「反空爆の思想」戦争は殺人である

 

「現場」が消えてゆく。かわりに「偽装された現場」を残して。

大人から子供までケータイに集中し、i-podなどで好みの音楽に包まれたカプセル型の個人的時空間が風景に点在する。それぞれのつながりは無い。設定された風景の中で秩序を乱さないかぎり「自分好み」が実現出来る。一昔前と比べれば格段に進化した情報通信機器を使いこなす現在だが、それではコミュニケーションそのものは濃密になっただろうか?最もそれらに依存する若者たちはどれだけ世界を知っているのだろう。最近、朝日新聞「声」欄に、昨年までの5年間、中国山東大学などで教鞭をとっていた67歳の男性が投稿した意見が記憶に残っている。留学に来ている日本の若者たちが日本の学校で教わらないためにアジア、特に日中の近代史に疎いことに愕然としたという。男性は「近現代史」という独立した科目を設けることを提案している。まさに正論ではあるが、実は右派勢力が教育の重要性に着目、敗戦後の方針として近現代史を意図的に迂回してきたことを、愕然男性が意識する、しないに関わらず迂遠な言いまわしで言い当てたことになる。技術の進化が直接、知の向上やイデオロギー形成に寄与することはあり得ず、むしろ便利さは怠惰を生むことが多い。敗戦後生まれの、世界を知らない日本人が最先端の情報機器でハイテク・マスターベーションに勤しむのが現実であり、東アジアの無知が「金」と「モノ」に潤っているにすぎない。子供に備わり、あるいは芽生えた知性や感性が身の回りの世界を少しずつ認識、拡大しながら内面を豊かにしてゆくのが成長ならば、その過程を逆転して外部への関心や好奇心を自分だけに向けた人間を大量生産したのが最近の日本社会ということだ。無知が無知に満足するという救いようのない実態。外部への無関心は社会や国家の歪みにも見向きもせず、平和憲法下の海外派兵実現など論理的不可能を可能にした。あろうことか、正当、真っ当な異議申立てが異端とされる社会が出来上がる。ノイズが消された「偽装された現場」により現実感を喪失した人々は、感情移入に縁遠くなってゆく。弱者の痛みがこうして消えてゆく。「みんなの問題」が排除され「自分のこと」だけに夢中、それぞれ好き勝手に生きるはずなのに、知らぬ間に「派兵」が恒常化、格差拡大、弱者切り捨てが堂々とおこなわれている。日本の過去を知るアジアから見れば全体主義国家にしか映らない。他者と精神的、物理的距離が遠のいた日本人が、当事者であるにもかかわらず、イラクの惨状に無関心でいられる現実について「空爆」という攻撃形態を考察することで失われた現実感を取り戻そうと試みる労作が出版された。

(「反空爆の思想」吉田敏浩 NHKブックス2006)。1957年生まれ、20歳の頃からビルマ、タイ、アフガニスタンなど多様な民族世界を訪ね、ビルマ、カチン州ゲリラを従軍取材した時、空爆された体験をもつ。戦争体験者が減るなか、限りなく戦争に近づく日本の思考停止に冷水を浴びせるために重要な問題提起だ。

「戦争の本質は流血である。人間の体を切り裂き、えぐり、貫き、砕き、断ち切って、おびただしい血を流させることが、戦いの目的なのである。高速で回転し飛んでくる金属の塊や破片に対して人の体は儚いほど危うい」(反空爆…)吉田は、1849年オーストリア軍の気球でイタリア、ベネチアに史上初の空爆がおこなわれて始まる空爆テクノロジーの進化史を紹介する。第一次世界大戦で爆撃機は大型化し、死者も激増する。1921年、イタリアのドゥーエ陸軍少将は著書「制空権」において、戦争では民間人を決定的な打撃対象にする、と説いた。米国人W・ミッチェル将軍も「航空戦力」の中で、真実の目標は生活の中心にある、としている。20世紀初期にすでに都市攻撃や一般市民(非戦闘員)への空爆が効果的であることが指摘されていた。欧米列強は植民地において空爆による抵抗勢力の弾圧が常態化する。

「空爆する側とされる側の力の差、非対称性は際立っている。それは一方的な殺人・破壊となった」(反空爆)

