に居れば漆黒の闇は宇宙につながる。その情念の空間ではすべてが可能となる。文字どうりの内心の自由だ。人間を内包する繭のような空間とはそれゆえ、可能性の可視化と言えるかもしれない。たとえば、廃虚が記憶の住処として息づくように、段ボールハウスも時空の変幻を可能にする。最も弱い素材で隔てられた異質な空間がせめぎ合う。都市が、排除によって生み出すという逆説の産物である小さな空間がその存在によって母体(都市)を羽交い締めにする。最も弱い素材でありながら、比類無き抵抗と主張という機能を果たすわけだ。内なる闇は、外界もしくは外光をどのように感受するのだろう?野宿者のまなざしを仮構することができるだろうか?段ボールハウスの内部空間が都市をどう捉えるかという興味深い実験が行われた。NHK教育TV、日曜美術館が紹介した宮本隆志の作品は、段ボールハウスの内側を暗黒にして、直径1ミリの穴を開け、入射する外光を反対側の壁に貼った印画紙にあてて撮影するもので、内部に撮影者が入り込み、身体の一部が写り込む大きなピンホールカメラだ。カメラの語源である「カメラオブスキュラ」はラテン語で(暗い部屋)。中世ヨーロッパで画家のフェルメールなどが絵を描くために使った。光を像として定着する方法が発見されたのは、かなり後の19世紀になってからだ。アナログカメラが衰退しデジカメ(失敗しない写真の氾濫)全盛の昨今、カメラの原型を使って「写真を撮ること」の意味が鋭く問われる。箱の外部で繰り広げられる狂騒をトランプゲームに喩えるなら、さしずめジョーカーと言うべき野宿者の視点にたって社会というゲームを見ること。風景はピンホールから入射して反転する。さらに印画紙に潜像として捕獲され、陰画と陽画に反転する。光と闇の存在が反転を強いるのだ。「富裕」が「貧困」に反転する過程(価値の転倒)をジョーカーだけが自由に往来しながら観察する。「メメントモリ」とつぶやきながら。
子供の頃、雨戸の板の小さな穴から磨硝子にさかさまの景色が写るのを見つけて驚き、喜んだ記憶がある。暗闇から覗く外の風景が、実際の外部と同じである必要はないが、まぶしく誇張される外部は、内側の闇の深さに見合うものだ。遅いシャッタースピードによって日常のノイズが払拭される。外部と内部という構造が露わになる。なぜ、此処にいるのか?外部とは何か?闇に充満する問い。野宿者を登場させることなく野宿者の空間によって都市を問うこと。醜悪な都市は鏡を嫌う。自分を正当に評価する者を憎む。まばゆい光に満ちた物語や虚構を好む。偽りの物語を暴くには、逸脱者で幻視者(ボワイヤン)のまなざしが必要だ。宮本の作品は直接「野宿問題」を提起しているとは言えないかもしれない。かって、新宿の段ボールハウスに直接ペインティングして逮捕されたアーティストがいた。路上で実物へのパフォーマンスであり、効果を恐れた公権力が介入したということだろう。宮本の作品(行為)はそれよりもはるかに静的で反権力の臭いは乏しいと言えるかもしれない。だがどちらが優秀という話ではない。どちらも都市問題の本質に至る異なるアプローチであり、もっとさまざまな試みがなされるべきだ。そもそも日本の闇の大きさに対してあまりに無気力、無抵抗なアートシーンにはうんざりさせられる。気が付けば存在さえ忘れかけていた「美術手帖」などもはやファッション雑誌と化して平然と政治を迂回する様は、かって60年代〜70年ころのエネルギーが嘘のようだ。初めからゴミとして氾濫する情報誌みたいに古紙回収で、段ボールに生まれ変わるのが目的といえば解らないでもないが。
「米軍再編」「海外派兵恒久化」「テロとの戦い」などがリンクして日常的に語られるようになった現在、さまざまな監視カメラの増殖が、まるで砂時計の砂粒の落下する勢いで加速する。「いつでも、どこでも見られている」体制構築の完成はどんな社会だろう。いったい、まなざしの反転(奪還)は可能だろうか?視覚の優越性を誇る文化に誤算はないだろうか?なによりも私たち自身の内心の自由にゆらぎが生じていないだろうか?
