臓器移植

 

愛媛県宇和島徳洲会病院で、病気のため摘出した腎臓を別の患者に移殖していた。健康なドナーの腎臓が前提である腎移植でも臓器移植は免疫抑制剤が不可欠で、そのため病気の臓器によって発癌の可能性があり、癌の部分を取り除いても血液までは取り除けない。当然レシピエントのリスクは大きくなる。「使えるのに捨てるのはどうか」と主張する手術執刀医の言葉は、臓器移植という発想が必然的に招いた言葉である。全体を俯瞰しなければならない。誰もが無関係でいられない「生命」の問題だからだ。日本社会はすでに「人間の資源化」を実践している。人工透析患者をはじめ喉から手が出るほど臓器が欲しい、という「市場」が「移殖産業」を生み出し、高額な医療費が医療格差を発生させ、受けられる人と諦めざるを得ない人という差別を生み出す。医療という「生命」を扱う職業が要求するのは民主的で平等というものであったはずだが、市場原理が支配するただの産業になってしまった。制度やしくみが限りなく米国型に近づいている。宇和島徳洲会病院の渦中の医師は、移殖先進国である米国に渡り現場で技術を磨いて帰国、その後天才とさえ呼ばれるようになった。当然、思考も米国型だ。「人体の部品化」は、論理も倫理もあいまいな日本で根本的疑問を欠いたまま、まかり通ることになった。原理を失えば暴走に歯止めはないということだ。いまや日本中をモラルハザードが蔓延している。もっとも倫理の要求される医療において平気で人体実験が可能なのだ。「いじめ」や「必修科目未履修問題」は政治が必然的に招いた。今回の病気腎移殖も一医師だけの問題であるはずがない。何よりも厚生労働省が「日本臓器移植ネットワーク」で「いのちへの優しさと思いやり」という歯が浮くようなメッセージで臓器提供を呼びかけているのだ。あらゆる臓器移植はできるかぎり新鮮な臓器を求める。それは生体間移殖でも脳死臓器移植でも同じだ。健康な身体が死んだ直後の臓器が最高という(可能なら生きたまま切り取りたいおさしみみたいな)前提は、大金を積んで死刑が頻繁に行われている中国に渡り死刑囚の臓器を移殖するという事態まで生み出した。すでに12年も前に朝日新聞が、東京の下町の電柱に「腎臓譲ります」というビラが貼られたと報じている。借金苦の34才男性が、2000万円程度で、と売り出したものだ。(1994.10朝日)「人間の資源化」は、巧妙な情報操作で根本的論議を欠いたまま深化し続けてきた。医療や教育という、本来市場原理に馴染まない分野が急速に崩壊している。開会中の第165回臨時国会に臓器移植法改定案が上程されている。

A案;脳死を一律に人の死と定め、本人が臓器提供拒否の意思表示の無い時、家族の同意だけで脳死後の提供を可能にする」「B案;提供可能年令を15才以上から12才以上に引き下げる」という内容は「人間の資源化」をもはや隠そうともしない。バカな国民が意味も理解出来ずにいるあいだに、奴らの臓器で商売してしまえ、ということだ。

「臓器不足は脳死者不足ということ。米国は交通事故を減らすために高速道路の速度制限を厳しくして事故は減ったが、脳死者数、移殖件数も減ってしまった。だから今度は速度制限を再度緩めようという議論が起こった。/法改定で脳死を人の死にすることで、保険治療で1日数十万円かかる脳死者への保険や税金がカットできる。脳死者は新薬の効果や副作用を調べられるし長く脳死でいてくれたら血液などさまざまな成分を無尽蔵に作り出す工場になる。さまざまな研究開発に利用でき、莫大な市場が開かれる。/日本では、特に教育基本法改定と連動している。臓器移植法改定でA案とB案の提案者は、いずれも『脳死や死の教育を普及しなくてはいけない』と力説している。/国家のために奉仕する子供たちをつくる一環で、社会、国家のために臓器を提供する子供が位置づけられてゆく」小松美彦東京海洋大教授(06.11.図書新聞)

