5月28日(日)14時
   共謀罪って何?講演会

   講師笹沼弘志さん(静岡大・法学者)
                                 会場 ザザシティパレットD室

  
 

「共謀罪って何」 2006年5月28日  

●はじめに

 こんにちは笹沼です。最近では「体感不安」という言葉の氾濫にみられるように社会不安が増加し、監視社会化がすすんでいます。それはたとえば、生活安全条例や住民を動員しての監視やパトロール活動、監視カメラの増加、学校への刺股配備や防犯訓練の実施といった具合にすすんでいます。そのような監視社会化を市民が受け入れていくところにひとつの特徴があるといえるでしょう。このなかで反戦落書きによる執行猶予付きの有罪判決、立川での反戦ビラ弾圧、政党機関紙を配布したことによる国家公務員法違反事件などが起きています。

有罪という意味では、ヒトラー政権を批判したことで有罪とされ処刑された時代とかわりはないのです。このような状況の中で、自民党の新憲法草案が出されています。その憲法案はその名の通り単なる改正ではなく日本国憲法の原理を転覆するものであり、自由権を責務や義務で制限しています。それは近代の人権理念を否定するものとなっています。

 

●国際的組織犯罪条約と共謀罪

さて本題の共謀罪ですが、この共謀罪が出てきた背後には、国際的組織犯罪条約の批准があります。この条約自体は国際的な組織犯罪としての人身売買や薬物取引、臓器売買を取り締まるというものです。しかし日本でこの条約で取締りを目指した人身売買や薬物取引、臓器売買の内容が十分に議論されることなく、共謀罪が出されているのです。

共謀罪は「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」として出されています。そこでは、「団体の活動として」実行するために「共謀したもの」は刑に処し、自首したものには、刑を軽減したり免除したりするとされています。団体の活動については定義がありません。

このような「団体の活動」といった文言を入れること自体適切ではありません。共謀罪は国際的組織犯罪条約の意図や目的から外れたものになっているのです。またスパイ活動を認める内容にもなっています。

共謀罪は、憲法21条が保障する結社の自由や表現の自由を広範に制限し、市民活動を危機に陥れる危険性を有しています。

 

●共謀罪受容の背景

 刑法第60条には共同正犯の規定があります。2人以上が共同して罪を犯すことが共同正犯なのですが、実行行為がなければ犯罪になりません。実行を指示したものは教唆としてのみ処罰されます。

しかし日本では「共謀共同正犯」の形で戦前から処罰がおこなわれ、戦後も引き継がれてきました。犯罪の中心にいる人物は手を下していなくても正犯であり、処罰するということがおこなわれてきたのです。この「共謀共同正犯」には刑法上の根拠はありません。しかし、判例によって共謀共同正犯が確立されてきたのです。

罪刑法定主義の原則からみれば、根拠なき処罰はおこなってはならないのです。実行行為を前提とするとはいえ、差別的な運用による「共謀共同正犯」に対してこれまできちんと問題にしてこなかったことを直視すべきでしょう。共謀罪を支える志向がここにあるのです。

国際条約があるから共謀罪を制定するという言い方自体うそです。これまで日本は人権に関する国際条約に積極的ではなかったのです。

英米では共謀罪が元々ありました。しかし、だからといって日本でも共謀罪を規定して良いのだと言うことにはなりません。英米と日本の刑事司法全体を比較して考える必要があります。代用監獄に象徴されるように日本での取り調べは被疑者がある意味で無権利状態におかれていますが、米では取り調べに弁護士を同席させる権利が認められています。一度無罪になれば原則として検察は控訴できません。刑事被告人の人権を国際的水準にすることなく、共謀罪を制定することだけが狙われているのです。まず、罪刑法定主義に反する「共謀共同正犯」を止めるべきでしょう。そして、国際的な人権条約をすべて批准し、法の支配を確立させたうえでこの議論をすべきしょう。

●おわりに

自由な社会であるから不安があります。この不安を治安強化、監視・恐怖・排除の悪循環の方向にすすめていくのか、あるいは出会いと信頼の契機としていくのかが問われているといえるでしょう。

不安を、権力の暴走を正当化するものとしてはならないと思います。犯罪適用のでたらめな拡大を認めていく市民感情も問題です。備えれば備えるほど不安になり、更なる監視を生んでいく、そして戦争となっていく、このような方向であってはなりません。

グローバリゼーションのなかで、個人の自立を説くリベラリズムによる対抗戦略は自立と自己責任の強調により、さらに不安を増加させていくものになります。そのような対抗ではなく、国家に対して「保護」を含めて、新たな社会権の要求をきちんとおこなっていくことが大切だと考えます。

 野宿者の運動では生活する現場を住所として認めさせてきました。当たり前のことを認めさせていく、これが大切です。不安の中で権力になびいていく傾向が強いのですが、権力に搾取されることなく、出会いや信頼関係を作っていく、そのようなエネルギーが必要なのだと思います。                     

(文責人権平和浜松)