日本軍初の空爆である青島攻撃は1914年だが、すでに市街地への無差別爆撃だった。1917年には日本植民地支配下の台湾の山岳地帯先住民族(蕃人)に流血の恐怖を植えつけるための見せしめの「蕃地威嚇飛行」により爆撃した。

「相手を同じ平等な人間として見ない。/差別意識的距離・隔たりが生み出す感情の麻痺」(反空爆)

1937年蘆溝橋事件から日中戦争が始まる。日本軍は天津、上海、杭州、南京、広東、武漢などを爆撃、16ヵ月間で35000発(30000トン)の爆弾を投下した。こうした戦略爆撃、無差別爆撃の頂点が1939年の重慶爆撃だ。人口70万人の市街地に250キロ爆弾と60キロ爆弾と焼夷弾が降りそそいだ。しかし「当時の日本の新聞には、中国の民間人が日本軍の空爆で被害を受けた写真は載っていない。/記事も写真も、はるか高みより爆弾を投下する、つまり殺す側の視点に立ったものである」(反空爆)

「開戦1ヵ月、東京で開かれた航空日本展で94式陸軍偵察機の実物、各種航空機模型、爆撃の写真などが展示され大盛況で、感激と興奮の坩堝と化した。一番人気を呼んだのが爆弾投下の実演で、火薬を抜いた爆弾の実物を観衆が爆弾投下スイッチを押すことで空爆の疑似体験をする仕掛けである」

陸上自衛隊東富士演習場における榴弾砲などによる総合火力演習の様子がコンバットマガジン11月号で6頁にわたって紹介されている。サバイバルゲームマニアが読む軍事雑誌で本物そっくりのエアガンと実物の銃の記事が同居するものだ。「戦争が殺人であること」を無視するだけで銃や武器、兵器が魅惑に満ちたものになる世界だ。現役自衛官から小学生までが米国並みの銃社会を夢見ている。各地で行なわれる航空ショーや展示館の類いも「戦争が殺人であること」を隠すという本質的伝統を受け継ぐことでにぎわっている。そこには肉片も、腐乱死体も内臓も存在せず、絶叫も泣き声もうめき声も聞こえない。他のすべてを登場させても、それらが無いだけで人々を熱狂させることが可能だ。実は、それほど人間は「血」を恐れるということだ。血液と臓物の詰まった皮袋にすぎない人間の弱さを皆が忘れたがっているということだ。その弱さの裏返しが強力な武器信仰をうみ出すのだろう。

「戦争を計画し、命令を下す者たちはいつも安全圏に身を置き、パワーとは無縁の人々がおびただしい流血と死を強いられる構図」(反空爆)

人間が出血というものに敏感であることに着眼する吉田は、米軍による空爆でイラクの人々が虐殺される現実を「他者の流す血が、自らの抱く血にまつわるおそれと不安の感覚・感情をかき立てて、他者が出血とともに感じる痛みや恐怖や苦しみへの想像をうながす」として、たとえば自分の子供が傷を負って血を流す場面で、傷の深さに応じて切羽詰まった気持ちも増し、「親にとって子の痛みは、理屈抜きで自らの胸を締めつけるもの」としてイラクとの精神的、空間的距離の無効化を試みる。

吉田の次男が4才の夏にケガをして病院に運ばれる臨場感は、ビルマのカチン州で、突然空爆を体験した生々しい描写とともに、多くの日本人が忘却し、あるいは思考停止で触れようとしなくなったリアリティ(現実感)を呼び起こす。言うまでもなく「戦争が殺人であること」を確認するために。終章で吉田は「温かい一人ひとりの体液」という見出しで、人の生が体液と水とともにあり、その巡りを、つながりを爆弾やミサイルで断たれて失われるもののはかりしれない大きさを提示して戦争の虚しさ、おろかさを訴える。この部分の表現は秀逸だ。

兵器の進化は、殺される人々と攻撃側の距離を拡大する一方だ。反戦とはその距離の無効化を目指すと言える。

2006.10.6 高木

核実験より怖いもの

 

東アジアで本当に怖い国は何処だろう?核実験を強行した北朝鮮か?核保有国で世界一の高度成長を続ける一方、致命的な格差社会でもある中国か?それとも、世界の国が非現実的とさえ思う平和憲法を持ちながら、世界一の軍事大国に無条件従属し、でっち上げ戦争に参加して自衛官を使い捨てにするため改憲を目指す、国際貢献と対米貢献を誤認する日本だろうか?