脳死臓器移植の推進が「戦争できる国家」と無関係であるはずがない。交通戦争も戦争も脳死者を作り出すと言う意味では同じだ。「脳死を人の死とする」ことで莫大な「市場」が形成され、「産業」が成立する。さらに医療費も抑制できる。こんな都合の良い話はないではないか。

世界史や日本史など学ばせないようにして歴史と切断された若者たちを量産し、社会全体で「人権」や「民主主義」、「自由」などというものを蔑視する傾向を育んできたから、改憲によって戦争で命を差し出すこと、「市場」の要求に応えて臓器を差し出すこともこのまま行けば問題なさそうだ。国家に従順で健康な肉体を持ち学力優秀というモデルで人間をランクづけして、基準を満たさない者を「臓器」として利用すればいい。何しろ成績が良くてもナチスの「ホロコースト」や「731部隊」の内容を知らない子供たちばかり。ハーケンクロイツのTシャツやナチスドイツのヘルメットも平然と売られている国だ。野宿問題や反戦平和運動に取り組む人々を人権屋と嘲る社会は当然のごとく「他人の不幸は蜜の味」とばかりに、たとえばどの病院の待合室にも週刊文春と週刊新潮が置いてある。「他者を救う」ことよりも「他者を貶める」ことを好むのは、実は「当事者」であることへの恐れではないか。異議申立ての必要は感じても「自分が」なんてとんでもない。全体の流れに合わせるのが無難。「見ざる。聞かざる。言わざる」が一番。さまざまなストレスを解消するのは「他人の失敗」を面白がるくらい。こうしてスキャンダルの消費が続く。だが、「傍観者」として全体主義形成に参加した後は「当事者」にされる運命が待つ。政治の流れが「国民」であることを強制しようとあからさまになってきた。「改憲」が意味するものは、「あなたは国民であり、国民とは使い捨て兵士であり、使い捨て臓器である」ということだ。

「個体は徐々に機能を失ってゆく。個体の死は連続的なプロセスであって、ある一点をもって生死を分けることはできない」(「臓器移植我、せずされず」池田清彦 小学館文庫2000

法改定によって「脳死を人の死とする」つまり国家が個人の死を決定するということだ。

何のために?「移殖産業」で儲けるためだ。レシピエントの幸福はドナーの悲劇と引換えになる。早い話が一人殺して一人生かすということ。脳死臓器移植は殺人である。

小林美彦はインターネットで、最も秘匿されてきた脳死者の「ラザロ徴候」について説明している。脳死者の手が刺激を与えていないはずなのに自然に上がってきて、胸の前で握り合わせてまた戻ったりする非常に滑らかな運動のことで、4日も続いたという論文報告もあるという。さらに臓器摘出のために脳死者にメスを入れると血圧や脈拍が急上昇し、場合によっては動き出し、ひどい時にはのた打ち回ったりもすることを指摘している。そして米国ハーバード大麻酔学教授ロバート・トゥルオグは「脳死者が生きている」ことを認めながら「移殖臓器獲得のためには時には殺人も認められる必要がある」と論文で言明し、同様の主張を日本移殖学会の論文として松村外志張という研究者が提唱しているという。私たちはどのような国のどのような時代を生きているか再確認すべきだろう。知らぬ間に殺されないように。文部科学省に自殺予告の手紙が送られてきた。大臣がマスコミを通じて「死んではだめ」とポーズを取るが、本音は「臓器がもったいない」からにちがいない。為政者が「命」の問題に最も疎い国だからだ。                    2006.11.10高木

臓器移植U

 