2001.9.8高木
美しい全体主義の国
雷のように腹に響く榴弾砲の発射音で、静かな日曜日の公園がイラクに最も近い米海兵隊演習地のそばであることがわかる。浜松から7人で実弾演習反対と自衛隊のイラク撤退要請の抗議集会、デモ、そして米海兵隊キャンプ富士と自衛隊駐屯地への抗議行動だ。静岡県各地域から20人が集まった。少ない参加者は、この国の政治情況そのものだ。しかし、ミニマルはゼロではない。毎回この抗議行動に対して機動隊がバス2台分、指揮車のランドクルーザー1台、数名の公安と制服警官が10名くらいは出動する。昇給より年金、乗用車よりセニアカー、居酒屋やバーよりも治療院に親しみを覚える黄昏期の面々に対して、である。マスコミは無視するのに、過剰警備だけが抗議行動を評価しているようだ。何度も通ったデモコースだが、今回は高温多湿の炎天下という最悪のコンディションである。シュプレヒコールの断続が活気の無い街にAED(自動体外除細動器)のように響くが、電圧が弱いのか手遅れなのか反応が無く、閑散とした商店街を湿った熱風が吹き抜けるだけだ。数年前、まだたくさんの商店が営業し行き交う車も多かった頃は、デモとシュプレヒコールが街の活気と拮抗して異空間が表出していたのに。今では嘘のように、無意味な再開発で整理された街路と寂れるままの古い町並みの、どちらからも人通りが消えている。小泉政権下の日本列島のジオラマがここにある。精気を抜かれ形骸化した街の姿はまさに「構造改革」の成果だ。好き嫌いはともかく、大音量の演歌や歌謡曲が守り立てる人の流れに身を任せるほかない賑やかな横丁の風景がこの国から消えた。かっては、喧燥に負けず大声で客寄せする商人に、買う側も勢いが要求された。街の活気とは、そんな予測不能の複雑な相乗効果のことだった。老若男女、なんでもありの風景は、掴めるようで掴めない大衆という巨大な生き物の姿だった。余談だが、デジタルを知る事なく人生を終えた祖母は、日本橋に生まれ育ち関東大震災を生き延びた。学生時代、雑誌「青鞜」の所持を咎められた。歌舞伎やバッハからサイモンとガーファンクルまで好んで90才まで過ごし、無類の「人ごみ」好きだった。とまれ「街に人が集まる」ということは、個を超えたものの出現への期待なのだろう。イデオロギー云々の前に大衆という巨大な生き物が動き回る自由を維持するのが賢い政治だが、無能な政治はそのような寛容を根こそぎ消してしまう。社会や世界を知らぬまま、ひたすら出自をひけらかす無能な輩を担ぐ政治の横行は、ゴーストタウンの増殖に拍車をかけるばかりだ。論理よりも雰囲気が優先する社会は、政治のコントロールに疎いため庶民の首を絞めるような政治にも異議申立てなど及びもつかない。対米追従の戦時体制下にありながら加害者であることに気付かないように、そこかしこで悲鳴の挙がる悪政に翻弄されても被害者であることにも気付かない。戦争資金源、税金源としての国民が、政治に無関心で雰囲気に左右されやすいことは「テロとの戦い」に都合が良い。それゆえブッシュやブレアの支持が下がっても小泉支持は変ることなく、その雰囲気の継承者安倍の支持も約束されるのだろう。政治の矛盾や合理性が問題にならない社会ならではの話である。毎日の暮らしが苦しくなり、中心街に閑古鳥が鳴き、年金が不透明になり、増税が確実になり、海外派兵が恒久化し、日本全体が戦時体制化しつつあっても、それでも政治に無関心という異常な社会。NHKラジオで40年間イタリアに住む宮川英紀という人物のインタビューを聞いた。イタリアを代表するカー・デザイナー、ジウジアーロとともにイタル・デザインを運営。引退後トスカーナ地方で有機ブドウ栽培を手がけ、トスカーナワイン組合理事長を務める。「海外から日本を見ると日本は全体主義国家である。米国の戦争に巻き込まれ、気がつくと銃を手にしている。何事も自分で考えようとせず、行動もしない。家庭教育が最低だ」と語った。