「どうやら私たちは、現憲法や教育基本法の主旨に忠実な今回の判決(東京地裁の、都教委1023通達とそれに基づく職務命令を違憲・違法とし、それによる処分を禁止する)が、夢のように思えたり、1%も予想出来なかったり、異例で画期的で歴史的な判決と評される社会に生きているらしい」高橋哲哉(06.9.30朝日)

7月の北朝鮮による「ミサイル発射」、109日の「核実験実施発表」において日本のマスコミは全体主義国家のメディアとして正常に反応した。街頭インタビュウでフツーの国民が「怖い国ですね」と話す様子を繰り返す作業も怠らない。主要紙、各局TVニュースはトップニュースで「核実験」を扱い、安倍新政権の「国連決議」「海上封鎖」「経済制裁」を、まるで他に選択肢が無いかのように報じている。異論が消えてしまった。かくして「ならず者」金正日の北朝鮮をつぶせ!叩け!の大合唱が起きている。タカ派安倍政権がワルキューレに酔いしれているのだ。気のせいか着任したばかりなのに安倍の二重あごと頬がすこし弛み、おじいちゃんに似たと思うのは勝手な想像か。それにしても経済制裁が北朝鮮の何万人もの人々の衰弱や餓死を意味することが解っているのだろうか?例によって日本人らしい「いいとこどり」で、死体を見なければ戦争も悪くないし、屠殺、解体現場を見なくてもすむなら肉が大好き程度の感覚ではないだろうか?北朝鮮を「怖い国ですね」と言う時、北朝鮮国民の惨状についてなのか、飛んでくるかもしれない核ミサイルが約束する日本の惨状が怖いのか、では意味が異なる。小泉政権下の5年間、先制攻撃や小型核使用までほのめかす日米軍事同盟は、北朝鮮に融和政策をとってきた韓国とは正反対に北朝鮮を挑発する結果を招いた。このような対応では軍事独裁の金正日政権の選択肢はチキンゲームしかないことを読むべきだったにもかかわらず。

「日本で拉致問題のみが焦点化され、ある種の最もアグレッシブな無意識のナショナリズムが調達される現象が生まれていること。その根底に横たわっているのは、数百万人の犠牲者が出た内戦の痛みを知らないと言う問題。六者協議には、日本人および、朝鮮半島に関わりを持つ人々すべての生存がかかっていると言う事が忘れ去られている」(「ちょっとヤバいんじゃない?ナショナリズム」姜尚中 解放出版社2006

安倍首相をはじめ政権中枢の2世、3世議員らは、恵まれた家庭に育ち、きっとナイフで鉛筆を削って失敗して指を切ったり、おんもで遊んでいてケガをした経験が無いにちがいない。他者の痛みを思いやる能力が欠落している。彼らにとって弱者は使い捨てと同義語で自分とは関係ない存在なのだ。同じ事が金正日にも言えるはず。日本社会が1%の勝ち組と99%の負け組で構成されるとして、富の分配の平均値は「そこそこ」や「まあ、こんなもんか」という評価の捏造が可能だ。現実は99%が不満をかかえながら、である。いざなぎ景気を超える好況とされるが、企業収益の圧倒的伸びに対して人件費はまったく低迷している。リストラや非正規社員雇用が決定的に作用しているわけだ。多くのひとが「実感が湧かない」のは当然である。

「とんでもない教育格差が広がるでしょうが、これは政治が望んでいることです。/工場のラインは非正規社員にやらせればいい。格差は固定された方が都合がいい。だから政治もそういう方向で動いている」(斎藤貴男 日刊ゲンダイ06.10.12

北朝鮮の「ミサイル発射」や「核実験」で、日本が善、北朝鮮は悪という単純な判断が独り歩きするが、弱者無視の強権政治という意味では変わらない体質ということだ。

「北朝鮮が欲しているのは、米国との直接対話。日本はその仲介役ができるはずなのにやっていない。/日本は国際社会でリーダーシップを発揮できるチャンスなのに、小泉−安倍政権の対米従属外交は、逆にその芽を摘んでしまっている。北が核実験に踏み切った以上、安倍政権が考えるべきは、国連憲章第7章に基づく制裁でなく、核の惨禍を防ぐための対話」(広島平和研究所長 浅井基文)(06.10.12 日刊ゲンダイ)