この国が「上意下達」に貫かれたピラミッド構造であることは言を俟たない。抑圧構造を維持するためにさまざまな嘘がまかり通り、現在その実害がダムの決壊のようにあちこちから噴出している。本来なら被害者の声は政治に反映するはずだが、その声が共鳴を起こさないために全体から見るとほとんど目立たない小さな部分で終ってしまう。何故共鳴しないのか?思考停止ということだろう。部分が全体に連動しないのは各個人のつながりが希薄だからであり、あたかも宝くじのような他人事と当事者の決定的な違いを生んでいる。ピラミッド構造を無条件に認めるならば、当事者になることを避け個人で判断することを止めて流れに迎合するほかない。それこそが思考停止ということだ。構造が要求するのは、たとえ全体が腐敗し破綻しても声も上げず共鳴もしない国民ということだ。かって大東亜共栄圏という虚構を目指した国のように。

「内閣府世論調査で、治安が悪い方に向かっている、が38.3%でトップ。治安に対する国民の不安は大きい。だが今年の犯罪白書では刑法犯認知件数は03年から減少、昨年は前年より約30万件少ない約310万件。/治安は悪化しているという国民の認識は数字の上では幻想」(06.11.15中日)

この問題については以前、久保大元東京都治安対策部長の「治安はほんとうに悪化しているのか」(公人社2006)によって、治安悪化は警察のシナリオが流布したデッチ上げに他ならないことが内部告発されている。にもかかわらず、日本中で「防犯パトロール」のステッカーを貼った車が行き交い、蛍光色ジャンパーで武装した不審者さがしの中高年が増殖している。まさに誇り高き胸を張る思考停止がここにある。9.11に端を発した「対テロ戦争」の民間委譲としての現場が捏造されているわけだが、そもそも9.11の疑惑は増すばかり、アフガン侵略、イラク侵略もその大儀を失っている。あろうことか、夥しい無辜の市民の死傷者にもかかわらず「フセイン元大統領に死刑」などとさわぐが、中東侵略の責任を誰も取らない「民主主義」とは一体なんだろう?自国の兵士3000人が死んでやっとイラク撤退論も浮上するという鈍感な戦争国家は、その構造上、政権交代したところで生業を変えるわけにはいかない。戦争を止めることは基幹産業の廃止を意味するからだ。民主主義が反戦と親和性を持つとするなら、戦争国家が口にする民主主義とは虚言そのもの。社会構造が虚言を必須とする日本と米国は同型ということだ。上意下達のピラミッド構造では原理的に下層の声は無視される。一方通行のコミュニケーションにより、まるで植物状態のごとく扱われる下層の声無き声が通じることは困難を極める。しかし下層の一点は逆さまのピラミッド状ルサンチマンの頂点としての主体だ。主体の自覚が連動すれば抑圧の蓄積はエネルギーとなり得る。

いじめが飽和状態を呈している。教育界は無視してきた。社会的、政治的にいじめが必然的に起こる構造が放置され、耐えられなくなった自殺者が増加している。石原東京都知事が1110日定例会見で「ファイティングスピリットが無ければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」と発言。それを聞いた都立高2年生が「発言がさらに自分を追いつめることになった」と自殺予告葉書を知事宛てに届けた。もはやピラミッド上部は起きていることの本質を理解できないまま身勝手な発言をしているにすぎない。コミュニケーション不全が死者を生み出している。

多くの人が思い込んでいるものが嘘だったり、誤解であった場合、嘘の被害者、犠牲者は公的に被害を受けることになる。「脳死臓器移植」はまさにその典型だろう。天笠啓祐、森野一樹、池田清彦をはじめ、脳死・臓器移植に反対する市民会議などがその密室殺人としての犯罪性を暴いてきたが、大手マスコミの大衆煽動である「命のリレー」などという美談のデッチあげがすんなりとまかり通る日本社会がある。何度も繰り返すが「大金が動く」ことがポイントである。野宿者から臓器が抜かれることがあっても、野宿者に臓器が移殖されることは絶対にない。「移殖産業」という巨大利権は国家が個人の死を定義することで可能になる。公共の殺人が戦争と同様に美談として可能になるのだ。それでは、「脳死臓器移植」の大前提の「脳死」は人の死だろうか?

