「許してください」
「痛みの歴史」という本だったと思うが、「黒人奴隷は痛みを感じない」と思われていたということが書いてあった。植民地時代に、抑圧を正当化し、自らの道徳心やプライドも傷つけない、都合の良い論理をデッチあげたわけだ。曲がりなりにも人権が世界共通の認識とされる21世紀には、実態はともかく、その建て前からすると仰天する発想だが、実は21世紀が、18世紀や19世紀より人間を大切にしているかというと、甚だ疑わしいものがある。
奇才ポール・バーホーベン監督のSF映画「スターシップ・トウルーパー」は昆虫のような敵と戦うわけだが、完全に相手とコミュニケーションが不能、だから脅威以外の何物でもないという設定だ。ここでは殲滅以外に選択肢が無い。考えてみれば、米国の反テロ報復攻撃とはまさにこのスタイルではないか。しかもこのモラル・ハザードを、勝手に「人道」の名の下に強行する。米国の平和のために不可欠である戦争の継続のため、アフガニスタンの次の攻撃目標さがしが始まっている。
東京都
物心ついた時から暴力にとりかこまれた世界で育ち、競争原理を叩き込まれる子供たち。夢中になってゲームで遊んだりマンガを読んだりして、血が流れ、骨が砕け、死体がころがっても、フィクションだから絶対に自分は傷つかない。常に、抑圧者側(勝者)の視点に立つことを強要される。
負ける事を許さない社会は、正当性や論理を排除しても圧倒的に相手が弱い事、確実に勝つ事を要求する。ここではルサンチマンが消滅する。だたひたすら勝つ事だけだ。負ける側を知る必要はまったくない。負ける事は存在を否定されるに等しい。でも、これでストレスがたまらなければおかしいではないか。自分で自分がわからないうえに意味不明なまま、キレたりムカついたりする。さあ、弱い奴はいないか?ブチ殺してもいい奴はどこだ?
日本において野宿者を人間扱いせず差別してきたのは、誰が何といおうと行政だ。ここにおいて差別が発生し社会に連鎖してゆく。さまざまな人たちによる、さまざまな差別を行政が保証してきた。人権が保証されないかわりに。
イメージして欲しい。あなたが一切の保証のない住所不定、無職になった状態を。食べるもの、着るものが買えない。金がないからだ。寒いけれど家がない。通行人が冷たい視線を向ける。敵意さえ感じる。さてどこに行ったらいいのか?寒さをしのげて、誰からも文句を言われない場所…。デパートに行くには服が汚れすぎている。髪も伸びてしまった。誰でも行く権利がある場所、公園、図書館ぐらいしか思い当らない。とにかく腹が減って、寒くてしかたがない。図書館なら、静かにしていれば少なくとも文句は言われないはず。50すぎでこの不況では仕事は無い。住所がなければ絶望的だ。「林生存権訴訟」に象徴されるように、セイフティ・ネットでがんじがらめの政治家どもでなく、最もそれを必要としている野宿者たちには差別と死の強要しか残されていない。そんな鈴木さんが運悪く図書館で机の上に座りさわいでいる悪ガキ共と遭遇してしまった。そして翌日が人生最後の日に…。
圧倒的に相手が弱い事、最強の兵器を持つ事、あらゆる情報を独占すること、自分に都合の良い論理をデッチあげる事、確実に勝つ事、相手は自分とは違う存在であること(差別)、米国の有り様をこう語れるだろう。そこでは人権や民主主義など存在しようがない。そんな米国に日本は国を挙げて同調している。そして子供は大人の生き方を正確に体現するだけだ。非対称がここにある。 2002.1.28