世界を変えた9.11から5年が過ぎたが、9.11への疑惑が消えたわけではない。雰囲気でどうにでもなる国だからこそ誰も疑わなくなった物語の検証が必要だ。ましてやそれが無辜の民の大量虐殺を正当化する根拠であるならば。つまり「世界を変えるために9.11が用意された可能性(「9.11の謎−世界はだまされた!?」成澤宗男 金曜日2006)」について、である。同書が出版された途端に重版という現象こそが、日本社会でいかに一面的な言説が広く受け入れられているか、同時に真実を知りたがっている人々が決して少なくないという事実を物語っている。インターネット以外では、9.11そのものの疑惑を呈したものはほとんど無い。主要マスコミも同様だ。「テロとの戦い」の虚構性を暴くためにはまず「犯人が実際には特定できていないような曖昧かつ謎を多く残している事件が、これほど大規模な2正面での殺戮と破壊作戦の大義名分として機能している(9.11の謎)」事実を確認しなければならない。同書が指摘する疑惑を列挙すれば、9.11の10日後、FBIが発表していた犯人リスト19人のうち7人が生きている。ハイジャックされた4機の搭乗者リストが現在も公開されていない。WTC崩壊の最も重要なビルの鉄骨が奪われ、切断、溶解されて数ヶ国に売られていた。消防士など複数の証言では旅客機の衝突した階の下の部分で内部爆発があり閃光が見えた、という。またフォックスTV局の現場レポーターはビルの底の方で爆発が起きていると実況中継している。爆弾の専門家、エネルギー物質研究センターV・ロメロ前局長はWTC崩壊のビデオを見て「うまく仕掛けられた爆発物によって崩壊の引き金が引かれたようだ」と解説。またジャンボ機の衝突にも耐えられるよう設計されたWTCが全壊するのは不自然。二つのビルが全壊するまでの時間がビルの構造を考えると物理的に不可能なほど速すぎる。また空中に浮遊した細かいダストの大量発生はおかしい。崩壊現場に溶解した鉄のプール状のものが発見され、極度の高熱を発する爆発物が原因としか考えられない。ペンタゴンに激突したアメリカン航空機の残骸が無く、旅客機よりはるかに小さな穴しか開いていない。また衝突から消防車でさえ5〜10分かかって到着したのに、数分以内にFBIが2ヵ所の防犯カメラのビデオを押収した。ペンシルバニア州にユナイテッド93便が墜落したとされ、乗客の英雄的行動が美談として映画化までされたが、駆けつけた消防士たちは大穴に落ちたエンジン1基以外に飛行機らしいものは見出せなかった。世界貿易センター第7ビルはツインタワー崩壊の7時間後に瞬時に全壊した。2004年になってビルの所有者が突然「消防局と相談して爆破した」と認めた。通常、ビル爆破は準備に10日以上かかる。ハイジャックされた4機の様子は、乗務員や乗客が携帯電話で通報したとされるが、技術的に2006年にならないと通話は不可能であり、当時は機体が高度2440m以上に上昇すると携帯電話使用は不可能であるにもかかわらずハイジャック機からの携帯電話の大半は9140m以上からの発信ということになっている。ニューヨーク消防局元職員ニコラス・デマシが3個のブラックボックスを発見したがFBIとみられる人物に「なにもしゃべるな」と言われた。成澤は「9.11における最大の暗部のひとつは、外部の実行犯として政府によって発表され、マスメディアによって無批判にそのように報じられる集団が、実はその政府自身と水面下の結託が認められるという事実である」と書いている。9月11日、民放で「9.11特集番組、NYテロ5年目の真実」が放映された。司会は筑紫哲也。関心を持って観たが呆れた。週刊金曜日編集委員に名を連ねながら、5年間多くの日本人と米国人を欺いてきた物語を繰り返すばかりだ。最も疑惑の情報を知り、ジャーナリストとして使命があるにもかかわらず。まるで弱みを握られたかのようだった。しかし、これからも嘘はバレ続けると確信する。さて、ブッシュが嘲笑うか、ブッシュを嘲笑うか。シュプレヒコール!自衛隊はイラクから撤退せよ!富士を撃つな!