「『脳死者は身動きひとつしない』とは、私たちの思い込みにすぎないのだ。/私たちはそのように思い込まされているだけなのである」(「脳死臓器移植の本当の話」小松美彦PHP新書2004)小松は同書において、多くの「脳死者」の心臓が少なくとも1週間、最長のケースでは14.5年も拍動し続けた例を挙げる。そして身体の有機的統合性は脳という中枢器官からのトップダウン方式の司令に由来するのではなく、身体の各部分の相互の影響によってはじめて成立している、という米UCLA教授A・シューモンの指摘を紹介する。

「脳死を人の死とする根拠は『身体の有機的統合性の喪失』なのに脳死判定では意識や頭蓋内神経機能や自発呼吸の有無を調べるだけで、身体の統合性に係わる脳の機能には一切触れていない。/内分泌や血圧・体温維持などは脳が介在して身体の統合性を生み出す典型例とされるのに脳死判定から除外されている。/有機体における脳の役割は、統制的というよりも調整的であり、有機体の質や生存能力を高めることである。脳とは身体の有機的統合性の統御者ではなく、調整者に他ならない」(「脳死臓器移植の本当の話」)

後半の件は、トップダウン方式の否定だ。さらには階層性の否定にも関わるものだ。人体という自然がピラミッド構造のシステムを拒否する。支配幻想は、その立場の喪失を恐怖する者のデッチあげにすぎない。現在の日本の在りようを、人間という有機体のメタファーとして読めば、いかに不自然、不健全であるかが理解できよう。すべての人間が平等に人権を持つという前提を確保したうえで小松の声に耳を傾けよう。

水頭無脳児が音楽に嬉しそうに反応し、鏡に映る自分の顔に嬉しそうに笑い、背臥位のまま足をぴょこぴょこさせながら家具にぶつからずにベランダに出ることが出来ることを例に、「無脳児もまた覚醒した状態にあり、無脳児に意識が無いとする断定も意識に関する臨床医学規定からすると誤りなのである」(「脳死臓器移植の本当の話」)さらに疑惑は「植物状態」にも向けられる。「公共言語」だけをコミュニケーションの道具とするなら「植物状態患者」の表出する「私秘的言語」は理解出来ないことになる。さらに意識が無いことにされてしまう。重度の寝たきり老人性痴呆や言葉を話す前の乳児を意識が無いと決めつけはしない。家族なら声無き声を聞く努力が自然になされるだろうし、まばたきなどのかすかなサインの「私秘的言語」がコミュニケーションを果たす、と指摘する。

下層の呻吟が無視される現在、大人も子供も自殺者が減ることはない。部分が全体にとっていかに重要か自覚出来ない社会システムが腐敗し、崩壊するのは明白だ。日本初の脳死臓器移植(和田移殖1968)が明らかに殺人であったことを小松は厳密に検証する。和田移殖以来、日本人は脳死臓器移植が医療行為であると錯覚しつづけてきたからだ。和田移殖では、ドナーが生きたまま心臓が摘出されたがテレビ中継もされず、現在も密室で移殖が行われ、その様子を一般の市民が見る機会は有り得ない。何でも「科学」とされた途端、日本人は信じてしまう。この国の「常識」が検証される機会が極端に少ないことが「嘘」をはびこらせることになっている。小松は19901215日放映の「NHKスペシャル−脳死」を貴重な映像として紹介する。「その摘出シーンでは、脳死者の額には汗が無数の玉となって浮き上がっている。眼には涙があふれている」

2006.11.17高木

ダンス・マカーブル

 

「人類にとっても我が国にとっても初めて対面する脅威/厚生労働省の予測する最悪の死者数は64万人だが、これらをはるかに上回るという予測もある/世界中が異常な危機に陥ると思っており、日本にとって国家として危機管理が必要/防衛庁としては、もっている装備、能力をフル稼動して対応していきたい」(200639日 参議院予算委員会における質疑応答)

