グローバル反戦日誌2007

浜松を再び戦争の拠点にするな! 
     

  グローバル戦争とPAC3配備

 

はじめに

今回は、浜松基地の歴史とPAC3配備問題について、過去の侵略戦争で浜松の基地が果たした役割、AWACS配備をめぐる経過と反対運動の紹介、グローバル戦争とPAC3配備などのミサイル防衛の問題の順に話したいと思います。

最近では国土交通省のHPに日本の航空写真が掲載され、たとえば、立川や横田基地の写真や浜松基地の写真なども入っています。1970年代の基地の写真などが入っていることもあります。では本題に入ります。

● 侵略戦争と浜松基地

浜松に陸軍の歩兵部隊をおく基地ができたのは1907年のことです。ちょうど日露戦争が終わり軍備の拡張がすすんだときです。部隊の名を歩兵第67連隊といいます。それまでは豊橋の陸軍部隊へと徴兵され、そこから日清・日露戦争の時には朝鮮・中国へと派兵されています。

この歩兵部隊は第1次世界戦争を経ての軍備改変のなかで廃止され、浜松には陸軍航空基地がおかれることになりました。基地建設工事がすすめられ、1926年に立川で編成された爆撃部隊・陸軍飛行第7連隊が移駐しました。その後の基地拡張を含め、多くの朝鮮人が基地建設に動員されていきます。

この飛行第7連隊からは満州侵略戦争、中国全面侵略戦争、アジア太平洋戦争にともない次々に部隊が編成され、中国をはじめアジア各地を爆撃しました。浜松基地からの部隊は派兵先で強化され、飛行第一二戦隊、飛行第六〇戦隊、飛行第九八戦隊ほか数多くの爆撃戦隊となってアジア各地の爆撃をおこなっていったのです。

爆撃を示す写真を紹介すると、たとえば、熱河作戦での飛行第一二大隊による北京周辺の密雲や抬頭への爆撃、飛行一二戦隊や飛行六〇戦隊の重慶・蘭州など中国各地、シンガポールやビルマなどの写真があります。ここでは洛陽とマレーペナン島のものを示しますが、このような爆撃写真がたくさん残されているわけです。

このように浜松は陸軍の爆撃の拠点となり、陸軍飛行学校がおかれ、高射砲部隊もおかれました。そして日本楽器をはじめとして軍需生産がおこなわれ、航空機部品などの軍用品が中小工場でも生産されました。中島飛行機などの新工場も建設されました。さらに航空毒ガス戦の研究もおこなわれ、戦争末期には爆撃機による雷撃や特攻隊の編成もおこなわれました。

このように爆撃と軍需生産の拠点だった浜松は1944年末から米軍による激しい爆撃を受け3500人以上の市民が死を強いられました。米戦略爆撃調査団の史料をみると、米海軍機によって爆撃を受ける浜松基地の写真をはじめ爆撃に関する資料が残されています。浜松基地には当時作られた地下式の地下司令部の建造物が残っています。

浜松は派兵の拠点であり、侵略戦争での加害の役割を担ってきたわけです。この問題については簡単な紹介にとどめ、つぎには浜松基地をめぐる動きについて話したいと思います。

 

● 航空自衛隊浜松基地とAWACS配備

浜松基地は、敗戦後の一時期、米軍が接収し横田基地の分基地となりました。1952年には保安隊航空学校が設立され、1954年の航空自衛隊設立によって第1航空団がおかれました。当時はF86Fという戦闘機が飛行したのですが、墜落事故や不時着事故が数多く起きています。
 
 1962年には術科教育本部、1969年には教導高射隊もおかれ、教育関連基地としての機能が強められました。ブルーインパルスも浜松で編成されたのですが、松島基地に移りました。1982年にはこのブルーインパルスが基地祭での曲技飛行中に1機墜落する事故が起きました。1989年には南北両基地が統合され、航空教育司令部もおかれました。

 1990年代に入ると空中警戒管制機AWACSの浜松への配備計画が報道されました。市民団体が反対の要請をおこなうようになりますが、1994年の夏に防衛庁・施設庁から浜松市に対し、AWACSの配備が通告されました。AWACS1998年と99年にかけて2機ずつ計4機が配備されました。それにともない警戒航空隊が1999年に三沢から移駐しました。この年には基地の一角に航空自衛隊の広報館が60億円もかけて建設され、基地祭でのブルーインパルスの曲技飛行も復活しました。

 現在浜松基地にある主な軍用機や兵器をみると、空中警戒管制機のAWACS、訓練機のT4、高射教導隊のパトリオット(PAC2)などがあり、対地攻撃用のF2なども教育用に配備されています。AWACSのタッチアンドゴーの訓練もおこなわれ、朝鮮有事を想定しての飛行も繰り返されています。それはAWACSの情報から戦争が始まっていくことにもなるといえます。