2006.9.15 高木
タイワンリスもしくは「三国人」
「ゲッゲッゲッ」異様な鳴き声が朝の静寂を破る。クリハラリス(タイワンリス)の警戒音だ。窓の外に見える電線を太い尻尾でバランスをとりながら猛スピードで渡ってゆく姿がある。初めて見る人なら唖然とするだろう。中部電力は浜松で電気とリスを各家庭に送っているのだ。もっともリスは浜岡原発でつくられているわけではないが。リスは町中の電線を使い三方原台地の縁に自生する椎などの照葉樹林を中心に縦横無尽に活動している。佐鳴湖岸の林内に生えるヤマモモの木の幹には、知らない人が見たらそういう模様の木と勘違いするほどリスが齧った跡がたくさん残っている。ニホンリスよりひとまわり大きく頭胴長20cm、尾長20cmくらいだ。植物食の雑食性で鎌倉市や浜松市の繁殖が有名だが、2004年、環境省が「特定外来生物法」を公布。タイワンザル、アライグマ、タイワンリスなどが目の敵にされている。捕獲、駆除の対象で殺すべき生物というわけだ。日本固有の生物相を保護すべき、という発想が「外来生物法」を支えるが、生物学者池田清彦によれば、「イチョウやウメもイヌもネコも数千年まえには日本列島に存在しなかった」。さらに「日本で栽培されるほとんどの穀類や野菜類、米も小麦も大豆もニンジンもキャベツもキュウリもすべて外来生物である。外来生物が存在しなければ我々の生活は成り立たない」(外来生物事典)。環境省の思惑とは裏腹に外来種の氾濫に歯止め無く野放し状態のペットブームは、イヌ、ネコだけでも年間30数万頭をガス殺して文字どうり命を消費し続けている。しかもブランド指向で値踏みされながら。
「たとえば、中学生、高校生が外来生物駆除ボランティアとしてタイワンザルやアライグマを捕獲してみんなで嬉々としてなぶり殺しにしている風景を想像してほしい。基本的にこれと同じ事をしている行政はこの行為を非難できない。同じ行政が、いのちの大切さなどというのは噴飯ものではないか」(「外来生物事典」池田清彦編 DECO2006)
都合の良い自然観が偏向した死生観を生んでいる。そもそも、時間や空間を勝手に人間中心に置き換えた文化を自覚もせず生きている実態がある。日本列島はプレート境界がぶつかり合った残渣のようなものでたまたま存在するにすぎず、富士山がコニーデ(成層火山)であのような形になっているのも今だけで、数千年を待たず平凡な山容に変るかもしれない。世界中の富士山に登った登山家がゴミだらけで汚い山と不評という。だいいち自衛隊や米海兵隊がひっきりなしに大砲を撃ち込む姿が美しいわけがない。考えると胃がムカつくから必要なのは太田胃散だ。現在、生きている日本人が都合の良い解釈をするのは勝手だが、その思想や理念に反するものを排除したり抹殺したりするのは身勝手すぎる。中国大陸や朝鮮半島、沖縄、台湾などさまざまな地域から渡ってきた人間を総称して日本人と呼ぶのは、体毛、体色、まぶた(一重、二重)など差異の多様性を考えれば一目瞭然だ。そのような事実を無視するかのようにことさら日本の優越を強調する言説は、主観による身勝手なフィクションにすぎず、周囲の国を客観的に語る自信の無さの裏返し、もしくは後ろめたさというべきか。世界は変化し続け、流動がその歴史であって、あるものや人物が明日も等価、等質である保障など無い。反対に人間はあまり変化を好まず、何事も思いどうりにコントロールしないと気が済まない。たとえば「固有種」は、その時点での、という条件付きと考えるべきだろう。30年前には考えられなかったブラジル人が1万人以上も浜松に住んでいる。「オートバイの街」と誰もが認めた浜松からホンダが撤退する。「音楽の街」とも謳われたがヤマハもピアノなどの生産拠点を移すという。それにしても後に残るのが軍事基地だけではなんともやりきれない。