科学は人間のコントロール願望に沿って進歩してきた。さまざまな自然の改変が進むが、コントロール不能な未知の領域が存在することを忘れることは出来ない。地球は人間だけのために在るわけではない。ガイアにとって人間が不要なら躊躇せず抹殺するだろう。39億年の生命史にとってほんの新参者にすぎない人間は、すでに惑星全体を道連れの自滅さえやりかねない存在になってしまった。

必要以上に危機を煽って高額な商品を売りつける商法は「健康食品」や「ミサイル防衛」を思いつくが、冒頭の質疑応答は、実は「迫り来る北朝鮮の弾道ミサイルによる日本への核攻撃」ではない。実際に起きる可能性がほとんど無くても情報操作が容易な社会なら戦争など簡単にデッチ上げられる。しかし国家規模で取り組んでもコントロール不能な事態には、情報そのものを隠蔽してしまうようだ。冒頭の質疑応答は新型インフルエンザに関してのものだが、政府がこれほどの危機を認めながら、国民がほとんど知らないありさまだ。何時、来るかわからない災害として巨大地震があるが、阪神淡路大震災の経験もあって官民ともに、少なくとも建前程度には危機管理が考えられているようだ。しかし想像力の貧困を嘆くべきなのだろうが、世界一の地震地帯で原発は50基以上稼動したまま。爆弾を懐に抱えながら焚火にあたるごとき能天気はおそらく世界中の笑い者。災害訓練を有事訓練にすり変える目論見でも、原発がテロリストに襲われたら放射能を避けるため雨ガッパを使え、という茶番だ。JCOの「バケツで臨界」をすっかり忘れたらしい。同じく何時来るかわからないインフルエンザパンデミックがほとんど知らされないままという状況は、「どのみち助かりっこない」と政府が匙を投げているに等しいと解釈できる。「危機管理」などと口角泡を飛ばすのは、現実感の無いかけ声にすぎず、本当に国民の安全を確保する気など毛頭無いということだ。かねてから新型インフルエンザの情報に注目してきた。専門誌として月刊「イフルエンザ」まで出版されているのに医療関係者でも危機感は弱そうだ。やはり、大手マスコミが何を語るかに左右されるのか。それでもインターネットをはじめ、単行本も何冊か出版され、新聞でもほんのわずかだが触れ始めたが、公的にはパニックを招く情報は隠蔽するということだろう。ウイルスはホ乳類の進化の100万年分をわずか一年で達成する。この変異のために人間の免疫機能など太刀打ち出来ないわけだ。1116日の毎日新聞及び1120日、NHKBS「海外安全情報全情報」によれば、ベトナム、タイの新型インフルエンザウイルスを調べていた日本の研究者がヒトの鼻やのどで増殖し易く変異したウイルスを発見したという。「人間の体温は3637度、鳥の体温は42度前後で人間より高い。トリ型ウイルスは、人体の鼻などの温度が低い上気道では増えにくいと考えられていたが、トルコのH5N1型鳥インフルエンザウイルスは人間の低い体温(36度)でも働く変異が起こっていた。つまり、鳥の細胞より、人間の細胞の中でよく増えるように変わった」(『パンデミック・フルー』岡田晴恵国立感染症研究所研究員 講談社2006

アジアから拡大した鳥インフルエンザは、またたく間に世界に広がり、各地でヒトに感染しやすい変異を進めている。200610月において55ヵ国が感染を確認され、ネズミ、ウサギ、イヌ、ネコ、ブタなどの哺乳類にも及んでいる。岡田は、もはやH5N1型鳥インフルエンザ制圧は不可能としている。

WHOの対策計画をもとに厚労省がパンデミックの危険度をフェーズ#1#66段階に設定している。現在はフェーズ#3で新型インフルエンザ出現の一歩手前、パンデミックへの警告段階で、フェーズ#4では、人から人に連続して感染がある一定地域で発生したことになる。フェーズ#4がパンデミック防止対策の正念場だ。岡田によれば、オーストラリア、ロウィー研究所がH5N1強毒性鳥インフルエンザが新型となって想定される被害を算出している。最悪の場合、死者数は全世界で14200万人、経済損失は44000億ドル(約514億円)、日本の死者数は厚生労働省の試算64万人の3倍以上となる210万人と推定している。日本の研究者も押し並べて政府の予測の甘さを指摘する。