そもそも米国は世界一の核保有国であり、高度な臨界前核実験を何度も実施している。大気圏内や地下の実験はコンピュータのシュミレーション能力向上で必要がなくなったわけだ。最強の核兵器能力がこうして維持されている。中国も何度も核実験をしてきた。子供のころ核実験のたびに放射能の雨にあたらないように傘をさすように言われたことを思い出す。日本は「被爆国」を売り物にしながら米国の核の傘を無条件で支持している。インドやパキスタンの核実験ではどのような制裁や抗議があっただろうか?このような事実が二重基準でなくて何だろう。北朝鮮の核実験を支持する気など毛頭無いが、同じ席に着いたとさえ表現可能ではないか。さて、地震の巣に欠陥だらけの原発を50基以上稼動させ、莫大な量のプルトニウムを貯め込む日本で「日本核武装論」まで出版される昨今だが、「唯一の被爆国」が聞いて呆れる発想ではないか。皮肉にも同書には、核武装必要論を導くプロセスでMD(ミサイル防衛)には実効性がないと展開する。タカ派までがMDの荒唐無稽を看破しているのだ。そんな中、安倍首相は12日の参院予算委員会で、こういう(北の核実験)状況をふまえ、ミサイル防衛の整備を促進すべく努力する」と語り、久間防衛庁長官も「国民の不安を取り除くためにも少し前倒しを考えないといけない」(06.10.13毎日)と語り、MDシステム整備前倒しの意向を表明した。日米軍需産業とその利権に浴する政治家たちにとって、弱体化する一方で虚勢を張り続ける北朝鮮という独裁国家は、日米の圧倒的軍事力、経済力を背景にすれば、手玉にとりつつ儲けの種にする格好の材料ということだ。その目論見のために出来るだけ「北朝鮮の脅威」を煽動するわけだが、そんな挑発が北の暴発を一気にエスカレートさせ、国家崩壊の悪夢を招きかねない。それにしても何と場当りで破滅型の世の中だろう。英国のサイエンスライター、ジョエル・レヴィは「世界の終焉へのいくつものシナリオ」(中央公論社2006)において、気の滅入るような、しかし決して無視出来ない絶滅や大量死のシュミレーションを紹介している。科学的知見に基づくそれらを読むと、私たちの日常がいかに情報操作に脆く、貴重なエネルギーを本来必要な部分から奪っているかを思い知ることができる。政治は大きな影響力があるが世界のすべてを対象にするわけではない。政治のリーダーがただのピエロにすぎないことのほうが圧倒的に多いのだ。当然だが世界は画面の外のほうが多い。画面に映らない怖い存在を忘れるべきではない。                          2006.10.13高木

死体の山

 

戦争の実感を人々は何によって得るのだろう?結果としてどれほど抑圧から解放され、民主主義がもたらされて、人権が保証されることになったとしても、戦争が殺人であることに変わりはない。戦争について少ない情報や歪曲した情報しか与えられなかった人々でも、目の当たりにする戦死者という事実を感情の起伏無しに看過することはできない。有限の「生」に拘束された人間にとって「死」は無限のテーマとして存在し、戦争は屈辱的で承諾し難い死の約束に他ならない。物質文明が現世御利益を至上の価値とする現代において、特に日本人は死を克服しているとは言い難い。今日「生きている」ことについての実感を失った社会は「死ぬ」ことも曖昧なままだ。野放しの健康志向、長寿志向が、生と死が不可分にあることを忘却したまま強迫観念さえ伴ないながら蔓延している。日本人が死体を見る機会が極端に減ったことと、そのような風潮は無関係ではない。人間の死について疎い日本社会が、戦争当事国でありながらイラクの戦死者に思い至らないのは、まさか放射能被ばくや化学物質、はたまたBSEでスカスカになった脳みそのせいで感性が麻痺したからではあるまい。ひたむきな戦争可能な国への努力は、そのまさかの実現にしか思えないのだが....