この夏、フランスから高校生の甥が剣道の練習試合のため来日した。高温多湿の日本の夏にばてたとぼやいていた。日本人の母親とフランス人の父親をもつ甥は、日本人から見ると「外国人」に見えるがフランスでは「日本人」に見られるという。そのため子供のころいじめにあったらしい。左右の人差し指を両目の端にあて耳側に引きながら「こうやってバカにするんだ」と教えてくれた甥は、そんな経験が純血という物語の怪しさに気付かせ、多人種が共存するパリで生きる術を学んだにちがいない。今つきあっている恋人はレバノンとアルメニアとフランスのミックスだという。移民問題に強行策をとり続けるサルコジに怨嗟を吐いていた。甥が練習試合をした相手は日本のトップクラスで「殺されるかと思った」ほどの強豪で、興味を持って話をしたらケータイとゲームの話しか話題がなく呆れたという。練習量の圧倒的な差のみならず思考停止も武器ということだろうか。汗だらけの剣道着をそのままバッグに詰め込みぎりぎりで間に合った飛行機で帰国した甥は、何から何までカビだらけになった剣道着を前にため息をつきながら、もう剣道が嫌になった、とぼやいていたという。甥が生まれたときパリの病院で蒙古班が珍しく医療スタッフがかわるがわる見に来たらしい。お産をした妹は赤ん坊の頭の形が細長く「エイリアンみたいだった」と面白がっていた。絶壁頭の家系も変化するわけだ。
多文化、多様性といった概念が浮上する昨今だが、変化が加速している世界を考えると、純血指向は免疫の減少であり許容量のなさがリスクを増大することにつながる。そもそも閉鎖系が前提となる発想がグローバル化した世界と馴染まないことはいうまでもない。
9月21日の朝日新聞によれば、石原都知事が15日のシンポジウムでまた「三国人」発言したことについて在日韓国・朝鮮人ら外国人の人権擁護団体、大阪国際理解教育研究センターが謝罪と発言撤回を求める抗議文を知事に送ったという。抗議内容には五輪候補地決定祝勝会で在日韓国人の姜尚中東大教授を怪しげな外国人と表現したことも挙げ「差別と偏見に満ちた悪質な民族差別発言」と主張している。そろそろ、この男のDNA鑑定をしたほうがいい。中国、朝鮮半島に由来していないか明確にすべきだ。こんな低レベルの発想や思考が政治の舞台で活躍出来る国とはいったい何だろう?ついでに、日本がまだ鎖国しているか、も調べる必要がある。
冒頭の「外来生物法」に関連して「遺伝子汚染」という表現がある。「別の所に生息していた同一種の亜種あるいは地域個体群が互いに交雑すること」(外来生物事典)であり日本固有種などを保護する発想が生み出したようだ。しかし「個体群内の遺伝的多様性が小さいと環境が激変したりするときに絶滅する確率は高くなる」(外来生物事典)要するに純血種は弱いということだ。「遺伝子汚染」という挑発には「保守腐敗」や「純血劣化」程度の表現で応えよう。
人類史はせいぜい200万年。生命史は約38億年である。地球上の生物種の99%は絶滅した。生命史は絶滅の歴史でもある。大量絶滅は5回起きている。約2億5000万年前のペルム紀末の絶滅が史上最大で、全生物の96%が絶滅した。誰でも知っている白亜紀末の恐竜やアンモナイトなどの絶滅は全生物の76%だ。それらの絶滅は地質学的には瞬間だが、数百万年というスケールの話で、現在進行中の人類による環境破壊がもたらす大量絶滅は、最も速いスピードになる。
グローバリゼーションは地球規模の話。現代を生きるには惑星規模の思考が要求されるということだ。経済、気候変動、ひとやものの移動が加速する現在、周囲を無視して狭く小さな日本列島に固執することはあまりに時代錯誤だ。流動するものを固定して表現するのは無理がある。ことさら日本を強調する一連の動きは、変化の激しい世界にコントロール願望が満たされず、対応出来ないジレンマを、閉鎖系を指向することで解消しようというネガティブな発想である。
2006.9.22高木
第三紀中新世
「ギャー」けたたましいカケスの鳴き声が響き渡る。街の日常に浸りきった身体が、喧燥という衣を脱げば、いかに孤独でひ弱な存在であるかを思い知らせるように。