WHOは、行動計画あるいはpandemic preparedness planを作るように各国に勧告をだしています。/米国、カナダ、オーストラリアは国をあげて力を入れているので、かなり進んでいます。/それに比べると日本は、まだかなり遅れています。/(パンデミックが)始まってしまうと、止めるすべは今の医学では無いと考えられています。影響は単に医療だけの問題でなく社会全体に及ぶと考えられています」(『インフルエンザパンデミックに向けて』押谷 仁(『内科』Vol.98 No.52006

保守的な医療専門誌でさえこのように危惧しているのだ。再び情報を確認しておきたい。世界各地で強毒性H5N1型鳥インフルエンザが鳥の間で蔓延し、人への感染も拡大している。すでに252人が感染、そのうち148人が死亡している。昨年1年間の死者42人が、今年は半年で73人(2006.10.3現在)。鳥から人へ感染をくり返すうちに、人から人への感染が可能になる。呼吸器疾患のインフェルエンザとまったく異なり新型は全身疾患で多臓器不全や脳の破壊を招く。新型インフルエンザへの変異は目前であり、世界中の誰も免疫を持たず、これまでのワクチンもまったく効かない。空気感染のため交通機関により、世界のどこかで発生すれば、またたく間に感染が拡大する。新しいワクチンは最短でも6ヵ月かかるので、その間は打つ手がない。タミフルなどの抗インフルエンザ薬は量が不十分ですぐ足りなくなる。H5N1型鳥インフルエンザの患者の6割以上で肺炎を起こし、サイトカインストームで肺が強烈なダメージを受け、呼吸困難を起こすため米国では人工呼吸器を増産している。日本の台数は約10万台〜35万台(耐用年数のため不明)。新型インフルエンザ流行時には約2500万人が受診するとされるため完全に足りない。またマスク、ゴーグル、手袋、ガウンなども足りないという。よく引き合いに出されるスペインインフルエンザ、アジアインフルエンザ、香港インフルエンザは弱毒性で、やがてパンデミックの可能性が高まる新型は強毒性であり、人類は未曾有の地獄に直面することになるわけだ。「地震など、自然災害とパンデミックが大きく違うのは、もしパンデミックが起きると、すべての国の地域が影響を受けるということ。/誰も頼れない状況/いまは感染症を専門にする人たちが減って、一般の医療従事者の間で感染症に対する理解があまりないことが問題」押谷 仁(『内科』Vol.98 No.52006

14世紀中葉にヨーロッパを襲った黒死病(腺ペスト)がもたらした光景が再現されるかもしれない。

今年はじめ、奥三河の山中に住む友人が、インドネシアから帰国した知人の来訪を受け、みやげ話に花を咲かせたあと、40度の高熱が何日も続き、新城の病院に緊急入院したという。がっしりとした体格だったのに一週間で10kgもやせたそうだ。病院ではタミフルで治療したそうだが、鳥インフルエンザであったのかは不明だ。パンデミック襲来で、もしこの男が免疫を持って生き延びたとして(考えたくないが)次の日本人のルーツになったら少なくとも原発は止めるだろう。でもやっぱりジョークであって欲しい。鳥インフルエンザが猛威をふるうインドネシアをはじめ東南アジアに仕事や観光で出かける日本人は数えきれない。帰国時にノーチェックであることを考えれば対策が後手にまわるのは必至だ。11月中旬を過ぎて浜名湖岸を通ると、湖面は鴨でびっしりと埋めつくされていた。鴨に国境など関係無い。武器も持たず攻撃性も無いのに圧倒的な存在感がある。コントロール願望が傲慢な幻想にすぎないことを思い知らされる日が来るかもしれない          2006.11.22高木