「イラク戦争開戦(03.3)から20066月まで655000人のイラク人が死亡、暴力による死者は60万人。/米ジョンズ・ホプキンス大学バーンハム教授とイラクの研究グループが英医学誌ランセットで論文発表。/イラク国内で無作為に選んだ47地区の約1800世帯12000人から聞き取り調査。人口1000人当たりの死亡者数は年間13.3人で開戦前の約2.4倍。この割合をイラクの人口に当てはめ、死者数を推計。この手法は政府など公的機関による正確な統計が期待できない紛争で採用される国際的スタンダード。コソボ、アフガニスタンでも同様の調査法で死者数が推計された」(06.10.17毎日)

65万人はイラクの総人口の2.5%。1ヵ月に15000人以上が死んでいる。

「公開が迫る『硫黄島2部作』のクリント・イーストウッド監督は、その1作『父親たちの星条旗』に関して仏ルモンド紙に自身の戦争感を語った。『ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている』」(06.10.20朝日)

「どんな狩りも人間狩りには及ばない。武器を手にした人間を狩る楽しみを知った者は、二度と別の狩りに興味を示すことはない」1950年、アーネスト・ヘミングウェイは、米コーネル大学の文学教授に宛てた手紙で人を殺すことに対する情熱を告白している。あの「老人と海」、「誰がために鐘は鳴る」を書いたヘミングウェイが、122人の捕虜をただ快楽のために殺害していた、と月刊誌「クーリエ・ジャポン」11月号が報じている。彼がCIAの前身であるOSSの諜報部員であったことも。

「人間という魑魅魍魎」と以前書いたように善悪さまざまな可能性を秘めているのが本質ならば、ノーベル賞作家を神棚に飾るべきではないことは明白。聖職者が強姦魔、警察官が泥棒、軍人が売国奴、教師がイジメ、政治家が私利私欲に走るなど作り話の世界だけでないのは衆智の話。一面的では有り得ないのが人間だ。あらゆる可能性を秘めた存在であるがゆえに精神文化が重要であり、教育が大切なわけだ。

一体の戦死者が横たわっていると仮定しよう。戦争を肯定するか否定するかで、戦死者について語る言葉は異なる。戦時下の国で戦死者を無垢な子供たちにどのように語るのか。改憲により戦争可能な国にする前段階として「教育基本法改定案」「改憲手続き法案」「共謀罪(刑法改定)法案」「防衛設置法案・自衛隊法改定案」が国会で審議されようとしている。長い憂いを経て悪夢が実現しようと胎動しはじめた。厳密に定義不能であるがゆえに永久に継続可能な「テロとの戦い」を旗印に、とりあえず「北朝鮮危機」を触媒にして、唯一の超大国と仰ぐ米国の「物語り」に国家まるごと献上しようというのである。今はまだ戦死者を仮定する段階で想像力を働かさなければその姿は見えない。しかし今見えないということは、おそらく実際に戦死者を前にする時、与えられた「物語り」によって納得するほかないということだろう。パニックが「物語り」によって憎悪にすり替えられ戦争動員を果たす。「物語り」は戦争が殺人であることを隠してしまう。

「教育基本法改定」は現行法を全面的に改正するものだ。現在の日本国憲法の精神との切断により、国や行政が内心や教育内容に深く介入して教育全体を支配統制することになる。

「『豊かな情操と道徳心』『我が国と郷土を愛する』など、人間の内面に踏み込んだ『徳目』を含む20項目の『目標』『資質』が法定化される。それらの『目標』『資質』は、小中学校学習指導要領の『道徳』で定められる構成にほぼ準拠し、その記述も『勤労を重んじる態度』『我が国と郷土を愛する態度』のように『態度主義』『道徳主義』的形式が目立つ。/教育行政は、教育内容を含め教育の全分野に権力的に関与、統制することが合法化、正当化されている」(「軍縮問題資料」三上昭彦明治大学教授200611

学校が「上意下達」に貫かれた国民製造工場に変わるということだ。

「国民投票法」は「92項を廃し、日米が一緒に軍事行動するための改憲」を出来るだけ短期間に行うためのものだ。公務員を法的に拘束して改憲反対が出来ないようにする。これは一般市民にも及び、事実上改憲反対運動抑圧として機能する。マスコミや情報統制により改憲派の情報が優先されることになる。

成立すれば、政府の意見に反するあらゆる市民運動、平和運動が弾圧されることになる「共謀罪」を「テロ対策」や「国際犯罪対策」で必要としてきた政府が、「19993月国連審議で日本政府は、共謀罪や結社罪が日本の法体系になじまない。英米法、大陸法以外の法体系の国々が受け入れられるようにすべき、と批判、『国内法の基本原則に従って』などの文言挿入を要求し、認められた」(06.10.2中日)