 このAWACSの配備に対しては、1994年にNO!AWACSの会浜松を結成して、導入配備に反対する活動をおこなってきました。2回の全国集会の開催、デモ、全国署名、意見広告、ポスターの作成、基地や市長への要請、平和コンサートの開催、戦争史跡や史料の調査などをおこない、AWACS配備の問題点や戦争の拠点であった浜松の歴史を捉えなおす活動をおこなってきました。

 浜松基地をめぐるAWACS配備前後の動きとしては、広報館での子どもへの戦闘服の着用、空中給油機の配備(当初は浜松への配備の報道、2007年に小牧基地へと配備)AWACSのグアムやアラスカでの日米共同訓練、自衛隊内でのふれあいパーティー問題、軍楽隊による小学校での演奏会や広報館への遠足など地域浸透などの問題がありました。さらに2003年には市民グループを敵と想定しての治安訓練が基地内で実施され、天皇来浜時には自衛官による堵列がおこなわれました。

 このような軍拡の動きに抗して、最初のAWACS配備の際には、着陸地点近くの基地のフェンス前にたって、NO!AWACSの声をあげました。翌日の新聞記事(中日)の3面には「議論乗せ‘空の司令塔’配備」という見出しで抗議する姿が報道されています。またNHKでも抗議の姿が全国に流れました。全国集会の様子も記事で報道されました。第2次の配備の際には着陸地点の横側から抗議の声をあげました。このときには静岡放送が取材し、抗議する姿も報道しました。

ブルーインパルスの曲技再開に対してもデモをおこない、AWACSの日米共同訓練への参加に際しても抗議しました。これらはマスコミも取りあげました。2003年のアラスカでの共同訓練の派兵に対しては、早朝の壮行式に合わせて抗議行動を展開しました。基地に来た報道記者が抗議行動も映しました。

 このようなAWACS反対運動の中で、運動の柱として提示してきたのは、第1に兵器・基地そのものを問うということ、第2に過去現在を貫いている戦争責任を自覚するということ、第3に非暴力行動を軍事基地の前でおこない平和を表現するということ、第4に戦争史跡群を再読解し活用するという視点です。

 このような意味を含めての表現として、「NO!AWACS」「浜松を再び派兵の拠点にするな!」があります。そこには兵器そのものに反対し、戦争責任を自覚し、平和な街を求めたいという志向があります。配備だけでなく導入自体に反対し、AWACSによる加害への想像力を持つことが大切と考えたわけです。1994年当初からこのように表現してきましたが、運動をおこないながら、その内身を充実させてきたともいえます。

● グローバル戦争とミサイル防衛・PAC3

AWACS配備は日米の共同作戦体制の強化の一環であり、それが浜松を派兵と戦争の拠点とするものとし、アジアへの加害への想像力が大切と考えて反対の声をあげてきたのですが、この間のアフガン戦争・イラク戦争の動きは、グローバル戦争の進行を示すものです。

2003年末からは自衛隊のイラク派兵がはじまり、2004年はじめからは浜松基地からイラクへと派兵されるようになりました。2006年末までに21派に及ぶ100人を超える隊員がイラクへと派兵されました。陸自のイラク撤退後はイラク北部への米軍等の兵站輸送が活動の中心となっています。イラク戦争が始まると、AWACSは朝鮮監視飛行をおこなうようになりました。イラク戦争開始時は自衛隊の派兵決定時のデモなどは地域での活動をマスコミも取りあげましたが、世界史的にはグローバル反戦運動の始まりとして捉えるべきと思います。

AWACSが配備されるころ、アメリカは戦域ミサイル防衛構想(TMD)を掲げ、その想定図のなかにAWACSの姿も書き込まれていました。そのためTMDについての学習会なども持ってきたのですが、アメリカはグローバル戦争を進めるなかでこの軍拡をミサイル防衛(MD)という形でまとめて推進してきました。

浜松基地には高射教導隊があり、かつてはナイキミサイルがあり、現在ではPAC2があります。ナイキは広報館の屋外に展示されていますが、よくみると三菱重工が生産したことが記されています。PAC2も館の内部に展示されています。MDではこのPAC2にかわってPAC3が配備されます。イージス艦からのSM3と地上からのPAC3によって飛んでくるミサイルを直撃するのがMDです。このような想定で、あらたに直撃型のPAC3を配備するというのです。

このミサイル防衛(MD)によるPAC3配備については、政治的には人倫の破壊という意味を含めての憲法破壊、経済的には軍産複合体の利益、社会的には戦争国家化・監視国家化なのだと思います。

ミサイル防衛によって宇宙の軍事化がいっそうすすめられ、それによる兵器の配備がすすみます。宇宙からの攻撃を想定しての軍拡となるわけです。最近の米軍の再配置は、より迅速に、より柔軟に、より能力を強め、より統合的な運用へと、同盟を強化し国境を超えての再配置がすすめています。日本列島が主要な作戦基地へと組み込まれています。これはこの間のグローバル戦争とミサイル防衛に対応したものです。横田には「日米共同統合作戦調整センター」がつくられようとしていますが、MDはこの軍事統合の梃子になります。