隔たりが虚構を可能にする

 

 「史上最大の作戦」を少年時代に観て、戦争の恐さでなく、勝利の栄光や快感に近いものさえ感じていたことを悔やむと同時に、つくづく映画の影響の大きさを実感している。「史上最大の作戦」はナチス支配下のフランス、ノルマンディー海岸に突然上陸した連合軍が奇襲に成功する話だ。ロバート・キャパの有名な「D・ディ」が撮影されたその戦闘は、後のナチス敗退の端緒を開いた。「史上最大の作戦」が公開された頃、映画はほとんど2本立てで、さらに「ニュース映画」というものが上映されていた。テレビが一般化するまでの時代には、新聞・雑誌と並んで映画館がニュース映像に接する重要な機会だった。今では時間の流れが圧倒的に速くなったことがわかる。ひとつのニュース映像が23週間も寿命を保てた時代があったのだ。団塊の世代は、テレビの爆発的浸透とその政治的利用という視覚情報の革命的進化に最初から立ち会った。

 浜松中心市街地活性策の一環として建てられた多目的ビル「ザザシティ」は官と民がさまざまなフロアを営む。浜松初の「シネコン」登場と、不況が追い風となって他の映画館をつぶし、ハリウッド映画の独占体制が確立。子供たちばかりでなく大人も、世界は米国で出来ていると錯覚、誘導されることになった。まさにグローバリゼーションそのものの姿だ。ところで冒頭の映画は、クリント・イーストウッドの新作「父親たちの星条旗」を観て思い出したものだ。「ミリオンダラーベイビー」で心臓をわし掴みされるほどの感動をもたらしたC・イーストウッド監督が、映像表現に卓越するスピルバーグと組んだだけに、戦闘シーンは凄まじい。かって「史上最大の作戦」も当時としては(戦争を知らない子供がまんまと好戦的になるほど)群を抜いていたが、「父親たちの星条旗」における戦闘の恐怖と臨場感によって無条件に戦争を拒絶するほどのリアリティにはとても及ばない。ともあれ、戦闘シーンによって好戦的になるか、厭戦的になるか決まるとしたら、映画が及ぼす影響は無視出来ない。「現場」を知らない者にはどんな「現場」を語ることも可能だ。たとえそれが虚構であっても。「反戦」の意志がどれだけリアリティを伴うかについて「父親たちの星条旗」が描いたのは、映像が、思考をはがいじめにしたあげく、恐怖という本能を刺激して息苦しささえ覚えるほどの効果だ。「父親たちの星条旗」は太平洋戦争において日米の硫黄島の戦闘が双方の大虐殺をうみ出したこと、その頃戦費捻出に頭を痛めていた米政府が、偶然、スリバチ山頂上に6人の兵士が立てようとする星条旗の写真を目にして、国債を国民に買わせるPRに使えると気付き、写真を国債キャンペーンにデッチ上げてゆくことになる。敵、味方双方にとって地獄となった戦場を知らない政権中枢と軍上層部にとっては、無数の悲劇よりも戦争に勝つことが優先する。現場を知らない者によって「偽りの現場」が語られ民衆を厭戦から好戦に導く。6人の兵士がどのような出自でどのような人格であるかなどその「物語り」には必要ない。戦闘で生き残った3人の星条旗に関わった兵士が帰国を命じられ、巨大スタジアムに置かれた硫黄島のスリバチ山に似せた張り子の岩山で星条旗を立てる茶番を演じさせられる。「言わせてもらいますが、これは茶番です」と一度は上官に反抗したネイティブ・アメリカンの兵士も成り行きで参加するしかなかった。パフォーマンスの後に「国債を買って兵士の死を無駄にしないで欲しい」と訴える馬鹿馬鹿しい程のやらせでも政権の思惑通りになるのは、残念ながらいかに民衆がプロパガンダに乗せられやすいかを思い知らせる。戦意高揚は、帰還兵という実物の存在によって説得力を増して容易になる。それが偽りの物語りであってさえ。

