イラク反戦日誌3


イラク反戦日誌Part3 自衛隊イラク派兵・イラク戦争1年

日本の第一次イラク派兵は2003年12月末から04年3月にかけておこなわれた。この3ヶ月の動きは早かった。その経過を振り返り、何があったのかをみておきたい。   

● イラク派兵計画とその実施

派兵計画と小泉会見

03年の12月9日、「イラク派遣基本計画」が提示された。その際小泉は記者会見をおこなった。

 「復興人道支援のため」「武力行使はしない」「戦闘行為に参加しない」「戦争に行くのではない」「イラク支援のため」「日米同盟を強化して国際社会と協力」「憲法の理念に合致」「世界の安全のため」「自衛隊員に敬意と感謝を」「日本国民の精神が試される」「一番恩恵を受けるのは日本国民」「正当防衛は武力行使ではない」「国際社会の中で米軍手を引けという声はひとつも聞いていない」「米英支持は今も正しい」「テロに屈してはならない」「武器弾薬輸送はおこなわない」等々、ウソと詭弁の数々だった。
 このような首相の発言は「日本社会を毒して」いた。当時、世論の8割がイラク派兵に反対していた。
 12月18日に政府は「イラク派遣実施要項」を承認し、陸海空の自衛隊にたいし派兵の準備命令が出された。その後の経過を見ると、この日に新聞報道された「派遣日程」にそって派兵がおこなわれていったことがわかる。

空自の派兵

最初に派兵されたのは空自だった。

 12月24日に「イラク復興支援派遣輸送航空隊」の編成式が小牧基地でもたれ、26・27日には空自の先遣隊計約40人が成田から出発した。1月22日には空自本隊110人が政府専用機で小牧から、26日にはC130・3機が約50人とともに小牧から派兵された。空自派兵は約200人だった。C130は1月31日にクウェートに着き、クウェートのアリ・アルサレム基地を拠点とした。2月3日にはテスト飛行、7日からは飛行訓練を始め、3月3日にイラクのタリル空軍基地に『救援物資』を輸送した。他方3月中旬には米軍の物資の輸送を始めたが、その際積荷のチェックはしていない。またその中身について秘匿されている。
空自は小牧を中心に那覇・美保・浜松・春日・小松・千歳・三沢・入間他全国の基地から派兵された。
 空自の組織は12月22日付け「中日」によれば、輸送航空隊司令部38人、同飛行隊34人、同整備隊40人、同業務隊70人、同衛生隊6人、であり、別に警務隊も置かれる。
 アリ・アルサレム基地では米軍からACSAの拡大解釈によって車両・施設を調達する。    
 また空輸計画部11人がカタールの米中央軍前線司令部に派兵され、そこで輸送計画を立てる。フィリッピン、タイ、モルディブでのC130への補給作業のために運行支援隊もつくられた。

陸自の派兵

 陸自の先遣隊派兵命令は2004年1月9日に出された。この日、防衛庁は取材の自粛を報道各社に求めた。1月16日に先遣隊編成完結式が防衛庁でもたれ、この日に約30人が成田から派兵された。先遣隊は17日にはクウェートに着き、新千歳からロシア空軍のアントノフ輸送機で運んだ軽装甲機動車を受け取り、米陸軍のキャンプヴァージニアにはいった。そこで走行訓練や短機関銃などの射撃訓練をおこない、20日にはサマワに入った。陸自は日の丸を4箇所も縫いこんだ迷彩服姿であらわれた。そして地元の連合国暫定当局との間で活動の調整に入った。
 先遣隊の一部はサマワに3日のみの滞在で23日に帰国し、『治安は安定』と報告した。その報告書の主旨は事前に作成されていたものであることがのちに判明した。
 陸自の派兵の中心は旭川を拠点とする第2師団とされた。旭川では「黄色いハンカチキャンペーン」がおこなわれていった。1月26日政府は陸自本隊の派兵命令を出した。1月31日には派兵承認案が衆院を通過(2月9日には参院通過)。2月1日には旭川で『イラク復興支援群』約500人に「隊旗授与式」がおこなわれ、2日には旭川で34人の壮行会、2月3日には本隊の施設部隊80人が千歳から政府専用機で出発した。設営部隊と第1陣の物資はロシア機が運んだ。日本の民間航空会社が労働者の抵抗でイラクへの兵員・兵器の輸送を拒んでいるからである。
 施設隊は2月8日にサマワに到着。オランダ軍基地で先遣隊長が「イラク人のため」「日本の国際貢献」「イラク人との連携」を説いた。
 19日には病院を訪問し「人道支援」をアピールしたが、実際には「現段階では診療行為はしない」というものだった。

