「昭和天皇自然館」批判    
遠方からの参加者の意見から

 

「昭和天皇自然館」ですが、率直に言って気味が悪かったです 、宗教がかっていて。ヒロヒトを幼少の頃から特別な人だった というような神格化された映像を強制的に見せられたあと、幕 が上がり厳重に保管された標本を皆が囲むように見るという。これはそこにいる者が無意識のうちに、ヒロヒトを敬う視線を内面化してしまう構造になっていると思います。この展示は天皇の「聖」/「神」的な側面が極端に出されていますが、自民党の憲法調査会の報告にあるように天皇(制)の祭祀権を公的なものとして明確化するような動きと無縁ではないと思います。そのような動きの一環としての自然館を実際に見ること
できて、立川の記念館を考えていくうえで貴重な機会(笑)となりました。(野)

 

「やばい。工事は進みまくり。新南北道路添いの、巨大な鉄の構築物の一角に四角い幕が張られ、ついに天皇記念館部分が姿を形づくりだした」と、テント村ビラ弾圧の当該で二ヶ月ぶりに現地監視をおこなった「昭和天皇記念館建設阻止団」の仲間が報告している。残念ながら建設工事は着々と進行し、公園事務所との交渉なども膠着状態になってしまっている。
 そんななか、711日、車で東京から浜松まで出かけていった。現在開催中の浜名湖花博では、秋篠宮が名誉総裁をつとめるばかりでなく、「昭和天皇自然館」なるパビリオンがある。さらに、自衛隊の軍楽隊による行進がひんぱんに会場内で行われ、ブルーインパルスの展示飛行もおこなわれた。現地で活動している「人権アクション浜松」は、博覧会運営に対する要望と質問状を主催団体である国際園芸博協会あてに出しているが、これにたいする回答を求める交渉に合流し、あわせて「昭和天皇自然館」なるものがどういうものであるかを確認しに行ったのだ。地元の方の努力で一時間にわたる交渉の場を獲得し、「阻止団」としても独自に「『昭和天皇自然館』の早期閉館を!」と題する要請書を提出した。
 花博の「昭和天皇自然館」は、予想以上にグロテスクなもの。建物が七角形なのだが、それは「七宮家」を象徴しているらしい。入り口を入ると、後ろの扉が閉まり、正面の壁で昭和天皇が「みどりを愛した」云々といったビデオが始まる。それを見終わると荘厳な音楽とともにその壁が開いて、光を浴びて鎮座している昭和天皇の「植物標本」を拝観、展示室へと進むといった仕組み。そこにもトンデモな記述が続く。この「自然館」が、立川に作られようとしている「記念館」のひとつのモデルを提供するだろうことは確かだ。こんなものを許してはいけない!                       (北)

 

花博は想像以上のくだらなさにびっくり。昭和天皇自然館も立川に建設中の天皇記念館を考える上で、大変参考になりました。博覧会はよく開発と公共事業の無駄といいますが、ほんとにそのとおり。あのムダムダな感じと、『2900円も払ったんだから、楽しまなきゃ!』という感じの顔つきの客に、なんと天皇制の似合うこと。        (森)

 

浜松花博は、自分が持っていた「花博」のイメージとは大きく異なるものだった。僕の花博イメージは、1990年の大阪花博である。それは、各国のパビリオンが立ち並び、客が長い長い行列を作っている光景だ。ところが浜松花博は、わりとデカイ建物がいくつかある他には小さい庭やなぜか墓石が並んでいるだけで、やる気のなさが漂っていた。
 その中にあって「昭和天皇自然館」は特別である。建物こそ小さいものの、客が主体性を持って見学する事を許さず、ただ一定の情報(「緑を愛するエコロジスト昭和天皇」)を静粛に受け入れることを強いる構造になっている。これは友人曰く、最近のテーマパークの構造なのだそうだ。
 「自然館」は「昭和天皇記念館」の前哨戦と考えて間違いない。この数倍の規模のものが立川に建つと思うと全くウンザリする。しぶとく、根強く、反対の声を上げ続けよう。                                                      (岡)

昭和天皇自然館は、資料館としても、博物館としても、記念館としても、その類の施設としてはとても粗末なものであった。目を見張るような展示物は皆無で、内容はきわめて乏しく、レベルを問えば最低ラインをずっと頭上に仰ぐようなどん底に位置するような施設だ。

 そんな粗末なものであるのに、そこを訪れた人の動きを統制する仕掛けだけは工夫が効いている。

まず入り口で人々の足を止める。その仕掛けは簡単だ。思わず足を止めてしまうような、ワクワクドキドキの展示物が入り口に置いてあるわけではない。来館者は、小さな建物の入り口前にある踊り場に、ある一定数が集まるまで囲い込まれる。そして人が集まると入り口を開けて人を動かす。それだけなのだ。集められた人々はその待っているあいだ、もったいぶったアナウンスを聞きながら、障子か襖を連想させるその入り口を何となくじっと見つめているしかない。二枚のその日本家屋風の戸は左右にスルスルと滑るように開き、人々が建物の中に入ってしまうや後の戸はまたスルスルと締まって、暗い部屋の前方上空から白いスクリーンが降りてくる。閉じこめられた人々は椅子もない狭い空間で座ることも許されず、上を仰ぎ見るような姿勢を強要され、ヒロヒトの生物学者ぶりを見せられるのだ。

つまんないから次に行っちゃおう、などという個人的なビヘイビアイは許されない。その上映が終わるまでは動けない仕組みになっているのだ。これは私たちが馴染んでいる資料館や博物館とはほど遠いものであり、明らかに性質の違うものであった。

 エセ生物学者でしかなかったようなヒロヒトの生涯を見せられた後は、つまらない展示品と嘘っぱち(少なくとも戦争の最高責任者だった事実には一言も触れない)パネルを見せられるだけの自然館。しかし、ここに天皇館の真髄があるのだろう。本当に「ほ〜!」と唸らせるような天皇ゆかりのものを出す必要などないのだ。天皇という名をかぶせた館を歩かせることで、一種の天皇体験をさせること。たとえば仰ぎ見させること、厳かな雰囲気の中で敬語の羅列を聞かせ読ませること、それだけが重要なのだ。

そこに入った者は、皇居前広場で小旗を振るのと同じような疑似体験をさせられる。そして、天皇という存在が少なくとも日本の学術・文化の領域に、そして平和に大きく貢献している存在であり、それが象徴としてあることをありがたく思わせる工夫には余念がない。

 自然館とは、そんな思惑が簡単に読めてしまうシロモノであった。東京の立川につくられようとしている「昭和天皇記念館」も、おそらくこのような天皇体験のための本格的な館になることは間違いあるまい。天皇体験を目的とするのであれば、このような館はこれからも増え続ける可能性がある。こんなものに税金を使わせるなんてことは許し難い。みんなで反対していこう!  (桜)