奥三河の山中に小代林道という車一台がやっと走れる程度の林道がある。20年近く前から何度も通ったのは、何ヶ所かの露頭に第三紀中新世の貝やウニが採集出来るからだ。ふと思い立ち5年ぶりくらいで車を走らせた。以前化石が豊富だった場所が、いつも同じ状態であるとは限らない。化石群が無くなれば、ただの崖にすぎず、逆に何も見当たらなかった露頭が何らかの原因で崩れ、あちこちに化石が散乱する光景もある。気長にフィールドと付き合うことが秘訣ということだろう。可視の風景が変化しても、ここが中新世のフィールドであることは不変だからだ。人類史が地球史や生命史のほんの一部でしかないという自覚を忘れたくない。人間中心の日常を地学的スケールで視点を変えてみたい。たかが人生、されど人生だ。道路幅は相変らず狭いが、舗装改修したらしく見違えるほど走りやすくなっている。最深部に秘湯の旅館が2軒細々と営業し、途中にも数軒の民家があって重要な生活道路だ。日本社会では雰囲気が鍵になると以前から書いてきたが、列島を不況がおおう現在、もともと現金収入の少ない里山は、その影響がのしかかっている。田舎暮らしをすすめる情報誌などで、アウトドアファッションに身を包み、大型犬(外国種)をはべらせ、ハーブの花が咲き乱れるログハウスやコテージ風の住居で自家製の無農薬野菜や放し飼いの鶏、自前の薫製で料理に舌つづみを打つ、なんてカタログみたいな話は、現実の里山にあるはずもなく、働き手がすべて街に出てゆくしかないため、老人ばかりになった終末風景がひろがる。敬老の日前後に民放のローカルニュースで、浜松市に合併した山間地に一人で住む老人が「身許引受人が誰もおらず、老人ホームにも入れない」とがらんとした家の中でインタビューに答えていた。今の政治ではいずれ、山間地に人はいなくなるだろう。やれ、環境にやさしいだの、エコだのと、かまびすしいのは、そう謳えば儲かるだけの話で、言葉が正しく機能しなくても良い社会特有の現象なのだ。極言すれば日本列島に人間が住みついて以来文字通り自給自足で循環型の里山が人と自然の理想に近い形で共存出来た時代を、この20年くらいの政治が完全に破壊した。一度、人が住まなくなった山間地の住宅は朽ち果ててゆくしかない運命にある。屋根に穴が開き、梁が落ちればあとは時間の問題で大地に還るが、プラスチックやコンクリートを多用した現代のものは、きわめて往生際の悪い醜態をさらすことになる。緑の濃い風景に異様なブルーやピンクの人工物が周囲から拒絶されたまま孤立するのだ。そんな仕組みを経験的に知る老人たちが、連綿と受け継がれてきた山で生きる術が何の役にも立たなくなった世界に放り出され、無防備のまま、下界から伝わってくる「声」や「雰囲気」におびえ、翻弄されることになる。近代以降、この国が民衆管理に金科玉条としてきた「上意下達」は「お上には逆らわない」という処世術として今も根づいている。反抗がかなわぬなら思考停止が得策とばかりに主権放棄が蔓延した結果、やりたい放題の政治は「責任」という概念を失った。無責任の集大成として小泉政権下の日本列島は劇的に荒廃した。呆れたことに、荒廃させた側から「治安の悪化」なる言説が流され、思考停止した民衆が何の疑問も抱く事無くそれを共有することになる。被害者が加害者に加担するわけだ。ちなみに静岡県は民間防犯の「青パトロール車」が全国一という。安心、安全な社会のために誰もが一丸となって「不審者」さがしに血まなこになる。「治安の悪化」という言説が厳密に意味を問われることなく、あいまいで恣意的な運用が可能になる。煽動されるまま「不審者」が各個人の内なるイメージとして存在感を増してゆく。あたかも不安の元凶がすべてそこにあるかのように。「日常」以外のものは、もしかしたら「テロ」につながる可能性があり、「見知らぬ者」はすべからく「不審者」とされてゆく。こうして異物排除の雰囲気が育まれる。日本社会の、おそらく最もナイーブと思われる山間地に住む人々は、都市のように多様なノイズにさらされない分、硬直した掟やしがらみに左右されて生きるきわめて煽動されやすい存在だろう。つまり僻地ほど保守的ということだ。