2006・7月17日〔月〕クリエート浜松にて
憲法学習会 「改憲を問う・女性と天皇制」
   講師 桜井大子さん 〔女性と天皇制研究会〕


「改憲を問う 女性と天皇制」
 
         桜井大子さんの浜松での話から(2006.7・17)



 こんにちは、桜井です。きょうは憲法改悪について女性と天皇制の視点からお話したいと思います。

●「改憲」と天皇制

はじめに「改憲」の問題を、天皇制をめぐる動きから考えたいと思います。

まず現憲法、「日本国憲法」の問題点をみてみます。憲法第1章は天皇条項です。第1条は「天皇の地位・国民主権」とされ、天皇は、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くとしています。さらに第2条は「皇位の継承」で、皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承するとしています。

 確認されたことのない「国民の総意」というものなどなんの根拠にもならないわけですが、要するに、何の根拠もなく第1章に天皇条項があり、天皇の象徴規定があるわけです。前文には「主権が国民に存することを宣言」の文言があるのですが、条文では天皇条項の一条にのみ「国民主権」が登場し、主権在民を規定する条文自体はありません。

 第二条では皇位の継承を「世襲のもの」と明言しています。天皇は国内的には最高権威として、対外的には国家の代表として存在しているようですが、そのような存在が世襲であることを憲法で規定しているわけです。「国民主権」の規定があっても、象徴としての天皇を「国民」が自分たちで選べない制度となっているわけです。

天皇制の戦争責任・戦後責任の問題が無視され、天皇制という差別と家父長制、家制度が保証され、特権階級が税金で維持されているわけですが、そのことへの論拠は著しく乏しいということです。

さて、この天皇制について、どのような「改憲」がねらわれているのでしょうか。「自民党新憲法草案」(2005.10.28)からみてみましょう。この改憲案の前文では、「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」「象徴天皇制は、これを維持する」となっています。ここでは、「国民」が主権者として憲法を制定し、そのうえで天皇制を維持するとものと読めます。

この「前文」によって象徴天皇制が前提となる構造になっています。そして、第1条は象徴規定のみです。主権在民をうたう独立した条文がないのは、現憲法と同じですが、この草案では、天皇条項からさえも「国民主権」が削除されています。2004年の「憲法改正大綱原案」に比してみれば、「改定」度は「後退」しているわけですが、現憲法と比べれば天皇制は法的に強化されることになります。

この「改憲」案は、ほかの条文などみるとそう思いますが、新たな憲法の制定であり、改憲とはいえないものです。名称も「新憲法草案」となっています。世論では「改憲」ですが、それは、改憲手続きだけで新憲法を作ろうとする政府の意図にそった情報操作といえるでしょう。



● 象徴天皇制の現在

次に象徴天皇制の現状についてみてみます。

現在、「女帝・女系天皇」容認か、男系男子主義かの議論があります。皇位継承者の不在状況の中で、その解決法は「皇室典範の改正」か、男子の出産しかないわけです。政府は「安定的な皇位の継承」を狙い、女帝女系天皇制を提示しています。天皇主義右翼は男系男子主義を強硬に主張しています。

一年かけて有識者会議が最終報告をだし、「皇室典範改正」準備室が設置されたのですが、秋篠宮紀子の妊娠ですべてが保留状態となっています。ここでは問題が「皇室典範」の問題として浮上しているのですが、その本質は憲法問題です。

 天皇制を維持するかどうかの決定は、現憲法第1条に基づけば「国民の総意」を確認し、「必要」となった場合にのみ、第2条の「皇室典範」問題へと続くべきですが、維持するかどうかの議論はまったく無視されているのです。

象徴天皇制は、「昭和天皇Xデ一」時以上の深刻な転換期をむかえているといっていいでしょう。「Xデー」は天皇のすげ替えでしたが、イベント性、実生活への影響などおおきな関心をよびました。「皇室典範」問題は維持できるか否かにつながる制度の変容ですが、関心はXデーと比べて極めて小さいですね。しかし、天皇制の側にとっても反対する側にとっても深刻な事態を迎えているとみるべきです。