「この政府提案について野党側は、政府が共謀罪新設しないで条約を批准しようと努めた重要な証拠。/今になってなぜ共謀罪創設に固執するか不可解」(06.10.2朝日)「国民への重大な背信行為」(06106毎日)などと反発している。

政府自身が国連で不要を語りながら、それを隠して、国内的には国際社会のために必要と嘘をついていた。戦争可能な国にするため反政府、反体制を封じ込めるためには最も必要な法律だからだ。異論反論がただでさえ少ない国から最後の一人まで弾圧、排除するためだ。

9.11以後世界はどう変わったか?米国はどんな国になったのか?日本は?東アジアは?「テロとの戦い」でアフガニスタン、イラクで何が起きたのか?どれだけ人間が殺されたのか?

 想像力を止めて米国に従属することで一体何が起こるのか?イラク戦争当事者である日本人としてイラクの人々の死体を想い描く義務がある。殺された人々の可能だった多様な人生を奪う側にいるわけだからだ。改憲により嘘とデッチあげの戦争国家に従属することが死体の山を築く事以外何ものでもないことを忘れるべきではない。

ヘミングウェイの最後は自ら足の指で猟銃の引き金を引いて2度目の自殺に成功した。

2006.10.20 高木

裁判員制度

 

民主主義が消えてゆく。差別意識と傲慢な支配観と、結果的にそれを支える支配される側の無知、無関心によって。歴史歪曲による被害の否定や無視は新たな加害の準備であり、戦争可能な国づくりとはそのような動きに他ならない。60年以上も前の戦争について何をいまさら.....という歴史の遊離は、目の前の事にしか関心がない場当りな態度が最悪の歴史を再生する作業であることに気付かない。

「国家の論理は突き詰めると軍事の論理になりますが、軍事がもたらす人権抑圧を公認して国民の合意を獲得すること、それが裁判員制度の端的な意味合いです」東北大名誉教授小田中聰樹(「裁判員制度はいらない」高山俊吉 講談社2006

20045月に成立した「裁判員制度」を多くのひとが理解していない。自分の身に降りかかるまでは他人事、と無視するにはあまりに危険な内容だが、「改憲後の可能」と「現行憲法下の不可能」という不整合ゆえに、推進する国側も国民の納得のゆく説明が出来ていない。このままでは、強権的に進めるか、制度の根本的見直し(破棄)しかないのだが、民意の表現として反対の意志を明確にすることが不可欠だ。「裁判員制度」とは、ランダムに選ばれた国民が、殺人事件など重大事件の裁判に「裁判員」として強制的に参加を命じられる。有罪、無罪、刑罰について意見を言わなければならないが、審理が始まる前に裁判官、検察官、弁護人の間で「公判前整理手続」(平均審理期間約7.5ヵ月程度だったものを、わずか数日間に短縮するため、弁護活動の無効化とさえ言える暴挙)という事前打ち合わせで裁判の進め方を決めてしまう。一般市民は忙しいので何日も拘束出来ないからという表向きの理由は、無知な素人に形式的に評決権をあたえるが、結果を変えさせないためであり、所詮「裁判員」は蚊帳の外の存在にすぎないことを露呈している。やりたくないと言っても強制なので通らず、秘密を漏らすと刑罰が科せられる。そして被告人は裁判員の裁判を受けることを拒めない。およそ日本国憲法下では発想不可能な「裁判員制度」が既に成立している。改憲を目指す国ならではの勇み足として。

小泉政権が推進した「司法制度改革」は「刑事司法改革」「民事司法改革」「弁護士制度改革」により戦争国家体制の実現をはかるものである。

「政府は、しきりに治安悪化を叫んでいるが、刑法認知件数は2003年度から連続して減少している。/反対に検挙率は7年ぶりに30%を超えている。にもかかわらず『日本はどんどん危険な国になっている』とことさらに治安悪化や安全の危機を強調しているのは『有事』や『対テロ』つまり戦争に備えるための国内治安体制強化という目的があるからだ」遠藤憲一弁護士(「司法制度改革の正体」つぶて52 2006秋)