1960年代後半、欧米を席巻したヒッピーや反体制ムーブメントの影響を受けて日本でも若者が山間地入植してコミューン(共同体)を志向する動きがあったが、なにしろ保守と前衛という正反対の存在どうしが山中で出会うわけだから現在まで定着出来ているのはごく少数にすぎない。また定着しているからといって完全に溶け込んでいるわけではない。何世代、何十世代の里山の生活が、一介の異物によって簡単に変わるわけがないからだ。むしろ逆に新参の異物が徹底的に妥協を強いられた結果と見るべきだろう。ここでも思考停止と主権放棄は、「変革」の拒絶としてしか作用しない。荒廃の一途をたどる山間地がこうして全体主義の一翼を担うのだが、当人たちにそのような明確な意識があるわけでは決してない。雰囲気は確証も論理も必要としないまま来たるべき「何か」を受容してゆく。かくして政治とかけ離れた土地が政治そのものを体現することになる。
林道を走りながら思い出したのは「9.11」以後、ここを訪ねたのははじめてということだった。「9.11」はニューヨークの出来事だが、池に投げ込まれた石が池全体に波紋を拡げるように、あるいは白亜紀末の直径約10kmの小惑星が地球全体に衝撃を及ぼしたようにその後の風景を一変したが、「テロとの戦い」という意味不明な物語も奥三河の山間地を忘れることはなかった。
なつかしい露頭が見えてきた。採集用ハンマーやタガネを持たずに、少し見て行くか、程度の訪問の度に見事なノジュール(団塊)がこれ見よがしに肌をあらわに誘惑するが、再び道具を揃えて出直すとなぜか消えているということを繰り返してきた場所だ。それでも今回はマテガイの破片が半分露出している。車を降りて貝に手を伸ばすと、後方で押し殺した声が聞こえた。「シロ!吠えるんだよ」と繰り返す。20年も前から何度も来ていたが、初めて「不審者」という視線を感じた。以前は崖の表面を探し回る変な奴程度の存在の公的分類が可能になったわけだ。老女と白い犬を警戒心のバリヤーが包み込む。遅かれ早かれ他の家にも連鎖するだろう。住民にとって理解不能な対象を明確に名付けることが可能な時代になった。つまり日常の風景で誰も疑問を持たない行動に閉じ込められたわけだ。非日常の排除ということで逸脱はゆるされない。大学や博物館など公的存在がノボリでも立てながら来ないかぎり「化石」は「不審」ということになる。残念ながら住民は「テロとの戦い」を生きているのであって、第3紀中新世は異界にすぎない。異界を訪ねる者はここでは「不審者」ということだ。2000万年もの時の記憶を抱く大地にさまざまな動植物の織りなす生態系を育み四季の変化に敏感に反応した表情を示す里山を全否定する政治がここにある。
2006年6月に出版された久保 大元東京都治安対策担当部長の「治安はほんとうに悪化しているのか」(公人社)についてすぐに紹介したが、9月25日中日新聞が大きく取り上げた。現在、日本人の多くの人が「治安が悪くなっている」と思い込んでいるが、久保によれば「統計数値を根拠に最近犯罪が増えているというのは一種の錯覚」で、犯罪認知件数は恣意的に変化する。「警察は財務省から予算と人員を獲得したり存在感を高めるために治安の悪化という言葉を持ち出し利用した。マスメディアも好んでそれを語り支持した。/人々の間に漠然とした不安感、閉塞感が背景にあり、実際には良く分らないのに、犯罪が増えていると言われると納得してしまう。/全国の自治体に広がる施策はほとんど的外れで、時には有害でさえある。/外国人とか少年、ニートなど、次々とスケープゴートにして人々の関心や社会の怒りを向ける施策がとられた」という。「不審者」を成立させるのはコミュニケーションの欠如と一方的(勝手な)判断だ。里山の人々が、その豊穣な風景と、そこに暮らすことを誇りに出来る政治が理想ではないか。第3紀中新世の大地であり、里山の多様性を全肯定できる価値観だ。不安に支配され絶望だけが息づく里山など誰が望むものか。「テロとの戦い」は貧困な風景の実現にすぎない。無能政治がこの国を醜く変えるということだ。 2006.9.29高木