2月21日には陸自の本隊主力の140人が千歳から派兵された。この日、成田では県警警備隊がサブマシンガンを持っての警備をはじめた。2月25日には派兵された陸自がクウェートの米陸軍キャンプ・ユダーリで7千7百発の実弾訓練、2月27日には陸自主力がサマワに入り、28日陸自は宿営地に「日の丸」を初めて掲揚した。
 隊長が「日本がイラクを照らす日がやってきた」と訓示した。
 3月13日には陸自の本隊第2陣の約190人が千歳から政府専用機2機で派兵された。それを850人の家族が見送った。派兵される女性自衛官11人の1人が「オアシスになりたい」と発言。16日には海自が運んだ物資をクウェートで出迎えた。さらに3月21日には本隊第3陣の約120人が派兵された。
 これによって陸自の第2師団の旭川・名寄・遠軽などを中心とする約550人の第一次派兵がおわった。この派兵の中には帯広や登別の部隊、九州の春日の部隊や富士学校の幹部等が含まれている。今後は札幌の第11師団を中心に「第二次復興支援群」が編成され、5月中旬以降、派兵がすすむことになる。
 すでに空自においては3月17日に浜松・新田原・小松ほかの基地からの約100人の交代要員が百里基地を経由して成田から派兵されている。4月にはさらに100人の空自交代要員の派兵が行われる。

海自の派兵
 海自の派兵では呉の強襲揚陸艦「おおすみ」(150人)と横須賀の駆逐艦「むらさめ」(170人)が使われた。2月14日呉から、16日には横須賀から軍艦マーチともに室蘭に向けて出港し、室蘭で陸自の物資を積載した。20日に室蘭を出港し,3月15日クウェートに着いた。この到着をクウェートで出迎えるために陸自本隊190人の派兵が3月13日におこなわれていた。
 以上が、03年12月末から04年3月にかけておこなわれた、空自200、陸自550、海自320、他を入れて約1100人に及ぶ第一次イラク派兵の経過である。

● 戦時国家と反戦

対テロ警備・有事法・統合幕僚長
 この小泉内閣によるイラク派兵と参戦はこの国を戦時へと組み替えた。
 03年12月10日から東京のアメリカ大使館の前には「自爆テロ」対策用の警備車両が2台おかれた。12月9日には警察庁が全国650箇所の警戒の徹底を指示した。各地に監視カメラが取り付けられるようになった。空港、原発、自衛隊基地などでの警戒も強化された。
 派兵の動きと併行して、政府は2月24日有事関連7法案の要綱を決定した。一方朝鮮への対応については6カ国協議の前の2月9日に北への経済制裁関連法を制定した。さらに船舶の入港を禁止する法案の提出がねらわれている。
 自衛隊内では陸海空の統合運用に向けて、指揮権を持つ統合幕僚長をおき、防衛情報部(仮称)を新設して補佐し、陸海空の統合部隊としての運用に向けての検討がすすんでいる。