政府は天皇制を残すこと以外に関心を示しません。「天皇制があって当然」の日本社会の「常識」も問題です。男系・男権力の思考が権力中枢で蔓延し、それが許容されています。このことは、基本的人権、主権在民、平和主義に反する価値観で社会が動いていることの証左であるわけです。



●女性と天皇制の視点から

ここで、女性と天皇制をめぐり、女天研などで考えていることを少し紹介します。

第一に、世襲制をまだ許しつづけるのかという論です。これは天皇制の根幹の問題です。

紀子の出産待ちで「皇室典範改正」法案は保留状況になっていますが、「改正案」への批判と同時に、このような国会の対応への批判がなされるべきです。男系・男子による世襲制とは、男子の出産を強制される女性の身体なくして維持できない制度です。もちろん、女帝・女系を容認しても後継者を「産む女」が必要であることに変わりはなく、セックス、妊娠、出産、育児が重大な政治課題となること自体がグロテスクです。この世襲制は家制度、家父長制そのものですが、女帝容認によって天皇制を維持するということは、これらの差別・抑圧制度を維持するということです。男系主義に戻ることなど論外ですが、 女性たちによる女帝歓迎論との対決も必要と考えています。

第2に、戦争・戦後責任、歴史認識の問題です。それは「従軍慰安婦」の問題に集約的に現れています。この日本軍性奴隷制は天皇制と家父長制がつくり出した制度です。ここでは、排他的民族主義の下で、世襲制の維持と男性の快楽のために女の身体が利用されました。このどちらも女性性に押しつけられた規範なのです。

このような性奴隷が、制度としてつくり出された時代への反省が必要です。2000年にひらかれた女性国際戦犯法廷の成果の継承が求められています。

第3に、反「天皇制フェミニズム」の提唱です。大政翼賛運動に走った過去のフェミニズムの歴史に学び、女性の社会進出、社会的地位の向上や男女平等を求める論理が、天皇制や体制と共犯関係をつくり出す危険性に留意すべきです。体制側と女性たちの利害が一致するときがあるわけですが、少子化と男女共同参画を同時に出してくる体制があるいま、その危険性は極めて高いと言えます。

天皇家の男女平等論を語る一方で、足下の差別・格差社会に無関心であるという傾向があります。天皇家の女性たちの処遇について考えるならば、それらと日本社会の差別構造との関係を冷静に分析すべきでしょう。これらの差別を同列にしてはいけないと思います。また、男女共同参画の名において「女性兵士」の問題はさらに深刻になるでしょう。戦争国家へと女性を兵士として組み込んでいくこのような動きにも注意すべきです。

これらの意味において、天皇制フェミニズムとの対決が求められていると考えます。

●おわりに

天皇制的思考は言い替えれば、奴隷意識だと思います。人権や主権をないがしろにされても気付かない、そのような人格を政府が求めているのだといえます。天皇制イデオロギーは、憲法が国家権力を縛るものであるという意識を民衆に浸透させない力となります。天皇の戦争責任が不問とされてきたことは、それ自体が重大な問題を沢山かかえているわけですが、奴隷意識を蔓延させる要因にもなっていると思います。

雅子に同情する論もありますが、天皇制の下で抑圧されている人々がいることを考えるべきでしょう。たとえば、国体や植樹祭などでも、天皇が行く先々で人権侵害が起きています。

最近、雅子の病気をめぐって静養や離婚など話題になりますが、天皇家に入った段階で、皇室をより生きやすい環境へと「改良」することはできても、「雅子には天皇家からの逃げ道はない」と思います。 そういう意味では彼女も気の毒ではあるのでしょうけど、私は彼女の側に立つ気はありません。

反天皇制を掲げて街頭に出ると、右翼が車で突っ込んできたり物を投げられたりすることもあります。命を奪われた人もいます。国家権力からも暴行を受けます。天皇制社会は右翼テロを伴う恐怖のタブー社会であるわけです。そのような天皇制状況の中で自分はいったいどっちにたつのかを問われるわけです。私は怖いからこそ、天皇制を支える側には立ちたくないと自分のスタンスを決めています。

女性天皇は男女平等の実現ではなく、天皇制という差別の維持です。女性天皇はいらない、天皇制はもっといらない、と考えます。  (文責人権平和浜松)