最近、米13空軍司令部がグアムからハワイに移転し、その13空軍司令部の第1分遣隊が横田に配属されました。これは日米の軍用機を運用するとともにミサイル防衛にかかわるものとみられます。この動きは第5空軍と13空軍を統合して広域空軍司令部を編成し、戦闘司令部をハワイと韓国に置くという再編につながるものです。

全米戦略軍が戦略軍と宇宙軍を統合する形で2002年に編成されています。この司令部は「ならず者国家」を攻撃し、戦略核を使用し、ミサイル防衛をすすめるものといいます。この攻撃のために「宇宙地球規模攻撃司令部」が2005年に編成されています。スペースを支配しそこからグローバルなストライクをおこなっていくというコマンドの設立というわけです。このような形で軍編成がなされて戦争がすすめられているのであり、地球の支配とそのうえでの先制攻撃の態勢がつくられているわけです。

日米の軍事的共同が軍需生産でもすすめられ、GSOMIA(ジーソミア・軍事秘密一般保全協定)の締結がおこなわれようとしています。GSOMIAは現在の日米の軍拡を象徴する協定です。また三菱はSM3の先端部品であるノーズコーンの生産をおこない、PAC3のライセンス生産もおこなう予定です。

時代は世界戦争からグローバル戦争に変わった。このグローバル戦争の特徴は、@宇宙の支配と軍事化であり、A「予防先制攻撃」とその盾の「ミサイル防衛」、B情報戦・諜報戦であると、捉えることができるでしょう。ミサイル防衛は「防衛」ではなく威嚇と攻撃のためのものであり、更に軍拡を呼ぶものになるわけです。

空自へのPAC3配備計画についてみておけば、最初に2006年度末までに第一高射群の入間(埼玉県)2007年内に霞ヶ浦(茨城県)、習志野(千葉県)、武山(横須賀市)2008年度に浜松(高射教導隊・第二術科学校)2009年度に第4高射群の各務原(岐阜県)、白山(三重県)、饗庭野(滋賀県)2010年度に第二高射群の春日(福岡県)、芦屋(福岡県)、築城(福岡県)、高良台(福岡県)、さらに2011年度以降(予定)に第三高射群(千歳基地)、第六高射群(三沢基地)、第五高射群(那覇基地)などへの配備を検討中といいます。

浜松では2005年秋の配備計画の報道があり、署名運動を始めました。2006年になってから3次に渡り約2000人分を市役所に提出しました。市の対応は、配備は教育用であり、PAC2の改良に過ぎないというものです。それは基地側の説明を鵜呑みにするものであり、この間のグローバル戦争とMD計画の問題点を理解したものではありません。基地に対しても門前で要請をしました。10月の基地祭での要請行動に対しては、自衛隊の警備隊が門外に出てきて要請団を囲もうとする過剰な対応が起きましたが、要請行動への介入に抗議し撤収させました。

おわりに

 横田基地は米軍再配置の空の部門での焦点です。かつては1940年に陸軍の多摩飛行場として建設されましたが、戦後は米軍が占領して基地を拡張しました。朝鮮戦争では入間(当時はジョンソン基地)とともに爆撃の拠点でした。爆撃の8割が横田入間からとする記事もあります。ここからの爆撃によって多くの朝鮮民衆が死を強いられたことを忘れてはならないと思います。ベトナム戦争のときには補給拠点になりました。1971年に戦闘部隊が嘉手納基地に移駐するなかで、横田への基地機能の集約がおこなわれました。司令部機能が強化され、在日米軍司令部と第5空軍司令部、第347空輸司令部がおかれるようになりました。

グローバル戦争の進行と米軍再配置のなかで、日米の司令部機能の統合的再編がいま、すすめられているわけです。横田の統合諜報センターやグローバル指揮統制システムの存在はこのグローバル戦争による軍事的統合を示すものといっていいでしょう。

 グローバル戦争という戦時のなかでこのような再配置再編がすすんでいるわけですが、もうひとつの道を歩むための3つの視点について考えています。

それは第1に人間の尊厳、人権の視点です。命こそ宝、「殺すな!」と言い換えてもいいと思います。第2は歴史認識、歴史的責任についてです。歴史認識というときには、認識して変革していくという主体的なかかわりも含めて考えています。戦争責任の問題ということもできます。第3はアジアの非軍事の平和の視点です。アジアでの平和的な共同体をどう作っていくのかという視点が大切だとおもいます。そしてそのような視点によるグローバルな運動が軍事基地の各現場から形成されていくことが求められていると思います。

軍事基地の前に平和を訴える人々が10人集まる。これは簡単なようで難しいことです。さらに兵士という存在そのものがなくなっていくような社会の実現は困難かもしれません。しかし、21世紀はグローバル反戦運動の時代でもあると思います。戦争をやめろ、戦争に行くな、兵器を作るな、と考える人々が一人二人と手をつなぎ、グローバル戦争に向かう軍事力を、地域からの反戦平和の鎖で縛ることができればと思います。    (竹内)


  以上は1月に横田で話した内容を事後に再構成したものです。