「司法制度改革」の最大の目玉が「裁判員制度」であり、国民総動員のもとに権力の片棒担ぎを演じさせる。一般市民という「素人」の司法参加はまったくの飾りにすぎず、実態は権力の望むままの判決を超短期間で導くためのものだ。「簡易迅速重罪の裁判は戦時司法の特徴である(裁判員制度はいらない)」裁判員制度は新たな「赤紙」「徴兵制」という反発の声も挙がっている。「刑事司法の改悪に反対する全国弁護士ACTION」は緊急声明で「被告人に選択権がない一方、国民には参加や守秘の厳しい義務を課し、裁判の批判や報道を抑制する姿勢が目立つ」と訴える。高山弁護士は「裁判員制度はいらない」において、日本国憲法に違反する項目として「再審制に関する条文がない憲法は裁判員制度を許していない」「職業裁判官と素人が一緒に裁判を行う参審制に関する条文が憲法にまったくないのは、現行憲法が裁判員制度を認めていないことを意味する」とし、日本国憲法(13条、18条、19条、31条、32条、37条、76条、78条、80条)にそれぞれ違反する、としている。

「裁判員制度導入の政治的狙いは、『司法に対する国民総動員』。有事立法で国民を戦争協力に総動員。裁判員制度により国民を人権抑圧に総動員。二つは全く同じ発想の総動員法。同時に浮上しているのが『共謀罪』。警察権限が強化され、生活安全条例など警察の取締りの網の目も強まっている」(小田中聰樹)

「裁判員制度が実施された場合においても、現在の刑事裁判に巣食う自白偏重の体質、警察の捜査の不透明性、人質司法と称される容易に保釈許可しない傾向等が改められることを期待できない」(仙台弁護士会)

司法制度改革推進本部の意見公募には大量の反対意見が寄せられた。「勝手に決めるな」「国民置き去り」「どうして必要か」「こそこそ画策してなし崩しに実施することに腹が立つ」「何かにつけて税金をとり、有事法案だ、裁判員制度だと国民を危険にさらすのが政治か」「他人の人生を左右する判断はできない」「少しくらい休んでも生活に困らない人の考え」「首になったら再就職先を見つけ、客を失ったら信用を取り戻してくれるのか」と怒りを露わにする。そして「命を懸けても反対」とさえ。

裁判員になることを拒絶出来ない(辞退禁止)。評議の場で意見を言わなければならない(意見陳述義務)。知ったことを他人に漏らしてはいけない(守秘義務)。「裁判員裁判」は、死刑や無期の可能性のある重大事件を3日以内で決定しようとしている。そして戦前の「指定弁護士制度」の復活ともいえる弁護活動の骨抜きとして、刑事弁護を法務省傘下にある「日本司法支援センター」が200610月に開業する。

「民事の相談窓口をも国が開設して一大国営法律センターを法務省支配下に置こうとするもの。/刑事裁判の原告官である検察官を擁する法務省が相対立する被告人の弁護活動(刑事国選全事件と被疑者段階の重大事件)を運営し、監督するなどという制度は世界に例を見ない」遠藤憲一弁護士(つぶて52 2006秋)

要するに権力の手のひらで都合の良い茶番(裁判劇)を演じさせるということだ。すでに全体主義国家の報道機関と化したメディアはこれほどの反民主的悪法の登場にもさしたる反応も見せない。ところで、全国の高等学校で必修科目を履習させなかったため卒業が危ぶまれていることが発覚した。すでに卒業してしまったケースもたくさんあるという。予備校化が受験に必要ないものを徹底的に省こうとするのは当り前の話だ。テストに出ないものを勉強せず、その分特定の科目を集中的にこなすという流れは効率優先の発想であり、日の丸を仰ぎながら大声で君が代を斉唱する成績の良い生徒を大量生産するには必要な方法だ。いじめも必修科目の未履習もばれなければOKだが、残念ながらばれた。でもこんなことくらいで民主主義に目覚めることはおそらくない。なにしろ根っこからの全体主義国家だからだ。「皆やっているから安心」のはずがミスを犯してしまったが、だからといって、今まで排除してきた自立や共生を掲げるわけにはいかない。それでは戦争など出来ないからだ。どう転んでも「美しい国」とは言い難いのだが、改憲先取り社会が社会ダーウィニズムを原理として人間を資材化し、戦争の備えを完成させる過程の一つのエピソードということだ。

2006.10.27高木