右翼志向
 首相は1月1日に靖国神社を参拝した。新たな戦死者を準備する活動であった。また報道管制を強める方向に動いた。2月はじめ高校生がイラクからの軍の撤退を求める署名を提出した際には、首相は請願書も読まずに、請願権を侵害し教育への政治介入となる発言をおこなった。請願は権利でありそれによって不利益な取り扱いをしてはならないのだが、首相はこの権利認識をもっていなかった。
 民間右翼の動きも目立つ。検挙された刀剣愛好団体による「討伐隊」はそのひとつにすぎない。かれらは朝鮮人団体や教職員組合を銃撃したが、同様の志向を持つ団体が基地前に現れてきたことも最近の特徴である。
 小牧や呉では「日の丸」を掲げての自衛隊激励支持の行動がおこなわれた。1月17日の小牧基地前での「人間の鎖」に対して、「経済制裁」を求めるステッカーを貼ったメガホンで「戦争反対は平和ではない」と語り、人間の鎖に対抗する青年が現れた。派兵の当日には「日の丸デモ」が登場した。
 一方1月17日に反戦ビラを官舎にまいた立川の市民が2月27日になって「住居侵入」で検挙され起訴された。これは思想信条・表現の自由への侵害行為である。うそをついて戦争を継続し、その戦争へと参戦するものたちは野放しのままである。

イラク戦争のウソ

 イラク戦争については、ブッシュ政権の内幕がオニール前財務長官によって明らかにされ(『忠誠の代償』)、01年の政権誕生時からイラク戦争を準備していたことが暴露された。1月8日にはカーネギー平和研究所が、イラクは切迫した脅威ではなかったとする報告書を出した。ジェフリーレコードという空軍国防大教授は論文でイラク戦争や対テロ戦争を公然と批判した。1月23日にはイラク大量破壊兵器調査団団長のデビッドケイ(CIA特別顧問)が辞任し、28日には上院軍事委員会の公聴会で「90年代には大規模な生産計画はなかった」と発言した。ケイは公聴会で「われわれはみんな間違っていた」とまで語ったという。
 米英情報機関による国連のイラク査察団への盗聴疑惑も大きな問題となっている。また戦争推進グループが情報機関の報告にあった「潜在的脅威」を「緊急の脅威」と書き換えて戦争をすすめたことも明らかになっている。
 1月にはニカラグアが2月中の撤退を語り(115人)、3月にはスペインで撤退を公約した政権が誕生した。中南米諸国はスペイン部隊の下で行動してきたから、スペインの撤退はこれらの国々に波及する。3月18日にはスペイン部隊を傘下においてきたポーランドの大統領が米英の大量破壊兵器情報に「だまされた」と発言した。
 ブッシュ政権はイラク占領を継続し、さらに軍拡をすすめている。05年会計予算では宇宙配備用の迎撃ミサイル経費や米軍経費の500億ドル(5兆3千億円)の追加予算の計上を計画している。
 イラク戦争による深刻な環境破壊の実態が明らかになっている。国連環境計画の報告でも、劣化ウラン弾、放射性物質、硫黄酸化物などの事例が出されている。このような環境汚染に対して日本政府は何もしていない。難病の子供たちを支援しているのはNGOであり、その実態を報道している記者の多くはフリーである。

反戦平和

 03年12月5日にバグダッド近郊でインド国籍の米兵21歳のウダイシンが攻撃されて死んだ。かれは軍隊に入れば市民権取得に有利として入隊した。かれにとって米軍は市民権獲得と大学へのパスポートであった。元海兵隊員のアレンネルソンは語る。意思を消し殺人マシンになった、撃った自分を正当化し、人を殺すことで自分を殺していたと。

 国家は人間を利益誘導によって殺人の道具にする。日本の場合、首相が「戦争に行くのではない」とうそをつき、「復興人道支援」という美辞麗句をかかげて派兵をおこなった。派兵された日本の隊長は「国際貢献」を語り、「日本がイラクを照らす」と傲慢な発言をした。これらの動きは、構造的な差別のもとでその差別に無自覚なまま、人を殺すことを正当化し、それによって自らをも殺し、そしてさらに世界の関係性に死を刻んでいくことにつながる。
 「行ってしまったから賛成」という既成事実への同調志向や、服従と競争による隷従化と事なかれ主義を克服し、思考を停止させ、情報の操作をするスピンのありようを問うなかでのインターナショナルな反戦平和への取り組みが求められている。
                             (竹内)