それにしても「現場」と「現場を知らない者」の違いは決定的だ。特に戦争においてそう言えるが、空間的隔たりばかりでなく時間的隔たりについても同様だろう。具体的には、太平洋戦争を知る世代が政権にほとんどいなくなった事が、この国の戦争観に及ぼす影響を危惧せずにはいられない。まがりなりにも自衛官が、殺し、殺されなかった60年という時間も同様に「隔たり」として作用し戦争を知らない世代にとっては厭戦、好戦どちらの選択か微妙なものとなった。日本社会の特長でもある「雰囲気」でどうにもなる、そして論理が超えられてしまう傾向を考えれば、戦争が地獄であることを実証することが難しくなっている。言いかえれば私たちは「父親たちの星条旗」のような厭戦を喚起する映画さえ自由に観ることが出来る時代にありながら「史上最大の作戦」のように戦争を栄光のように語るものを選択してしまう傾向を捨てきれていないのだ。氾濫する軍事マニア雑誌、ますます盛況な航空ショー、まるで軛を解かれたかのような核保有論の台頭などが証左だ。このことは、私たち日本人が航空自衛隊、海上自衛隊の後方支援、兵站という形で当事者として関与し続けている「イラク戦争」によって連日、60人〜100人もの死者を生み出している事実と、シネコンで戦争映画に感動したりする事実との「隔たり」を暴露する。週末の予定をあれこれ思いあぐねる「自由」は、いつ弾が飛んできて人生が終わるかもしれないという予測不能のイラクの「不自由」に拘束されている。その否定しようがない事実を「隔たり」が都合良く忘れさせてしまう。

戦費捻出のため「張り子の北朝鮮」に星条旗と日の丸を立てようとしていないだろうか。「張り子」を現実と錯覚することで大量虐殺に加担する罪を犯さないだろうか。

「父親たちの星条旗」は星条旗がシンボリックに使われている。デッチあげの「物語り」によって愛国心を捏造するために。「張り子の岩山」の上で星条旗を立てる茶番を演じた3人の兵士は虚構の栄光が国家をも動かしてしまうことを思い知らされる。誰よりも戦場という地獄を知っている者が、遠く隔たった米国で虐殺を栄光にすり替える「力」こそ愛国心であることを。それにしても何故にそれが可能だったのか?「隔たり」だ。時空の「隔たり」こそが虚構を可能にした。

「現場」を知らない者により「偽りの現場」が語られること。「現場」を知らない者が「偽りの現場」を事実誤認して都合の良い「物語り」がまかり通ること。帰還兵が戦場という地獄について語ることがこうして封殺されてしまう。

少し前、表向きには一人の死者も出さずに撤退した「イラク人道復興」の「人道」は誰に向けられた言葉だったのだろう?現在の米英によって破壊されたイラクの国旗がどういうものか不勉強で知らないが、日本や米国で掲げられ、振られた記憶はない。昨今、強調される「愛国心」だが、自国の兵士を殺人に駆り出しわざわざ危機を作り出すことと愛国心にどんな整合性があるのだろう?戦場にあるのは、栄光でなく地獄ということを知る機会は無数にある。遺品も証言も証人も戦跡も揃っている。しかし隔たりも同時に存在し、誰よりも為政者がそれを行使している。支配者は地獄が自分とは無関係という自信を持ってはしゃぐわけだ。

「フィラデルフィアの教会で星条旗を挿した軍用ブーツが135足、床一面に並べられた。名前、階級、年令、出身地が記されたカードとともに。セレステ・ザッパラさん(59)は息子をイラクで亡くした。『この国では何も起きていないかのように毎日が過ぎている。イラクでは米兵が一人、二人と倒れ続けている。それはただの数字ではない』(06.11.1朝日)

主を失ったブーツの沈黙は、栄光を拒絶する。ここには隔たりから解放された事実そのものがある。                             2006.11.3高木