2005年5月3日浜松地域情報センターで憲法集会   
              講師笹沼弘志(静岡大学)さん

5・3浜松憲法第9条の会講演会(笹沼弘志さんの講演から)

 

2005年5月3日、地域情報センターで、浜松・憲法九条の会の主催による憲法集会がありました。180人ほどが参加しました。そこで、笹沼弘志さん(静岡大)が講演しました。

 笹沼さんは次のようなことを話しました。

●人権規定の意義

憲法で大切なものは人権の規定です。憲法とは、わたしの自由(人権)を皆で守る(国家)という約束です。人権保障が目的で国家は手段です。主権者国民が政府に対して命令したものが憲法であるのですから、そこには国家の義務が記されているのです。国民が一方的に権利を持ち、国家が義務を有する片務的関係が近代立憲主義の基本なのです。

 改憲派は「押し付けられた憲法」と批判していますが、もともと憲法とは主権者人民による国家への押し付けなのです。かれらはこれがいやなのです。

法は現実とは違っているものであり、そこにこそ法の意義があります。その理念の実現に向けての活動が大切なのです。

 また自民党などの改憲案では、責務や愛国心を強調し、『共生憲法』などといっていますが、その本質は、かつての「君臣一如」や「君民共治」の考え方です。

支配と服従の関係があるのに、そこからの暴力に対しイヤといえず、逆にその暴力を愛するようになっていく、そのような関係を『共生』として賛美しているのです。

 狙われている改憲は、自由の名によって自由・自己決定を放棄するようなものです。

 日本国憲法に、人権規定を盛り込むためには祭政一致の天皇制・国家神道・軍隊の3点セットの支配を解体する必要がありました。これらの支配制度は、国のために意味もなく服従する人間を作り、自分たちの自由を投げ出し、他国民の生命を奪う社会を作り出してきました。支配者を憧れの対象にしてきたこれまでの状況を変える規定を置かなければ、人権条項を記せなかったわけです。

第1章の天皇制については、それをなくすだけの状況になっていないのです。

●第九条の意義

 憲法第九条についてみてみれば、憲法第9条は武力悲観論に拠っているということができます。武力を持つと人々を傷つける、自らの自由を喜んで投げ出してしまう、だから武力を放棄しようというものです。一方、「連合国の人民は」と始めている国連憲章は、ファシスト、ナチス、天皇制軍国主義から人権や平和を武力によって守ったという力強い宣言です。日本国憲法とは全く対照的です。

 現在、憲法九条の意義を一層明らかにしているのがブッシュ政権であるともいえます。9・11以後、アメリカは監視社会化が一層進んでいます。以前から環境の質条例と呼ばれる反ホームレス法などにより、福祉の対象となるべき人々が排除され、刑務所に収容されてきましたが、いまや一般市民が自ら相互に監視し合い自由の制限を喜んで受け入れ、アフガンやイラクへの攻撃をも賛美しました。米国は武力によってイラクの自由を実現するというのです。このことは日本人だけでなくすべての人々が武力に依存することによる危険性を教示しているといえるでしょう。

 それは第九条の普遍的な意義を示すことになっています。武力は映画ロードオブザリングの指輪のようなものなのです。手を伸ばすだけで善人を化け物に変えてしまう力を持っているのです。武器は持つ人を道具に代え、奴隷化してしまうといっていいでしょう。第9条は、武力を捨てることで自由になれるという考え方です。

●たたかいのネットワーク化を

 憲法第13条には個人の尊重が記されています。他人が勝手に決めるのではなく、あるいは国益や会社の利益のためではなく、暴力や権力を制限し、自己決定権を認めたものです。それはNO!といえる権利です。また、他者に依存しているためNO!と言えない人にも自由を保障しようとしたのが、24条の個人の尊厳、そして25条の生存権の規定なのです。

 職場の人権で、君が代拒否で、別姓実現などさまざまなかたちで自由を守ろうとする日常的なたたかいがあります。現憲法はそのようなたたかいを正しいものとしています。それが政権担当者にはイヤなのです。憲法の人権条項は自由への道を示すものといっていいのです。自由へのたたかいの土壌はどこにもあります。権力はさまざまな形で私たちの生活に入り込んでいるからです。

このような権力との闘いこそが、憲法を護る闘いなのです。そうした様々な場所での多様な闘いをネットワークしていくことが必要です。

                       (文責竹内)